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150年前の論文を読む「書ハ美術ナラズ」②

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左:書道家タケウチ 右上:書道家板谷栄司with鯖大寺鯖次朗 右下:ジャズギタリストタナカ


「書ハ美術ナラズ」論文を読んでみる


先日、150年前の小山正太郎氏(1857‐1916年)による「書ハ美術ナラズ」の論文を読み始めました。①はこちら↓↓

ちなみに、この論文を読んでいて初めて知った明治初期まであったカタカナの記事は何やら比較的人気があるようです。

小山正太郎「書ハ美術ナラス」
①東洋学芸雑誌8号172頁(1882[明治15]年5月)

東洋学芸雑誌9号205頁(1882[明治15]年6月)
東洋学芸雑誌10号227頁(1882[明治15]年7月)

▼岡倉覚三「書ハ美術ナラスノ論ヲ読ム」
東洋学芸雑誌11号261頁(1882[明治15]年8月)
東洋学芸雑誌12号296頁(1882[明治15]年9月)
東洋学芸雑誌15号397頁(1882[明治15]年8月)

①の論文の末尾は「未完」で締めくくられており、今回はその続きである②に着手していこうと思います。

②の末尾も「未完」で終わるけどね。

※読者の方々は、基本的には現代語訳の方を読めば良いと思いますが、これは筆者の意訳です。読みやすいように、読点を句点に変える、改行、()書きの追加、などを適宜しております。
間違いや異論等もあるかと思います。その場合はコメント欄にてそっとご指摘くださいませ。


書き起こし(カタカナ→ひらがな、旧字体→新字体)


東洋学芸雑誌9号205頁(1882[明治15]年6月)

世上に於て徒に美術なりと称する言の、信するに足らさるは、已に之を陳せり、是より進て書と称する者の中に、美術と為すへき部分ありや否を捜索すへし、之を捜索するに二あり、即ち第一は書とは、如何なる術なるかを探求すること、第二は之か如何なる作用あるかを探求することとす、因て先つ其第一を探求すへし、抑ヽ書とは、前已に述ふる如く、言語の符号を記するの述なり、故に其述たるや、図画の如く彩色を設くるに非す、濃淡を着くるに非す、又彫刻の如く、凹凸を作るにも非す、要するに各色の照映等を熟考して、人目を娯むる様に、工夫を凝すの術に非るなり、独り彩色を使用するの巧拙なきのみならす、其形も亦図画、彫刻等の如く、各人各自の才力に由て、作り出す者に非す、抑ヽ文字の形は、往古倉頡の創て作りしより、史籀大篆を作り、李斯小篆を作り、王次仲八分を作り、程邈隷書を作り、史游章草を作り、劉徳昇行書を作り、蔡邕飛白を作り、張白英草書を作るの外、支那と雖とも、復た変換すること無し、況んや我国於てをや、(此他尚ほ二三の増損する者あれとも、大同小異、大別すれは、此八種に過きす、)爾来数十百年、因襲使用一日の如し、大才ありと雖とも、亦今日新たに、其形を改作するを得す、例へは如何に能書たりとも、十字を作らんと欲せは、横に一線、縦に一線引かさるを得す、故に書は図画彫刻等の如く、人心を娯めんと、百方工夫を凝し、各人各自、才力を用ひて、其形を製出する術に非さるなり、独り形と色とを作り出すを要せさるのみならす、之を配列するの力も亦要せさるなり、凡そ書なる者は、必す先つ文句定り、然る後之を記載す、故に先つ何々の下に、何々を配し、何字の上に、何字を置くと云ふことは、詩若しくは文章の力に由て選定せられ、然後其通りに記するに過きす、如何なる能書と雖とも、書の力を以ては、之を変換するを得す、例へは詩人か、猛虎一声山月高と云ふ一句を作るの後は、書家此句を書するに当て、恣に文字の配列を変換するを得す、故に図画、彫刻等の如く、諸物の位置、照映を考へ、人心を娯めんと心思を砕て、配列するの術に非るなり、由此観之は、書は凹凸を作るの術に非す、濃淡を分つの術に非す、彩色を施すの術に非す、配列を工夫するの術に非す、形象を製出するの術に非す、然則其術たる知るへきのみ、他人已定の配列に由り、古来一定の形に順ひ、彩色、濃淡等を施用せす、唯一色を塗抹するの術なり、故に一色を已定の形に塗るとの一言、以て書の定義を尽くするに足る、要するに図画、彫刻等の如く人の心目を娯めんと、工夫を凝らして、一種の物を製出するの術に非るなり、故に其巧拙も亦、筆端些小の趣味にあるのみ、而して此一色を已定の形に塗り、筆端些小の趣味を有するの術は、独り書のみに非す、泥工の壁を塗り、提灯匠の紋形を画く等、枚挙に暇あらす、且蟹行文も亦、一色を已定の形に塗り、筆端趣味を有するの術なり、而して此等諸術の美術ならさるは、已に明かにして、諸君の共に許す所なり、然は則書の美術ならさるも亦明かならすや、(未完)


現代語訳(意訳)


世間においていたずらに美術であると称する説が、信じる足らないのは、既に前号で述べた。ここからさらに進んで、書と称するものの中に、美術とするべき部分があるかどうかを探ってみたい。

このことを探るに、二つのことがある。第一に書とはどのような術(ジュツ)であるかを探求すること、第二に書にどのような作用ががあるかを探求することとする。

そもそも、書とは、前に既に述べたように、言語の符号を記す術である。だからその術は絵画のように色を施すわけでもなく、濃淡をつけるでもなく、また彫刻のように凹凸を作るでもない。要するに、各色の照り映え等をよく考えて、人の目を楽しませるように工夫を凝らす術ではないのである。

書は、単に色を使用する巧拙がないだけではなく、その形もまた絵画、彫刻等のように、各人の力によって作り出すものではない。

そもそも文字の形は、古の蒼頡が生み出してから、史籀(しちゅう)が大篆を作り、李斯(りし 紀元前200年代頃)が小篆を作り、王次仲が八分を作り、程邈 (ていばく 秦代)が章草を作り、劉德昇(りゅうとくしょう)が行書を作り、蔡邕(さいよう132-192年)が飛白を作り、張白英(張伯英ちょうはくえい1871‐1949年)が草書を作ったほか、中国と言えども、文字の骨格を変えることは無く、まして日本においては言うまでもない。

(このほかに書体の2,3の増減はあっても、大同小異、大別すれば、この8種に過ぎない。)

それ以降、数十年数百年、ずっと使用していても何も変わっておらず、天才がいたと言っても、今日新たにその文字の形を変えて作ることはできない。例えば、いかに能書と言っても、「十」の文字を作ろうとすれば、横に一本、縦に一本引かざるを得ない。

だから書は、絵画や彫刻等のように人の心を楽しませようと、あらゆる工夫を凝らし、各々が力を発揮して、その形を製作する術ではない。単に、文字の形と色とを作り出すを必要としないだけではない。

およそ書というものは、必ずまず書く言葉が定まって、その後に書くものである。だからまずこの字の下に、この字を配置して、この字の上にこの字を置くということは、詩もしくは文章の力によって選定される。その後、その通りに書き記すに過ぎない。

いかなる能書といっても、書の力ではこのことを変えることはできない。

たとえば詩人が、「猛虎一声山月高」という一句を作った後は、書家はこの句を書くにあたって、勝手に文字の配列を変換することはえきず、必ず「一声」は「猛虎」の次に、「山月高」はまたその次に書かざるを得ない。

だから絵画、彫刻等のように、諸物の位置や照り映えを考え、人の心を楽しませようと心を砕いて配列する術ではないのである。

以上のことから見ると、書は凹凸を作る術でもなく、濃淡を分ける術でもなく、色を施す術でもなく、配列を工夫する術でもなく、形を生み出す術でもない。

だから、そういった術であることを知るべきである。

他人の規定した配列によって、古来から決まった形に従って、色や濃淡を使わず、ただ一色を塗抹する術なのである。だからただ黒一色を既定の形に塗ると言う一言、これが書の定義を尽くすに足ることだ。

要するに絵画、彫刻等のように人の心を楽しませようと工夫を凝らして、そのようなものを生み出す術ではないのである。

だからその巧拙もまた、筆の違いや誰が書くかによって少しの趣きの違いの出る術は、単に書のみではない。泥で壁を塗る、提灯の文様を描くなど枚挙に暇がない。且つ、横書きの欧文も、黒一色を既定の形に塗り、筆の違いや誰が書くかによって少しの趣きの違いがある術と言える。

そしてこれらの術が美術でないことは、既に明らかであって、諸君と共に知られるところだろう。そうであるならば、書が美術ではないこともまた明らかであるではないか。(未完)



ほうほう。なんだか書家の筆者には胸痛な件。

それにしても、この頃は8種の文字を作った人というのが普通の事実だったのだろうか。今は5書体(楷・行・草・隷・篆)などと言ったりするので。

お字書き道TALKSのnoteでも取り上げた蒼頡が当然のことのように出てくるなど、現代とは随分歴史の捉え方も異なるように思います。

うーむ、これは、岡倉天心の論駁まで含めて早く読み進めないと・・・!




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