おたく、不調からの生還日記 -死んだらどうする編-
わたし : 舞台とかあんスタとか好きなオタク OL 20代後半。
[持病]全身性エリテマトーデス
17歳から。10年間再燃なし。発症時こそ死にかけて苦しんだものの、以後はほぼ寛解状態
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2019年末からの謎の体調不良を経て色々右往左往した挙句に死にかけたけどとりあえず生きてて良かったな〜!という、暇だから経緯をまとめた病床日記です。
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➡︎ 読了推奨
◼️おたく、不調からの生還日記 -まだ生気ある編-
https://note.com/ohima_chan/n/nb460887daf05
上記の記事からのつづきです。
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▶人生のモットーを果たすべく忘年会に参加
私は10年前に全身性エリテマトーデスを発症した際、高校生だった。
バイトができない私立だった為に親から与えられるお小遣いをやりくりして過ごす中、使い道はほぼ〔食べ物〕。
朝ご飯、昼ご飯、の後に食堂まで降りて唐揚げとポテトのパック買って食べて、部活でお菓子、放課後にコンビニでホットスナック、夕ご飯、デザート、間食。
若さによる代謝の良さが当時スーパー最高潮だったのか、当時の1日の摂取カロリーは成人男性に匹敵、というか超えてた。焼肉は一人で3人前はいけた。肉だいすき。お米だいすき。ごはんだいすき。
当時、病気が発覚する数ヶ月前から、私はめちゃくちゃ焼肉が食べたかった。
最近全然焼肉行ってない気がする、焼肉めっちゃ食べたい。でも近所の牛角潰れたしなあ。なんて母と話したりしていた。
その後、病気が発覚、即入院。
入院から暫くして回復して来たスーパー最高潮代謝高校生の私は、当たり前に病院食では物足りなく、食べ物の差し入れについてお医者さんに聞いた。
本当に舐めていたので、聞く前に既にコンビニで唐揚げのホットスナックを買ってきてもらっている状態だった。
単品のから揚げ5個。
から揚げ串より単品のから揚げの方が好き。当時のセブンイレブンのから揚げはどこのコンビニのホットスナックよりも好きだった。
確か、赤ワインを加えたことによってジューシーさを増して風味豊かに仕上げました。みたいな売り文句で、衣もちょっと粉っぽい感じなのが好み。
ひさびさに食べられるのでワクワクしていた。
主治医「タンパク質の制限があるんだよね」
わたし「え?」
主治医「病院食以外でのタンパク質摂取は10gまでじゃないとダメです」
◆セブンイレブン 唐揚げ 「ななから」
https://www.sej.co.jp/i/item/0301011502490.html?category=305&page=1
栄養成分 熱量:80kcal
たんぱく質:4.2g
脂質:5.0g
炭水化物:4.8g
食塩相当量:0.4g
※当時は別に「ななから」とかいう名前付いてなかった気がするので味とか成分表は変わっている可能性大。
唐揚げ2個しか食べられないの!?
ていうか肉、タンパク質代表じゃん。
暫く肉、たくさん食べられないのでは。
え…。
…
そこから、退院して暫く経たないと焼肉をたらふく食べる事が出来ず、私はこの出来事を強く強く胸に刻み、人生のモットーを下記にした。
いつどんな状況になるか分からないので食べたいと思ったものは思った時に絶対食べる。
絶対食べる。
そんな訳で、10年前の自身の教訓を胸に、10年後にまた死にかけてしまった体たらくな身体へ鞭を打ちまくって忘年会(焼肉)に参加した。
母親に着替えの補助をしてもらい、電車も極力人が少ない各駅停車を選び、万全を尽くして焼肉に挑んだ。
おいしかった。
めちゃくちゃおいしかったな〜。
お米も美味しかった、丁度良い硬さだった。
最後の晩餐みたいな気持ちだった。
友達たちと会えるのも暫く先のことになるかなと思った。
足が千切れそうに痛くて身体も重かったけど、美味しい焼肉を食べたこと自体満足感があったし、10年前のわたしの後悔を晴らしてあげたみたいな、強い強い達成感もあった。
10年前に辛い思いした分、今活かせてるよ!って誇らしい気持ちになった。
▶︎更に身体がおかしくなってくる
その夜から、身体が急激に悪寒に襲われて全身の震えがガクガクと止まらず、布団を何枚も巻いてストーブの前にいないと寒くて寒くて死にそうになる時間が毎日やって来る様になる。
本当にマンガみたいに大きく震えて止まらないので、そのこと自体が怖くて泣く。
始まったと思ったら鎮痛剤を飲んで、暫く耐え忍ばなきゃいけなくて、途中から鎮痛剤が効いてくるまで意識を失う。
起きると全身カラカラになっていて、今度は死ぬ程身体が熱くなって汗が沢山吹き出して脱水症状の様になってるので、一生懸命全身の関節の痛みと喉と内臓の激痛を我慢してお水を飲んで、お手洗いに行ってを繰り返した。
お小水はいつも真っ赤で、これ近々死ぬのかも。と思った。
ただの何でもない時だったら、たぶん近所の病院にでも行っていたのかもしれないし、少なくとも今思い返せばこれは線維筋痛症とか関係なくて、別の要因(恐らく全身性エリテマトーデスが大爆発状態)でハチャメチャな高熱が出ていたのだと思う。
でもなんせ完全に年末だし年始だったし、全身の痛みとかで正常に思考判断も出来なくて、熱を測るとかにも至らなかった。
線維筋痛症の症状一覧に「悪寒」も載っていたので、完全に『これはこういうもの』という思い込みをしてた。
その後、意識を取り戻してある程度落ち着く度、糸色先生が脳内によぎりまくる。
▶︎舞台の感想は呟く
死にかけてもオタク
鎮痛剤も効いてる時で調子に乗っているので舞台の感想を書き連ねる。
でも、ゲームのモチベ上がった!🤘と呟きながらも、コントローラーを握れる気は全くしていなかった。
たはは…。
▶︎年内最終出社
会社に仕事を納めに行った。全然人は出てなかった。
上司は私に怯えていた。
上司「なんで休まないの、本当に怖いんだけど、休んでよ!!」
最早懇願の域だった。
なんなら前日にも「ねえ、休まないの?」と連絡が来ていた。
上司、めちゃくちゃ良い人だな、と思った。
でも、今後を鑑みて、仕事のマニュアル整理をしなきゃいけない使命感があった。
あと、ほんとうに悲しいくらいにオタクだから、『いざという時のイベントや舞台のために有給取っておきたい』という心理が強く働いてしまう。
上司には、「鎮痛剤が効いてるうちは大丈夫です」と、気丈に奮った。
実際、夜中とかに痛くて人間になれてない時と比べたら、鎮痛剤が効いてる時間はちゃんと生きていつも通りとはいかないまでも過ごせていたので、鎮痛剤が効いている時間の私はめちゃくちゃ調子に乗っている時間で、ちゃんと人間をすることができて楽しい時間だった。
会社帰りに、ボーナスが出てたから何か買いたい、と思って、目先で欲しいものを考えた。
もう既に、ボーナス分を見越し、贅の限りを尽くした過去の負債は数ヶ月前より待ち受けていたので、高いお買い物というよりはちょっとしたご褒美程度のもの。
痛くて食欲も無くなってたからそんなに食べたいと思えるものも思いつかなかったけれど、ちょっとだけ食べたい気がすると思って日本橋高島屋のとらやで最中を買った。
毎月27日は田村ゆかりさんを想って最中を食べる日と定まっているのだけど、ちょっとだけ日付が過ぎてた。
もう少し早く買いに来ればよかった。と思った。
この日は朝も夜も電車に人が少なくて、通勤退勤が楽だったから得したな、と思った。
◼️2019/12/31 大晦日
ステフェスの年越しの映像を横になりながら観ていた。でも全然なにをしていたのか記憶が無いので、観てたけど観れてなかったかもしれない。
配信だから、現地カウントダウンと実時間がズレててちょっと萎えたのは覚えてる。
現地にいけなくて残念だったな、って気持ちにはならなくて、夢のまた夢の中の世界を観てるみたいな気持ちだった。
そこに自分がいる想像はとても出来なくなっていて、推している俳優さんを応援したい、というポテンシャルというか、モチベーションというのか。多分、生気とか欲的なものが痛みと辛さでまったく無くなっていて
映るタレントさんたちが普通に人間として動いて歩いて喋って笑ってるのが凄い、羨ましい、なんて思うようになってきていた。
2019年は、後悔がないようにやりたいことをパッと実行しようを結構念頭において過ごした年だった。
好きな俳優さんたちが出るストレート舞台全通したり、プールに遊びに行ったり、お祭りに行ったり、脱出ゲームの幹事をやったり、カメラ機材を買い直してカメラのお勉強をさせてもらったり、モデルさんやお友達の写真を撮らせてもらったり、美味しいご飯を食べたり。
めちゃくちゃ些細だけど自分の中では大きかったことだと、もう痩せる事を諦めて夏にミニスカートを履き始めた。
夏にディズニーに行ったら、全力ではしゃいでアロハシャツ着てサングラスもした。
30歳で死ぬと思って生きてるからこそ実行出来てたと思うし、実際検討より早まって27歳で再度死にかけたので、10年前の経験は活かされたな、と自分自身ほっとした。
◼️2020/01/01 お正月以降
鎮痛剤を飲んでも、水やご飯を食べたときに身体の中がズキンズキン痛んで飲み込めなくて辛い。
飲み込むと、身体の中で突き刺さるような感覚がする。
舌も痺れてるような感覚でおかしくて、乾燥もしやすいからお水は常に飲みたい気持ちになってしまうけど、飲んでは胸がギュッと絞られるような痛みがして苦しんだ。
水の味も異様に甘く感じて、味覚もおかしい。
風邪もひいてないのに喉がとても痛い。ご飯を食べるのがほんとうにしんどい。
鎮痛剤の効きの調子がいい時にたくさん食べる様にしたけれど、それでも痛いのでバナナやパンとか、気持ち的に比較的柔らかいものにした。
喉が痛すぎて喋るのも上手くできなくなってきた。
1回横になると立ち上がるのがもう困難で、「お手洗いに行く」、と宣言してから、まずは座る姿勢になる為、手首、腰と背中、腕、指、の激痛に耐えて起き上がる。
そこから、壁を支えにしたり、手で床に反動を付けて立ち上がらなきゃいけないのだけども、膝に気合を込めようとしても力が入らず、手首は支えに出来るような状態じゃなく。
なんとか、気合いを入れて堪えて泣きながら立ち上がるか、ベッドなら近くの棚を、ソファなら背もたれを腕で抱きしめる形で器用にずりずりと立ち上がるしかなかった。
お手洗いに行きたい、と言い出してから30-40分は格闘しなければ叶わなくて、その間に私が転倒したり、それこそ間に合わずに粗相をしたら直ぐに対応出来るようにずっと母は見守り続けてくれる。
抱えて連れて行こうとしてくれることは何度もあったけど、母はとても小柄で私との体格差が大きくて、誤って転んでしまった時に押しつぶして怪我をさせてしまいそうで怖くて、完全に抱えて運んでもらうのは頑固拒否をした。
「車椅子買わなきゃダメかな」
家の玄関とか入らないか、というか家の中狭すぎて走らせられる広さ無いや。でも仕事とか行く時に必要だよね。だけどうちの会社全然バリアフリー進んで無いかも、イマドキ風装って社員募集してるのに。困ったなあ。
って、本当に真剣に未来のことを考えて車椅子の単語を出した。歩いて生活している自分の想像が出来なくなってた。
けど、「治るんだから車椅子なんかいらないよ」と母は笑い飛ばした。
立ち上がるのが何より困難。でも、立ち上がらないことには人間の尊厳が完全に終わる。この歳でお手洗い失敗するのやばすぎる。死にかけててもまだ一応20代の女だし。
とりあえず杖を買う事にした。
ヘルプマーク問題についてのモヤモヤした愚痴は少し母にこぼしていたので、「ヘルプマーク+杖なら流石に配慮してくれる人がいるでしょう」という見込みも含めて、お守りみたいな買い物だった。
▶︎更に更に更に身体がおかしくなってくる
いくら鎮痛剤を飲んでも身体の中、特に胸部に地獄の様な激痛が走るようになり、夜寝る時に悲鳴を泣き叫びながら橫になるようになる。
身体が動くと、全身が引き裂かれそうな感覚、膝が痛い、布団が触れると痛い。布が痛い。指が痛い。
頑張って寝室まで移動して来て、ベットに沈む瞬間、ベットに身体が馴染む瞬間、激痛で大きい悲鳴が止まらない、休息になるはずの「横になる」動作が拷問になる。内臓が痛い、肋骨が痛い、
胸が痛い、身体が痛い、肋骨が捻られてる、心臓が握り潰されてる感覚がする。
いい大人が、本当に大声に出してウウウウウアアアアアアて苦しくて痛くて叫んで横になる。自分でもめちゃくちゃ動揺する。え、悲鳴上げてるよ。って思う。でも叫び声が出てしまう。深夜なのに結構な、しかも異常な叫び声で不安になる。
痛すぎて痛すぎてボロボロ泣いて、その状況自体にも情けなくてもっと泣いて、毎日ずっと子供みたいに泣いた。このままで生きるくらいなら本当にどうにかして死にたいんだけど、と思った。 ていうか苦しすぎて『死は救済』という単語が常にグルグルする。
医療用麻薬とか合法化されて、なんか、病気の証明持ってるひとはマツモトキヨシとかココカラファインとかで買えるようにしてくれないかな。社会問題起きるかな。
真剣に考えるレベル。
毎回、辛そうに「変わってあげられるなら今すぐ変わってあげたい」と励ましの言葉をかけてくれて、私の身体をさすってくれる母親も、泣いては無いけどずっと私を見て青ざめて死にそうな顔をしていて
でも私が情けなさで謝りながら泣きまくると、笑いながら「だいじょうぶだから、良くなるんだから、泣かないよ」と言いながら患部を撫でてさすって励ましてくれた。
上司が言ってた『痛いの痛いの飛んでけ』の効果について思い出して、本当に救いになるんだな。って思った。
ちょっと世間知らずでお嬢様気質なところもあるけれど、母は本当に人が良くて、優しくて、私にはもったいないくらい素敵で、自己があって、寄り添って自分の子のことを色々考えてくれていて、この人の娘でよかった。幸せだったな。
折角そんな素敵な母の子供なのに、不出来な遺伝子で本当に申し訳ないな、と思った。
死ぬ夢ばっかり見るようになる。
つづく
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