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田舎に嫁いで半年。私が予感する人生のパラダイムシフト

愛媛県宇和島市に嫁いで半年が経ちました。お会いするみなさんには、「宇和島には慣れましたか?」というあたたかい問いかけをよくいただきます。ただ、その都度いつも曖昧なお返事になってしまう自分がいて、自分自身のことながらずっと気になっていました。

「すっかり慣れました〜」だとか「まだまだ慣れませんね」って言い切ることに、どうして抵抗があるのだろう…。今日はこのことについて自分なりに考えを深めてみることにしました。

シティガールだと思っていた私は、ただの旅人だった

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大阪出身の私は中学校から私立に通い、少女の頃の遊び場は難波や天王寺のライブハウスや映画館、ゲーセンにカラオケ。大学時代の遊び場は京都の観光地や四条河原町。リクルート時代は西日本を飛び回りながら、これでもかという程に感情の起伏を体験し、メンバーと夜通し語り明かす生活。毎日が刺激的でした。

その後、周りにびっくりされながらも30歳独身で上京し、代官山近くの事務所で憧れの女性達と共にデザインの世界から企業ブランディングに関わりました。東京時代にも気づけば3度も引越しをして、最後の自宅は少し歩けば銀座の目抜き通り。そんな場所に住んでいました。

絵に描いたようなシティガール生活にうっとりしながらも、「私はこの街の本当の住人ではない」という思いは、常に私の中にありました。改めて振り返ると、私は街から街をさすらう“旅人”であり、一時の客人、通り過ぎる人でしかなかったのです。

田舎は「自分ではない誰か」の居場所

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中学校は電車通学だったこともあり、小学校からの友達はたったの1人もいませんでした。13歳から地元とは疎遠だったので、地元に友達はいません。大学に入ったときも、銀行に勤めたときも、リクルートに転職したときも、新しい環境に1人で飛び込んできました。上京したときでさえ、頼りは数名の友人だけでした。

この生き方によって得てきたものもたくさんあります。全く新しい環境に飛び込むことに対して「なんとかなる!」と思えるとか、新しい人々との出会いによって自分の視野が広くなったとか。でも結局はどこへいっても「私の居場所はここだ!」と胸を張って言えるような場所にすることはできませんでした。自分で居場所を変えてきたから当たり前なんですけどね。

父も母も大阪育ちの大阪生まれの大阪育ちだったので、私にはいわゆる「田舎」もありません。夏休みに田舎に帰って遊んでいた友達や、大学時代に田舎の両親からお米を送ってもらったりしている友達がとても羨ましかったことを覚えています。それは田舎という場所が、彼らにとっての絶対的に揺るぎない「居場所(拠点・帰る場所・ルーツ)」のように思えたからでしょう。

リアルなローカルとの出会い

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私にとっての「田舎」は自然に囲まれ、その土地で獲れる食べ物が豊富で、穏やかな人々とともに時間がゆっくり流れている・・・そんなイメージでした。その土地に伝わる神話なんかもあったりして。それはつまり、映像や本や友達から見聞きしてきた憧れの場所。自分が今いる場所とは全く異なる「特別な場所」であり、「自分ではない誰かにとっての絶対的な居場所(拠点・帰る場所・ルーツ)」でした。

東京で街を消費する生活を過ごしながらも、2018年頃から沸々と「地域に関わりたい」という気持ちが大きくなっていきました。ソトコト指出一正編集長との出会いがきっかけで、和歌山県田辺市のみなさんと『たなコトアカデミー』の中で関わらせていただいたり、岐阜のNPO法人G-netが生んだ『ふるさと兼業』に、同サービスの首都圏広報チームとして兼業をはじめたのもこの頃だったと思います。

時を同じくして、当時勤めていた会社の代表の故郷である愛媛県宇和島市の一大プロジェクト「うわじまシティブランディング事業」が始動し、そこへ参画することになります。これらのご縁の糸を手繰り寄せていった結果、宇和島という地域への移住が運命的に決まっていったのでした。

私は30年間で2回の転職と9回の引越しをしています(そういえば幼稚園も1回転園してます笑)。移り変わる興味関心に対して正直に、気の向くままに生きてきたと自覚しています。そんな私が四国の小さな田舎町で一生を過ごすことに本当に満足できるのか、周りの人たちは相当心配だったことでしょう。

私としては田舎町に暮らすこと自体への抵抗はほとんどなかったのですが、これから一生同じ場所に暮らすであろうことへの不安は、正直今でもあります。興味の赴くまま、風のように色んな場所に行って刺激を受けていたい、新しい人との出会いや学びが欲しい…。自分も環境も変化させ続けたかったし、そういう人生になるだろうと思っていたからです。

「慣れる」ことへの抵抗

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私が「宇和島に慣れましたか?」という親切な問いかけにうまく答えられないのは、こういった背景ががあるのではと思います。辞書で「慣れる」の意味を引いてみました。

慣れる
1.  その状態に長く置かれたり、たびたびそれを経験したりして、違和感がなくなる。通常のこととして受け入れられるようになる。
2.  経験を重ねて、そのことがうまくできるようになる。習熟する。
3.  道具などが、からだになじむ。

「慣れる」というのが「違和感がなくなる」という意味なのであれば、「宇和島に慣れたくない・・・かもしれない」と思います。これってどういうことなのか。

私は、私にとっての「宇和島」が、いつまでもいつまでも「特別な場所」であって欲しいのです。それは、新鮮さを持ち続けるということ。違和感を発見することを厭わないということ。宇和島のすべてを「通常のこと」として受け入れないということです。私が環境を変え続けてきたのは、未知の場所へいくことで自分自身を変化させたいを思っていたからなのです。

ただ一方で、自分の絶対的居場所であり、帰ってくる場所であり拠点であると、心から思える場所が欲しい。つまり、「環境を変え続けたい」と「居場所を持ちたい」という相反するように思える2つの感覚の中で「宇和島に慣れたくない・・・かもしれない」という曖昧な表現になったのだと思います。

本当に“変わり続ける”のは何か

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これまでの私は、自分の外側である環境を物理的に変えることで自分を変えてきた人生でした。でも…これは本当に不思議なのですが、「環境を変えることで自分は変化したり成長し続けていると本当に思えるか?」と自分に問うたとき、YESと言えない自分がいるのです。

こうなると今までの人生がひっくり返ってしまいます。だって私が環境を変え続けてきたのは、新しい自分に出会うためだったから。私は私を受け入れられていなかったんだと思います。だからとにかく変化を求めていたのだなと。

思えば、同じ映画館でも上映する映画が違えば体験や感想は異なるし、100年前に建てられた古民家だって扱うコンテンツや関わる人が変われば新しく生まれ変わる。同じディバイスを使っていてもOSが変われば体験は変わります。自分自身が成長することで、ありふれたはずの日常が学びや発見に満ちていたことに気付くことでもあります。

つまり、自分の内側が変容し続けることができれば、物理的には同じ場所にいたとしても「外側の世界での体験」も変化し続けるということ。「変わり続ける」のを物理的な居場所に求めるのではなく、自分の内側でやっていく…。この発見は、私にとっての人生のパラダイムシフトと言えるくらい衝撃的なことなのです。

もしかするとこれからの人生では、自分の内側を変えることで、自分が体験する外側の世界を変化させていくのを本当に体現していくのかもしれません。『メンタルモデル』でいうと、「直面期」の最終局面か「自己統合期」に差し掛かったところですね。

ただしこれは、同じ場所にいても自分自身をトランスフォームさせ続けることは可能であるという考えを前提にしています。つまり学び続けることが必要なのです。ただ、このとき忘れたくないことは、「今の自分が嫌だから変わりたい」ではなく、「ありのままの今の自分を深く理解し受け容れる。そして深淵から変化を起こす」という姿勢です。

そして、これって実は「まちづくり」に対しても、同じことが言えるのかもしれません。「今ここにあるものを理解し、受け容れ、愛する。そして変化を起こしていく。」これらについては、またいつか書きたいと思います。

今日は2020年10月1日、中秋の名月。
自分の中で、何かが満ち始めています。



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