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【目印を見つけるノート】858. 長崎の港が開かれた頃

東工大と東京医科歯科大の統合案が出ているようですが、そうなると、お茶の水と大岡山とどちらがメインになるのかしら、などと思考があさっての方に行ってしまいます。
私は東工大の町で生まれたので😅
大岡山、どうなるんかなと。

長崎の話をしましょう。
今は歴史の小説でしつこく1564年(永禄期)のことを書いていますが、このときはまだ長崎に国際貿易港はありません。九州では坊津(鹿児島)、府内(大分)、平戸(長崎)が目につきますね。日宋貿易で栄えた博多のことはあまり出てきませんが、それは主にポルトガルとの大きな交易港ではなかったという意味で、なくなったわけではありません。
外国船が港を使えるかどうかというのは、もっぱら土地の領主の判断や状況によるところが多かったのです。鹿児島なら島津氏、大分なら大友氏、平戸なら松浦氏ですね。ポルトガルとの交易はキリスト教の宣教と組みになっていますので、領主によっては信徒になったり、クールに距離を置く場合もありました。
戦国時代は名の通り動乱の時代ですから、領主が変われば考えも変わりますし、攻め滅ぼされて領主が変わることもあるのです。
もともと山口は日本で最も開かれた港のひとつでしたが、大内氏が滅ぼされたことで危うくなってしまいました。

松浦氏との関わりで平戸が使えなくなったあと、その後釜として開かれたのが横瀬浦(長崎県)です。
ルイス・フロイスの『日本史』でも「横瀬浦」という地名が頻繁に出てきます。領主の大村純忠がたいへん協力的だったこともあり、私が今書いている時期にはすでに宣教師も足しげく通っていました。山口、府内ときて日本宣教の九州の拠点をここに築こうとしたのですね。新たな貿易港を開くのはそのような理由もあったのです。
ただ、横瀬浦も大村家中のすったもんだで焼き払われてしまい、近隣の長崎が新たに提供されます。
それが1571年のことでした。
その話はじきに、小説の方で書きます。

そのような、利害関係もトラブルもある成り立ちですが、日本とポルトガル、大村純忠と宣教師のやりとがなければ、長崎が一大貿易港となることはなかったのです。以降江戸時代を通して長崎は唯一の貿易港として生き残りますが、ゴアやマカオのように占有されることもなく、いい意味での国際協力でもあったわけです。

江戸初期にかけての長崎のお話は、遠藤周作さんが詳しいですね。

どの町も人も安全に保たれ、生き、暮らす権利があります。その大前提に立った上で、
長崎の市街地が77年前壊滅的に破壊されたことを、11時2分以降の、あの甚だしい惨禍を知ったら、16世紀の人々はどう思うのだろうと思いますし、
ひとつの町が、
たくさんの人びとが
長い時間抱きしめてきたものを
自分の胸に刻みつつ、
書いていく意味はあると、
私は強く信じています。

ええ、強く信じているのです。
ですので、拙くても何でも、
伊達や酔狂や懐古や自己顕示とはちょっと違う気持ちで、
私は書いているようです。

といいつつ、今日は懐かしい曲を。
ふっと思い出しました。
Bee Gees『How deep is your love』

改めて聴くと、いい歌詞だなと思います。午後ぼーっとしているときに合っているように思います。

それでは、お読みくださってありがとうございます。

尾方佐羽

追伸 最近noteはたいてい、その当日に書いています。今日も平和祈念式典を一通り見てから書いていました。本当は11時2分に間に合わせたらいいのかと思うのですけれど、リアルに見ながら書きたいと思ったのでした。

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