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推しは自分の内面を映すー『推し、燃ゆ』の読了を経て

※この記事はネタバレを含みます。ご注意ください。

第164回芥川龍之介賞を受賞した宇佐見りんさんの『推し、燃ゆ』を読んだ。言葉に表せないぐちゃぐちゃとした感情を噛み締め、飲み込みながら読んだ。言葉を取りこぼさないよう、主人公が抱える感情を読み損ねないよう、必死に。読み終えてみれば、私にとっては昔作った古傷が再び熱を持つような125頁だった。

第164回芥川龍之介賞の選考会が行われていた2021年1月20日。まだ芥川賞の結果がわかっていない時間帯だったと思う。仕事の状況が芳しくなく、「なぜ自分はこの仕事をしているんだろう」と思い、鬱々とした夜だった。私が今行っている仕事は自分が希望したものではなく、会社の異動によるもので、正直なかなか仕事の楽しみが見つけられていない。でもこんなご時世に仕事をさせてもらえること自体、すごくありがたいし、なんとかやりがいや楽しみを見つけて、自分のパフォーマンスを上げようともがいていた。そんな状況の中でずっと蓋をしていた自分の気持ちを開けてみようと思い、相手にどう思われるか少し不安になりながらも友人にこんな言葉をLINEした。

昔は純粋に好きな気持ちで推してたけどさ、社会人になってしばらくして気付いて、ずーーーーーっと気持ちに蓋してたけど、大人になってから推してる人達に対して抱く感情なんて、とどのつまり憧れの裏返しでさ。「いいな、自分が好きなこと貫いてて」っていう。「じゃあ自分もそうしたら?」って思う気持ちに色々理由つけて、自信と勇気のない自分を無視してやり過ごしてきたけど、本当にいいのかって思うよ。このままで。中村倫也を好きな理由も根底はそこさ。どんなに売れなくても自分が好きなことを15年間やり抜いて売れた、その生き様に憧れてるだけ。私の夢を推しに託してるだけなんだよな。

そんな話をしていた時に『推し、燃ゆ』が芥川賞を獲ったというニュースが流れてきた。タイトル自体に興味があった私はすぐに検索をかけ、既にこの作品を読んだ人の書評を読み漁った。その書評の中にこんな文章の引用を見つけた。

推しを取り込むことは自分を呼び覚ますことだ。諦めて手放した何か、普段は生活のためにやりすごしている何か、押しつぶした何かを、推しが引きずり出す。(中略)叫べ、叫べ、と推しが全身で語り掛ける。あたしは叫ぶ。渦を巻いていたものが急に解放されてあたりのものをなぎ倒していくように、あたし自身の厄介な命の重さをまるごとぶつけるようにして、叫ぶ。
ー『推し、燃ゆ』(河出書房新社)より

この文章を読んだ時、さっき私が友人に送ったLINEや私の考えていることを覗き見されたのかと驚いた。そして必ず読まなければと思った。

『推し、燃ゆ』が手元に来て、読み始めて、すぐに思ったことは、私が推しに対して抱いてきた感情や行動と、この小説の主人公あかりの感情や行動はとてもよく似ているということ。共感を通り越して、「あなたが考えていることってこういうことでしょ?」と全てを解き明かされるようだった。自分のこれまでを定義されるような感覚。認めたいようで、認めるのが怖かった。ずっと気づいていたようで気づいていないフリをしてきた。そんな自分の心の奥底に埋もれた本音と向き合うようだった。

この小説の主人公あかりは社会の中での生きづらさを感じながら、まざま座という男女混合アイドルグループの上野真幸という推しを推すことに生きる意味を見出している。
これは現実世界でも同様だが、「推しを推す」と一言で言っても、様々な応援のスタイルがある。

アイドルとの関わり方は十人十色で、推しのすべての行動を信奉する人もいれば、善し悪しがわからないとファンとは言えない批評する人もいる。推しを恋愛的に好きで作品には興味がない人、そういった感情はないが推しにリプライを送るなど積極的に触れ合う人、逆に作品が好きでスキャンダルなどに一切興味を示さない人、お金を使うことに集中する人、ファン同士の交流が好きな人。
ー『推し、燃ゆ』(河出書房新社)より

所謂ここに挙がっているものが一般的だと思う。でもあかりの推しへの向き合い方、スタンスはちょっと違う。

あたしのスタンスは作品も人もまるごと解釈し続けることだった。推しの見る世界を見たかった。
ー『推し、燃ゆ』(河出書房新社)より

「解釈」という言葉を読んでハッとした。そうか、私が推しを推してきたことの全ては解釈だったんだ、と。この「解釈」という行動について、あかりはこう話す。

推し始めてから一年が経つ。それまで推しが20年かけて発した膨大な情報をこの短い期間にできる限り集めた結果、ファンミーティングの質問コーナーでの返答は大方予測がつくほどになった。裸眼だと顔がまるで見えない遠い舞台上でも登場時の空気感だけで推しだとわかる。
ー『推し、燃ゆ』(河出書房新社)より

言われてみればそうだ。私のnoteで一番のPV数を誇るNizi Projectのユナの記事なんてまさしくそうだ。私はユナと話したことなんてない。Nizi Projectの中でユナが発した言葉や表情、行動だけを見て推測し描いている。そうか。私は推しを解釈したかったんだ。


自分がこれまでやってきたことが定義された途端、「いつからそう思い始めたんだろう?」と思った。自分で言うのもなんだが記憶の中では推しに恋をしていたこともあったような。
自分で自分に問いかけてみた結果、明確に「この時だ」と思えるものはなかったけれど、多分、ヴィジュアル系バンドを追いかけていた中学2年生の頃だったように思う。ヴィジュアル系バンドはファンとの距離が近く、ファンでありながら、いわゆる“繋がり”というメンバーと個人的な接点を持つ人や売れる前から応援していて深い関係になっている人がいた。そういった人から話を聞いているうちに、メンバーも人なんだ、舞台の上とは違う裏の顔があるんだ、と気づいた。当時私の推しはヴィジュアル系バンドのボーカリストだった。私にとって最初に推しの「人」としての部分に触れたのは歌詞だった。ヴィジュアル系バンドは多くの場合、ボーカリストが歌詞を書いている。歌詞から読み取れる推しの頭の中を考えて、考えて、考え抜いて、妄想しているうちに、どんどん惹かれていった。「この人が何を考え、何を見て、どう感じているのか、もっと知りたい」という気持ちが溢れていった。そこからは推しの発言やブログ、歌詞に込めた想いなど一つ残らず拾うようにし、あかりのようにブログに記した。たまにあるイベントで推しと話せる時には答え合わせをする気持ちで挑んでいた。その推しは優しかった。子どもで未熟な自分をあったかい何かで包み込んでくれる存在だった。だからこそ私は「推しの舞台上の姿ではなく、一人の人として推しのことが好きだ」と思った。だから正直な話、プライベートが垣間見える入待ちや出待ちも積極的にしていた。誰も知らない推しを独り占めして、情報を集めたかったし、舞台に立っていない推しが誰とどんな顔をして話しているのか知りたかった。「推しのことを人として理解しているファンはきっと少ない、でも私はその少ないファンのうちの一人なんだ」と思っていたし、思っていたかった。
当時、私はあかりほどではないが、多少の生きづらさを感じていたと思う。学校という中学生が所属すべき「正規」の組織では友人関係が上手くいかず、生きづらかったし、大人から言われたことを守り、「いい子」でいる自分に不満を感じていた。世の中には中二病と言う言葉があるくらいなのだから誰もがそんな時期なのかもしれない。でもヴィジュアル系バンドの現場に行くと、自分の世界が信じられないほど広がった。そもそも中学生の私にとっては社会人のお姉さんという友人ができることも刺激的だったし、高校にいかず、自分の好きなバンドを追っかけるために働いている友人、家庭環境が複雑な中でも現場に来ることを生き甲斐にしている友人等、いろんな人がいた。それまで自分がいた世界では毎日学校に通い、良い大学に入るためにがむしゃらに勉強をするということが一番大切で、当たり前のことだとされていたけれど、そうでは無いことを知った。同時に自分はなんて狭い世界で、狭い価値観の中で生きているんだ、自分は何も持っていない、そう感じた。ファンのコミュニティの中で、凝り固まった何も持っていない人間である自分が友人として必要とされるためにはあかりが言う「解釈」しかない、と思った。私と推しが何らかの形で関係性を構築し、私と推しの関係の中で得られる情報を昇華し、自分という存在の付加価値にするしかないと。自分だけのメガネで推しを見つめ、推しとの限られたコミニケーションの中で、その答え合わせをし、コミュニティに放出する。そして自分の存在を保ち、周囲から必要とされることで承認欲求を満たす。唯一生きづらさを感じずにいられるファンとしての居場所を守ることに必死だった。そのためには関係性を構築する相手となる推しをとことん理解することが欠かせなかった。誰かと繋がり続けるために、自分の存在を保つために、「解釈」をしていたのだ。

体力やお金や時間、自分の持つものをきりすてて何かに打ち込む。そのことが、自分自身を浄化するような気がすることがある。つらさと引き換えに何かに注ぎ込み続けるうち、そこに自分の存在価値があるという気がしてくる。
ー『推し、燃ゆ』(河出書房新社)より


しかしその後、推しが所属していたヴィジュアル系バンドが解散したことにより、ファンも解散。私はそのコミュニティから離れ、別の界隈の推しを推すようになる。そしてそれ以降、ファンコミュニティで友人を作ることをやめた。作るとしてもかなり厳選をしていた。一番恐れていたのは身バレすること。今振り返れば大人になったのもあり、何となく日常生活での人間関係も築けるようになった。だからこそ、常に他人の評価を気にして、ファンコミュニティのカーストのどこに自分が位置するかを考え続けることに疲れてしまった。そして徐々に推すことをやめたいと思うようになっていった。非現実にいるときは楽しいけれど、現実に戻されたときの喪失感が半端なく疲れた。
それでも推すことはやめられなかったし、解釈することもやめられなかった。むしろ加速した。ファンコミュニティに所属しなくても何とかそれなりに生きていけるようになったのだから、推しを推す理由も、解釈する理由も無くなったはず。ファンコミュニティの中で自分の存在意義を見出すどころか、どこのコミュニティにも属さなくなったのだから。それでも推すことを、解釈をやめられなかったのは、解釈を通して推しが住む世界、推しが見る世界の片鱗を感じることができたから。推しを知れば知るほど、推しが見ている世界への興味が高まった。ヴィジュアル系バンドの次にハマった推しは主にアーティストやダンサーだった。彼ら彼女らはとても多忙なスケジュールの合間を縫って、クリエイティブに何かを生み出している。才能を持ち合わせていながら、信じられないほどの努力をしている。そして自分を表現することがやりたいことであり、夢としている人たちだった。実際には抱いてきた夢を叶え、好きを仕事にしている。嬉しいことも苦しいことも悲しいことも自分の感性で芸術として昇華し、自分の名前で評価をされ、たくさんの人から愛されている。羨ましかった。だからこそ推しが何をし、何を感じ、何を考え、生きているのかを知りたかった、解釈をやめられなかった。
何なら今も解釈しようとしている。「なぜ誰かのことを深く知ろうとするんだろう?」「なぜ推すことをやめられないんだろう?」「もう大人なのに」ずっとそう思っていた。その度に「いや、私はそもそも根本的に人が好きなのだから」「推しのことも一人の人間として好きなのだから」「友人を理解したいという気持ちと同じ」と思っていた。誤魔化して、そう思い込んでいた。自分の心の奥底に埋もれた本音と向き合うことが怖かったのだ。

しかし私はある記事によって、意図せず自分の心の本音と向き合うことになる。その得体の知れない本音に気付かされたのだ。

これはエッセイストのスイスイさんが旦那様と出会い、結婚するまでの経緯と旦那様を選んだ理由が書かれている記事だ。その中にこんなフレーズがある。

ほとんどホラーだけど、あの頃わたしは自分の人生に足りないものを「結婚する相手」に補填させようとしてた。〈何か作品をつくっている人。その上で尊敬できる人〉〈自分の道を切り開く人〉になりたいのは私だった。

これだ、と思った。そうだ、私も自分の夢や叶えられない希望を推しに求めているんだ。この事実に気付いたとき、苦しかった。薄々わかってたよね、私、と自分に話しかけてしまった。私だって何者かになりたい、自分の名前で人から必要とされる存在になりたい、自分にしかできない価値を作り出したい、好きを仕事にしたい。きっとそれができたら推しが見ている世界を自分も見れるんじゃないか、そう思っているのだ。でも実際は挑戦するだけの勇気も自信もない。ただそれを認めたくないからこの気持ちにずっと気付かないフリをしてきたのだ。

そんな自分の心の本音に気付きながら、この『推し、燃ゆ』を読み進めると、またもや次の衝撃が私を襲った。それは推しに自分の夢や希望を潜在的に求めていた結果、私がこれまで解釈してきた推しの姿は自分の内面の投影だったのかもしれない、という恐怖である。推しを一人の人として好き、なのではなく、推しを自分の好きな姿に解釈して作り出し、その姿を好きだったのではないかと。それに気づいた時、なんだか少し笑えてきた。大学時代、バンギャル時代の自分の心理を解き明かすために論文を書いて発表をしたことがある。その時にゼミの仲間から「なんか可哀想ですね」という言葉をもらった。その時の自分も笑っていたような気がする。頭を鈍器で殴られたような衝撃があって、ずっとそうかもしれないと思っていた核心を突かれたのに、私は笑っていた。私はきっと世間の健全?普通?の人から見ると可哀想なんだと思う。でも、この『推し、燃ゆ』のあかりの存在が小説の中とはいえ、自分以外にも同じような人がいるかもしれないと思わせてくれた。それが救いだった。推しを縋って生きていたっていい、生きていればいい、そう言ってもらえた気がした。

私は推しが人を殴っても、結婚しても、彼女がいても、正直あまり動じない。かつて推しが彼女と良い雰囲気になっている写真が大量に流出したこともあったが、あまり凹まなかった。それはきっとその事実を突きつけられても、都合の良いように解釈しているからではないかと思う。必ず推しの行動には理由があり、推しならではの理由だと信じているから。「推しなりに考えがあってのことだ」と思うと、不思議と許せてしまう。それも込みで好きなんだ、と。だから私は多少のことがあっても、推しのことは嫌いにならない。
それでもこれまで何度も推しが変わっているのは、その時々で自分が推しに求めるものが変わっているからだと思う。自分の存在価値を高めてほしい、自分の目標であってほしい、頑張ってもがいている姿を見せてほしい、自分に哲学を与えてほしい、と自分の成長や変化とともに変わっている。何度変わっても希望を与えてくれる、解釈をさせてくれる推しがいたから、私は26年間それなりの人生を歩んでこれたと思う。あかりは推しを「背骨」と言ったが私にとっては「脚」だ。推しのおかげでたくさんの世界を見てきた、たくさんの世界に連れて行ってもらった。だから私はこれからも推すことをやめないし、解釈することをやめないだろう。

あたしには、みんなが難なくこなせる何気ない生活もままならなくて、その皺寄せにぐちゃぐちゃ苦しんでばかりいる。だけど推しを推すことがあたしの生活の中心で絶対で、それだけは何をおいても明確だった。中心ていうか、背骨かな。
ー『推し、燃ゆ』(河出書房新社)より

「解釈」。
『推し、燃ゆ』を通して、この行為が定義づけられた時、推しの本当の姿、人としての姿を見たいと思った。自分の解釈ではなく、本当の姿を。でも全てが明らかでないからこそ、美しいのかもしれない。わからないからこそ、存在そのものが活力となり、自分の夢を託すことができるのかもしれない。

携帯やテレビ画面には、あるいはステージと客席には、そのへだたりぶんの優しさがあると思う。相手と話して距離が近づくこともない、あたしが何かをすることで関係性がこわれることもない、一定のへだたりのある場所で誰かの存在を感じ続けられることが、安らぎを与えてくれるということがあるように思う。何より、推しを推すとき、あたしというすべてを賭けてのめり込むとき、一方的ではあるけれど、あたしはいつになく満ち足りている。
ー『推し、燃ゆ』(河出書房新社)より

踏み込むことが傷ついたり、幻滅したりすることに繋がる。そんなことは日常生活で山ほどある。人間関係は必ずしも双方向に互いを想い合っていることが条件ではない。側から見たら一方的かもしれない「推す」という行為も当人同士の中ではちゃんと理由を持って成り立っている。「双方向であることが美しい」「そういう人間関係が築けないことが可哀想」そんなことを言われる筋合いはない。だって当人たちはその関係に満足しているのだから。

世間には、友達とか恋人とか知り合いとか家族とか関係性がたくさんあって、それらは互いに作用しながら日々微細に動いていく。常に平等で相互的な関係を目指している人たちは、そのバランスが崩れた一方的な関係性を不健康だと言う。脈ないのに想い続けても無駄だよとかどうしてあんな友達の面倒を見てるのとか。見返りを求めているわけでもないのに、勝手にみじめだと言われるとうんざりする。あたしは推しの存在を愛でること自体が幸せなわけで、それはそれで成立するんだからとやかく言わないでほしい。お互いがお互いを思う関係性を推しと結びたいわけじゃない。たぶん今のあたしを見てもらおうとか受け入れてもらおうとかそういうふうに思ってないからなんだろう。推しが実際あたしを友好的に見てくれるかなんてわからないし、あたしだって、推しの近くにずっといて楽しいかと言われればまた別な気がする。
ー『推し、燃ゆ』(河出書房新社)より

SNSには毎日「●●(推しの名前)も頑張ってるし、私も頑張ろう」という言葉が溢れている。推しはきっと今日もこの空の下のどこかで頑張っている、そう思うことでパワーをもらえて、生きる活力になる。そんな人たちがたくさんいる。
それでいい。「自分って可哀想かも」という不安が駆け巡っても、推しがいれば前を向ける。推しは諦めて手放した何か、普段は生活のためにやりすごしている何か、押しつぶした何かを、日頃はどこかに隠しておいてくれる。一方で推しの存在が、本当は自分が言いたい、叶えたいと思っている大切な心の本音も守ってくれる。日頃傷付かず、なんとなく生きていけるように。でも大切な時には傷付いてでも心の本音を守るよう、背中を押してくれる、そんな存在なのかもしれない。

「推しは、私の心に棲む本当に在りたい私だ。」
そう気付いたから、私はこれまで推してきた人たちのような世界を見たい、自分の名前で評価をされたい、好きを仕事にしたい、というこの気持ちにこれ以上蓋をし続けるのはやめようと思う。自分に何ができるか分からないけれど、ここに記すという小さな一歩を踏み出してみる。
その背中を押してくれたのが、私の推したちと私のバイブルとなる『推し、燃ゆ』だ。

おけい

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