見出し画像

中村倫也が命を吹き込んだ“庵野迦葉”

※ネタバレを含みます。閲覧にはご注意ください。

2/11(木)に公開された映画『ファーストラヴ』。島本理生の原作をもとに作られたこの映画。私はあまり読書をしないことから、今回倫也さんが出演すると聞くまでこの作品のことを知らなかった。でも映画を観る上でちゃんと倫也さんの演技を味わいたいと思い、原作を先に読んでから映画を見ることにした。(映画の開始まで待ち切れないという本音もあったが。)


『ファーストラヴ』の原作を読んで

『ファーストラヴ』-。このタイトルを聞いて、淡い恋物語を最初はイメージした。でも実際は全くそんなストーリーではない。

川沿いを血まみれで歩く女子大生が逮捕された。
殺されたのは彼女の父親。

「動機はそちらで見つけてください」

容疑者・聖山環菜(芳根京子)の挑発的な言葉が世間を騒がせていた。
事件を取材する公認心理士・真壁由紀(北川景子)は、夫・我聞(窪塚洋介)の弟で弁護士の庵野迦葉(中村倫也)とともに、彼女の本当の動機を探るため、面会を重ねる。

二転三転する供述に翻弄され、真実が歪められる中で、由紀は環菜にどこか過去の自分と似た「何か」を感じ始めていた。

そして自分の過去を知る迦葉の存在と、環菜の過去に触れたことをきっかけに、由紀は心の奥底に隠したはずの「ある記憶」と向き合うことになるのだが…。

倫也さんが演じるのは殺人を犯した環菜の国選弁護人で、主人公・由紀の大学の同期、そして由紀の夫である我聞の弟、という登場人物全てと関わりを持つ、庵野迦葉という人物だ。ただ、ここにはいろいろな事情と複雑さがある。というのも由紀と迦葉は大学時代に親しくしていたが、ある事をきっかけに互いを傷つけ合ってしまう。そして兄である我聞とも実は血が繋がっていない。本当は従兄弟という関係なのである。由紀、迦葉、環菜がそれぞれに傷、深い傷を負いながら、時々交差し、ストーリーが進んでいく。



庵野迦葉という人物に触れて

私は原作で迦葉という人物に触れた時、胸をぎゅっと掴まれるような感覚と愛おしさでいっぱいになった。ちょっと苦しくなるくらい。
一見、少し攻撃的で、棘のあるような言葉や振る舞いをする自信ありげなプライドの高い人物のように感じる。弁護士という職業も相まって。
でも実際はそれは分厚くて固い鎧なのだ。本当は心に癒えることのない傷を抱えながら、その傷をどう受け止めるべきか悩み、苦しんでいる。その傷にできた瘡蓋が治りかけているのに、自分で剥がして、また傷が瘡蓋になると、自分で剥がして、血が滲むのをボーっと眺めている。心の中では瘡蓋を剥がしてしまうその手を誰かに止めてもらいたくて、誰かの胸を借りながら、誰かを信じて生きたいと願いながら。だけど自分のような人間が近付いたら、誰かを傷つけてしまうかもしれない、と震えている。だから鎧を常に身に付け、人との距離を保ちながら、自分の想いを口に出すことなく、心を隠して、蓋して生きている。
原作には迦葉の描写の中に

「皮肉めいた唇の歪みは消えて、端整といえる顔から感情が読み取れなくなる。」
「大きさが左右で異なる目には、愛嬌と疑心が分かれて同居していた。親しみを込めながら同時に見下されているようでもあった。」

というものがある。
私の中で描いた迦葉も「皮肉」、「愛嬌と疑心が同居」という言葉がよく似合ってしまうように思う。

迦葉は実の親から愛情を与えられなかった。でも我聞の両親や我聞からは愛情を注いでもらったし、きっと迦葉はその愛を感じていた。でも迦葉自身がその愛情をまっすぐ受け取ることができなかった。受け取り方がわからなくて、受け取ることができなかった。だから誰かに愛を渡すことができなかった。愛情の注ぎ方、伝え方がわからなかったが故に由紀との一件が起こってしまった。

迦葉は繊細で危うくて複雑で、優しいのに素直になれない人だ。でも原作の「左右の大きさが微妙に違うために印象の定まらない目がこちらを向く。」という一文を見た時、何故かわからないけれど、倫也さんなら迦葉に息を吹き込み、動かすことができるだろうと思った。一筋縄では表現できない人物ではあるが、言葉ではなく、表情で内面を表現することにおいて秀逸な倫也さんなら、と。その倫也さんを見ることのワクワク感と緊張感が身体に駆け巡った。



倫也さんの迦葉への想い

迦葉を演じるにあたって、この作品に対する倫也さんの想いがいろいろなインタビューで語られている。これだけ濃密な原作を映像化するにあたって俳優陣はどう思っていたか?それについても語っている。

僕は原作と映画は別物だと考えていて。だから、原作をもとにしながら芝居をすることはないです。(中略)この作品に関しても先に原作を読んでいたのでそこで得た印象と言うものはもちろんありはするけど、かといって地の文に書かれていることを1行1行読み込んだり、そこで描かれている迦葉のしぐさをつぶさに読み解くということはなく。あくまで僕が向き合わなきゃいけないのは脚本。脚本をベースに、迦葉という人間を構築していきました

-『シアターカルチャーマガジンT. 43号』

脚本に描かれていた迦葉を読み解いた、という倫也さん。映画を見たからこそ思うのは、脚本の素晴らしさももちろんあるとは思うが、あれだけの表現をした倫也さんには震えた。
それでいて、倫也さんは迦葉を演じることに不安を感じていたようだった。

近年で一番不安で心配だった。難しい役柄だったしね。原作から2時間にまとめる段階で、どうしても削いでいくことになる。その中で原作の迦葉の情報量を超えるのは容易ではないと思った。当然だけど脚本ではいろいろ削がれているから。メイン4人の1人だけど、下手したら一番よくわからないキャラクターになってしまうなと。この作品は、自分の想いを自分で言わないんですよ。迦葉については、由紀の目線や環菜の言葉、我聞の雰囲気の端々で語られる。登場人物の関係性やそのキャラクターが出ていないシーンで、観客は彼らの胸の奥底を知っていく訳です。だから芝居をやりすぎたらダメだし、でも物凄く頭を使うので、ハードな仕事でした。原作からプラスアルファ、自分が果たして体現できるのだろうかって

演じていて目算が立ちづらく、完成作を見ても自分では実感がわかないというかぶっちゃけ手ごたえがわからない……

-『+act. 2021年3月号』

百戦錬磨の倫也さんでも難しいというこの迦葉。
「活字でしか存在しなかった迦葉という人間をふとした目線や呼吸、間合いで動かしていく」と倫也さんは語っていた。
そう語る倫也さんは迦葉をどのように解釈していたのか。

とっても綺麗で、薄い、ガラス細工みたいなところがあるんですね、アイツは。壊れやすいし、壊れたことによって人を傷つける。雨に濡れた野良犬みたいな時もあれば、段ボールにくるまっている捨て猫みたいな時もあって。いろんな裏腹なものを抱えたやつなんです。

-『シアターカルチャーマガジンT. 43号』
この作中の迦葉は言葉を飲み込んでいるところが多くて、弁護士として環菜に向き合いつつも、由紀に対する思いだったり、由紀と我聞に対する思いだったりを、直接的な言葉で言うともしかしたら傷をえぐってしまうかもしれないので言葉に出せずに見守ってるようなところもあって、そういうことを踏まえると実は繊細で優しい奴なのかなとやっていて思いました。だからこそその言葉になっていない部分をしっかりと持っていないといけないと思って、ちょっとした目線や行間というもの、その場所で会話して生まれたものなんかを繊細に汲み取れるように自分の心の中にアンテナを立てる必要があったかなと思います

-『NeoL Magagine』

倫也さんは迦葉を理解するにあたって、脚本や台本をかなり読み込み、迦葉という人間を取り込んでいったのではないかと思う。

僕の演じた迦葉という役は、僕自身とは全く違うので、どこまで役柄に寄り添って落とし込んでいくかというのは、とても繊細な時間で難しかったです。築き上げてきた経験があまりにも自分と違ったので、理解できないと言う前提の上で、自分自身の中に少しでも同じような要素がないか探したり、深い記憶を思い返したりして、些細なことでも必死に迦葉とつながるものを見つけだしてました撮影現場で演じながら見えてくることもありました。役柄としてはすごくしんどかったですよ(笑)。

-『CanCam 3月号』

これらのインタビューに触れて、役者という仕事、演じるということは本当に大変だと思った。でもそれをやり遂げる倫也さんを人として尊敬した。



倫也さんが演じる迦葉に触れて

原作を読んで、封切りの2/11(木)に映画を観た。倫也さんのインタビューの通り、原作を2時間に凝縮したことにより、原作ほどの迦葉の描写はなかった。最初に倫也さんがスクリーンに映った時は「あ、倫也さん」と思ったが、それはその一瞬だけだった。そこから、最後エンドロールに流れる“中村倫也”という文字を見るまで、画面に映る人物を倫也さんだとは一度も思わなかった。思う瞬間がなかった。
そこにいたのは迦葉だった。「庵野迦葉が生きている」、そうとしか思えなかった。純粋に「倫也さん、かっこいい」とは思えなかったのだ。見終わってからずっと心が重かった。私の心の中に迦葉が生き続けていた。

原作の迦葉ではなく、倫也さんが演じる迦葉をちゃんと受け止めたい、理解したいと思った。ここまで私が紡いできた迦葉をちゃんと答え合わせしたかった。大好きな倫也さんが心血注いで迦葉だから。
もう一度、原作と倫也さんのインタビューを熟読してから、映画を見に行った。余計なところに気を取られないよう、倫也さんだけを見つめるために。

二度目は倫也さんが登場してから、ずっと倫也さんだけを見ていた。改めて思ったことは、倫也さんが演じる迦葉の台詞は形式張ったものばかり。弁護士としての台詞というか、事実や見解を述べることがほとんど。感情や想いを言葉にすることはほとんどなかった。唯一、感情が垣間見えそうな大学時代のシーンですら、台詞はほぼない。

その代わり、迦葉を理解する上でキーとなったのか表情だった。一度目にこの映画を見た時、脳裏に焼き付いていたのは賀川洋一との対面シーンでの表情だった。もっともっと迦葉が知りたかったから、1秒たりとも表情の変化を見逃すまいと必死で観た。倫也さんが演じる迦葉が同じ表情をしたことは一度もなかったように感じる。微妙に、繊細に、かつ巧妙に、表情の変化をしている。天才だと思った。穴が開くほど、迦葉を見続けた結果、大きく分けると3つの表情があったように感じた。

一つは世の中に対して「そんなに簡単じゃない、もっと複雑で捻くれているものだ」というような諦めに近い表情。これが迦葉のニュートラルな状態だと受け取った。温度のない冷たい目や緩く寄った眉間の皺、片方だけ下げた眉、少し上から見下ろすような視線。由紀と最初に弁護士事務所で対峙した時はこの表情を感じた。

画像1

画像2

画像3


もう一つは人を品定めするような、相手を伺うような、怪しむような表情。一見この表情はネガティブに表出されるものかと思いきや、迦葉はそれだけではない。私の中で印象に強く残った賀川を疑うように鋭く見る視線や、昭菜の本音を探るために柔らかく上がった口角、環菜に腕時計のことを指摘されて「何が言いたい?」と探る目。そして富山で雨に打たれた後に由紀と見つめ合う表情。由紀と見つめ合った時、普通は目に愛情が浮かびそうなものだが、あの時の迦葉はどこか由紀との距離の詰め方がわからず、また傷つけてしまうかもしれない、と怯えながら由紀を伺っている目であるように私は感じた。

画像4

画像5

画像12

画像13

画像7

画像8


最後の一つは許しの表情。相手に安心感を示すような顔の力が抜けた表情である。“許し”と一言で言ってもいろいろな意味が込められている。ただこの許しの表情は迦葉が心の扉を開いた時、感情を表に出した時にだけ現れる。
この表情については細かく残したい。というのも、ここに倫也さんの魂が宿っていたように思うからだ。
私の中で強く残っているのが、由紀と過ごす夜、迦葉が由紀に我聞の話をする時、お互いに諦めた後に由紀の頬を引き寄せる時、そして最後に由紀と和解する時、この3つの表情だ。

大学時代の回想シーンで、帰れなくなり、ホテルに泊まることになった2人。そのホテルで迦葉は由紀に自分の兄である我聞の話をする。由紀の台詞でも「全然違うね」とあるように、我聞の話をする迦葉は鼻を膨らませて、少し興奮したように、子供のように無邪気に笑うのだ。いかに迦葉が我聞に心を許し、我聞を慕っているかがこの表情一つで感じられる。おそらく映画2時間の中で一番笑っている、感情を表に出している場面だったと思う。

画像9

画像10


またそのやり取りの後、男女の関係になろうとしてしまう由紀と迦葉。だけどその関係になりきれず、迦葉は棘ののある言葉を由紀に放ってしまう。
「余裕で2桁超えるくらい経験積んでも、こういうことってあるんだなー」
その言葉に由紀はもちろん傷つき、由紀は迦葉に言い返してしまう。だが、迦葉がこの言葉を吐いてから次に由紀が言葉を発するまでの間に、迦葉は顔を背けた由紀の頬を引き寄せる瞬間がある。その時の表情が本当に愛おしくて大切なものを見つめるようで、慈しむようで、穏やかなのだ。直後に由紀から言われる言葉によって迦葉は激しく傷つくことから、その対比になっているのかもしれないが、本当に由紀を大切に想っていること、愛情持っていることが伝わる。そう想っているはずなのに由紀が傷つく言葉を言ってしまった迦葉は、その実あの言葉で由紀が傷つくと思わなかったかもしれないし、もしかしたらこれまで関係を持ってきた女性とは違うということを伝えたかったのかもしれない。無意識に愛情の裏返しとして出てしまった言葉だったのかもしれない。迦葉は愛情を持っていても伝え方がわからないんだ、とこのシーンで感じた。大学生なんて、愛があっても男女の関係になる選択肢しかない年頃だったりすると個人的には思う。大切にしたくても大切にする方法がわからないのだ。そして迦葉はきっと他の人よりももっと。


そして最後に、この大学時代に自分たちの傷をお互いに傷つけ合ってしまったことに対して、本音を打ち明けて和解するシーン。迦葉は何かを飲み込みながら、それでも悟ったような気持ちで穏やかにあたたかい笑みを向ける。このシーンを迎える前提に由紀が我聞全てを打ち明け、それを迦葉が聞いているシーンがある。由紀が我聞に迦葉のことも全て打ち明けた、という事実、そして自分がかつて由紀のことを「大事だったけど、恋愛ではなかった。それがどれだけ特別なことかを伝えようと思っても、きっともう由紀は受け入れないだろう。」と話したことを改めて我聞の口から聞くことで、その事実を受け止めたように見えた。

画像11

由紀に対して抱いていた自分の気持ちにケリがついた、という感じだろうか。だから迦葉は、由紀と傷つけ合ってしまった辛い過去とも向き合い、由紀に心の奥底にしまっていた感情を素直に伝えることができたのではないだろうか。迦葉自身が過去の自分を許せた瞬間だと、あの表情から私は読み取った。

画像13


ここまで挙げてきたシーンに台詞はほとんどない。私が原作を読んでいる、ということもあるかもしれないが、映画は原作と流れが違うところもある。それでも迦葉という人物からこれだけのことを感じ取れたのだ。映像に触れるだけで。活字でしか生きていなかった迦葉がこれだけのことを表す人間としてそこに存在していたのだ。

中村倫也は凄い。本当に凄い。二度目のエンドロールではその倫也さんの素晴らしさに涙した。一筋縄ではとても表現できない迦葉という人間をここまで生かせた、命を吹き込んだ倫也さん。これまで演技に感動したことなんてなくて、はじめての経験で。苦しみながらも迦葉を演じてくれた倫也さんに感謝した。自分の感性に新たな刺激と感動を与えてくれた倫也さんと出会えたことに感謝した。



最後に

『ファーストラヴ』のストーリーの根底に流れるのは非常に繊細なテーマだ。それこそ一言では語れない。でも一つ言えることがあるとすれば、どんなに成功している人でも、気丈に振る舞っている人でも、心の中には傷がある。それは傷痕として残っているかもしれないし、治りかけの瘡蓋かもしれないし、治っていないかもしれない。でもそれを自分なりに何とか折り合いをつけて生きている。いろいろな感情を持ちながら必死で生きている。そんな人たちが集まって家族という集団ができる。陰りが一つもないという人も、家族もない、と個人的には思う。みんなそれぞれ何かを抱えている。だからこそ誰に対しても受け入れ、許し、支え合えるようになれたらと思うのだ。それはとってもとっても難しいことだけど、そんな広くて深い気持ちで人と向き合えるようになりたいと心の底から思わせてくれる作品だった。
2/26(金)からコメンタリー上映も始まるとのこと。また観に行きたいと思うのである(3回目)。




おけい

この記事が参加している募集

スキしてみて

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?