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「パクり」の定義
某サイトで
「ヨルシカというアーティストの『又三郎』という曲は、歌詞に曲の題材となる宮沢賢治の短編小説『風の又三郎』の文をまるまる引用している部分もありますし、これはパクりに当たるのですか?」
と質問している人がいた。
ヨルシカの別曲『思想犯』のMVの概要欄にて
「思想犯というテーマは、ジョージ・オーウェルの小説「1984」からの盗用である。そして盗用であると公言したこの瞬間、盗用はオマージュに姿を変える。盗用とオマージュの境界線は曖昧に在るようで、実は何処にも存在しない。逆もまた然りである。オマージュは全て盗用になり得る危うさを持つ。
この楽曲の詩は尾崎放哉の俳句と、その晩年をオマージュしている。
それは、きっと盗用とも言える。」
とある。
第1、楽曲以外の創作物を違う人間が楽曲で表現した時点で、それはもう絶対的に完全なる窃盗にはなり得ないだろ、と個人的には思う。
仮に詩人の詩を丸々全部歌詞にした楽曲があるとしよう。その場合でもそこにはそれを作った人間の歌詞以外の歌声、伴奏がある。その時点でそれはただのコピペではなく、オリジナルは薄まれどオリジナルに代わりは無いのだ。
これが誰かの楽曲を題材に楽曲を作るとなると、伴奏(HIPHOPではビート)、そしてメロディ(HIPHOPではフロー)までほとんど同じとなると怪しくなる。
"日本では、著作権の原則的保護期間は、著作者が著作物を創作した時点から著作者の死後70年を経過するまでと定められています。"
(引用 公益社団法人著作権情報センター CRIC)
となっており、HIPHOPでは時折生存しているラッパーの数年前の楽曲を前述したようにほぼ同じに作るラッパーが割と居て、僕はそれは盗作・パクりに近いと思う。大抵そのような曲を作る人達は元の原曲を題材にしたことを歌詞や取材やSNSで公言する事もない。稀に「あれはパクったよ」と平然と言う人間も居るが、よくそれで"自分はアーティストである"と顔を出せるなと思う。
ヨルシカは基本題材とする作品は著作権の保護期間が過ぎている昔の小説や詩であるし、例えば「又三郎」や「月に吠える」、「チノカテ」等はタイトルは勿論、歌詞からも題材にしていることを明確にしている。前述の「思想犯」の概要欄でもハッキリと、包み隠さず書き残している。
違う捉え方をしてみれば、自分でどこまでも自由に作れる芸術において、敢えて軸を故人の傑作にして創るという行為はその作品、創作者への最大の愛とリスペクトが篭っているんじゃないだろうか。
『日本国語大辞典』にて、盗作とは
〘 名詞 〙 無断で他人の作品を自分の作として発表すること。また、その作品。剽窃(ひょうせ つ)。
とある。音楽においては著作権侵害の観点で盗作は判断される。
ヨルシカの『思想犯』の概要欄を振り返ろう。
「盗用であると公言したこの瞬間、盗用はオマージュに姿を変える。」
ジョージ・オーウェルは1950年に死去しており、70数年経った今、著作権は無くなっている。詰まる所無断で彼の作品を使う事は盗作とはならず、許される。死者に著作者の許諾は取れないから。
ただ、ヨルシカの作曲者n-bunaは律儀に「彼から盗用した(題材にした)」と綴る。無断で他人の作品を盗み、自分の物にすることが"盗作"の定義である。彼は盗用と表現しているが、この場合は題材の方が正しい。
ともかく題材の著作権が消えている場合、その趣旨を公言してしまえばたとえその作品自体をテーマに、そしてその中の文章を丸々歌詞にしようが、立ち位置はリスペクトを添えた「オマージュ」である。この場合題材は小説・詩であり、ヨルシカはアーティストで絶対的に楽曲にするには題材とは異なるアプローチが必要とされるため。
世の中(現存するアーティストの曲の丸パクリ曲の様な例を除いて)「この曲のこの部分、○○の人の○○とほぼ同じじゃね?パクリじゃん笑」みたいなプチ炎上とまではいかないが、声がSNSにそれなりに頻繁に見られる。
そんなこと言い出したら良く使われるコード進行、4つ打ちも誰かが作り出した「作品」とも言えるのだから、キリがないだろ。
寧ろ僕は「あ、今の部分○○(他のアーティスト)のあの曲と同じ音だ」と類似性の発見をすることが楽しい。
楽曲の話は置いといて、生活全てにおいて僕達は誰かが作った何かを盗用しているだろう。例えば各種ハイブランドのデザインを無断でそっくり真似て、素材は雑にして安売りする海外の通販サイトを用いて「着飾る」事が若者の中で流行っている。それは窃盗をした人間の物を身につけているのと同じで、言ってしまえば同罪だ。
他人の上手い言葉の使い方や、好きな有名人や人間の見た目や思想、行為をそっくり真似るのも大抵無断で行っており、それはある意味盗用とも取れる。
僕が今書いてる文章の書き方だって、今まで読んできた色々な人間の手法を盗んだ末の物だ。
それが悪いとは言わない。けれども応用に移すそれらの元へリスペクトと、不可能だとしてもオリジナルを混ぜる事を忘れてはならない。所詮僕らは0から産まれた訳でなく、アダムとイブから長い歴史で遺伝の変化を遂げて99%をコピーされた後発品なのだから。1%の原型を捨てた瞬間に人間は既存品に成り果て、自分が存在する価値、理由が一筋も無くなる。
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