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12/2の日記~ワルサーPPK、ロケットえんぴつ、蜂球~

地上ではひどい雨が降り続いていた。都営三田線の暖房の効いた車内は人であふれかえっていて、誰もかれもが傘を自分の第三の足のようにピッタリつけていた。交戦の意思はございません、これは武器ではなく私を支える第三の足ですから、と。観光客らしい外国人が日本刀のようなデザインの傘を持っている。僕が中学生で、今が修学旅行中ならば、絶対買ってしまっていただろうな。火縄銃のようにくたびれた茶色い傘を持っている人もいれば、マシンガンみたいな精巧な黒い傘を持っている人もいる。でも、僕の持っている小さな黒い折り畳み傘も悪くはないはずだ。柄のところにあるボタン一つで傘が開く。小型セミオートマチック拳銃。ワルサーPPK。僕はジェームズ・ボンド。なんて馬鹿みたいだ。

 今朝の通勤ラッシュもいつものようにひどいものだった。僕は始発駅から乗っていたから、高みの見物であったが、それでも車内はいつも切迫した雰囲気を纏っていた。
「毛を抜け」「転職しろ」「警鐘」「結婚しろ」「弁護士相談」「恋せよ」「毛を生やせ」「霊園」…。吊り広告たちが、開戦の合図を待つ戦国武将ののぼり旗みたいに暖房の風に揺れ、煽っていた。敵なんてどこにもいないが、味方もどこにもいない。誰もかれも、スマホを見つめて自分のパーソナルスペースを死守する方法を検索している。あるいはゲームアプリだ。戦場はここにはない。

「君は、なにかつかれているようだ」突然、隣の老人が話しかけてきた。深い苔のようなスーツに身を包んだ品のいい老人だった。
「そうですね、そうかもしれない。眼も肩も腰もひどく痛むんです」、僕は言った。アリナミンV。
 車内は酷く蒸していた。さらに、乗客の体温が車内の気温を上昇させ、酷く暑かった。新しい乗客が大勢、水を滴らせて乗車してくる。新しく乗客が乗車してくる分より少ないくらいの古い乗客が降りていく。乗客はどんどん奥の方へ押し込まれていく。べっとり濡れた床が、車内の蛍光灯の光を反射していた。僕はたくさんの人の足の隙間からその血だまりのような床をぼんやり眺めていた。


「それにしても、いいコートを着ているね。バーバリーかい?」老人は僕のトレンチコートに触れるか触れないかの微妙な距離感でその輪郭を恭しくなぞった。
「えぇ。でもこの前、家でジンギスカン鍋しちゃってですね。取れないんですよ、臭いが」できる限りの困った顔をしてみせる。老人は、その鷲鼻をコートに近づけ、すんすんと鼻を鳴らした。
「肉の焼けた臭いがするね。100年前は軍用コートだったから?」、老人は訊ねてきた。どういうロジックだ。日本語が足りない。
「いえ、そうじゃなくてですね、先ほど申し上げました通り、先日実際に焼肉したためにラム肉の臭いがついてしまったんです」僕は文節を区切るようにしゃべり、丁寧に事実を教えてあげた。そんなことよりも僕は今、便意がひどいのだ。朝トイレに行き忘れたからだ。わたしはベンイマックス。自分の健康さえ守れない。ご老人、あなたはさっきからなんなんです?


「あいや、そうだったね。高かっただろう?」
「僕が持ってるもので一番高いですね。14万しました」
「その分長く使えるさ。使い倒して償却してしまいなさい」
目の前の女性が、新しい乗客に押し込まれ苦悶の表情を浮かべる。眉間に皺がよって、唇は歪な輪っかを作り出していた。女性のそういう顔を下から見上げていいのは今じゃないでしょう?
「働きバチみたいだね。ぎゅうぎゅう詰めだ」老人は言った。チャットモンチーの「東京ハチミツオーケストラ」が頭に流れてきた。栄光のゼロ年代の歌のひとつ。懐かしい。この老人がきっと知らない名曲だ。
「えぇ、でも僕にとっては働きアリですよ。こうして地下を移動して、蟻塚みたいなビルに出社していく」
「働きアリね。なるほど。コツコツ働いて、コツコツ稼ぐ。冬に備えて雨にも負けず風にも負けず。いいじゃないか。可能性に満ち満ちた素晴らしい世代の子たちだ。私たち老人はね、君たちのような若者に頑張ってほしいと心から願っているよ。」
「そんなことないですよ。僕たちは失われた20年間に生まれた、失われた世代です。第一次世界大戦時のヘミングウェイやフィッツジェラルドのような黄金の世代とも違う。なにかを失い続けている世代って言ってもいい。こんな毎日毎日、地下鉄に吸い込まれては吐き出されて―まるでロケットえんぴつみたいだ。どう頑張れと言うんです?」
老人は、質問には答えず、乾いたパンが引きちぎられたような声で短く笑った。
 僕は、老人との会話はそれでやっとこさ終わりだと思って、神保町駅までチャットモンチーを聞きながら黙った。「シャングリラ」、「とび魚のバタフライ」、「世界が終わる夜に」、「女子たちに明日はない」
 

 アナウンスが聞こえて、席を立った時、老人が私の袖を引いた。あの、そういうの、好きな人にしてもらいたいんですけど。
「そうだ。言い忘れていたよ。君だ。君こそが、次々と押し出されていく様を“ロケットえんぴつのように”と比喩して通じる最後の世代だ。だから自信を持ちなさい」僕は押し黙った。
「最後にひとつ。君、将来の夢は?」
「スパイダーマン」、なれるものならなりたいさ。
「君ならなれる。自信を持ちなさい」、老人は私の目をまっすぐ見つめて言った。私がついている、と。
 地上に出て、降りしきる雨の中、ボタンを押し小さい傘を広げる。たくさんの雨粒が弾丸のように生地をうった。

 さて、ミツバチは、巣を襲うスズメバチをどう撃退するか。
 集団でスズメバチを襲い、囲い、体を震わせ、体温を上げ、団子状態の中心にいるスズメバチを熱死させる。老人の言うように我々が働きバチとするならば、我々は本当の敵も分からないままに、互いを囲い、体を震わせ、体温を上げ、死んでいく。であれば我々は、毎日誰かを損なって生きているのだ。

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