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神戸っ子から見た「すずめの戸締り」

職場の人が雑談で「すずめの戸締りを観てきたけど肌に合わなかった」というような話をしていた。

自分だけ感覚がズレていて面白さが分からないのか、それとも皆が周りの雰囲気に流されて状況から「面白い」と言わされているのか。…そのくらいの勢いで嘆いておられた。

もともと観に行くまでの興味が無かった私も、逆に観たいと思い立つ。子供達を連れて、年末までに消費しなければならない映画チケットを握りしめて、鑑賞してきた。

引っかかるポイントや、個人的に湧いてくる想いはあるものの、エンタメとしては楽しく観れたというのが結論。以下は私が感じたことを書き下す。

(※以下、ネタバレ配慮できているかは分からない)

サンデル先生の本で見たことある奴だ

要石の宿命を背負わされたんだと気付いたあたりから、「サンデル先生の本で見たことある奴だ!」と思った。

つまるところ、100万人の命を助けるために、1人を犠牲にしてよいのか?を問うトロッコ問題のバリエーションとして散々と考え尽くされている話だ。

おそらく法哲学の議論だったら、下した判断がいかなる状況でも耐えられるか様々な角度から検証されることだろう。このため、壮大なスペクタクルで描く映画も、黒板に書いたトロッコも等価な問題として扱われる。
物語の中で扱われた途端に、犠牲になる人の成り行きに共感できるかや、イケメン・カワイイといった外見に左右されるのは必然であると同時に、危うさもある。それは現実の陪審員制度も同じかもしれない。

そもそも、すずめの判断の是非を問うこと自体が、サッカーの失点をキーパーだけのせいにするような話だとは思う。100万人の命を左右するような大きな権限をそこらへんの女子(すずめ)に委ねてしまう時点で、社会の仕組みとしては破綻している。責められるべきはディフェンスの欠如であり、最後の砦にだけ是非を問うのはお門違いにも思う。

…というようなモヤっとしたことを、功利主義やセカイ系に関する考察として、深い教養を持って理路整然に書いてくださっていた方がいた。少し長いけれど、私的には「それが言いたかった!」という素晴らしい記事。ありがとー。

震災で思い出すトロッコ問題

思い出せば私も、小学生の頃に阪神淡路大震災を経験した。灘には長田のような大規模な火災はなかったけれど、揺れは大きかったので近所一帯が瓦礫の海になっていた。

家には油圧ジャッキや工機があり、父が行けば瓦礫の中から助けられた命はあったかもしれない。だけど、私の家族は父に「そばに居て家族を守ってくれ」とお願いした。

結果論で言えば、私の家族は何もしなくても無事だった。だけど、薄暗い中で地鳴りなのか家の倒壊なのか不気味な音がして怖かった。その中で外に出た父に何かあったら嫌だなと思って行って欲しくなかった。ガス漏れして火がついたところもあり、皆で逃げなければならない可能性もあった。

100万人ではないけれど、近隣に居る何人かの命は救えたかもしれない。でも、父は私の家族の安心をとった。一般人に課せられた権限の中で、間違った判断はしていなかったと今でも思う。私もそうする。

震災のエンタメ的消費

メタ的なところで「震災のエンタメ的消費」という論点も奥深い。この映画自体が東日本大震災から10年以上が過ぎたから、受け入れられたところもある。

阪神淡路大震災の被災者がドキュメンタリーのネタとなることに、多少の憤りは感じていた。でも、報道のおかげで義援金がいただけたのも事実であるし、それが世の中の仕組みだと子供心に納得したことを思い出す。

あれから25年が経ち、本作を観た神戸っ子である私は、そんな観点すら忘れて楽しく鑑賞していた。気になったとすれば、神戸内の位置関係として「そこからそこにいきなり移動する?」みたいな些細な点くらい。

時が経てば「恐ろしさを伝えて風化させない」という役割も必要とされる。古くは神話もその役割を担ったし、戦争や災害の語り部や、「火垂るの墓」などの映画も同じ役割を担っている。HAT神戸の「人と防災未来センター」には、震災の瓦礫を体験するアトラクション(?)なんてのもある。一緒に観た子供に「昔、地震があったから神戸が出てきてたんだ」なんて話をする。

新海先生が作品を重ねて、創作から現実に寄せてきたのは「そう来たか!」と意外に思った。ただ、現実の災害や戦争をテーマにしたフィクションなんて他にもある。誰も司馬遼太郎に不謹慎とは言わない。それがタブー視されるかは時間の側面が大きい。影響力が大きいから標的にされやすいだけで、内容だけで言えばこの作品だけが批判されるものでないと私は感じる。

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