見出し画像

感情移入できないと駄作なのか?

映画・小説・アニメに限らず、作品を味わった後で「他の人はどんな感想を持ったんだろう」と探るのは好き。note内でも感想記事を漁ってはスキを付けて回ったりしている。

そんな感想巡りをしていると「まったく感情移入できないので駄作」というような投稿がチラホラあり、「そうなの?」と疑問に思ったので書く。

「感情移入できたか?」は感性によるところなので、人それぞれ判断があってよい。ただ「感情移入できないと駄作」と結論付けることに対して、私は疑問を持っている。

嗜好の方向性だと捉えている

私が否定するのは、「感情移入」という評価基準のすべてではなく、それがないことをネガティブな要因として挙げること。

  • 「この作品は感情移入できるから良作だ」←これは理解できる

  • 「この作品は感情移入できないから駄作だ」←これは疑問がある

別の例で置き換えるならば、こういう話だと思う。

  • 「この日本酒は芳醇な味わいで美味しい」←これは理解できる

  • 「この日本酒は芳醇でないから不味い」←これは疑問がある

私の好みの傾向として芳醇な日本酒は好きだ。でも、芳醇ではなく端麗でも美味しい日本酒はいっぱいある。私自身も、お刺身と合わせるとか状況によっては淡麗を選ぶ。

もとの話に戻すと、感情移入できるかどうかは好みの1つでしかないんじゃないか。それがなくても、優れた作品にはなりうるんじゃないか。

まったく共感はできなくとも「そんな考え方もあるのか」と意外性を味わうとか。知的好奇心がくすぐられるとか。考え巡らせるきっかけになるとか。別の魅力が備わってよい作品もあるんじゃないか。

もしかすると、明らかに感情移入を狙った作品なのに、流れがどんくさいので伝わらず惜しいのかもしれない。もしくは、他に特筆すべき魅力が無いから「感情移入できなかった」が不満として挙がる可能性もある。さておき、感情について掘り下げてみる。

そうは言っても感情は特別?

仮想の反論として「そうは言っても、他の判断基準と比べて感情移入は大切だよ」というのも理解はできる。

芳醇↔淡麗の場合は、その両端にも、間のバランスにも魅力が詰まっているのに対して、感情が動かない作品よりは感情が動く作品の方が良い。そこは直感的に納得する。

一見して論理的に見える人でも、感情が先に判断を下していて、後付けで論理を補っているというような話もある。そのくらい人間の根本に関わる重要な要素でもある。

そんな人間の根本的なところで、作品を受け入れて入り込むことができるとしたら、そりゃ良い作品だろう。感情移入が特別なことは認めるとしよう。

でもそれは、作品側だけに備わった特長ではなく、鑑賞者の人生経験との関係によって生まれるという見方もある。

私の世界を広げてくれるか

私の憶測による仮説の話。きっと感情移入を重んじる人は、作品に触れる時間内に良い体験をすることを重視している。対する私は、作品を通して自分が変容できることを重視している。これも方向性の違いだろう。

作品を通して、私は他人の人生を追体験する。私自身は私の人生しか生きられないけれど、作者が命がけで生み出した作品を追体験することで、ありえたかもしれない別の人生をなぞり、世界の捉え方を広げる。

その際に、現時点の自分が感情移入できる作品だけに限定してしまうと、例え鑑賞時間は心地よくとも、自分が味わえる世界が広がることにはつながらない。

現時点の自分ではピンとこない作品に挑戦して、分からないなりに分かろうと想像力を働かせたり、時間をおいて人生経験を積みなおしたりする。これにより、「当時はピンとこなかったけど、今ならわかる!」と感情移入できるようになれば、鑑賞者としての私が成長したとは言えないだろうか。

「私とは違うけど、そういう人がいることは理解できる」のように、感情移入や共感なんて伴わなくたっていい。想像力を働かせて多様性を受け入れることができれば、成長とは言えないだろうか。

「このウイスキーを不味いと感じるなら、お前の舌が未熟だ」みたいな話。作品に関してはそこまで絶対的な基準はないだろうけれど、感情移入できない鑑賞者側を疑う余地はないだろうか。

感情移入できない作品に対峙して私が思うのは、「だから駄作」ではなく、「まだ現時点の私の人生経験では感情移入できなかった」である。少なくとも私は、作品の評価とは別腹で捉えている。

この記事が参加している募集

note感想文

「文章でメシを食う」の道を開くため、サポートいただけると励みになります。それを元手にメシを食ってメシレポします。