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「 喰らいつくような読書 」がしたい。

最近哲学の勉強をしています。
哲学史で大まかな流れを理解して、そのあとそれぞれの哲学者を深掘りしていく…という作戦で進めています。

そのために生涯学習的な講座に通ったり本等を手に取ったりしながら、今はヨーロッパの中世~近代あたりをじわじわと進めています。
まだまだ哲学初心者なので、いろんなことがまだまだちんぷんかんぷんな状態なのですが、そんな講座の先生や本の中である言葉を言われるのです。


「この本は難しいので、読めなくて(読まなくて)大丈夫です」


この言葉の意味は、専門用語が多いとか書かれた当時と常識が違うから理解しにくいとか、そういう話ではありません。言語の壁が問題というわけでもありません。

著者たちと同じ時代に生き、同じ言語を使っている人にとっても難しい本だったそうなのです。つまり、そもそも読んで理解できる人が少ないことを承知の上で書かれている本のようなのです。


現代人からするとなかなか理解できないことですよね。
少なくとも私が自分の考えを理解してもらったり評価してもらいたいと思ったら、読んでくれる人を想定して言葉選びや共感しやすい例を取り上げながら本を書いていきます。
実際、最近の本はわかりやすさを売りにしたものって結構多いですよね。難しい本や歴史などの解説本もそうだし、純文学にカテゴライズされる本すら柔らかい文体になりつつある気がします。


当時も理解されたい、評価されたいと思っているはずなのに、なんでそんな本を書くのか?
それはそもそも今と昔では本のあり方が違っていたところにあると思うのです。


※ここからは若干私の妄想も含まれています※


中世~近代のヨーロッパ(4,5世紀~19世紀前半くらい)、は今ほど識字率が高くありませんでした。その上、義務教育のようなものを受けられる人は貴族や聖職者など限られた人のみで、知識を持っていることそのものがステータスでもありました。

そんな環境下での「 本 」は、文字が読め、そして教育を一定まで施された人だけが読めるものです。活版印刷が普及するまでは本そのものも希少なので、超訳すると選ばれし者だけが読むことができるすごいものみたいな感覚があったのだと思います。


逆を言うと、本は選ばれし者だけが読むことができる「 すごいもの 」である必要があるわけです


そうなってくると、本にわかりやすさは必要ありません。
特に学問にまつわる本は「勉強してきてるんだから、これくらいわかるでしょ?」という前提で書かれているものも多いはずです。

なので書く側も「これ理解できんのか??かかってこいや!!」という精神で書いている部分もあるでしょうし(笑)、読む側も「あの本理解できたわー」とか「あの本の論理はつまりうんたら…」などと語れることが自分の教養をアピールできるということなのですよね。


つまり難解とされる本のレベルについていけることが、自分のすごさを知らしめることができるという部分があったのではないかと思います。


もちろん庶民向けの本も、活版印刷が普及した後はたくさんあったと思いますし、今も学術書などは専門分野が違っていれば読めないのは当たり前だと思います。

しかし聞いたり色々読んでいる限り、19世紀前半くらいまでは本の難易度に自分を合わせていくことが一般的だったし、著者側も皆にわかる平易な書き方じゃなくてもその本にかかれている内容に価値があれば受け入れる土壌があり、その土壌が広かったように感じます。
難しい本に喰らいつき読み切ることが、その人の知識の多さや教養深さの証明にもなっていたのではないでしょうか。だからこそ読めなくて当然と言われるような難解な本がその国や世界に大きな影響を与えるどころか、国のあり方そのものを変えてしまうこともあったのでは、と思うのです。


しかし最近はそういう土壌や考え方が薄れてきているのか、著者を含む本を作る側が、出来るだけ多くの人が理解できるように本そのものの難易度を下げてきている感じがします
今の本がそうなっているのは、本以外のものに今までの役目を奪われてしまった本が少しでも興味を持ってもらうための工夫なのかもしれません。


本が時代に合わせて役目や需要を見極めて、存在価値を変化させていくこと自体は決して悪いことだとは思いません。それは本に限った話ではなくて、映画などの他のエンタメや衣服や化粧だって時代に合わせて変化しています。変わらない物の方がむしろ少ないくらいだと思うのです。

昨今は物に溢れている分、娯楽だけでなくクレジットカードや保険、そのほかいろいろなサービスでも「何も知らない人がどれだけ簡単にそれを利用することができるか」という視点で作られていたり、CMなどを流していることが多いと思います。「安い」という価格競争だけでなく、「簡単」「わかりやすい」「すぐ出来る」などを強調した広告がここまで多くなったのも、そんな世の流れだと思うのです。


ただ、難しい本を辞書や別の文献を参照しながら読むとか、何度も読み返して著者の真意を見つけ出すような「喰らいつく読書」もちょっとしてみたいなって思うのです。
易しい本に囲まれて生きてきた私がどこまでそれをできるかわかりませんが、挑戦できるならしてみたい。

哲学書はちょっとハードルが高すぎる気がするので、手っ取り早いところなら、洋書を読むとかはそれに近い経験かもしれません。時間がかかりそうだけど、やってみようかな……。


長々と色々考えたことを書いてしまいましたが……
最後まで読んでいただきありがとうございました!

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