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【人生なんて所詮RPG】


0.問題提起

 RPG、通称ロールプレイングゲーム。
 割り与えられたキャラクターを操作し、試練を乗り越え、目的達成を目指す。
 
 僕たちは、生を授かり、ぷかぷか酸素を吸い、幸せになりたいと願っている。
 まるで、人生ってRPG。
 
 RPGの名作ポケモンで、主人公は、マサラタウンを出発後、ポケモンを捕まえ、レベルを上げて、ジムリーダに挑戦し、バッジを集めてチャンピオンを目指す。
 道に迷ったり、倒せないポケモンが現れたりすると、道行く通行人が吹き出しで教えてくれる。
 
「かすみのスターミーには、電気技が効果的だぞ!」という具合に。


 僕たちは、人生というRPGにおいて、物心が付くと、次のような攻略方法を教えられてきた。


「中学高校と塾通いをし、世間体の良い大学、ひいては大学院を卒業。
 大企業に勤め、年収1000万円を目指す。社会に出て数年でパートナーと結婚し、2人若しくは3人の子供を授かる。
 マイカー、次いでマイホーム。子供の巣立った後、静かに余生を過ごしながら、正月や盆には孫に囲まれ、最期は静かに息を引き取る。」

 これで、完全攻略だぞ。

 なお、人生というRPGの攻略は難しく、過程で躓くとどうやら完全攻略できない仕様らしい。

 なので、「踏み外すなよ」と途中で、先を行くキャラクター(親・教師・上司等)が教えてくれる。なんて親切なんだ。
 でも、この攻略方法、本当に正しいのか?

 僕は、幼少の頃から斜に構えた嫌なガキだった。
 ポケモンでは、チャンピオンそっちのけで、隠されたバグを探し、陸で波乗りを使って喜んだ。
 そして、今度は、人生の攻略方法にケチをつけている。
 「これ完全攻略じゃない。だって途中で主人公が変わってるじゃないか。」と。

 ただ一方で、冷静な僕がネジを飛ばしきれず、もがいている。
 「わざわざ踏み外さなくても、このまま行けば完全攻略だぞ。」と。

 そんな具合なので、同世代の子らが、夜泣きの赤ちゃんを寝かしつけるこんな時間に僕は、PCのキーボードを叩いている。

 恐らくこのnoteは、膨大な量になる上、脈略のない文章になります。
 そしてこれはあくまで、僕のRPGで、他のRPGの攻略過程に野次を飛ばしたい訳ではありません。

1.僕のRPGの進行状況

(1)知らない親父

 ここから先の話をするにあたり、僕のRPGの進行状況を話した方が、進めやすくなるので、そうすることにしたい。

 1996年6月某日、僕は生を授かった。
 戸籍謄本上での出生地は、岡山県浅口市。
 これは後に養子縁組で、本籍変更になるからで、実際の出生地は、兵庫県明石市の白いマンションだったと記憶している。

 顔も名前も知らない血の繋がった親父について、知っていることは、「苗字」と「DV」が酷かったということだけ。
 母親からは、「顎の傷」と「治療が遅れて完治しない喘息」だけを残した糞ったれだったと聞いた。

 弁護士を雇い、接見禁止命令の裁判沙汰で別れたこと、温厚なばあちゃんが頑なにそのことを僕に語らなかったことから、まあそうとうやばい奴だったのだろうとは推測できる。

 うっすらと記憶にあるのは、母親が暴力に耐え変えて辛く僕に当たっていたことくらいなので、早めに離婚してくれたことにより、僕と3歳半下の弟は、大きな心の傷を負わずに済んだといえる。

 離婚の結果、必然的にシングルとなった母親は昼夜問わず働くことになり、僕は、小学校に上がるまで、ばあちゃん宅で過ごすことになった。
 昔気質のじいちゃんからは、将棋・麻雀・銭湯、そして生きる知恵を学び、温厚なばあちゃんからは、好き嫌いのない味覚を貰った。本当にありがとう。


(2).ねえ君、ピーマンは好き?

 僕が小学校に上がった頃に、母親はエリートリーマンの育ての親父と再婚した。
 そしてばあちゃん宅を出て、兵庫県の田舎の公立小学校に通うことになった。

 幼稚園と小学校は、市が別だったことから、誰一人知り合いがおらず、小学校1年目は全く馴染めなかった。時々、嫌がらせにあったりもしたが、そんな酷いいじめのようなものではなかった。

 学年が上がった春頃、担任曰く、僕自身がある日切れたらしく、そこからは嫌がらせも止み、月並みな小学校生活を送ることができた。

 小学校6年生の時、生徒会長だった僕は、県主催の「いじめサミット」に参加することになったのだが、そこで、同じグループになった高校生が、僕に、『ピーマンの肉詰め』の話をしてくれた。

 「ピーマンの肉詰めって、中の肉が旨いだろ。いくらピーマンを好きになれと強制されても、肉のが好きに決まってるだろ。いじめもそれと一緒でなくなんねえよな。」

 その高校生は、吐き捨てるように言った。
 幼心ながら妙に腑に落ちたのを覚えている。


(3).タイムカプセル

 そのまま公立の中学校に進学した。
 そこは、今考えるとあまり治安の良いところではなかったので、窓ガラスが割れたり、警察が見張っていたり、怖い先輩がいたりした。

 僕自身もそれなりに環境に甘え、地元のゲームセンターで競馬のゲームに勤しみ、もう時効にはなるが、友達とテレビを盗もうとして万引きGメンに怒られた。
 
 学校には馴染めたが、両親との仲は、あまり良いとは言えなかった。

 今考えると、拒食症なのだが、この頃は食べたものをよく吐いていた。
 そんな訳なので、僕の身長は未だに163cmしかない。高身長が良しとされる現代で、さっそくRPGを躓く僕。

 夜行バスやネカフェで足を伸ばして寝れるので、まあ役立つ瞬間もある。

 そしてこの頃の僕は、厨二病真っ只中で、まあ世間を穿った目で見ていた。

 そんな斜に構えたガキだった僕より、さらにひねくれた後に僕を助けてくれる友人は、

「将来の夢なんて、ないよな。生活保護受けてえよ。」と愚痴っていた。

 なんて可愛くないガキ。
 
 この頃の僕から、20歳の僕宛で、タイムカプセルが届いたことがあった。

 『20歳の自分へ』と題された手紙には、「教師は忙しそうだからなるな。仕事が嫌だったらやめろ。作家になれていますか。」と書いていた。

 なんて可愛くないガキ。


(4).HIPHOPとの出会い

 同調圧力に流されるように同じ市内の高校に進学した。
 高校は凄く真面目な校風だったので、正直溶け込みきれなかった。それなりにクラスの子と話し、人並に部活動をしていた。

 高校3年生に上がった頃、さらに僕と両親の仲は、悪化していた。
 育ての親父や、母親と毎日の様に揉めていた僕は、TVのあるリビングに居づらいので、学校後は自室に篭っていた。

 そのため、当時「ラッスンゴレライ」がクラスの間で流行っていたらしいが、そのお茶の間の話題についていけなかった。

 TVの話題で賑わう世間と隔絶された17歳の僕は、「youtube」に出会う。
 最初の頃は、はじめしゃちょーのレビュー動画を見ていたが、次第にそれも尽きた。
 YouTubeを漁る日々を送っていた頃、1本のライブ映像を見つけた。

 それが、Eminemの「Without me」。
 衝撃を受けた。

 夢中でHIPHOPを掘っていくと、高校生ラップ選手権というバトル大会で、同年代の悪ガキらが、ラップをしているのを見つけた。
 また衝撃を受けた。

 高校の同級生に聞いても、「ラップ?あのYO!YO!ってやつ?」とHIPHOPは今ほど広く認知されていなかった。

 こまっしゃくれた17歳の僕は、「ここいてもダメだな。実家から通える兵庫大阪を避けた大学に行こう。新しい人達に出会おう」と心に決めた。

 育ての親父は、九州の方の県立大学の出身で、そのことを鼻にかけていた。

 今考えると、僕に発破をかけるために学歴至上主義を説いたのだろうが、そんなことを知らぬ若人は、どうしてもその大学より偏差値の高い所に行きたかった。

 ただ、東京都の私立大学に通うことは現実的にできない。
 というのも、あまり親と良い関係でなかった僕は、手切れ金的な250万円入金された通帳を、母親から渡されていたからだ。
 4年分の国公立大学の学費が、当時ちょうど250万円だった。

 そんな訳で、僕は、自分の学力で進学可能な遠方の国公立大学の赤本を並べ、シャッフルし、目を瞑って適当に抜いた。岡山大学に行くことになった。
 まさかの謄本上の出生地、なんたる偶然。


(5).弾ける僕

 大学生になったばかりの18歳、僕は、Twitterで「サイファー」に出会う。
 ラッパーが、路上で輪になり、ビートに乗せて、即興で唄を歌うというものらしい。

 岡山県でも、当時住んでいたボロボロのアパートから4駅先の時計塔付近でやっているとの情報だった。
 怖いもの知らずだった僕は、飛入りで行ってみた。やってなかった。

 仕方がないので、「ラッパー=帽子を被っている」という偏見をもっていた僕は、その駅で帽子を被っている人たちに声をかけまくった。

 「この辺でサイファーやってるって知ってますか?」
 頭のおかしい18歳の僕に、「ああ知ってるで。今日雨やから多分ないんちゃうかな。」と声をかけてくれた人物がいた。

 人生で初めての「ラッパー」という種族の人だった。その日以降、サイファーに毎週参加できることとなった。

 次第にイベントにも参加するようになった。
 今よりもアンダーグラウンドなパーティーで黒い音楽を学んだ。
 髪を金髪に染め、テニスサークルに所属し、酒を飲み(ダメ未成年飲酒)、女を覚え、まあ弾けた。
 弾けきった結果、怖い目にあった。まあ人生そんなものである。
 黒い音楽とは、少し距離をとるようになった。

 また、大学生活にはお金がかかる。
 両親から仕送りを貰っていなかった僕にはお金がなかった。

 焼肉屋、ホテルウェイトレス、居酒屋、塾講師、肉体労働、カードショップの店員、コンビニ、交通量調査等、金になりそうなバイトはなんでもやった。ワニの着ぐるみに入ったこともある。
 そしてそのどれもが続かなかった。俗に言う社会不適合者というやつだ。

 10数個やったバイトの多くを飛び、中にはクビになったものもある。
 その日稼いだお金を、飲み代とパチンコに溶かした。
 大学の友達と、朝からエヴァンゲリオンの新台に並び、11万円負けた。
 一方で4年分の学費しかなく、留年はできないので何とか単位を取得していた。
 麻雀で勝ったお金で中国に短期留学に行ったりもした。ありがとうおじいちゃん。

 弾けた僕は、The大学生という生活を謳歌した。


(6).金は人を変える

 20歳になったばかりの頃。
 そんな暮らしに終止符を打つ出来事が起こる。

 「パチプロとの出会い」と「ネオヒルズ族の記事」だった。

 お金を溶かし続けたパチスロに攻略方法があること、「ビジネス」の視点があることを知った僕は、バイトとサークルを辞め、ひたすらアフィリエイト記事の作成とスロットにのめり込んだ。

 サラリーマンの月収を超える金額を稼いだ。
 それと同時に、僕は嫌な奴になった。

 まず、ボロボロのアパートから小綺麗な家に引越しをした。
 アルバイトで稼ぐ大学生をバカにし、遊びの誘いを全て断り、彼女をフった。
 「お前と遊ぶ1時間あれば4000円稼げる。」とゴミのような発言をしていた。
 今も仲良くしてくれている大学時代の友人には本当に申し訳ない。見捨てないでいてくれてありがとう。

 稼いだお金を、見栄のために、次から次へと使った。
 大学の友人と距離を置いた僕の周りには、大人が溢れた。
 
 

(7).シャボン玉だからこそ

 社会不適合者の僕は、ズブズブの金銭管理の末、21歳の時に資金を完全にショートさせる。
 人は生活の質を簡単に落とせない。

 まあいいかとクレジットカードのキャッシングをする。
 そのキャッシングを返すためにクレジットのキャッシングをした。
 借金は増え続けた。
 新居の家賃を滞納し、ガスと電気が止まった。
 近所のコンビニでトイレを借りる。
 
 次は、スマホの留守番電話に取立てのメッセージが溜まった。
 「○○様にお伝えしたいことがございます。」
 冷たい電子音。

 民間企業の就活時期を逃した僕は、公務員を受験することになった。
 新たに教材や講義のお金がかかる。
 面接会場への移動費にはヒッチハイクを使ったりした。
 アルバイトをする時間はないが、利息の支払いはある。

 「頑張っているかい。」とばあちゃんがくれた10万円を泣きながら借金返済に充てていた。
 それでも足りない。
 そんなこんなで、金を借り続けた。
 内定先が決まる頃には相当な金額になっていた。

 就職先は決まったが、ひたすらに貧乏なそんな時、1人の女の子と出会った。
 聞けば、1年間トルコをバックパック1つで旅していたらしい。
 お金は、片親でなかったことから、バイトをして貯めたという。
 
 ある日、夜中の3時にその子から呼び出された。
 合流した居酒屋で夜の服が見えた。別に偏見はない。ああそうなんだ。
 少し彼女の表情が変わった。
 深夜、送り届けた帰り道の玄関前で、彼女は僕にこう言った。
 「今、帰るって言ったら、ここで大きな声出すよ。」

 エミネム以来の衝撃を受けた。
 そして、刹那的な生き方に強烈に憧れた。
 僕も旅をしたくなった。だけどお金はない。
 そんな訳で、ヒッチハイクと野宿で日本一周をすることに決めた。

 ヒッチハイクで全国を旅した。
 ブラックバス丼に、ばんえい競馬。
 最東端から北方領土を見た。
 猿とお風呂に入り、長野の温泉旅館でその子と愛を確かめ合った。
 途中の大分県の合宿で運転免許を取得した。

 というのも旅の資金は、人々の助けでなんとかなっていた。
 途中の岩手県のゲストハウスのオーナーから、「路上でお金を稼ぎなよ。」とアドバイスを貰っていたのだ。
 そんな手があるのかと、好きだったマジックを路上で披露すると、8000円近く稼げた。俺すげえとなった。
 今ならわかるのだが、人々は、僕のマジックではなく、人生のストーリーにお金を払っていたのだ。

 そんなこんなでマジックを披露してお金を稼ぎながら、ヒッチハイクで日本中を旅した。
 この時、「感情の揺らぎを嗅ぎ分ける勘」と「初対面の人と対話する力」が磨かれた。斜に構える癖は、ここで、武器になった。

 『その人が、今この瞬間に言って欲しいこと』が感覚的にわかるようになっていた。

 日本一周を終え、戻ると借金が膨らんでいた。
 まあ当然である。
 カイジの地下労働施設並の肉体労働派遣を7つ掛け持ち、卒業旅行の資金を集めた。いや、借金返せよ。

 フランスのモンサンミッシャルと星空に感動し、オランダのアムステルダムで××を吸いぶっ飛び、トルコで彼女の誕生日を祝った。
 女の子って幸せな時こんな顔をするのかと、また衝撃を受けた。

 このトルコを旅していた女の子より好きになる人は、今後現れないと思う。

(8).今も酸素を吸えるワケ

 大学を卒業した僕は、借金持ちの社会人になった。
 正確な金額は覚えていないが、まあそこそこに膨らんでいた。
 当然新居に一人暮らしなどできるわけはないので、関係値がぶっこわれた実家から、2時間半かけて通勤していた。

 社会不適合者の僕は2週間で限界が来た。仕事が?違う。家族との関係である。

 この日を境に絶縁状態となった。
 弟が泣いたのをこの日初めて見た。

 夜逃げ同然で出ていくことになった僕は、スーツケース2つで実家を出ることになった。
 水曜日だったことをはっきり覚えている。当然仕事に行かなければならない。
 挙げ句の果てに、9度近い高熱ですこぶる体調が悪かった。

 大阪に住んでいた中学校時代の友達に、「明日泊まらしてくれん。」的な電話をした。
 社交辞令的な感じになるだろうと感覚的に思ったが、こう言えば泊めてもらえるという能力を使う気力すらなかった。

 金もなければ、今後帰る場所もない。
 彼女との関係もよい状態ではない。
 大学の友人は、全国に飛び、遠方で頼れない。

 ずたぼろの状態で仕事を終え、大阪のとある駅のホームのベンチで、スーツケースを両手に持ち、通り過ぎる黄色の電車を眺めていた。
 とにかく色んなことがしんどかった。
 視界が狭くなり、涙で溢れた。

 そしてもう目の前の電車で飛び込んで死のうと決めた。

 昔の僕は、「人身事故」と聞くと、迷惑かけて死ぬなと言っていた。
 もうそんなことを考える余裕もなかった。

 立ち上がった時にふとポケットのスマートフォンを開いた。
 昨日電話をした友達のLINEの通知が遅れて来ていた。
 スマホの料金を滞納していたので、どこかでWi-Fiを拾ったのだろう。

「20時半以降ならいつでもいいで」

 特に詮索することもなく、一言だけ入っていた。
 頻繁に連絡をとっていた訳でもない僕を泊めてくれるらしい。
「生活保護受けてえよな。」と言っていた彼は、本当に気の遣える優しい男だった。

 安心した。
 この時の気持ちを言語化するのは難しい。
 ただただ、生きていていいんだと思った。
 本当にありがとう。感謝してもしきれないと思っています。

 結局、僕が仕事で東京の研修に行くまで、1ヶ月近く家に住ませてもらえることになった。
 1k7畳で男のシェアハウスといえば面白いが、まあ要は居候させてもらった。
 本当にありがとう。
 ただただ本当にありがとう。

 泊めてくれた彼は、優しいだけでなく、聡明な人物だった。
 もし、この時、彼が語ったビットコインを一緒に買うお金があれば、億万長者だったと思う。まあ2人ともお金はなかったので、ビットコインよりもさつまいもを買った。

(9).考えろ

 そして、この期間のおかげで持ち直した僕は、現実を見れるようになった。
 まず、借金を返済しなければならない。

 公務員の給料だけでは当然返済できない。
 ただ、公務員には兼業禁止規定がある。
 そんな訳で人事院規則を読み込んだ。

 20歳の時にやっていたパチプロは、「継続的に利益を得ている事業と言えない」ことから兼業には当たらないとのことだった。
 要は、娯楽でパチンコしているのと変わらない上、日や月単位ではマイナスの事もあるので偶々勝っただけという位置付けになるからである。
 ちなみに、ストリートマジックは、国のお偉いさんから怒られたのでやめた。どうやらダメだったらしい。

 そうして得たお金と給料を借金返済に充て続けた。
 余裕がない時、僕は彼ほど優しくなれなかった。
 そして刹那的な彼女とはズタボロに別れることになった。
 あなたは憧れです。どこかで元気にしてくれていると本当に嬉しいです。

 彼女と別れ、借金返済に奔走する僕は、生活費節約のため、当時流行りの無料出会い系アプリ「Tinder」に目をつけた。
 そこで出会った女の子たちにごはんを食べさせてもらえばいい。

 俗にいう「ヒモ」と言うか、「乞食」である。

 身長もなければ、良い面もない僕だが、
『その人が、今この瞬間に言って欲しいこと』
を分かる能力がある。
 あの時の女の子たちありがとう。


(10).目の前に2つの扉

 そんなこんなで無事社会人2年目に上がる頃には、綺麗な身となった。
 公務員身分のおかげか制限が解け、クレジットカードも作れるようになったが、あの時の恐怖から僕はデビッドカードしか使わないことにしている。
綺麗な身になってしばらくすると刺激が足りなくなった。
 そしてまた黒い音楽に出会い、飲まれた。

 ただ過去の経験から1つ学んでいたことがあった。
 困った時は、頭の良い友人に相談するということ。
 ここでいう頭の良いというのは、勉強ができるという物差しでなく、その分野について客観的に分析し意見をくれるということを指している。

 難波の串カツ屋で友人に相談した。
 あの居候をさせてくれた友人である。
 なんべん助けてもらうねん。
 自分を見つめ直し、溺れる前に抜け出すことができた。
 本当にありがとう。

 そして同時期に、真面目な女の子に出会った。
車通りのない歩行者用赤信号を守るタイプの堅実な女の子だった。
 半同棲に近い形の生活をし、堅実な日々を送っていた。

 2年近いお付き合いをし、未来に向けて投資信託をした。このペースなら後何年でFIREだろう?
 そんなことを考えていた。

 ただ、転勤による遠距離のすれ違いもあり、「この先どうするか」という話合いになった。
 まあ要するに、「今後結婚とかどうしますか」という話である。
 その中で、自分を見つめ直した。


2.僕の幸せの定義

 ここで最初の問題提起に戻ることになる。

 僕には、人生RPGの完全攻略は向いていない。
 何で?という話だが、「幸せの定義」は、人それぞれ違うからだ。

 そうこの文章は、ここからまだ続く。
 長いっすよね、はい。
 僕自身も頭を整理している最中なんです。

 最初に述べた人生完全攻略を否定するつもりは全くない。
 それが幸せだという人もいるだろうし、僕自身憧れる側面もある。

 ただ、「幸せ」の定義は人それぞれ違う。
 プロ野球選手として野球に生涯携わることに幸せを感じる人もいるだろうし、とにかくお金を稼ぎ良い車を集めることに幸せを感じる人もいるだろう。

 ここからは、僕の考える幸せの定義について話していきたい。

 僕の幸せの定義は、
 「『should』『have to』でなく『want to』であること。」


 つまり、その時々で、食べたいものを食べ、住みたいとこに住み、見たいものを見て、したいことをするということである。
 「いや、子供かよ。」という人もいるだろうが、多分子供なんだと思う。
 実際同じ定義で生きている先輩から、僕は「少年」という愛称で呼ばれている。

 ただ、26歳の成人男性ではあるので、現実は見ているつもりだ。
 その上で、やっぱり僕の幸せの定義は変わらない。

 分別はあるので、人にそれを強制しようとは思わないし、したいことのためにやりたくないことをすることもある。

 例えば、誰かの悪口で盛り上がったり、誰かを否定することはしない。
 ただ僕とは道が違っただけと心で思うだけである。

 例えば、ネコは大好きだが、旅ができないので飼わないようにしている。
 今の僕にとって飼うことによる幸せの増加よりも、身軽でいることの幸せの増加の方が大きいからである。逆になれば飼うかもしれない。

 その時々で、「want to」をできることが僕にとっての幸せに繋がる。
 なので、同じ価値観の子と出会えば、結婚するかもしれない。


3.モノ

 先ほどは、僕の幸せの定義を述べた。
 その上で、これ以下では、なぜその結論に至ったのか理由を述べたい。

 モノを所有したいか。
 僕は、Noだ。

 所有は、選択の幅を狭める。
 なので、車を欲しいとも、家を買いたいとも思わない。

 むしろ、身軽でないことにストレスを感じるので、世間でいう「ミニマリスト」くらい僕のモノは少ない。
 今は、ホテルに住み、備え付けの家具家電を使っている。

 最近は、ある本の影響でさらに所有物を減らし、この前全ての所有物を数えたら253個だった。

自分とイコールになったモノ。
刺激は差で感じる。

『ぼくたちに、もうモノは必要ない。』佐々木典士

 こういう思考でいると、「マルチ界隈」の方々から声をかけられる。
 「もっと贅沢な暮らしをするためにお金を稼ぎましょう。」と。

 果たして、そうなのか。
 今の僕は、電子音に震えていたあの頃と違い、高級車でなければ一括で買う資産はある。
 それでも欲しくない。

 それは、自分に必要なモノを知っているから。

4.お金

(1).あなたはいくら欲しいですか?

 モノの次は、お金について。
 お金は、必要ですか。
 答えは、YESに決まっている。
 では、いくら必要ですか?と聞かれて答えられるだろうか。
  
 1000万?それとも10億??あればあるだけ?

 僕は、現金で、180万円。
 それ以上は、あれば嬉しいが、必要ではない。

 この年になると年収いくら?みたいな話をされる。
 みんな不安なのだ。
 老後は大丈夫か。あいつはもっと稼いでいるのに。
 必要な金額は、人によって違うのに。なんのために人と比べるのでしょう。

 必要な金額が月100万の人も、30万円の人もいる。

 僕の場合は、物価によって変動するが、日本なら月15万円。
 エンゲル係数は、世帯人数の√ 倍かかるとされているので、僕と同じような生活スタイルの人と一緒に住む時は、1ヶ月21万円。
 
 なので必要なお金は、生活防衛資金の180万円。
 大切な人がいる時は、250万円は必要になってくる。


(2).錬金術

 お金は作ることができる。
 なぜなら代替可能だからだ。
 書いていて思う。なんて胡散臭いんだろ。でも本気でそう思っている。
 
 沢山の元素を集めても、漫画『鋼の錬金術師』で、エドワード・エルリックは、人体錬成に失敗した。
 でも、令和の時代に、僕たちは、お金を錬成することができる。

 例えば、人気を使い、お金は錬成できる。
 インスタグラムのフォロワーが1万人を超えれば、企業から広告依頼がくる。
 そうすれば、投稿(=人気)はお金へと変換される。

 「フォロワー1万人無理やろ、やってみろよ。」と思うかもしれないが、各SNS毎にフォロワーを増やす仕組みは必ずある。

 一例としてインスタグラムの場合は、統一性があればある程度のフォロワーは獲得できる。
 おしゃれなカフェも、奇抜なアートもいらない。
 ポテトチップスの袋の投稿だけで、1万人を獲得したアカウントがあったくらいなのだから。

 後は、同一テイストのアカウントにアクセスしている人に、コメントといいねをし続ける。たったこれだけ。これだけで、フォロワー1万人は必ずいく。

 試しに、僕自身インスタグラムの新規アカウントを立ち上げ、0人からやった所、3日で10人、6日で50人、12日で100人、1ヶ月で500人になった。毎日、鰻登りに増えた。
 そして僕は飽きてしまった。
 あまりに簡単すぎたから。さすが社不。

 今から1万人にしてくださいと言われれば、1年あれば、必ず達成できる。
 100万人はさすがに厳しいが、1万人なら誰でもいける。
 もし、何か面白い体験価値と交換してくれる人が現れ、勝負を挑まれたら、僕はやってもいい。
   

(3).ストーリーの力

 ストーリーの効果は凄まじい。
 この世は、言葉を売る仕事で溢れている。

 よく、技術力や学力を説く人がいるが、僕は、そうは思わない。
 一番カットの技術の上手い美容師が一番稼ぎが良いわけではないし、東大主席の人が一番年収が高い訳ではない。

 僕自身、借金まみれの21歳の時に、7つの派遣会社で働く前に、日本一周の時と同じマジックをしたことがある。
 日本一周の時より、技術的には向上しているはずなのに稼ぎは格段に下がった。

 何故か。
 これは、「借金返済への投げ銭」より「日本一周の応援への投げ銭」の方が、「ストーリー」、すなわち言葉の価値があるから。

 そんなことはないというあなたは、今日も推しにお金を落とす。
 彼らが、成功を掴み輝くその瞬間が見たくて。

 ストーリーは、付加価値を生む。
 つまりお金を錬成できる。


(4).ダイレクト課金

 お金を介さない方が、価値が大きくなることもある。

 僕は、19歳の時に、農家になりたいという人の畑の開墾を手伝ったことがある。
 玉ねぎを植えるために、桑を持って10時間ほど労働のお手伝いをしただけだが、その農家の人は、26歳の今に至るまで、毎年季節の野菜を郵送で送ってくれる。

 「少年、あの時は助かった。ありがとう。」
 

 お金を介してバイト代にしていれば、僕の提供した価値はせいぜい1万円。
 だけど、今、僕の体には、1玉数千円の桃や旬の野菜がたらふく入っている。

 お金では、保存が効くだろう。
 けれど、価値が化けることは決してない。

 22の時に支えてくれた沢山の水商売の女の子たちと、もしも、お金を介して風俗で出会ったら。
 僕は、破産していただろう。

 そんな訳で、僕はお金にそれほど魅力を感じていない。
 人生がお金だけであれば、22歳で僕のRPGは電車に轢かれて終わっていただろうから。

5.仕事

(1).人を変えるのは無理

 今度は仕事の話。
 僕は、国家公務員の労働Gメンをしている。
 
 こんな性格の僕は、「あの子はそういう人」と定義されているので、基本的に干渉されない。
 そして社不の僕は、仕事上で何かを人に求めたりしない。
 冷めて割り切っている。なのでそもそも期待していない。

 取引先とも職場の人ともつかず離れずの関係を築くようにしている。

 そして、そんな僕ら労働Gメンを沢山の悩める人たちが訪れる。
 「上司のパワハラがひどくて。摘発してくださいよ!」
 「うちの従業員、バックれたんすけどなんとかなりませんかね…」

 僕は、神様じゃないので、人を変える必殺技を授けてあげることはできない。
 なので、今使える法律の専門的な知識は伝えるが、結局、「自らが変わるしかないこと」にそれとなく触れる。

 「上司が嫌なら、その上司に怒られない自分になるか、その上司がいない会社に行くしかない。」

 「どんな従業員だとしても、雇ったのは自分なので、そうされないような会社創りをしていくしかない」

 仕事において、経営者と労働者が完璧に分かり合えるはずなんてない。
 僕だって、自営の時は、安く長く労働者を使いたかったし、労働者の今は高く短く働きたい。
 同じ人間ベースでも変わる。

 ただ、伝える際は、アンテナを張って、例の能力を使っているので、幸いとてつもない問題に発展したことはまだない。
 

(2).猫のような働き方

 僕は、別に今の仕事に不満はない。
 恐らく社不なので、不満があればその日に辞める。

 ただ、最近は猫のように働きたいなと思っている。要するに、働きたい時に働きたい。

 30連勤する月があってもいいし、1ヶ月温泉巡りをする月があってもいい。
 ただ、今の立場上そうもいかない。

 「働き方改革」を推奨している手前、カレンダー通り働いている。
 残業はあっても月3時間程度だし、年次有給休暇も20日フルで取得している。
 要するにきっちりと管理されている。

 転勤が多く、ホワイトとはいえ、飽き性の僕は、「住みたいとこに住む」と「やりたいときにやる」が一定程度制限されることは、幸せを減らしてしまう。
 
 そもそも借金返済に奔走する必要のない今は、お金がそんなに必要ない。
 旧来的な週5日の正規労働者である必要があるのだろうかと最近は疑問を感じている。

 オーストラリア・カナダ辺りのワーキングホリデーで実質賃金を上げて労働密度を減らすのもありだなとか、田舎暮らしのECビジネスで自営業をしようかなとか。ここは正直まだ模索中である。

 一度このレールを外すともう二度と戻ってこれないので、恐怖も感じているのだろう。
 贅沢な悩みである。

(3).夢はないが、野望はある。

 僕の野望は2つある。

 1つは、世界192カ国で生活すること。

 もう1つは、社会に大きな影響を与えるビジネスを信頼できる友人とすること。

 1つ目を先にするつもりだったが、ある日、友人からこんな面白い話を聞いた。
 「2つ目を先にやって、自分の分身作ってから1つ目すればええやん。そうすれば1つ目終わった後、2つ目続けられる。」

 なるほどと腑に落ちた。
 
 ただ2つ目に関しては、僕だけの思いに留まらない。
 彼らの人生の舵を僕が握るのは、彼らの幸せに繋がらないことを知る程度の分別はある。

 もしかしたらこの文章を見ているあなたのことだが、もし目指す幸せの定義が同じならもう少し混みいった話を個人的にしましょう。


6.家族

 モノ、仕事、お金ときたので、最後に「家族」の話について。
 結論からいうと、今の僕は家族を欲しいと思わない。

 それは、世帯を持つことによる「幸せ」の増加より、「手間」にかかる幸せの減少が大きいと考えているから。

 これは何も、「結婚はダメ」「子供を持つ人はおかしい」と主張したい訳ではない。

 最初に命題した通り、幸せの定義は、人によって違うので、「家族」を持つことにより、自分の幸せの定義が満たされる人はそうした方がいいに決まっている。

 こんなことを言いながら、ある日突然、僕は家族を持つかもしれません。
 その時は、僕の「幸せ」の定義に、「失う」と「得る」を天秤にかけた結果、人生というRPGの主人公を、自分以外にしたくなったのでしょう。



















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