「よく分からないので、ご一任申し上げます。」昭和史に残る迷言たち
半藤一利さんの『昭和史』。日本が開戦を選び、散ってしまった歴史を学ぶ事ができます。
目につくのは、上層部の迷言。
日常の一コマなの?というような軽い言葉で国の命運を賭す判断を下していきます。
中でも個人的に衝撃的だった発言を紹介します。
陸軍の無断侵攻に若槻首相は・・?
1931年、満州の柳条湖付近で鉄道が爆発。これを現地の日本軍は、中国軍の犯行と断定し、攻撃を開始します。
数に劣る満州日本軍を援護せよと、朝鮮駐在軍が満州-朝鮮国境に集結します。
ところが東京の陸軍中枢は、進軍許可を出しません。(昭和天皇の意向が働いたようです)
この状況を収拾するために、閣議が開かれます。
既に鉄道爆破が陸軍の計画的犯行であることも伝わっており、閣議は軍に批判的に進みます。
苦しくなった陸軍大臣。既に朝鮮に進駐する日本軍が、独断で満州に侵攻を始めたことを口走ってしまいました。
若槻禮次郎首相はどんな処罰を下すのか?ガツンと言ってやれ!
満を辞して次のひと言。
なんと投げやりな!
これを「仕方ない」で済ませたのは、「勇ましさ」といった精神性が評価され、現状認識を軽視する風潮につながり、大戦につながる遠因になったのではないでしょうか。
その後、若槻内閣は陸軍予算を増額し、朝鮮日本陸軍を強力に後方支援してしまいます。
本音では、満州が欲しかったのでは?と邪推してしまう。
協力国が宿敵と連携。びっくり仰天の平沼首相!
日本は常にソ連が怖い。
満州への進出理由の一つもソ連の南下政策への対抗にありました。「日本の生命線」とも呼ばれた満州は、ソ連を念頭に、干渉地域として重視されていました。
1939年、満州-モンゴル国境の些細な争いが、ソ連と日本の大規模な戦闘に発展し、日本軍は大敗を喫します。(ノモンハン事件)
一方で、パリを落とすなど快進撃を続けるドイツとは、日独防共協定を結んでいました。従って、対ソ連で共同戦線が期待できます。
ところがドイツは、協定を反故にする形で、ソ連と不可侵条約を結んでしまいます。
これに平沼騏一郎首相は仰天し、辞任してしまいます。その際の声明が例の・・
情勢を複雑怪奇と言ってしまう程、日本は情報収集に失敗し、後手後手の対応となっていたようです。また、情報は入っていたのに、都合が悪いから黙殺されていた、ということも考えられます。
極端に理念先行型の戦略をとっている組織は、自分の都合の良い情報だけを取捨選択し、状況が悪くなるからさらに理念を重視せざるを得ない、という負のループにはまっていく傾向がありそうです。
(プーチンロシアもこの傾向があるのではないでしょうか)
三国同盟に反対する山本五十六、予定調和の海軍重鎮
対米開戦に備え、日独伊三国同盟を締結せよ、という主張が渦巻く軍部。それに対し、山本さんを筆頭とする海軍良識派は英米融和路線を主張します。
後に「真珠湾攻撃」を実行することになる彼ですが、アメリカの脅威を認識し、無謀な開戦を避けようとしていました。
奮闘虚しく、ナチスドイツの快進撃とともに海軍は開戦一色に染まっていきます。
そんな中、海軍は三国同盟締結に関する幹部会議を開きます。
この会議もまた酷い。予定調和発言が連発します。。
及川海軍大臣が口火を切ります。
日本崩壊の責任は取れるのかな?🤔
続いて伏見宮軍令部総長が同調します。
伏見宮さんは特攻作戦考案のきっかけとなる発言をしたとも言われる人物です。国民の命をなんだと思っているのか。
ここで静かに聞いていた山本さんが立ち上がり、理路整然と反対理由を述べます。
航空兵力が不足しており、アメリカと衝突することを見据えると、現状の二倍に増産する必要がある。
三国同盟を結べば、英米勢力圏の資材を失い、戦闘機の増産がストップする。
その資材不足を補うために何か計画変更をしたのか?
これに豊田海軍次官が応じます。
握りつぶされた正しい事実認識に基づく忠言。
会議は終了してしまいます。
これにはがっかりの山本五十六。会議後、及川さんに将来の見通しを問い詰めます。対する及川さん。
まぁ、大丈夫っしょ!w
願望が予測になってしまっている。
煮え切らない山本さんは「しかたがない」の伏見宮さんも直接問い詰めます。
返ってきたのは、
軽薄な。。国民の命を背負った判断とは思えません。
緊迫の対米関係。意見を求められた海軍大臣は?
最後までアメリカとの外交交渉での融和を模索していた昭和天皇。意向を受け、近衛文麿首相は首脳会談を開催したいとアメリカに秋波を送ります。
ところが時既に遅し。ルーズベルトに断られてしまいます。
これを受け、閣議を開きます。陸軍の東條英機が口火を切り、ガンガン開戦論を主張します。それならばと近衛首相は、海軍の及川さんに意見を求めます。
分からないことを分からないって言えるのは、個人の精神衛生上は大事だけども!
牟田口、「死の行軍」インパールを振り返る
作戦に参加したほとんどの日本兵が死亡した、「史上最悪の作戦」とも呼ばれるインパール作戦。
そんなインパール作戦を強引に決行した牟田口蓮也軍司令官はこう振り返ります。
功名心から作戦を強硬に主張した張本人ですよ。。後からならなんとでも言えるよな。
国民的熱狂には、流される
敗戦という結果がわかっている今、これらは無責任な発言に見えます。ところが、当時国民・報道・軍部が一体となって形成された空気では、自然とこのような発言が出てしまいそうです。
事なかれ主義、ご都合主義、お上の意向重視、戦略よりも精神論、といった日本人の性質が相互に絡み合い、国民的熱狂を作り出してしまったのではないでしょうか。
歴史に学ぼう!
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