塚本慈和(ぬらりひょん)

普段はチェロを弾いています。 「ぬらりひょん」の名前でYouTube、Twitterも…

塚本慈和(ぬらりひょん)

普段はチェロを弾いています。 「ぬらりひょん」の名前でYouTube、Twitterもやっています。 同世代の音楽仲間たちと日替わりブログも公開しています。 大阪交響楽団を経て、国立音楽大学(こくりつではない)の講師を勤めていました。 もう書くことがありません。

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餅の数

 新年の区切りがはっきりとあるところが、日本を好きだと思う大きな理由の一つである。  朝起きて、一応家族四人膝を突き合わせて、三つ指を揃えて新年の挨拶をする。儀式めいた「教養」や「マナー」を僕たちに教え込むのが好きだった父からのドメスティックバイオレンスで、物心ついた頃からお猪口に舐める程度のお屠蘇をいただかなければ、その後本命のお年玉をいただけない決まりだった。妹はお屠蘇が苦くて泣いていることもあった。  頂戴したお年玉を、顔の前に一度掲げるようにしてわざわざ謙った様を装っ

    • ヴァイオリン・リサイタル

      *1 ヴァイオリニスト  あるヴァイオリニストがタキシードの到着を待っていた。  久しぶりのリサイタルに浮き足立ち、楽器と弓の入ったケース、暗譜はしてあるが念のための楽譜と、やる気と、それからオペラパンプスを入れたシューズケースは持ってきていた。コンサートホールの質素な楽屋にお誂向きの、大して美味しくないが口に馴染んだ缶コーヒーも忘れずに買ってきてある。しかし、肝心の衣装を家に忘れたまま、今日はなんだかうまくいっているようなつもりでここまできてしまった。  このコンサートを

      • あとがき(ヴァイオリン・リサイタル)

        短編小説 『ヴァイオリン・リサイタル』 のあとがきです。  僕たち音楽家、取り分け日本人演奏家は、シューマンの『献呈』が大好きである。  『ミルテの花』とその前後一年ほどの作品群は、音楽家の冥利に尽きるようなシューマンの半生を象徴するロマンに溢れ、正に「ロマン派」に区分される西洋音楽全盛期の火付け役が、ロベルト・シューマンであった。  シューマンの作品は刹那的で不安定であり、若いうちはとっつきにくいところがあるが、三十路が見える頃になると、ははぁさては割とチャラチャラしたナ

        • ヴァイオリン・リサイタル

          *1 ヴァイオリニスト  あるヴァイオリニストがタキシードの到着を待っていた。  久しぶりのリサイタルに浮き足立ち、楽器と弓の入ったケース、暗譜はしてあるが念のための楽譜と、やる気と、それからオペラパンプスを入れたシューズケースは持ってきていた。コンサートホールの質素な楽屋にお誂向きの、大して美味しくないが口に馴染んだ缶コーヒーも忘れずに買ってきてある。しかし、肝心の衣装を家に忘れたまま、今日はなんだかうまくいっているようなつもりでここまできてしまった。  このコンサートを手

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          2本
        • 僕じゃ
          1本
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          1本
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          5本

        記事

          物故

           音楽を仕事にしていると、さまざまな出逢いがある。その巡り合わせの妙は時として感動的ですらあるが、強い結びつきを感じてしまうと、ゆく末はいつか死に別れることになるのであろう。そこに行き着く手前には、悪いことに、関係が疎遠になる機会がいくらでも予見できてしまう。特段悪いことが起こらなくても、お互いネガティブな感情を抱いていなくても、その関係を大切に維持しようとするあまり、カビが生えてくるまで仕舞い込んでしまうことがある。思い出した頃には、第一声にまず何と言って呼びかけていたのか

          【2000字小説】肩越しの世界の終わり

          ***  寝る前にコップに注いでおいたペットボトルの麦茶がぬるいばかりか結構渋くなっていて、山中は田舎のばあちゃんの顔を思い浮かべながら、麦茶もお茶の仲間であることを思い出した。どこからか古びたストーブの灯油の匂いまで香ってくる。  起き抜けにいきなり換気扇の下に煙草を吸いに行っても、仕事へ行く山中の陰鬱な朝のご機嫌はお構いなしで小言を言い連ねてきた小巻は、先週末出て行ったきり帰ってきていない。  なぜいなくなったのか、見当がつくような気もするが、やはり判らない。山中は毎朝

          【2000字小説】肩越しの世界の終わり

          懇望

           僕はものすごく利口に思われたい。  頭の回転が早く、広い分野に対応できる深い見識を持ち、さまざまな文化や芸術への造詣も深い。そんな風に思われたい。  髪を金色に脱色し結べるほど伸ばして、オーバーサイズの服にナイキのハイカットスニーカーを履いて、J.S.バッハを毎日さらっていた。その頃に比べれば、今はほとんどそういう虚栄や理想のために、自分の美徳や道を曲げるようなことはしなくなったと思う。しかし常に喉元に潜んでいて、いつでも顔を出す。ヒョコヒョコ出す。  言ったそばから我に返

          さようならば

           朝起きた時点で今晩何を食べるか決まっていること、決められてしまっていることは、大変有意義なことなのかもしれない。今の僕は個人的な時間ばかりで、決まって誰かと共有するものがほとんどなくなってしまった。例えば僕がたまたま自宅マンションの階段を転がり落ちて壮絶なまでのドジの末絶命しても、その時に僕の死を初めて目の当たりにするのは、おそらく知りもしない通りがかりの人になるだろう。それが、この先独り者である限りどこへも必ずつきまとってくる。  noteを始めたのは、小説を上げるためで

          教訓

           電球とチェロの弦は、一か八かで買ってはいけない。  今の家に引っ越してすぐの頃、玄関の電球を感知センサー付きの、しかもLEDの物に取り替えてやろうと、大方の買い足しを終えた帰りに家電量販店へ寄った。そしていかにも輝かしい新生活に心躍る足取りで、店内でも一際明るく奥に陣取っている照明のコーナーに向かった。  光輝く輪が何段にも連なったアートスレスレの照明や、よく見る「団地用」みたいな円盤型の照明は、それまでの蛍光灯の"白"がまるっきり色の認識の誤りだったと知らしめるように、煌

          隔絶

           わざわざ孤独を確認するために、音楽に取り組んでいるわけではないのに。薄く長く、のんべんだらりと孤独な僕の音が、空しく響き渡っている。昔の先生は、試験だろうとおさらい会だろうと、机の前に座らせればコツコツとそれは耳障りな音を立てたそうだ。ペンや鉛筆、手頃な物が見当たらないとなると、小銭まで使って、目の前の未熟な演奏とは無縁のテンポで。  そういう伝説のようなパワーハラスメントからは一線を画し、今ほどではないにしろ若輩世代への庇護が始まった、ゆとり世代後期にあった僕は、例に漏れ