隔絶


 わざわざ孤独を確認するために、音楽に取り組んでいるわけではないのに。薄く長く、のんべんだらりと孤独な僕の音が、空しく響き渡っている。昔の先生は、試験だろうとおさらい会だろうと、机の前に座らせればコツコツとそれは耳障りな音を立てたそうだ。ペンや鉛筆、手頃な物が見当たらないとなると、小銭まで使って、目の前の未熟な演奏とは無縁のテンポで。
 そういう伝説のようなパワーハラスメントからは一線を画し、今ほどではないにしろ若輩世代への庇護が始まった、ゆとり世代後期にあった僕は、例に漏れず半期毎に行われる実技試験が嫌で嫌で仕方なかった。
 春になると課題曲が掲示され、それに則ってレッスン時に専任の先生と相談をする。僕が通っていた頃の前期試験の課題は大抵決まっていて、「J.S.Bach/無伴奏チェロ組曲より 任意のクーラント」というものであった。
 J.S.Bachとは言わずと知れた、今から300年と少し前、現代における一般的な「音楽史」の始祖となる、音楽の父・大バッハである。
 無伴奏チェロ組曲は、言わばバッハが不貞腐れて書いた、当時にして大変実験的な作品であった。その特異性もあってか、近年までほとんど演奏会での実演は行われず、半ば消失状態に近かった。バッハの無伴奏チェロ組曲の楽譜を発掘し、チェリストのバイブルにまで磨いたのは、近代の巨匠パブロ・カザルスであった。
 カザルスは"チェロの神様"として現代でも愛され、今なお歴史的功績が語り継がれる先代の名手である。が、実のところ、僕にとってカザルスはしばらく可笑しみの方が遥かに勝っていたように思う。
 その理由となるのが、かの有名な名盤「ホワイトハウス・コンサート」である。
 古びたレコードの浅いダイナミクスの中で、そこにかろうじて、だが確実に収録されている凄みは当時の僕にはまだまだ判らず、カザルスの唸る声を聴き拾っては、大学の友人たちとケラケラ笑い転げたものである。神様に対して、なんて罰当たりなことをしてしまったのだろう。
 カザルスは祖国スペインの凄惨な状況に胸を痛め、1938年よりアメリカ国内でのコンサートを一切中止してしまう。
 我が国の印象から思えば、中止されるコンサートが引き続き催されたことに暴力の極地的な強みを見るような気もするが、それから23年後の1961年、当時世界のリーダーとして君臨していたケネディ大統領に招かれ、「ホワイト・ハウスコンサート」は催された。
 1937年にゲルニカを描いたパブロ・ピカソと、『二人のパブロ』が、祖国のために芸術で抵抗したのである。
 混迷を極めた当時の世界情勢を思えば、日本では戦火から身を潜めるため灯火管制が張られ、電気や文明は悲惨な日常に影を落とすためのものであった。エジソン直下の電気や、ましてや彼が世界で初めて流通会社を設立までして渡ってきたレコードを有り難がるのは、大和魂を失ってしまった(当時なりに)軟派な世代にとってしてみれば、当然のことであった。
 当代の巨匠たちの中には、正に後光指すそんな神様の演奏を真空管から拝聴し、現在に至っているチェリストも多くおられる。
 ゲームや映画のような娯楽まで倍速で楽しんでしまう者のいる効率化社会の現代の感覚から、当時の価値観に対して理屈や理論で攻め込んでは口喧嘩ではひとたまりもなかろうが、しかしその世代の気骨はと言うと、後退しても何もない世界を生きてきた、恐ろしいほどの逞しさが備わっている。
 芸術が人のものである以上、最後に真価を決するのは常に"人そのもの"なのである。

 だから、僕は、狼狽していた。ほとんど激昂していた。
 僕の選んだクーラントは「なぜ組曲の中で課題はクーラントなのか」の最適解で臨んだ、全六曲中最短の演奏時間で済む第二番であったのに、それですら試験官の先生方は大した注意を払って聴いてくださっている様子はなかった。
 音楽は音の交流である。
 僕たち音楽家は、一目会っただけの人と、早速音を交わし、一番深いところでコミュニケーションをする。
 あえて例えるのならば、裸であり、正直であり、感情的である。
 プロフェッショナルとして自分の感情の手綱を握りしめ、最低限のコントロールを利かせるが、本番中は俯瞰している自分の冷静な意識を粗馬のように振り落とそうとすることもある。
 その直情的なやりとりを経て、それからやっと食事をしたり、世間話をすることになる。
 演奏会という締め切りに向かって、各々が音を、感覚を、ともすれば心を、一つの方向を目指して収束させていくのである。
 共演者がいなければ、裸の王様がポツンとそこにいることになる。当時の僕は、正に裸の王様であった。
 演奏の〈条件/音〉が整うと、実際ほんとうの本番では、聴衆とのコミュニケーションになる。僕も客席で名演に立ち会った経験があるが、投げかけられる音を、全身を共鳴させながら受容れるあの感覚は、他にはないものである。
 だからこそ「ホワイトハウス・コンサート」の感動が、芸術の最たる一例として現代にも語り継がれているのである。
 僕の届かないバッハは、やがて教授の叩いた「チーン」という信じられないくらい無神経におどけたベルの音で止められ、僕はあえなく撃沈。同じ課題が出されるであろう次年度前期試験でのリベンジを誓ったのだが、僕にとって最期となったその次年度の試験の課題は、僕たち学生があまりにも一丸となってよっぽど先生方を辟易させてしまったのか、「自由曲」とだけ掲示された。

#思い出の曲


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