あとがき(ヴァイオリン・リサイタル)


短編小説
『ヴァイオリン・リサイタル』
のあとがきです。


 僕たち音楽家、取り分け日本人演奏家は、シューマンの『献呈』が大好きである。
 『ミルテの花』とその前後一年ほどの作品群は、音楽家の冥利に尽きるようなシューマンの半生を象徴するロマンに溢れ、正に「ロマン派」に区分される西洋音楽全盛期の火付け役が、ロベルト・シューマンであった。
 シューマンの作品は刹那的で不安定であり、若いうちはとっつきにくいところがあるが、三十路が見える頃になると、ははぁさては割とチャラチャラしたナルシストだなこいつ、と、ともすると茶髪にウォレットチェーンに先っぽのとんがった靴を履いていたようなシルエットが頭に浮かんできてしまう。 
 『献呈』を更に取り分けると、後にフランツ・リストの編曲によるピアノ独奏ver.を弾く日本人ピアニストの、多いこと。『献呈』を使って実際にプロポーズした人もいて、シューマン夫妻の行く末を当然知ってのことなのか、僕にはちょっと意図が掴めないのだが、まぁとにかく、けっこうそういう挿話にも事欠かない一曲である。
 つまりどうやら「お手軽」らしい。
 お手軽であることは利点である。軽さや速さはとてつもない武器となりうる。
 シューマンの見つめていた音楽の未来は、彼の著書からも伺い知ることができるが、果たして。
 世界的ベストセラー『聖書』でさえ、国を跨げば長い歴史の中で、意訳による問題が散見される。例えばジョン・スタインベックの「エデンの東」に見られるような芸術的な"昇華"によって、つまり後に続く信ずる者たちによって、更新され続けているのである。スターウォーズプリクエルシリーズ直撃世代だった僕にとって、ある時点で舵を切るように刷新されていってしまうのが、同じくらい不思議な教義ではあるのだが。
 僕はその中に真理を見つけることができず、信ずるに値しない救われない哀れな人間かもしれないが、どちらかと言うと諸行無常丸出しのライフスタイルなので、その場所から見つめるシューマンとクララ、それからブラームスの三角関係は、やはり尊い雰囲気を香り立たせているように感じている。つまり、"神聖"なのである。

 『ヴァイオリン・リサイタル』の中にもリンクを載せたが、オリジナルの声楽曲、それから、リストのピアノ独奏版を改めて紹介しておこうと思う。

R.Schumann / Widmung

R.Schumann, F.Liszt / Widmung

 シューマンは、常に自らの美意識の中で音楽を追求したらしい。
 後に「室内楽の年」という座りの悪い文言で定義されることになる、たしかに室内楽作品の珠玉の名曲を数多く書き遺した自身の音楽家としての黄金期を目前に、もしかすると、"一人のまともな人間ロベルト"の存在を確認できる最後のタイミングのようにも思える。
 彼にとってクララは音楽そのものであり、音楽は愛そのものであった。

 ご多分に漏れず、シューマンの取っ付きにくさからある日突然レバーが食べられるようになった時のように、シューマンの魅力に取り憑かれて、それが剥がれなくなってしまった。
 彼の美学は向田邦子女史の刹那と重なり、常に煌びやかな色彩を放ち僕の周りをいつまでも滞空している。
 音楽が好きでよかった、日本語が読めてよかった。そう心から喜ぶ気持ちをシェアしたくて、駄文を覚悟で『ヴァイオリン・リサイタル』を書き始めた。
 登場するキャラクターたちに実在のモデルはいないが、登場するエピソードや設定は業界内の「あるある」や「伝説」を誇張したものである。
 シューマンを軸にクラシック音楽のこと、音楽のコンサートのことが少し判る、不倫小説になった。


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