見出し画像

餅の数







 新年の区切りがはっきりとあるところが、日本を好きだと思う大きな理由の一つである。
 朝起きて、一応家族四人膝を突き合わせて、三つ指を揃えて新年の挨拶をする。儀式めいた「教養」や「マナー」を僕たちに教え込むのが好きだった父からのドメスティックバイオレンスで、物心ついた頃からお猪口に舐める程度のお屠蘇をいただかなければ、その後本命のお年玉をいただけない決まりだった。妹はお屠蘇が苦くて泣いていることもあった。
 頂戴したお年玉を、顔の前に一度掲げるようにしてわざわざ謙った様を装っていたら、「ゴマをするな」と怒られたこともある。
 新年早々、僕のような軽薄な人間では、そう平穏にいかないのである。
 そこまで済むと、台所から母がお雑煮の餅の数を集計し始める。我が家の元日は、大体がこんな様子だった。

 本来だったら僕はチェロを弾いて、教えて、いただいたお金を薄く伸ばして飢えを凌ぎ、なるべく人様に余計な迷惑が掛からないように、田舎にある自宅にこもって静かに暮らしているはずだった。
 27歳の頃、大学を卒業してそのまま入団した大阪交響楽団を退団し、フリーランスとして少しずつ仕事が軌道に乗り始めた演奏キャリア10年目にして、このコロナ禍の真っ只中に陥ってしまった。ここまでは、正に真っ逆さま、という具合で…。
 割と早い段階でワクチンの職域接種に混ぜてもらえたことは幸運だったと思うし、一応、さまざまな思い遣りに護られながらただ毎日時間だけを食って、なんとか将来に繋がるように、と毎分毎秒寝ている間もひたすら考えている。
 コロナ禍を乗り越える時、それはあらゆる悲しみを乗り越えて、「コロナのおかげで」という話を一つでも多く自分の中に探していく瞬間に、やっと感じられるものだろう。やっとの思いで、とてもじゃないけどそんな風には思えない、という、満身創痍の中で。
 僕にとってコロナは、ほんとうは立ち止まりたかった自分の脚を、頭を、ムチウチへの配慮もなく唐突にガクンと止めてくれた、未曾有の衝撃だった。コロナ禍によって生まれた時間の中で考えていることは、これから先必死で取り組んでいかなければならない山積みの課題が溢れてしまって足の踏み場もないので、ちょっとほうっておくとして。
 それから、父の臨終に立ち会えたことである。
 父との約束で、父の今際の際に僕に仕事があったら、どんなに融通の利く仕事でも黙ってそっちに行くことになっていた。
 音楽大学を卒業し、しばらくフリーランスとしてやってはみたが、母と家族を築くため一切を諦めてしまった父にとっては、僕の仕事は、どんなに不安定でも、やはり応援したいものらしかった。父の十字架を背負ったつもりはないが、父からの執念のようなものは確かにこの手に受け取っているつもりである。

 そういうことを、私小説として書いてみた。
 自宅録音物の書き出し作業中、気まぐれに文学賞の一覧を眺めていて、突然意を決する覚悟ができてしまった。ずっと昔からやりたかったことを、やってみようとその時突然思った。
 もしかすると、コロナ禍で前後不覚に陥っていたのかもしれない。ある程度盛り上がって応募してみたが、当然落とされてしまった。
 書き上げてからしばらく経った今になって冷静に読み返してみると、なんともまぁ。しかし、このまま捨ててしまうと、引き続き頑張って書いていく矛先を見失ってしまう恐れもあるので、今既に根城としているTwitterと連携のいい(らしい)、noteを始めることにした。

 餅は餅屋だと弁えているつもりではあるが、この頃技術的問題だけをうまく(効率よく)現代風に消化して、とんでもないパフォーマンスを魅せる人たちが増えてきた。
 開催中のショパン・コンクールにおいても、ファイナリストまでは届かなかったが、肩書きとしては(そしておそらく専門としては)「医大生」が第一選考を突破していた。
 肝心なのはそこに身を置くものの思想であるが、それは、外様のよさが光っていい部分ではないかとも思う。そういう余白の広さが、裾野の広い文化のいいところでもある。
 最大限身勝手に理屈を取り揃えてでも、書き続けて、ちゃんと書けるようになりたい、と思う小説になった。
 その私小説を隠さずに見ていただいて、それから、今やりたいと思っていることに本腰を入れて努めていこうという次第であるのである。であるので、できればいつか、ほんものの筆に取り組む人が唸るような、音楽についての真実の筆を走らせてみたい。
 僕には時間がないので(悲劇的な話ではなく、オッサンなので)、なりふりを構っていられないから、もしかするといたたまれない思いを抱かせてしまっているかもしれないが…。
 僕は僕の表現の一端として筆を走らせ始めることをここに誓います、と、ぺろっと言ってのけてしまいたいが、先日、生前の父がよくしていただいていた、父の職場の一時期の先輩にあたる方が、自死を選んだ。
 父の線香をあげにきてくださった、およそ一年前のあの日が、最期になった。

 これまで「失ってしまったもの」「もう戻らないもの」をセンチメンタルな慕情として、ドビュッシーの音楽の隠し味に嗜む程度だったが、父が倒れ、その陽気な外面にお付き合いいただいていた周囲に、また変化が起きている。
 一つの認識が、一つのままでは終わらない。
 一つのことを僕が言うと、それは他の多くのことに影を落とすことになってしまう。
 そういう人生の中のわずかな機微を追いかけるには、僕のような軽薄な人間では、あらゆる工夫を凝らさなければならないと思うので、つまり、書いてみようと思うのである。
 餅屋だって、あらゆる発想でさまざまな餅を提供しているし、僕にとって言葉は大変に難しいが、言葉について考えることは、日常の中でそう難しいことではないように思う。こうしてうじうじ考え、非建設的な逡巡を繰り返しては、やはり、書いてみようと思うのである。
 たくさんの餅を安売りするのは、もうそろそろ流れに身を任せる程度でいいのかもしれない。それよりも、味や風味や食感が唯一無二の、一つの餅を作ってみたい。食べてもらいたい。
 そう言えば、父にとっての最期の正月では、お雑煮の餅はそれまでに比べて母に申告する量からして少なかった。三ヶ日中に餅を買い足さなければならないほどよく食べた父は、その時、僕や妹よりたった一つ多く食べただけだった。その最後の一つが、餅への執念であったのだろう。
 しかし、餅屋が餅をもったいなさそうに一つ一つ売るのでは、どうやら貧乏暮らしについてはいよいよ決然と腹を決めならければならないらしい。










この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?