ヴァイオリン・リサイタル


*1 ヴァイオリニスト

 あるヴァイオリニストがタキシードの到着を待っていた。
 久しぶりのリサイタルに浮き足立ち、楽器と弓の入ったケース、暗譜はしてあるが念のための楽譜と、やる気と、それからオペラパンプスを入れたシューズケースは持ってきていた。コンサートホールの質素な楽屋にお誂向きの、大して美味しくないが口に馴染んだ缶コーヒーも忘れずに買ってきてある。しかし、肝心の衣装を家に忘れたまま、今日はなんだかうまくいっているようなつもりでここまできてしまった。
 このコンサートを手帳に書き込んだ頃は、まだまだ新型コロナウィルスの影響で巷ではコンサートどころではなかったし、随分久しぶりにソロを弾くことになるから緊張の重圧で前後幾らかは正体が判らなくなっているつもりだった。
 今日、楽屋に入るまでの足取りが妙に軽く思い通りに感じたのは、音楽への純粋な希求などではなく、ただ単に一番大きく嵩張る手荷物を持っていなかったからに過ぎなかった。それを持っていれば、実際ステージに上がって何を演奏することよりも、両手が塞がった状態で満員電車を乗り換える方がよっぽどの大仕事なのだとくだを巻きながら既にぐったりしているはずだ。身体には自粛中のエネルギーが蓄積されていて、今にもステージに飛び出せそうである。衣装さえあれば。ここに、おそらく玄関のコートハンガーに引っ掛けっぱなしの、燕尾服さえあれば。
 一時間ほど前に楽屋入りして、早速二つ折りにしてあるはずの衣装ケースを開いて掛けておこうとした時にやっと、はたと気がついた。
「まいったなぁ…」
とりあえずはっきり口にしてはみたが、天井の低い部屋の隅にビンビン反響するばかりで、本番を控えたヴァイオリニストの苦悩は手狭にまとまった楽屋の中で、孤独に吟味されることとなった。
 衣装については幸い本日唯一の共演者であるピアニストが女性なので、どうとでも対応できそうだった。彼女は青いドレスを着るそうなので、ヴァイオリニストはなんなら青いカラーシャツに暗い色のスラックスでも大丈夫なくらいだと思った。靴は白いスニーカーなので、予め履いてきている黒い靴下を上から被せて履き直してしまえば、客席から遠目にはそう判るまい。主催は自分自身なので、この際形がまとまれば如何様にも順応する所存であった。
 しかし、ピアニストが言った。
「そんなカジュアルなのは、私わたくし嫌ですわ。私とステージをご一緒されるのであれば、ちゃんとした物を御召しになっていただかないと…」
どこかの田舎の方だがお嬢様育ちで、鼻すじも通り耽美な顔立ちのピアニストは、今時珍しいけっこう面倒なタイプの人だった。
 三度目になる昨日のリハーサルでは、慣れてきた頃かとヴァイオリニストが少しずつテンポを速め速めに動かしてみたら、ピアニストの左手の表拍打ちのリズムと右手の裏拍打ちのリズムがみるみる同時になってしまった。頑なにテンポ通り、譜面と言うより額面通りに演奏することで協定を結んだ今となっては衣装においても同様に、よりちゃんと、入念に準備をしておかなかったヴァイオリニストに落ち度があった。いや、どのみち大事な本番に忘れものをするのが結局のところ諸悪の根源なのだが。今は功罪の経緯いきさつを追求している場合ではない。ヴァイオリニストはピアニストに、ステージでご一緒していただける最低ラインを伺った。焦るあまり卑屈になり、若干こうべを垂れてしまっていたかもしれない。
「そうですわね…。燕尾服が難しければ、せめてタキシードでなければ…」
 燕尾服は、普通は実物を見ることも滅多にない珍しい物なので、大抵は誂物である。順って、ヴァイオリンのように繊細な挙動を必要とする演奏者の場合、全身の運動を抑しない、ヴァイオリニストの体格よりも実際は少しゆとりのあるサイズでなければならない。
 タキシードであれば紳士服販売店などの既製品のいわゆる「吊るし」で買っている人がけっこういるし、今日足を運んでくれる友人の中に、以前タキシードを貸してもらったバリトン歌手がいる。彼はすぐ近くに住んでいるので、例え今どこか外出していたとしても、コンサートの冒頭に間に合うためには、どちらにしろ一度家へも帰れる時刻に間に合うよう動いているはずだった。
 ヴァイオリニストはひと安心し、ピアニストにも安心してくれたまえとしつこい感じで説明して、電話を掛けた。バリトン歌手は快諾してくれ、ちょうど家で暇を持て余していたところだったから激励のついでに早めに行くよ、と言ってくれた。
 万事整った。しかし、新しい問題はヴァイオリニストが衣装を変更したせいで、今度はピアニストの身に降り掛かったようだった。
「お待ちになって。
 と、言うことは、これからそのバリトン歌手がお越しになるのね?しかも、開演に合わせて客席にお越しになるだけではなくて、こちらへ」
こちら、と言いながら、ピアニストとヴァイオリニストそれぞれの楽屋からステージ袖までを繋ぐ廊下を、ぐるっと手首を翻して示す。防音施工のため嵌め込み式に奥まった大きな窓の中には紅葉した杉並木の頭頂部が並び、一応芸術の秋である。
 通す袖口が定まったことで純粋に芸術を求める心を取り戻し、ヴァイオリニストが答える。
「そうなりますね。問題ありますか?」
ピアニストはムッと眉をひそめてビー玉のような目玉をグリグリと左右に動かす。何か考えているようだ。その様子を見守っていたヴァイオリニストの方を突然睨みつけ、早口に捲し立てて楽屋に入っていった。
「私、あの方のお声がほんとうに嫌いですの。無駄に低く響くばかりで子音がハッキリしないから、日本歌曲なんて端から箸にも棒にもだというお話だし。そんなお声音を聴いてしまったら、本番前のイマジネーションが濁ってしまいますわ。それも、著しくですわ」
ピアニストの楽屋のドアが厳しく閉まる音が廊下中に響き渡り、ヴァイオリニストはだるま落としの上にいるような気になった。

 子どもの頃、正月に帰った父親の実家で、ヴァイオリニストは祖父母とだるま落としに興じた。その時の祖父は本気だった。勝ち負けを明確に追求し、例え幼き孫を思い遣る祖母の小芝居であってもズルは許さなかった。
 祖父は戦前に生まれ、来年自分もいよいよ太平洋上の戦火へ身を投じていくのだと覚悟を決めた頃、玉音をラジオ放送で聞き、心がその場に崩れ落ちた。
 それまでの祖父は、生まれてこの方「戦争に勝つため」寝起きし、日々を暮らしていた。生活の全てに戦争が関わっていたし、身の回りの物が奪われていくばかりで、勝利など、つまり、戦争が終わることなどまだまだずっと先の話だと思っていた。
 親戚には男手が足りなくなって、小さな頃によく遊んでもらった同じ町内のお兄さんは海に出たきりである。
 何に向けて身を立てればいいのかよく判らなくなってしまった祖父は、その頃暇をすると独り軒先に座ってだるま落としを手癖のようにやった。祖父の父や兄がいた頃、家族で興じた遊びだった。
 祖父の遊んだだるま落としはその頃から大切に持っていた真っ黒に黒ずんだだるま落としで、祖父の「家族で楽しもう」という気迫が、そのまま家族を圧迫していた。だるまの色も怨念めいて感じられ、別に汚かないよ、と次の順番を催促する祖父もやはり怨念めいた執意を感じさせた。
 ヴァイオリニストは「おじいちゃん」ではない祖父とやった、だるま落としの上にいるような気になっていたのである。





*2 バリトン歌手

 ヴァイオリニストに電話で呼ばれ、テレビの前で下着姿で寝っ転がっていたバリトン歌手は、大事な物のように下っ腹を庇いながら、やっとの思いで身体を起こした。妻がもうすぐ帰ってくるのでその前に駅で待ち合わせて、一緒に友人のリサイタルへ出掛けることにした。
 ソファの上でもみくちゃになったタオルケットを剥ぐと、巻き込まれていたスマホが勢いよく床に転がり落ちる。こういうことがあるから、バリトン歌手はごつごつした頑丈なスマホケースを使っているのだ。自分の身長分の高さは何回落としても余裕で大丈夫だし、少々の水没なら全く意に介していない。丈夫で大きくて、防水や耐久性に優れているから重たくて、その分、音も「ゴツゴツ…」と床下にまで深く響いた。バリトン歌手はその音も気に入っている。
 ヴァイオリニストに貸す衣装と借りたままだったアマデウス・カルテットのDVDをついでに返す準備を整え、戸締りを確認し、洗面所のライトを消し忘れ駅まで歩き出した。
 妻からは可愛らしいスタンプが送られてきていた。もう駅について、差し入れになるお菓子を選んでいるらしい。今回差し入れするヴァイオリニストがたまたま手が塞がることを嫌がるからというわけではなく、コンサートなどの差し入れは消え物の方が無難である。バリトンは、歌手の中でも比較的地味な役回りが多いのだが、それでも両手いっぱいの花束をいくつももらうと、自分が人に何か送る時はなるべく小さい物をということになる。妻もそれを承知していて、普段は買わないような、六粒で三千円もする高級なチョコレートでも買っておいてくれるはずだ。駅の改札を出たところには最近この時間になるとGODIVAのテント販売が出ている。
 本屋のドアを開け中へ入り、立ち読みしている学生を避けて店を抜けきると、奥に改札階までのエスカレーターがある。仕事の時はダイエットと健康のために階段を上るが、今日は休日なので素直にエスカレーターに乗った。
 改札の前で待つ妻が、バリトン歌手を見つけて手を振る。バリトン歌手も振り返して、少しだけ大股で妻の元へと向かう。
 その僅かな時間、その程度しか急がない夫を、妻は可愛くて可愛くてたまらなく感じている。
 バリトン歌手が釣った魚に餌をくれない主義なのは付き合って数回会ううちに判っていたし、痩せたい痩せたいと口では言いながら、生活習慣を見ると今の怠惰な体型の維持に余念がないことも日々の暮らしを共にしながら骨身にしみるほどよく知っている。
 だから別に急がなくても大丈夫だと、それで夫婦の仲がうまくいっていると判っているのに、そういう打算から外れたところで、一応歩幅くらいは妻のために増やしてくれている。その歩き方も、バリトン歌手は元々脚が短い方だから、脚を踏みかえる時に群衆の中で一人だけ頭がヒョコヒョコ上下して笑える。
 妻の屈託のない笑顔を見て、バリトン歌手は「よかった、バレてなさそうだ」と内心ほっと胸を撫で下ろす。
 バリトン歌手には妻だけには言えない、仕事仲間は皆知っている秘密がいくつもあった。
 例えば、旅先の飲み屋で見掛けた若い女性グループの席に厚かましく混じっていき、会計を全て自分のカードで支払ってしまったり、駆け出しの若い女声歌手に対して、欲しいとも言われないのにPerfumeモデルのハイヒールを買って送ったりした。 
 残念ながらバリトン歌手はその見返りを求めるような機会にはなかなか恵まれていない。歌がもう少し歌えなければ、同じ仕切り役の捌いている現場に連続して使ってもらえることがほとんどない。バリトン歌手はこれまで現場でどんな音楽家と知り合おうと、狭い世界のはずなのに、どの人とも滅多に再会した試しがない。それでもいずれは巡り合わせるだろうと気を長くして待っているのだが、せっかくせっせと女性に贈り物をしても、皆次に会えるのは贈り物を買い換える頃になりそうである。

 先に改札を抜ける妻が、GODIVAの袋を持っていないことに気がついた。そんなに小さい物を買ったのか、と思ったところで、バリトン歌手が知らない、しかしこれがまた高級そうな紙袋を、鞄の内側になるようにして慎重に持っていることに気がついた。妻は中にある贈り物用の真っ新な紙袋でヴァイオリニストに差し入れたら、今抱えている外側の袋は大事に持って帰って自分で使うらしい。
 妻にそんなつもりはないのだろうが、それは必要以上を求めない古き良き習慣のきたところに思え、バリトン歌手は妻を余計に愛しく感じた。
 電車を待つホームで、妻が言った。
「今日のコンサートは、何をやるの?」
バリトン歌手も知らなかった。もとより、聞いても多分判らない。
 LINEを辿り、送られてきていたリサイタルのチラシを見ると、モーツァルトやベートーヴェン、J.S.バッハというお決まりの作曲家の名ばかりあったが、バリトン歌手は一音足りとも知らない曲ばかりだった。
 バリトン歌手たちが乗るべき電車がホームに滑り込んでくる。世の中の退社のラッシュアワーはこれからだが、それなりに人が乗っている。
 妻が座れそうな席の目星をつけている頃、バリトン歌手はチラシにある共演のピアニストの名前を見て、なんだか行きたくなくなってきてしまった。





*3 ピアニスト

 ピアニストが楽屋にこもってからおよそ三十分。本番前の最終確認のために確保してあるゲネプロの時間が、どんどん残り少なくなっていく。ヴァイオリニストは焦るあまり、ピアニストの楽屋をノックした。立て付けのゆるいドアがゴンゴンと響く。
 普段人から急かされるようなことがないピアニストは、心臓が口から飛び出しそうなほど驚いていた。
 まったくあのヴァイオリニストは初めてお会いしたリハーサルからまるっきり礼儀作法がなっていなくってよ。鏡の中の自分に話し掛けながら、どうやらこれからバリトン歌手に一目でも挨拶くらいはしなければならない気の毒な青いドレス姿に、同情した。
 わざわざ晴れ着で久しぶりのあの男に会わなくてはならない。ピアニストは楽屋入りしてひと息つくと、すぐにドレスやハイヒールをお召しになり、本番と同じ条件でゲネプロに臨んでいた。
 ほんとうは開演のベルからひと呼吸間を置いて、開場時の騒めきが引いた緊張感の高まった瞬間に颯爽とステージ上へ登場するつもりだった。そうすれば少なくともピアニストの目がバリトン歌手の所在を見つけてしまう前に、お辞儀を済ませてピアノの椅子につけるはずだった。それで視界の端から端まで白黒の鍵盤が敷き詰まると一気に集中力が増す感覚で、後は最後まで立派に走りきればいい。人が何と言おうと、自分の脚で、コンサートの最後まで。
 なんとか本番までに崇高な精神に辿り着くために楽屋にこもり逡巡していたが、大きなステージへ向けて数日前から続く緊張の糸が切れ掛かり、急に睡気がさしてきた。
 ピアニストももう忘れていた、本来なら記憶に遺るはずのなかったバリトン歌手と踏んだステージの夢を見た。四年ほど前だったろうか。

 会場のせいかピアノの高音が耳に痛く響いてしまうので、なるべくキンキンとした残響が残らないように鍵盤を叩く指先のタッチに細心の注意を払う。氷の張った湖の上を向こう岸まで渡っていくような感覚で、慎重に、しかし決して滑らぬよう、たしかに。
 ランナーがまずはきちんと歩いたり跳んだりできる足腰をもってフルマラソンに挑むのと同じで、演奏家も音階、つまりスケールで並べられるようにしか現段階では音を出す技術を持ち得ていないと言える。
 クラシック音楽の歴史上、ピアノが弾けなかった作曲家はほとんどいない。どの時代においても自らピアノを演奏し、初演された名曲も把握するのが難しいほど多い。戦後間もない頃までは、ピアノ伴奏を先に習得しなければ専門の楽器のレッスンをしないという厳しい弦楽器の先生の話もよく聞いた。ピアノという楽器の発展によって西洋音楽の未来は広くこじ開けられることになった。だからピアノが偉い、と思っているわけではないが。
 ピアニストの針に糸を通すような繊細な美音の粒の煌めきを一切無視して、バリトン歌手が朗々と歌っている。左手をピアノに置き、身体を客席に対してやや斜めに向けて格好つけるのはいいけど、そこ、邪魔なんですけど。演奏中に声を掛けるわけにもいかないので、目の前の気難しい楽器の高音を手懐けたいピアニストは、そのためにもほんとうはもう少し上半身ごと高音域になる右側へ重心を持っていきたいのだが、ちょうどこっちに向けて出っ張ったバリトン歌手の腹が邪魔である。
 歌はもっと素朴で身近で、音楽の歴史の始まりは歌か打楽器のはずなのに。このバリトン歌手の野郎は、世のピアノ弾きにとって最も忌むべき共演者だった。
 ステージから一望できる客席は薄暗く、照明が本番用の明かりになってしまうと、ほとんど内訳を目視することは難しい。脳が必要のない情報を最小限に留めるようバイパスしてくれているのかもしれないが、フィギュアスケートの羽生結弦選手やその他優れたアスリートたちの語る「ゾーン」においては、高速スピンのような、観客が選手の顔貌を見失うほど超人的な速度で技を繰り出しているさ中でも、客席の一人一人の顔が認識できるのだそうだ。
 ピアニストにそこまでの経験はなかったが、もしかしたら今夜が初めてになるかもしれない。この「かもしれない」を用いて、その語尾に「ですわ」と必ずツマを添えて、孤独なピアニストはあらゆる苦境に立ち向かってきた。遊びも知らず、恋人ですら生涯でたった一人だけで、それもろくな男ではなかった。
 ーー私はまだまだ実力が足りていないのかもしれない、と言うことは、努力不足なのかもしれない。次のコンサートはよく知っている本番でも弾き慣れたレパートリーだけど、もしかしたらほんの一雫でもまだ隙があるかもしれない。演奏中のハッとする瞬間。それまで何事も問題なくきていたのに、スポットライトに抜かれている全身を突然大きなビニール袋で包まれたかのように、ハッと気がついた時には不安と恐怖に呑み込まれてしまっている、ステージ上の自分だけの世界。あの瞬間。あの袋の中に、はからずもまた逃げ込んでしまうかもしれないーー
 ピアニストは自らの弱点を見直すために、自分とは全く違ったアプローチで、直情的に演奏に身を投じると以前から評判を聞き及んでいたヴァイオリニストに声を掛けた。
 ヴァイオリニストが企画と運営をこなしてくれているうちに結局コンサートはヴァイオリニストのリサイタルになってしまったが、ピアニストにとっては本番の中に今後の自らの行く末を占う大きなヒントが潜んでいることに変わりはない。それならば一刻も早くステージに戻って、プログラムの後半の分を終わらせなければならないのに、どうしてもゲネプロに戻る気にならない。楽器をケースから出して、何の指慣らしもせず突然全開で弾き始めるヴァイオリニストとのゲネプロは、恐ろしい綱渡りの大事な最後の命綱なのに。
 やがて、安ぶしんのドア越しから、バリトン歌手の野太いだけで洗練されていない下品な笑い声が響いてきた。





*4 伴奏ピアニスト

 バリトン歌手は夫らしく、会場の最寄駅の改札を出たところから鞄と差し入れを持ってくれた。バリトン歌手と待ち合わせる前に毎年恒例の発表会の伴奏合わせに行ってきたので、A4サイズのコピー譜が入るトートバッグがけっこう重たかった。
 夫に預けたトートバッグに描いてあるJ.S.バッハのインヴェンションの自筆譜を読みながら、伴奏ピアニストは帰りに何を食べて帰ろうか考えていた。何しろ、自粛も明けて久方ぶりの外食である。結婚前によく行ったイタリアンか、少し回って新大久保の若者たちに混じって韓国料理でもいい。伴奏合わせがうまくいったから今日は万事大丈夫なはずだ。伴奏ピアニストの胸は弾んでいる。
 夫婦が楽屋口の扉を開けると待ち構えていたヴァイオリニストがやたらと大きな声でバリトン歌手を出迎え、妻として紹介されると、その時初めて存在に気がついたように新鮮な挨拶をした。伴奏ピアニストは夫の旧知の友を慎ましい妻として暖かく労い、演奏への期待を素直に伝えたが、それはほんとうは今夜の夫婦水入らずの時間の、前菜程度の俄かな期待に過ぎなかった。
 再会を喜び合い、一通りのやり取りを終えて、ヴァイオリニストが言った。
「それで、ピアニストが楽屋から出てこないんだよ。君に会いたくないって」
なんだでだ、おれ何かしたのか、と平気で笑う夫も腹立たしいが、応援に駆けつけ衣装まで貸してやってどうしてそんな僭越なことを言われなければならないのか。
 伴奏ピアニストは仕事柄顔に意図を漏らさず時が過ぎるのを待つことができる。一応、夫が絆されて楽しそうに話しているのだから、自分も大人しくその雰囲気に乗っておくことにした。
「じゃあおれはこのまま退散しようかな。演奏、楽しみにしてるよ」
バリトン歌手が踵を返し、伴奏ピアニストはほっとしてあとについたところで、廊下の奥の方から声がした。漫画みたいに。
「帰らなくても、よくってよ」
伴奏ピアニストが振り返ると、青いドレスをまとった女性が立っている。非常口色だが、後光もたしかに指している。さっき夫に見せてもらったチラシにいた美人とは違う顔のように思えたが、状況からして共演者には違いなさそうだ。性格のキツさがそのまま目鼻立ちの張りのよさに表れたような顔で、容姿端麗とは言いたくない。ただ、そこはかとない自信と強固に育まれたプライドは、まず一瞬にして見てとることができた。
 伴奏ピアニストからすれば同業の、いかにも野心漲る苦手なタイプに見える。ただでさえ同じ現場に複数のピアニストが鉢合わせる機会は滅多にない。他の楽器に囲まれ、常に「音楽の中心」にピアノがあるような感覚でしか演奏に臨んだ経験がない。
 伴奏ピアニストは、人から言われる前から「自分にはせいぜい伴奏くらいが関の山だろう」と身勝手に覚悟を決めて、伴奏を必要とする人と音を交わすことを中心に活動するようになった。実際、収入とそれに伴う月のほとんどの稼働日は、知り合いの運営している音楽教室での講師業の賜物である。
 本来ソロを担う楽器を伴奏するのが伴奏者の務めであるが、おそらくある程度まともなクラシック演奏家であればステージを共にするピアノ奏者を軽率に「伴奏者」などとは呼ばず、「共演者」や気の利いた人なら「共犯者」と言う。ある程度まともでないとどんなに音楽が素晴らしくても許されない今の世の中なので、つまり、例え現場で伴奏者という言葉が飛び交ってもそれは便宜上のことで、言う方も言われる方もそんな風にわざわざ深く気に留める者はほとんどいない。
 仰々しく自らに「伴奏ピアニスト」という今思えば早まった肩書きを設けてしまったのは、大学を卒業してすぐの頃、あまりにも頼りない自分の音楽歴に何かしらの下駄をはかせようとしてのことだった。コンクールや大学内のオーディションなど、何かに入賞した憶えがない。小学生の頃、時期がくると書かされた俳句を適当に詠んだら全校生徒の前で表彰されたことがあったが、それだけである。キャリアは無冠で構わないが、音楽業界でも群を抜いて飽和しているピアニストの大群勢の中で、早い段階から自らの踏み込むべき土壌を求め、ありもしない「良い入り口」を探してしまうその気持ちは、きっと多くの音楽家にとってどこか他人事ではない、若い頃にはありがちな落とし穴ではないだろうか。
 伴奏ピアニストがさめざめ物思いに耽っていると、一向に自分の方を振り向こうとしないバリトン歌手に向かってピアニストが言った。
「相変わらず、けじめのない方ですわ」
 マスクで隠れているのをいいことに、夫はよく目だけで笑う。その時マスクの下はピクリとも動かない。夫がその笑顔をしっかり作ってから振り返るのを、伴奏ピアニストは見逃すことができなかった。これがおそらく女の勘というやつなので、ということは、こいつら。
 コンサートの開演時刻が迫っていた。逆算して、ゲネプロに使える時間はあと三十分。まだ確認を終えていない曲を通すだけでも四十分ほど掛かる。事態は絶望的だった。





*5 昔話

 むかしむかしあるところに、世間を知らない女の子がありました。
 女の子にお父さんとお母さんはなく、女の子は同じお友だちがたくさんいる施設で、たった独りぼっちで大人になりました。
 女の子は、女の子と言ってももうとうに成人しており、酒も煙草もギャンブルも思いのままでした。大学の講義が同じだった、教育科の派手でいけすかない女のように、風俗店でだって働けます。
 ところが、女の子は後見人との定期的な面談を条件にやっと自由を手に入れたのに、それまでと何も変わらず、他に誰もいないお家の豪華な音楽室で、孤独にピアノをさらいまくるのでした。
 その女の子が、大学時代の友人に、卒業して早々に新しい命を授かったことを理由に、とある既婚男性との共演を頼まれました。
 女の子にとって友人と呼べるような相手は実際にはありませんでしたが、相手にとってみれば、得体が知れず評判もあまり良くない変な既婚男性との共演は、女の子ほど巧みにピアノを演奏できる者でないと安心して任せられない、いわゆる訳ありのお仕事でした。
 音楽家は、音で会話をします。
 その人がどんな食べ物を好きか知るより、どこで生まれ育ったのかを知るより、名前を知るよりも先に、一番深いところで大切に育んでいる、その人の人生そのものと、いきなり、直接的に交流します。
 クラシック音楽は外来文化特有の、海の向こうの前提を、知識や教養として刷り込む為だけに音楽大学を有しているわけではありません。
 答えを合わせる為に勉強するのではなく、それより先の、音楽で心のコミュニケーションをはかる際の音の言葉遣いや適切なスピーチ技術を学び、同時に受け取る理解が深まるよう、高い学費を払って勉強しているのです。
 女の子にとって、自分にはピアノさえあれば、例え声帯が潰れても天寿を全うする、そこはかとない自信が漲っているのでした。どんな声を持つ既婚男性がこようと、女の子はかまいません。
 それが間違いでした。
 既婚男性の歌はそれまで純粋にピアノの前に座ってきた女の子のそれとは根本的に何かが違い、音を合わせるのも一筋縄ではいきませんでした。勝手に謳い、騙り、既婚男性の音楽はろくなものではありませんでした。
 命からがら本番を終えた女の子がステージを降りると、後ろから袖にはけてきた既婚男性が溌剌とした声で言いました。
「いやぁ、最高でした。
 どうですか、これから」
言いながら、人差し指と親指でお猪口の形を作り、クイッとやりました。
 大変前時代的な埃くさいお誘いでしたが、女の子は、この既婚男性の天井が抜けるような能天気さがふと気になり、あえて誘いに乗ってみることにしました。
 ステージであんな体たらくを晒しておいて、ここまでのリハーサルの最中でさえ一度たりとも曇った顔をしなかった既婚男性は、一体何を頼りに音楽に向き合っているのだろう…いつも、大好きなピアノの前に座ると苦しくて苦しくて仕方がない女の子には、既婚男性の中にこの先の人生で役立つ何かのヒントがあるかと、一縷の望みを掛けたというほどでも別にないんですが、ほんの少しだけ冒険に出掛けるような、ソワソワした気持ちになりました。

 一軒目からいきなりカウンター席しかない、大人な雰囲気のバーに入るとは思ってもいませんでした。
 薄暗い店内には当然、女の子と既婚男性とバーテンダーしかいません。あ。
 バーテンダーしかありません。
「今日はほんとうにありがとう。最高でした」
法の華でもあるまいし。世間知らずの女の子から見ても、既婚男性はどこか盲信的で狂信者のような雰囲気が香っています。
 それが音楽の、J.S.バッハの信者ならば女の子にも理解が及びますが、なんだか、そうではないようなのです。
「僕は両親がいなくてね。
 僕が小さい頃に離婚して父に引き取られたんだけど、一年ほど経った頃父が事故で亡くなってね。再婚していた母に連絡がいったらしいんだけど、いらない、って言われたそうなんだ」
既婚男性は自分の昔の哀しい話も、他人事のようにスラスラと話しました。
 女の子は、予想外の話に、頭が止まってしまいました。いつもいつも独り言を話し続けて止まらない頭の中が、ピタリと何も言わなくなったのです。気がつくと既婚男性の話を真っ直ぐに聞いていました。
「僕はきっと施設でもいらなかったんだ。今思えば、母にそう言われたからって、僕に直接言うことないじゃないか」
既婚男性はまるでその頃に戻ってしまったように、子どものように訴えていました。きっとその時でこの人の時間は止まってしまっているんだ、と思いました。
 それからはまるでコンサートが大成功した後のように打ち解け、女の子も自分の話をしました。

 女の子にとって音楽はピアノでした。ピアノは身体、人生の一部でした。中心でした。ピアノの周りをグルグル徘徊しながら生きているのが、女の子にとっての自分でした。
 既婚男性にとって音楽はなんとなく選んだものでした。施設でたった一度だけ褒められた歌が唯一得意なものでした。しかし奨学金を申請した大学の受験の段になって初めてレッスンに行ってみると、持って生まれた声帯が歌手に向かないことが判りました。音域が極端に狭かったのです。化け物のように広い声域は必要ありませんが、プロと称される技術を有する為には、せめて人並みより少し幅を持っているくらいでないとお話になりませんでした。それでも、音楽大学は「男声」の学生が欲しいので、本人の将来や未来を一切考慮に入れず、いつも通り大学のための人数合わせで合格させてしまいました。延々と繰り返されている、大罪です。
 既婚男性は、自分を置き去りにし、捨て去った両親の存在を、全くうまくいかない「やりたいこと」のジレンマの中に強く感じ続けなければならず、ひたすら苦しんでいる不器用な人でした。
 よしよし、と、女の子は既婚男性を毛布で包くるんであげたい気持ちになりました。しかし女の子は男性と親密になった経験がなく、男性のことも、服の外の見えている部分のことしか知りませんでしたので、毛布のような言葉など持ち合わせていませんでした。だから、バーを出て既婚男性に唐突に肩を抱き寄せられた時、たしかに愕おどろきましたが、自分自身が毛布になれる悦びを初めて見つけたのです。
 初めて人の前で素直に全てを脱ぎ捨てた女の子は、可憐な少女そのものでした。狡く弱い既婚男性の腕の中で、ほんとうの女の子はこういうものなのか、と、勘違いかもしれませんが、女の子は確かめるように何度も思いました。

 それからしばらくして、既婚男性とはあっけなく連絡が取れなくなりました。






*6 譜めくリスト

 僕が会場に到着すると、ほんとうは廊下まで響き渡っているはずのヴァイオリンとピアノの音はなく、空調と自動販売機の唸り声が聞こえるほど静まり返っていた。
 会場を間違えたかと一瞬背中がひんやりしたが、バックヤードに抜けヴァイオリニストの楽屋を尋ねてみると、着替えすらせず楽器を開きっぱなしのケースの上に放り出して項垂うなだれる彼がそこにいた。
「ごめんね、ほんとうはゲネプロの最初からいたかったんだけど」
ここにくる前に自宅で生徒のレッスンをしなければならなかったので話を引き受けた時からそういう条件だったが、あまりにも歓迎されていないので、今のはお伺いを立てたつもりだった。
 返事がない。
 そもそも、開演まであと三十分を切ってこんな状態とは珍しい。いつもの彼ならお香は炊かないまでも、座禅を組む勢いで背すじを伸ばし静かに目を瞑っているはずだ。
「大丈夫?何かあった?」
僕はいつも人に「思い遣りを向けているな」と思いながら思い遣りを向けるのだが、そこに「チェリストはおおらか」というほんとうは多分間違っている業界内の一般論も過よぎる。一応、一般のイメージするところから外れたくない。評判が第一の世界で悪目立ちするのはまっぴらごめんだ。
「おー…」
変な唸り声を上げて目を擦り、ヴァイオリニストが起き上がった。寝てたのかよ。すげー。
「お姉さんきてくれてたよ。さっきバリトン歌手についてきて。ご挨拶したよ」
ほんとうは終演後に僕が紹介する予定だったが、早めに楽屋にきたらしい。そう言えば昨日LINEで話した時、久しぶりの夫婦での外出にウキウキしている様子だった。
 ヴァイオリニストは僕が返事をする前に、ピアニストは奥の楽屋だから、と言って着替え始める。彼といるとたまに、僕の声が聞こえていないんじゃないかと思うことがある。不思議と悪い気はしないが。
「ありがとう。頑張れよ」
待っても返事はないだろうから、そのまま部屋を出ようとすると、ヴァイオリニストが言った。
「今もしかするとお姉さんたちいるかもよ」

 ピアニストの楽屋の扉を開けるまで中で話をしている気配はなかったが、中は静かな語気の正に応酬だった。妙に沸騰した熱を帯びた女性二人が、見えない一本の綱の上で小突き合っているような緊張感が漂っている。
「ほんとうは私も夫の食事の管理までしたくないんですけどね。口癖のように痩せたいって言う割に、私の料理が物足りないとか、平気で言うんですよ」
「まぁ、贅沢ですこと。私わたくしなんて、どこに行くのも何を食べるのもいつも自由ですわ。自分の決めたことは、自分自身の責任の元でやるんですから、誰かにとやかく言われる筋合いありませんもの」
僕は、うわぁ、と思った。えらいタイミングで入ってきてしまった。いや、えらいタイミングなのか。えらいタイミングであってほしいが、ここがこのアンサンブルのサビである保証はない。まだイントロだったらどうしよう。この歳になって、嫉妬に燃える姉の姿は見たくない。義理の兄であるバリトン歌手も、妻のその様子に全く萌えていない。
「でもいいですわね。ご夫婦でご共演されることも、おありになるんでしょう?」
「いいえ、それがほとんどないんですよ。この人、釣った魚に餌をやらないってことなのか、余程ピアニストが見つからない時くらいです」
「あらそれは。私も昔ご一緒した時、そうでしたわ。いくら私がピアノで寄り添っても、こちらから語り掛けても、ご自分のペースをしっかり守られて。ご主人としたら、とても頼り甲斐があるのではないかしら。お強い方ですわ」
「そうでもありませんよ。この人が歌で大成するまで、私が支えるつもりです。今時、ご主人って感覚も少し古いみたいで。女が男の腕の中で眠る時代は終わるんじゃないかしら」
なんて悲しいことを言うんだ。姉はそんなに現実主義ではなかったはずだ。小五にもなって七夕の短冊に「ハーマイオニーになりたい」と書いた姉に限ってそんなはずは。
「姉ちゃん、きてたんだね。
 すみません、到着がギリギリになりましたが、今日はよろしくお願いします」
「さぁ、私はそろそろステージに向かいますわ」
「長々失礼いたしました。楽しみにしています」
バリトン歌手は何も言わず、二人とも部屋を出て行った。そうか、僕はヴァイオリニストだけではなく、世の中全体からあまり鮮明に見えていないのか。声が届いていないのか。だから、譜めくリストなのか。
 譜めくりは緊張する。他の楽器は基本的に自分で譜面台の譜面をめくるが、ピアノは両手を使って弾くため、客席から向かってピアニストの奥に静かに座っていられて楽譜が読める有能な補助が一人つく。
 ピアノを演奏する方からすると、楽譜を見ながら手元の音を聴かれるわけだから、ほんとうは気心の知れた相手や弟子に頼む人が多い。しかし今回の共演者にはそう言った当てがないので、とヴァイオリニストに依頼された。その当てがない演奏家なんて大丈夫なのか、と少し心配だったが、これはいい。大変な美人なので、そのうなじを至近距離から二時間弱眺めているだけでいい。簡単だ。
「すみません。今日はお願いします。私、今日こそ納得のいく良い演奏をしたいと思っておりますの。よろしくお願いします」
先ほどまでの傲慢な、小金持ちのお嬢様の憎たらしい風体はどこかへ消え去り、まるでほんとうの女の子のように、自分の力の到底及ばない大人に一生懸命に懇願しているようだった。改まって挨拶から仕切り直した。
 なんだかよく判らないが、今日は精一杯めくろう。





*7 献呈 〜Widmung

 アンコールの演奏が始まった。
 会の冒頭こそ一連托生とは決まらなかったが、ピアニストの魅力的な音の粒と、ほとんど半身をピアノの方へ向けて顔色を伺いながら弾く、珍しく俯瞰的なヴァイオリニストの演奏のお陰で、かつてないほど白熱し、誠実な音楽の時間が流れてきた。そのアンコールに、ヴァイオリニストとピアニストはロベルト・シューマンの『献呈』を用意していた。
 『献呈』はピアニストで作曲家でもあった妻クララとの結婚の前夜に、シューマンがほんとうに花を添えて送った歌曲集『ミルテの花』の第一曲目にあたる。後にフランツ・リストがピアノ独奏用に編曲した同名作品も大変人気があり、こうして器楽版として演奏することも珍しくない。
 薄暗がりの中でステージからの逆光を頼りに伴奏ピアニストが気の利いたプログラムノートに目を通していると、歌詞の一節の引用に目が留まる。
「あなたは私の魂 私の心
 私の無上の悦び 私の痛み」
 具体的に曲を提案したのはヴァイオリニストとピアニストのどちらだろうと考え、伴奏ピアニストは自分の耳の先までカッと熱くなるのを感じた。ステージで味わうように歌うヴァイオリニストの音色と、この世の悦びを今まさに全身で放っているピアニストの、悔しいが目が離せない魅力に満ちたエネルギー。今となっては、誰が選んだかなどということは、どうでもいい。今二人の音楽家は「芸術」に紙一重のところにある。
 以前伴奏を頼まれたことがきっかけでこの曲を知り気に入った伴奏ピアニストも、曲について少しだけ勉強した。ほとんどは忘れてしまったが、一つだけ憶えていることがある。
 歌曲集のタイトルになったミルテとは、和名を銀梅花ぎんばいかといい、結婚式の飾り付けやブーケなどに使われる。そこまで思い出して、伴奏ピアニストは隣に座る夫に気づかれるのではないかと心配になるほど、全身が細かく震え出し止まらなくなった。
 銀梅花の花言葉は「愛のささやき」であり、プロポーズされた日に伴奏ピアニストが帰り際の花屋で無理やりねだって買ってもらった花も、銀梅花であった。

 バリトン歌手は、フリードリヒ・リュッケルトはえらい歌詞を書いてくれたものだ、と思った。優れた音楽性を備える巧みな歌詞と、その言葉のリズムを心地好い旋律で歌わせるシューマン。あまりにも愛の悦びに溢れた瑞々しい音楽が、曲の終わりまで軽快に転がっていく。
 いつか自分もあの中へ入っていけるだろうか。これから真剣にもう一度音楽と向き合い直せば、或いは。
 独身の世間知らずだと思っていたピアニストは、バリトン歌手よりもずっと深く音楽を愛し、愛され始めていた。その瞬間は、何物にも変え難い美しい響きに満ちていた。
「あなたの愛が 私を高める
 私の良心 私の、より良い私」

 カーテンコールを終え楽屋へ戻ってきたヴァイオリニストは、初めて「音楽をした」と言える実感を手に、呆然と座り込んで動けずにいた。ヴァイオリニストが深く溜め息を吐き出して、いい加減衣装から着替えようというところで、既に身支度を終えたピアニストがスーツケースを引いて部屋に入ってきた。
「お疲れさまでした。ありがとうございました。お陰様で、とても良い音楽体験ができましたわ」
またいつもの鼻につく調子で、軽く頭を下げた。ヴァイオリニストは、もうよく知っている目の前のピアニストに自然と笑顔で答え、高揚している気分に任せて軽い気持ちで誘ってみた。
「こちらこそありがとうございました。どうですか、よかったら、この後」
自粛に入る前から打ち上げなどあまり参加しないたちだったので、ヴァイオリニストは指先でお猪口の形を作るこの方法しか誘い方を知らなかった。
 ピアニストはふふ、と笑って、
「次回、ご一緒する機会にまた改めて、是非誘っていただけたら嬉しいですわ。今日は独りで残りの夜の時間を味わいますわ」
と言い、また笑った。
 ヴァイオリニストはその通りだと思った。おれもそうしよう。そう思っていよいよやっとほんとうに着替えるつもりになっていると、ピアニストが申し訳なさそうに付け加える。
「ところで、もう、今はいいんですけれど、どうして蝶ネクタイをしていらっしゃらなかったんですか?」
逃げ仰せたと思っていたヴァイオリニストは虚を突かれてしまった。開演直前に蝶ネクタイがどこにも入っていないことに気がついたが、それどころかプログラムの後半はまるっきり何の確認もできなかったせいで、半ば投げやりな気持ちでステージに上がりましたとはさすがに言えず口籠もっていると、ちょうどいいタイミングでバリトン歌手の夫妻と連れ立って先に帰ったはずの譜めくリストが、慌ただしい音をさせながら戻ってきた。
「ごめん!蝶ネクタイ!この前義理の兄の衣装ケースから拝借して、そのままだった…!」
 譜めくリストが姉夫妻の家に夕食をお呼ばれしに行った日、そのまま泊まって次の日の現場に赴く予定が、必要だった蝶ネクタイを忘れてきてしまったことに気がついた。深酒しているバリトン歌手の衣装ケースから借りて、そのまま忘れていた。なるほど、大変おおらかである。
 使用後すぐに上着の内ポケットにしまって、今まで忘れていた。譜めくりを終えた帰り道で、ヴァイオリニストがノーネクタイだったことが気になり、考えているうちに思い出したのだった。
 ヴァイオリニストは少し間を空けて、静かに言った。
「いや、でも大丈夫。本番中は、ほんのいっ時も思い出さなかったから。何も問題ないよ。ありがとう」
ヘラヘラしていた譜めくリストも安心したように落ち着いて再度謝り、蝶ネクタイを衣装ケースのポケットに戻して帰って行った。
 片付けを終えそうなヴァイオリニストを、ピアニストはなんだかソワソワしながら目で追っていた。
 今思えば、あんな男の何が欲しかったんだろう。開演前、伴奏ピアニストに小突くように言われたつまらないことが、なぜあんなに腹立たしかったのだろう。
 その全てが、今日のようなステージにまた立つことがあるのならば、何も問題ないことのように思えた。
 ヴァイオリニストが、あの靴をしまったら。あの蓋を閉じたら。鞄のチャックを閉めたら。
 楽屋の電気を消す段になって、ようやく覚悟を決めたピアニストが言った。
「やっぱり行きましょう。これから。
 場所は、あなたが決めてよくってよ」
 ヴァイオリニストは笑って、じゃあ急いで鍵を返してきますね、と言った。
 こんなに幸せな予感のする夜があっていいのだろうか。
 ピアニストは穏やかな心臓のちょうどいいテンポに合わせて『献呈』を口ずさみながら、ヴァイオリニストが戻ってくるのをゆっくり待つことにした。

(了)

参考音源
R.Schumann / Widmung



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