【2000字小説】肩越しの世界の終わり

***

 寝る前にコップに注いでおいたペットボトルの麦茶がぬるいばかりか結構渋くなっていて、山中やまなかは田舎のばあちゃんの顔を思い浮かべながら、麦茶もお茶の仲間であることを思い出した。どこからか古びたストーブの灯油の匂いまで香ってくる。
 起き抜けにいきなり換気扇の下に煙草を吸いに行っても、仕事へ行く山中の陰鬱な朝のご機嫌はお構いなしで小言を言い連ねてきた小巻こまきは、先週末出て行ったきり帰ってきていない。
 なぜいなくなったのか、見当がつくような気もするが、やはり判らない。山中は毎朝起きてからの十分間、小巻の出て行った理由と自分にとって小巻がどんな存在であるのか、黙々と鎖で繋ぐように煙草を吸い続けた。
 その日は仕事からの帰りが遅くなる旨は夕食の支度が始まる前までにきちんと連絡を入れられたはずだし、帰宅してからもこれと言って落ち度も問題もなかったはずである。ほんとうに、よく判らない。
 三十分早く起きて山中へのヘイトを溜めながら、せっせと二人分の弁当や背広まで支度をするのが、小巻の毎朝のルーティンだった。
 山中は八年前に職場に後輩として入ってきた小巻の指導を担当し、小巻の仕事が一人前になる前にねんごろな間柄になってしまった。その時のツケが、責任感という重圧になって押し寄せ、いよいよ腰を据えて結婚を視野に入れた真剣な交際が始まった。
 真剣な、とは、山中にとっては、夕食の招待を受ければ小巻の暮らす立川の実家に喜んで出向くことだったし、小巻の両親に聞かれたことには、包み隠さず何でも正直に答えることであった。
 小巻は山中と違い、山中の決意を、山中の腕の中で感じとっていた。
 職場に隠れてコソコソ付き合っていた頃の山中は、事を終えると、まるで決まっているかのようにスマホを片手に煙草に火をつけた。時々汗をかいた顔が照り返すほどスマホを凝視したまま煙草を反対に咥えて火をつけてしまい、不味いから捨ててしまうかもったいないから吸ってしまうか、真剣に考え込んでいることもあった。
 一人で社宅でもなくアパートに暮らしていた山中とは、いつもホテルで会った。シャワーを浴び終えた小巻が寝支度を整えながら、時折仕切りの影から顔を覗かせて話しかけても、ドライヤーの音でまるで聞こえないような声量で、返事をしているかどうかも判らなかった。
 そんな山中が、小巻の実家に「頂き物の海老をお裾分けしたい」というやや強引な名目のもと交際の挨拶にきた頃から、ベッドの中にこもっているふたりの沸騰した熱がすぐに外に逃げていかないように、小巻が眠るまで緩く抱き留めていてくれるようになった。
 小巻が安心して山中との将来について考えられるようになった頃合いを見計らったかのように、小巻にとって完璧なタイミングで山中が結婚を申し込んだ。その時の山中は、汚らしいいつもの週末の居酒屋で、一日中外を回って汗と埃でズルズルになった背広と一週間分の疲れが染み込んだ顔で、何とはなしに言った。
「結婚しないか」
確か、そんな風だったと思う。寝ぼけているせいか、きっと今晩布団に入って目を瞑る頃になっても変わらない気がするが、詳しくは思い出せない。思い出そうとすると頭が痛くなるというようなこともないので、記憶を辿る脳の機能に問題があるわけでもなさそうである。プロポーズというより、結婚を申し込んだ。山中にはそういう"手応え"が遺っている。
 忘れていた煙草の灰が手元からガスコンロにぽとりと落ちて、一瞬「あ」と声を出して反射的に辺りを見回してしまう。小巻が出て行ってからは使い方も判らない食洗機の扉が綺麗なまま、鏡のように主のいないキッチンを静かに映している。そこに肩を竦めるようにして顔色を伺う卑屈な自分が映り込んでいて、山中は慣れないがつい舌打ちをした。一回目はうまく景気のいい音が鳴らせず、二回、三回と繰り返すうちに、自分が夢中になっているのはあまりにも馬鹿馬鹿しいことだというのに気がついて、次の煙草に火をつけた。さっき灰を落とした煙草は、まだ灰皿の上で半分くらいの寿命を残し、換気口に向かって一筋の煙を上げていた。
 不意に玄関の方が騒々しくなり、騒がしいままリビングに入ってくる。
「マンションなんだから、少し気遣ってよ」
「何言ってんの、もう昼間だよ。十二時。普通はお昼ご飯の、休憩の時間だよ」
紗代さよは相変わらず騒々しい口調で言い返しながら、コートも脱がずに両手に持っていた買い物袋をキッチンカウンターにドサドサと置く。マスクを外し、手洗いとうがいを済ませてから、山中の方を向いた。
裕也ゆうやくん、久しぶりだね。二日、ぶり?」
言いながら、山中にしなだれかかってくる。
紗代は山中の大学時代の後輩で、まだ若い。
 山中が在学中世話になった教授から突然電話で頼まれ、友人らと数人で現場の経験を活かした特別講義を行った。その講義が数回に渡るうち、卒業してニ、三年だった山中らと学生たちが教授を囲んで宴会を催すようになった。初めのうちは年の瀬や年度末など、時期に結びつけて誰からともなくメールが回ったが、それも学生たちの進路が定まってくると、ほとんど個人間のやりとりで山中たちに対応しうる相談だけが持ち込まれるようになった。
 そのうちの一人が村上紗代で、山中とこういう関係になったのは、三日前のことである。
 山中はこのところ小巻が何を考えているのか判らなかった。出て行ってまだ五日ほどだが、既にぼんやりとしか顔も思い出せない。記憶に薄い膜が張ったように頭がそれについてだけぼうっとしてしまい、うまく働かない。
 バチン、と硬い音をさせて紗代が換気扇を止める。山中はそれでやっと部屋が静かだったことを思い出した。
 灰皿の上の燃え切った吸い刺しと灰をビニール袋に入れながら、紗代が言った。
「奥さんもう帰ってこないんなら、わざわざ別に、換気扇の下じゃないところで吸えばいいのに」
山中はそれでやっと、自分が小巻の帰りを待っていることに気がついた。

(了)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?