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本屋の客の、個人の蔵書

第1章 本屋のたのしみ (13)

 そういうふうに本を買っていると、自分の本棚にならぶ蔵書は、関心の地図のような、頭の中の延長のようなものになっていく。

 本棚が生活空間の中にあると、背表紙や表紙が、日々の生活のなかで目に入る。かつて読んだ本であれば、そのたびに内容が頭をよぎるし、まだ読んでいない本であれば、中身を想像したり、買ったときのことを思い出したりしながら、いつか読もうという気持ちになる。

 それは自分という個人のフィルターを通って、選ばれたものだ。出費がともなうぶん、精度の高いフィルターを通って厳選されている。並べてみると、傾向が見えてくる。自分はこういうことに関心があるのかとあらためて気づいたり、並べ替えているうちに、本と本の間に接点が見えてきて、新たなアイデアが生まれたりすることもある。いわば自分用にカスタマイズされた図書館であり、これが日々の読書の拠点となり、ものを考えるときの道具にもなる。

 だから、家の近くに大きな図書館があればよいわけではない。そこに並んでいるのはあくまで共有の本であり、多くの利用者に便利であるように並んでいる。自分が私有している本は、自分の直感と財布を通じて厳選されていて、それを思い通りに並べ、生活空間の好きな場所に、いつまでも置いておくことができる。読みながら線を引いたり、考えたことを直接ページに書き込んだり、必要なページを破ることもできる。

ぼくはいろいろマーキングをしてきたおかげで、ある時期からセイゴオ式マーキング法みたいなものがほぼ確定されてきたのですが、おかげで何年かたってその本を読むとき、マーキングを追うだけでその中身が初読時以上に立体的に立ち上がってくるというふうになりました。
(……)つまり本をノートとみなすことなんです。本は、すでにテキストが入っているノートなんですよ。

松岡正剛『多読術』(筑摩書房、二〇〇九)八四~八六頁

 もちろん、せっかく出会ったそれぞれの本を大切にしたいと考え、汚すのが苦手な人もいるだろう。カバーをかけるなどして、丁寧に並べて眺めるたのしみもある。一方で、あくまで道具として使い倒し、自分なりの汚し方をしていくたのしみもあって、ぼくはどちらかというと後者のほうだ。

 生活空間も限られているから、すべてを持ち続けるわけにはいかない。けれど、たとえすべてを持ち切れず、読み切れないとしても、自分の好きなように扱える厳選した本が、部屋の一角で自分の関心を可視化してくれることは、蔵書をもつことの大きな魅力だ。それは本屋や図書館の棚とは違う、ごく個人的なものとして、ゆっくりと蓄積していく。

※『これからの本屋読本』(NHK出版)P40-42より転載


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