korekarano_note画像

読み切れなくても買う

第1章 本屋のたのしみ (12)

 本は、読めるぶんだけ買うという人もいる。読むためのものなのだから、そちらのほうがまっとうな考え方かもしれない。読むものがなくなりそうなときに、また本屋に行って、次に読む本を買う。そういうスタイルで、たくさんの本を読み続けている人もいる。

 けれど本屋を、一番身近にある世界一周の場であり、本との一期一会の場だと考えるなら、いま読んでいる本を読み終わるまで行かない、というのはもったいないとも感じる。日常のちょっとした時間に本屋に立ち寄り、そこに並んだたくさんの本の中から、一冊の本が気になって手に取ったとき、もしまだ読み終わっていない本があっても、あるいは既に読み切れないほどの本が家に積まれていても、やはり買ってしまう。

 また、そもそも「読み終わる」ということについても、人によって考え方が違う。最初の一文字から最後の一文字まで読み通して、書かれた内容をなるべく漏らさず理解し、頭に入れなければ気が済まない、という人もいる。一方で、どこからどこまででも、読んでいてもういいと思えば、そこで次の本を手に取り、また気になったら戻ってくる、という読み方をする人もいる。ぼくはどちらかというと後者で、以下の管啓次郎氏のことばが気に入っている。

 本に「冊」という単位はない。とりあえず、これを読書の原則の第一条とする。本は物質的に完結したふりをしているが、だまされるな。ぼくらが読みうるものはテクストだけであり、テクストとは一定の流れであり、流れからは泡が現れては消え、さまざまな夾雑物が沈んでゆく。本を読んで忘れるのはあたりまえなのだ。本とはいわばテクストの流れがぶつかる岩や石か砂か樹の枝や落ち葉や草の岸辺だ。流れは方向を変え、かすかに新たな成分を得る。問題なのはそのような複数のテクスチュアルな流れの合成であるきみ自身の生が、どんな反響を発し、どこにむかうかということにつきる。読むことと書くことと生きることはひとつ。それが読書の実用論だ。そしていつか満月の夜、不眠と焦燥に苦しむきみが本を読めないこと読んでも何も残らないことを嘆くはめになったら、このことばを思いだしてくれ。
 本は読めないものだから心配するな。

管啓次郎『本は読めないものだから心配するな』(左右社、二〇〇九)九~一〇頁

 本をもっと読みたいけれど苦手意識がある、という人のなかには、本は最初から最後まで読み通さなければいけない、と思い込んでいる人が多いと感じる。そういう人には、ふらりと本屋に行き、気になった本を何冊か買い込んで、少しずつ、気になった箇所だけを読むことを勧める。せっかく自分のお金を出して買うのだから、もっと気軽に、自由に読めばよい。稀代の読書家でさえ、こう言っている。

「読書」といえば、すぐに人は、その本の中に何が書かれ、それに対して、なにを感じたかばかりを考えたがる。私も、「書評」をたのまれると、つい、そうなってしまうのだが、生活の中の読書は、そんな大袈裟なものでない。
 もっと、いろいろな場所で、いろいろな時間帯の中で、いろいろな状況の中で、人はいろいろな恰好をしながら、自由で、かつ不自由な「本の読み方」をしている。

草森紳一『本の読み方 墓場の書斎に閉じこもる』(河出書房新社、二〇〇九)一二頁

 とはいえ、ぼくも昔は、読み通さないと落ち着かないほうだった。けれど、初めて自分の著書が出たあたりから、読み通せなくても気にならなくなった。本を読んだ人から「このように書いてありましたね」と言われることが、いつも「そんなことを書いたかな?」と思うことばかりなのだ。つまり、膨大な時間をかけて何度も読み返しながら書いたはずの本人でさえ、書いたことを忘れてしまうか、もしくは覚えていたとしても、本人の意図とは違う読まれ方をするものだということだ。そんなものを、無理をして読み通す必要があるだろうか。

 先にも書いたように、同じ本を読むことは、同じ目的地に旅をするようなものだ。本はひとつの場所にすぎない。読者それぞれに、それまでの人生があって、読んできた本、得てきた経験と照らし合わせながら、読み違えたり、読み飛ばしたりもしながら、その人なりに読み、また明日から生きていく。もし全員がそこにあるすべてを読み尽くしたとしても、百人いれば百通り、違う箇所を違うように読み、違うことを考えたり感じたり、何も考えなかったり感じなかったりする。完璧な読み方というのは存在しない。そう思ったら楽になって、以前よりもたくさんの本が読めるようになった。

 背表紙と表紙に書かれた文字を読み、気になった一冊を手に取る。その瞬間から、その本との関係ははじまっている。その本から自分が読み得るものを読書だとするなら、すでに読書は、本屋の店頭ではじまっているのだ。その本を買うことには、その本が自分にもたらすことへの期待そのものが含まれている。そして、なぜだかその本が気になっている自分の無意識のわからなさを、解き明かすかもしれないヒントを買うことでもある。

 その偶然の出会いを特別なものに感じながら、財布の許す限り読み切れない量の本を買って持ち帰る。これこそが本屋の醍醐味だと自分に言い聞かせながら、ぼくは今日も本を買う。

※『これからの本屋読本』(NHK出版)P36-39より転載


いただいたサポートは「本屋B&B」や「日記屋月日」の運営にあてさせていただきます。