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【短編小説】Leberknödelsuppe―修道女と偽聖女―

1 修道院の朝

 女子修道院の朝は、常に同じ時間、同じ順番で動き出す。
 毎朝陽が昇る前に鐘が鳴り、大勢の修道女が一斉に一日を始める。
 誰もが規則正しい生活で神に仕え、掟に粛々と従い、頭巾で髪を隠して質素な黒い衣で行動する。

 そうした修道女のうちの一人であるテルエスは、日々変わらぬ集団の流れの中で朝の祈りを捧げ、朝食をとった。実家を出て修道院に入ったばかりの幼いころは戸惑った厳格な規律と静寂も、二十歳を超えた今はすっかり慣れたものである。

(それにこの季節は気候が穏やかで、朝も気持ちがよいですし)

 食事を終えたテルエスが食堂から出ると、空は青く晴れて日が昇っていた。
 真っ白な漆喰が塗られた柱の並ぶ修道院の回廊を、春のやわらかな風が吹き抜ける。日差しのあたたかさに木々の葉が輝く、良い天気の朝だ。

(だけどこんなにも気持ちのいい陽気の日だと、今から外仕事じゃないことが悔やまれますね……)

 そのまま普段と同じように過ごすなら、食後は農園での労働に励むのがテルエスの日課である。しかし今日のテルエスには別の仕事があった。

 果樹園に畜舎、施療院に墓地。
 自給自足の生活の中で神に仕えることを至上目的とする修道院の土地には、様々な施設が存在する。

 そうした敷地の外れに建つ塔の地下にある、誰もいない牢獄。

 稀にその場所が使われる際、牢番として罪人の世話をするのはテルエスの役目だ。今日は久々に都から罪人が送られてくることになっているので、テルエスは牢獄に人を迎える準備をしなければならない。

 牢番としての仕事を果たすため、テルエスは水の入った桶や箒を用意して牢獄のある塔を掃除しに向かった。修道院は基本的には明るく清潔が保たれているが、牢獄は例外的な場所であった。

 牢獄は逃亡を防止するために地下に設けられ、梯子がなければ使えない落とし戸の他は手の届かないほどの高さにある小さな格子窓しかない。簡素な石造りのその狭く暗い空間は、冬は凍死してしまいそうなほどに寒いが、今は春なのでむしろ湿気で少々じめじめしているのが不快である。

 牢獄に下りたテルエスは、窓から吹き込んできた小枝や葉を箒で集めて捨てると、石床や石壁を雑巾で拭いた。
 半分土牢のようになってしまっている古い牢獄は、掃除をしてもそうたいした成果はない。だが一応は、清掃を続けた。

 途中でたまたま他の修道女が塔の前を通りかかる。彼女は鉄格子の窓から牢獄を覗きこんで、中のテルエスに尋ねた。

「随分頑張っているみたいだね。一晩かそこらしかいない罪人相手に、そこまでする必要はあるの?」

 テルエスと同じ服装で同じ生活をしていても思考は違う彼女は、罪人には薄汚れた場所で十分ではないかと言いたげな、不思議そうな顔をしていた。
 土ぼこりで汚れた服の裾をはらいながら立ち上がり、テルエスは窓の外の質問者に返答した。

「さあ、どうなんでしょうね。だけどここに人が来るのはたまにしかないことですし、やれるだけはやろうと思います」

 テルエスが牢番の係を引き継いでから、今回が初めての罪人の収監である。
 特別情け深くあろうと思っているわけではないが、自分の役割には忠実でありたかった。

 深い意味のある問いではなかったらしく、同輩は「なるほど、そうなんだ」と頷いて去って行く。特に引っかかることもなく、テルエスの受け答えに納得した様子であった。
 一人に戻ると、テルエスは再び掃除を続けた。

 ◆

 どんな罪人が今日この牢獄にやって来るのか。
 その人物について、テルエスはいくつか噂話を聞いていた。

 修道院はひたすら神と向き合う生活を送るためにあるので、通常は人里離れた場所に建てられることが多い。だがテルエスの所属する女子修道院は王国の都にほど近い丘陵に位置する大修道院の中にあるため、世俗の情報自体は比較的よく入ってくる。

 テルエスが耳にした話をまとめると、送られてくる罪人は聖女の名を騙った殺人者の女であるらしかった。

 王国の王は奇跡や聖遺物に並々ならぬ関心を持っており、国中から聖人や聖女をよく招いていた。だからその日も国王は、自身の血で病人を癒すことができる聖女だと辺境の民に慕われる若い女を呼び寄せていた。

 しかしその聖女は都への道中で一人の女に殺され、殺した女が聖女になりすまして国王の元にやって来た。

 聖女のふりをして王に謁見した偽聖女の彼女は、奇跡を起こすために用意されていたナイフを手にするとそのまま国王を刺し殺した。
 彼女はその場で捕らえられたが、心臓を一突きにされた国王は絶命した。

 その聖女と王を殺した女が、テルエスが迎える罪人だ。

 調べによると彼女は国王が聖戦と称して行った戦争により滅ぼされた土地の出身で、故郷を失った後は王国と敵対関係にある隣国に刺客として雇われていたという話である。

 国王はそう評判の良くない君主であったが、急に殺されれば国は混乱した。騒ぎを鎮めるため残された臣下たちは、まずは王を殺した女を見せしめに処刑することを決めた。
 聖女を殺した罪と、聖女の名を騙った罪、そして神から王権を与えられた王を殺した罪により、偽聖女は死刑になる。彼女は神に背いた大罪人として大修道院で行われる宗教裁判で裁かれるためにこの牢獄に送られてくるのであり、都の大臣たちにより結果の定められた形式的な裁判の判決はすぐに下る。

 テルエスの聞いた話がすべて真実であるなら、事情はどうであれ、彼女は処刑されても仕方がないだけのことはやっている。
 しかし日々のほとんど修道院の中だけで生きているテルエスにとっては、聖女殺しも王殺しも現実感のないどこかの誰かの話で、見知らぬ人間を憎んだり恐れたりはできない。

(裁くのも罰を与えるのも、私の役目ではありません。私がやるべきことは、牢番の係として牢獄に来る人を迎えることですから)

 神から与えられた使命をどう果たすかだけが、テルエスが考えることである。
 ただ日々田畑を耕すのと同じように準備を進めて、テルエスはやがて会うことになる彼女を待った。

2 都からの来訪者

 牢獄の掃除のついでに塔の上の階の掃除もしたテルエスは、作業を終えると礼拝堂で昼の祈りに加わり昼食を食べた。
 食後の自由時間は、図書室で本を読んで過ごす。
 図書室には他の修道女も何人かいたので、静かなわりににぎわいがあった。

 そしてちょうどまた労働が始まる時間になって図書室を出たころ、修道女見習いの少女がテルエスの元にやって来た。

「テルエス様。都からの馬車が着いたようです」
 少女はまだたどたどしさの残した声で、門番からの伝言を届ける。
「今、行きます。知らせてくれて、ありがとうございます」
 見習いの少女にお礼を言い、テルエスは門へと向かった。

 到着は予定通りの時間で、心の準備も万端である。

 大きな石を組んで造られた城壁に設けられた重々しい正門の方へと歩いて行くと、護送でやって来た都の兵士の一団が見えてきた。裁判が終わるまでは隣接する男子修道院にある巡礼者向けの施設に泊まる予定の彼らは、女子修道院の敷地を興味深げに眺めている。
 さらに近づけば、中でも一段と身なりの整った兵士の男が話しかけてきた。

「あなたがテルエス殿ですか?」
「はい。私です」
「護送の責任者のラーシュです。罪人を引き渡しに参りました」

 テルエスが返事をすると、男は名乗った。
 まだ若く見えるが、鎖帷子も剣も立派なのでおそらく地位のある人なのだろう。

「おい、連れてこい」

 男が配下の兵士たちに声をかけると、一人の兵士が金属製の手枷で拘束された女性を引っ張ってきた。
 その人が今日牢獄に送られてきた人間であることは、状況からすぐにわかった。だが彼女が想像していたよりもずっと美しかったので、テルエスは思わず驚いた。

「あの、彼女が」

 連れてこられた女性と責任者の男の顔を交互に見て、テルエスはまとまりのない言葉で尋ねた。

 まず印象的だったのが、冬の湖畔に似た色をした青みがかった灰色の目だった。
 綺麗な色合いの凛として形の良い瞳が、テルエスの存在を意図的に無視してよく晴れた空を見ている。

 立ち振る舞いに育ちの良さはなく、やせた体に粗末なぼろ布の服を着ているのに、顔立ちは不思議と端正で知的だ。後ろで一つに束ねられた黒髪はほつれていたが、梳けばきっと美しいものになるだろう。

(この方があの残虐な事件を起こした刺客ですか……?)

 テルエスは自分がどんな反応をするべきか、判断に困った。少なくとも人を二人は殺しているはずの女性だが、ひと目見ただけではとてもそうは思えない。
 だが男の方は、まったく迷いなく彼女を罪人として扱った。

「そう、この女が大罪人スヴェア・ノルデンです。明日裁かれて死ぬ女です」

 吐き捨てるように、男が彼女の名前を告げる。
 彼女がスヴェアという名前であることを、テルエスはそのときに知った。

 男がスヴェアのことを悪し様に話しても、スヴェアは何の反応も見せなかった。どうやら誰に対してもまともに相手にならないことを決め込んでいるようだ。

「獄に繋ぐまでは、私も同行します。牢獄はどちらですか、テルエス殿」

 スヴェアにはめられた手枷へと繋がった鎖を配下の兵士から受け取り、責任者の男はテルエスに案内を頼んだ。

「あ、はい。こちらです」

 自分の名前を呼ばれたことで、テルエスは慌てて我に返って歩き出した。修道院の敷地は広大で、目的地まではいくつか道を曲がらなければならない。

 男が鎖でスヴェアを引っ張り、テルエスに続く。
 スヴェアは渋々男に従い歩いた。

 三人は何の会話もなく、庭や建物を通り過ぎて黙々と進む。
 見知らぬ人が一緒であるせいか、塔への道のりは先程よりもずっと時間がかかる気がした。

 そしてしばらく移動してやっと、一行は牢獄に辿り着く。

 牢獄に着くと、責任者の男はテルエスが何か言う隙もなく行動した。
 手際よく牢獄の壁に固定された金具にスヴェアを拘束する鎖を留め、仕事を終える。

「ではまた明日、裁判場へ連れて行く際に参りますので」

 最後に翌日の予定を軽く説明し、男は梯子を登って去っていった。スヴェアを指定された場所に連行することだけが、都からやって来た騎士としての彼の役目なのだ。

 気付けばあっという間に、テルエスは牢獄でスヴェアと二人きりになっていた。

 スヴェアは早速、テルエスが掃除したばかりの牢獄の床に腰を下ろしていた。手枷の鎖の長さにそれなりに余裕があるため、座ったり寝転んだりすることは可能なようだ。
 手持ち無沙汰な様子で手枷の金具を弄んでいるスヴェアを前に態度に迷いつつも、テルエスは挨拶をした。

「牢番のテルエスです。短い間ですが、よろしくお願いします。スヴェア、さん」

 讃美歌ではいつもアルトになるテルエスのやや低い声が、石壁の部屋に響く。

 自分の名前を呼ばれたスヴェアは、灰色の目でほんの少しだけテルエスの方を見た。出会ってから少々の時間はたっているが、わずかでも視線を交わしたのはこれが初めてである。
 スヴェアの目は何回見ても綺麗で、テルエスは一瞬見惚れてしまった。

 だがスヴェアは何も言わずに冷ややかに笑うと、すぐにまたテルエスを無視して横を向いた。その沈黙の奥には、暗く深い諦めがあった。
 自分の罪を知りながらも、許しを請わない者の意志。血に汚れた罪人のスヴェアと修道女のテルエス人生は、決して越えられない遠さで隔たっている。

(やっぱり、この方は人を殺しているのですね)

 テルエスはそのとき、スヴェアが紛れもなく罪を犯した人間であることを確信した。スヴェアの佇まいは、単純に悪人には見えない。だけど無実の者であるはずもないだけの翳りを彼女は持っていた。

「水はここにあります。また夕食のときに来るので、なくなったら言ってくださいね」

 隅に置かれた水差しを指さしもう一度声をかけてみるが、スヴェアの反応はない。スヴェアの美しく整った横顔は完全にテルエスを拒絶していた。

(どうやら出直すしかないようです)

 少しも会話が成立しないまま、テルエスは仕方がなく牢獄を後にする。

 無視されるのは残念なことではあるが、仲良くなれると思っていたわけではない。
 テルエスは傷つくこともなく、気持ちをすぐに切り替えた。

3 肉団子入りのスープ

 梯子を外して落とし戸を閉め、テルエスは牢獄のある塔を出た。昼食を食べてから案外時間は過ぎていて、日は傾きかけていた。

(あと私がやることは……夕食の調理、ですね)

 テルエスは前任の係からの引き継ぎの内容を思い出しながら歩いた。

 牢番の役割には当然囚人の食事の準備も含まれており、さらにその食事は修道院の規則上の理由から通常の食事と同じ鍋で作ることを禁じられていた。
 つまりスヴェアには自分たちとは別の料理を用意しなくてはならず、いつもは食堂で用意された料理を食べているテルエスも今日は何かを作らなければならないのだ。

 普段あまり料理をしないので、正直腕に自信はない。しかしそれが牢番の役割なのだから、やるより他はなかった。

 テルエスはささやかな覚悟を決めて、厨房のある棟に向かった。

 火を扱う厨房は、火事の際の延焼を防ぐために宿舎や礼拝堂とは離れた場所に建つ。熱気のこもる室内では料理人長とその下で働いている修道女が、石窯でパンを焼いたり、炉の上に掛けた大釜でスープを作ったりしている。

 厨房の中に入ったテルエスは前掛けをすると、その片隅を間借りして料理を始めた。作るのは、肉団子と野菜の入ったスープである。理由はテルエスの好物だからだ。

 テルエスはまず、肉団子を作るためにあらかじめ前日から水に浸しておいた小麦を茹でて、すり鉢でつぶした。
 つぶした小麦から粘り気が出たら、今度は肉切り台の上に広げた鶏のレバーを包丁でひたすら叩いて細かくする。ミンチにしたレバーをつぶした小麦に加え、さらにバター、塩胡椒を入れて味をつけ、ヘラでよくかき混ぜる。臭みを消すために、粉末にした香草も入れた。

 そうして出来上がったレバーペーストをスプーンを使って球状にまとめて、テルエスは一つ一つ丁寧に肉団子を作った。柔らかなペーストであるので、団子にするのも一苦労である。

(好きな料理だから選びましたが、作るのは大変ですね。もっと楽なものにしておけばよかったでしょうか。だけどあの人にとっては最後の食事かもしれないのだから、そう適当なものを作るわけにはいけませんし)

 テルエスは慣れない手付きで肉団子を作りながら、自分の選択について考えた。
 一応厨房にいる修道女にレシピを聞き、何度かは練習した献立ではある。しかしいざ本番を迎えると、もともとなかった自信がさらに目減りした。

 いくつか拙い形のものがありつつも肉団子の原型が完成したので、次は野菜をみじん切りにした。にんじんと玉ねぎと根セロリの三種の野菜だ。
 玉ねぎは食欲不振に効き、根セロリは爽やかな風味が肉とよく合うとのことである。包丁を持つ手は重くゆっくりとした調子でしか切れないが、角型に刻み終わった野菜はころころと小さくて可愛らしい。

 具がすべて準備できたところで、炉に掛けた鍋にバターを入れて溶かして野菜を炒めた。
 バターの香ばしい匂いがあたりに広がる。
 ある程度野菜に火が通ったら、水を加えて蓋をし強火で沸騰させた。
 厨房は暑く火の近くによると汗ばんでしまううえに、炉からの煙にときおり咳き込みそうになる。

 ぐつぐつと煮立った後は蓋を取り、鍋置きの下で燃えている薪の場所を火かき棒で調節して弱火にした。
 火が落ち着いたところで、形が崩れないようにそっとレバーの肉団子を入れる。

 そして火加減を見つつ、肉団子と野菜をしばらく煮込む。
 火の通った肉団子が浮き、野菜がよく煮えたら、最後に香りづけに手で千切ったハーブを入れ、塩胡椒で味をととのえて完成だ。

 火から鍋を下ろすと、中には澄んだ色をしたスープが肉団子とともに良い匂いをさせていた。野菜と香草が多めに入っているので、地味な料理ではあるがなかなかの彩りだ。

(ようやく終わりました……)

 テルエスはほっとした気持ちで、味見のために少しだけ椀によそって食べてみた。

 どきどきしながら木の匙で自作のスープを口に入れると、素材の味が濃く詰まったスープはまろやかで飲みやすく、みじん切りの野菜も自然の甘みがあった。
 少なくとも大きな失敗はなさそうなことに安心し、次は肉団子を頬張る。

 肉団子は塩胡椒の下味がしっかりとついていて、小麦が入っているおかげでほどよいとろみのついたやわらかさだった。噛めば肉の旨味が口の中に広がり、じんわりとバターのコクとともに溶けてほどけていく。根セロリとハーブの爽やかさも、肉団子の味を引き立てる良いアクセントになっていた。

(形は悪いですが、やっぱり小麦入りの肉団子は美味しいですね)

 思わず笑みをこぼしつつ、椀に入った残りも食べる。
 料理人が作った一品に比べれば雑な仕上がりだが、テルエスが作ったものの中でなら会心の出来栄えだった。

 味見に満足した後は、使った調理道具を片付けた。
 窓の外を見て頃合いを確認してみれば、ちょうど夕暮れになっている。食事を運ぶのに良い時間だ。

 テルエスはパンを焼く係の者にライ麦のパンを何切れかもらい、スープを入れた蓋付きの器と一緒に厚手の布に包んだ。パンまで自分で焼くのは、さすがに無理だった。

(冷めないうちに、持っていきましょう)

 牢獄のある塔までは、少し距離がある。テルエスは包みを持ち、囚人のもとへと急いだ。

4 修道女と偽聖女

 塔に着いたテルエスは、落とし戸を開けてスヴェアに声をかけた。

「夕食を持ってきました。今、そちらへ行きますね」

 返事はもちろんない。
 牢獄の中を覗くと、スヴェアはテルエスに背を向けて座っていた。
 テルエスは梯子を使い牢獄に下りた。スープとパンの入った包みを持ったまま梯子を下りるのは、少々骨が折れる。

「献立は肉団子と野菜のスープと、ライ麦のパンです」

 何とか梯子を下りきり、テルエスはさらに食事の内容の説明をした。
 しかしなお、スヴェアの後ろ姿は反応を示さない。

 日が落ちて暗くなっていたので、テルエスは火付け石で蝋燭に火を灯し燭台に立てた。小さな炎が、狭い牢獄をぼんやりと照らす。

(彼女は私を試しているのでしょうか。それなら……)

 引き下がる気になれないテルエスは、スヴェアの正面に回り込み自分も腰を下ろした。
 薄明かりの中で見えたスヴェアの顔は夜の月のように美しく、確かに王が彼女を聖女だと信じたのも納得できる雰囲気がある。

 問答無用で覗きこんでくるテルエスを避けて、スヴェアが怪訝そうに移動する。
 テルエスは構わずにスヴェアの前に包みを置いて開いた。

「これ、私が作ったんですよ」

 蓋を開けると、厚手の布のおかげでまだ温かいスープが白い陶器の中から湯気を上げた。
 石壁に囲まれた無味乾燥な世界に、食欲をそそる肉団子の匂いが急に広がっていく。

「このままでは食べにくいでしょうから、片方の手枷は外しましょう。手を出してください」

 テルエスは一緒に包んで持ってきたスプーンをスープに添え、修道服のポケットから護送の責任者から預かった鍵を出した。

 しかしやはりスヴェアは目を合わせないまま、黙り込んでまったく動かない。

 行き場のない鍵を困ったように差し出したまま、テルエスはじっとスヴェアの方を見た。

「せっかくですから、食べてほしいのですけど」

 腰の低い姿勢で頼んではいるが、譲る気はない。

 テルエスが沈黙に耐えて反応を待っていると、無言を諦めたスヴェアが渋々口を開いた。

「そのうち処刑される人間に良い物を食べさせたところで無駄なことなのに。修道女様はお節介だね」

 初めて聞いたスヴェアの声は、落ち着いた外見から想像していたより甲高い、幼さを残したものだった。勝手に自分とそれほど変わらない年齢だと思っていたが、もしかするとまだ少女に近い年齢なのかもしれない。

 テルエスはスヴェアの声を聞けたことと、またやっと会話が生まれたことに嬉しくなった。

「食事を用意するのが、牢番の私の役割ですから」
「それにしても、張り切り過ぎでしょ。罪人相手に気を遣って、馬鹿みたい」

 テルエスは静かに微笑んで、スヴェアの疑問に簡潔に答える。
 するとスヴェアは、床に置かれたスープを仏頂面で一瞥し、蓋を戻して遠ざけ拒絶した。

(とりあえず、手間は伝わったみたいですね)

 決して喜んでもらえたわけではないが、テルエスは料理を貶されずにすんだことには安心した。慣れない作業は面倒だったが、努力も少しは報われた気がする。

 スヴェアは悪態をついてくるが、無視され続けるよりは困らない。
 テルエスはたいして悩むことなく、偽善者扱いしてくる言葉に反論を加えた。

「訪ねてくるのがどんな人間であったとしても、人が来ればもてなしたくなるものではないでしょうか。神に祈るのと同じ、人の性です」

 テルエスは淡々と持論を述べた。

 しかしそれはもちろん、神に背いた殺人者であるスヴェアには簡単に届かない。
 スヴェアは冷え冷えとした目でテルエスをにらみ、ばっさりと言い捨てる。

「祈りだって、何も変えられないでしょ。神様ってやつは悪人には甘くて、善人には厳しい。だいたいそういう行為に意味があるのなら、何で私は神の加護があるはずの聖女と王を殺せたの?」

 スヴェアがテルエスをきつくなじる。
 その言葉は、テルエスとテルエスの信仰するものを責めたてていた。

 スヴェアは戦争により故郷を失った過去を持つと、噂話で聞いている。
 自分から語ってはくれないが、奪われ負け続けた人生の中でスヴェアの祈りは裏切られてきたに違いない。

 神を疑うことなく信じる修道女と、聖女と王を殺した偽聖女。

 きっとスヴェアの目に映るテルエスは嫌になるくらいに清廉で痛みを知らず、持たざる者を苛立たせる存在なのだろう。
 神に愛され奇跡を起こしていた聖女や、神に繋がるものを常に探し続けていた国王と同じように、もしかするとテルエスも殺害の対象に入るのかもしれない。

 しかしその深い溝について理解していても、テルエスが怯むことはない。
 自分をにらむスヴェアの視線を、目をそらすことなく受け止める。

「全部無意味だと思ったから、人を殺したんですね。だからあなたは明日裁かれて死ぬ。でも、あなたは本当に何も感じていないのですか?」

 結局は自らの意志で罪を重ねてきたスヴェアの思考を、テルエスは想像して辿ってみた。

 善人が死に悪人が生き残る現実を前に奪う側に立つことを正当化して、自らの命の価値も捨てたスヴェアの選択。それは非もなく殺される側からしてみれば迷惑極まりないし、当然許されるものではない。
 そして現に、スヴェアはその代償を支払って死ぬことが決まっている。

 だがテルエスには、その何もかも空虚だと言い張るスヴェアが隠しているであろう負い目にこそ、偽りない真実が含まれているように思えた。

 するとテルエスのそうした考えに気付いたのか、スヴェアはまたテルエスを馬鹿にしてみせた。

「残念だけど、私に罪悪感を抱けるほどの良心はないよ。あの聖女だっていう胡散臭い女も、私に騙された馬鹿な王も、皆気に入らなかった。私に機会を与えてくれたお隣の国には感謝してるし、後悔だってしてない」

 澄んだ声と綺麗な顔でせせら笑い、スヴェアは殺した相手と主だった敵国について語る。テルエスには強がりにしか見えないが、本当に心の底から開き直っている可能性も多少はある。

 しかしテルエスとしては、スヴェアがどんな大罪人であったとしても自分の立ち位置が変わるわけではなかった。

「その言葉が嘘ではなかったとしても、私はあなたにこのスープを食べてほしいと思いますよ。この肉団子のスープは、私の好きな料理ですし」
「あなたの好きなものが何かなんて、心底どうでもいいことだね」
「そうなのかもしれません。でも……」

 奇妙な説得を続けるテルエスに、スヴェアがあきれる。

 テルエスは微笑み、スープの入った陶器を再びスヴェアの方に置いた。
 そして重い手枷であざのできたスヴェアの腕に、そっと手を伸ばす。

 冷えたスヴェアの手にテルエスの手がふれる。

 急な接近に思わずたじろいだスヴェアは、華奢な肩を震わせてテルエスから離れようとした。

 だがテルエスはそのまま手枷を掴んで鍵を差し込み、片方だけを開錠した。かちゃりと音を立てて、手枷は半分外れた。

 自由になった右手を見て、スヴェアは不服そうな様子で顔を上げた。
 ぼさぼさの前髪の下からのぞく瞳が、テルエスを射抜く。どうしてもテルエスの真心が気に入らないようだ。

(だって両手に枷をしていたら、スプーンが使いにくいじゃないですか)

 蝋燭の明かりだけに照らされた、暗く狭い牢獄の中。

 黒い衣を着込み頭巾で髪を覆った修道女と、粗末なぼろ布の服を着た長い黒髪の罪人が鏡のように向かい合う。

 テルエスはまだ枷のついている方のスヴェアの手を両手で包んで、目を閉じた。

「意味がなくても、今はあなたのために祈ります。例えば雪山で凍えて死ぬのだとしても、一人で死ぬよりも誰かが手を握っていた方が、同じ凍死でも暖かいでしょうから」

 なぜか唐突に、テルエスの故郷の雪景色が思い出される。

 もしも今二人が雪山にいたとしても、きっと死ぬのはスヴェアだけでテルエスは生きるのだろう。

 運命は二人を同じ場所には運ばない。
 だが一瞬だけ、二人は道をすれ違ったのだ。

 テルエスは目を開けて、明日死刑になる少女の顔を見た。

 スヴェアは虚を衝かれたように、呆然とテルエスを見つめていた。
 綺麗な灰色のスヴェアの瞳が、小さく揺れてテルエスを映す。

 しかし二人が見つめ合っていたのは短い時間で、すぐにスヴェアは怒ったような表情になってテルエスの手を振り払った。

「だけど私の目の前にいた人は、手を握ったくらいじゃどうにもならずに苦しんで死んだよ」

 スヴェアがテルエスに背を向けてつぶやく。
 か細い声は静かに響いたが、その肩はかすかに震えていた。

 憤りの裏に垣間見える、おそらく深く傷ついているのであろうスヴェアの本心。
 大人びた態度の下に隠されていた本当の声は、今にも泣き出しそうな弱い子供のものだった。

 スヴェアの過去にあったらしい理不尽を知らないテルエスには、反論を許されることはない。
 しかしテルエスには、それが完全な拒絶には思えなかった。

 駄目押しで再度スープの入った器とパンをスヴェアのすぐ横に置いてから、テルエスは立ち上がった。
 いろいろと理屈を並べてみたものの、結局のところは苦労して用意したものだから食べてもらわなければ気が済まないだけなのかもしれない。

「では晩の祈りと夕食があるので、私は行きますね」
「……せいぜい勝手に祈ってれば」

 テルエスが梯子に手をかけると、スヴェアがやせた背中を向けたままぽつりとつぶやく。

「はい。そうさせていただきます」

 後ろ姿のスヴェアに微笑んで、テルエスは準備した夕食を無事に置いて牢獄から出た。

5 食堂の夕食

 牢獄を去ったテルエスは礼拝堂で晩の祈りを行い、その後は夕食を食べるために食堂へ向かった。

 食堂は何十人もの修道女が一度に食事をとる場所であるので、白い石造りの部屋には長机や長椅子がいくつも並んでいる。
 テルエスは後方の定席に座り、机の上に並ぶ蝋燭の炎を見つめていた。食事もまた神の恵みを讃えるための時間であるので、無駄話をする者もなく食堂は静寂に包まれている。

 やがて給仕当番の修道女が配膳台を転がしながらやって来て、まずは空の深皿にスープを注ぎ、パンをそれぞれの席に置いて回った。

(あの色合いは、エンドウ豆のスープでしょうか)

 深皿に注がれるスープの薄い緑色を眺めながら、テルエスはポタージュの素材について考えた。
 全員にスープが行き渡ると、前方の説教壇に立つ朗読係が食事の始まりを告げる短い祈りの言葉を述べた。

「この食事に祝福を」

 修道女たちはその言葉を復唱し、食事をとった。
 テルエスも復唱し、スプーンを手に取りゆっくりとスープを食べ始める。

(あ、これはキャベツのポタージュですね)

 さらりとのどごしの良いピュレ状のポタージュを口に含み、テルエスはその春らしい甘みからそれがキャベツのスープであることを知った。
 新鮮な春キャベツの風味をなめらかなクリームでまとめたポタージュは、やさしくさっぱりとした味である。

 そして二口、三口とじっくりと食べ進め、他にタマネギやクレソンなどの素材も複雑で深みのある味わいを作っていることに気付く。ハーブがふんだんに使われたスープはすっきりとした後味で、旬の野菜の濃密さに爽やかな香りが効いていた。

(やっぱり料理人の方が作ったスープは素晴らしいですね。自分で作ったものも良いですが、人に準備してもらえた料理の美味しさはまた格別です)

 テルエスはスープを食べながら、先ほど自分が作った料理のことを考えた。
 あれはあれでよくできたと満足していたが、やはり今この目の前にある料理の方が出来栄えが良いのは間違いない。

 説教壇に立つ朗読係の修道女は、聖書に語られるいにしえの預言者の物語を粛々と読み上げていた。

 その静かな声に耳を傾けながら、テルエスはパンに手を伸ばした。
 パンはスヴェアのスープに添えたものと同じライ麦のパンで、焼かれてから日が経っていないためまだ少しやわらかかった。

 薄切りにされた茶褐色のパンをちぎってよく噛んで食べれば、ほのかな酸味と穀類の味が口の中に広がる。パンの中にはもちきびやくるみも入っていて、それぞれの食感も楽しく食べごたえがあった。スープに浸して食べてみても、味が変わってもちろん美味しい。

 そうしてスープを食べ終える頃合いになると、給仕係が最後にメインとなる料理を運んで来る。今日の大鍋の中身は鶏肉とキノコの煮込み料理だ。

(とてもいい香りですね。ワインが使われているのでしょうか)

 テルエスは皿に盛りつけられた鶏肉をじっと見た。骨のついた鶏のもも肉が、しめじやまいたけとともに赤ワインのソースで栄養たっぷりに煮込まれている。その華やかな香りを堪能しながら、テルエスはフォークとナイフを手にとった。
 ナイフの通りがよく、すぐに切れる肉だった。テルエスはまだ湯気を上げている鶏肉を、ほどよい大きさに切って口に運んだ。

 その瞬間、ふわりと口の中でソースと鶏肉の芳味が広がる。

(すごくやわらかくて、でも脂っぽさがなく身体に良さそうな心が和む味です)

 テルエスは熱々に調理された鶏肉を、十分に時間をかけて味わった。

 鶏肉は皮を取り除かれて一度焼かれているため脂がおちてくどさがなく、なおかつ旨味を失わずにやわらかく煮込まれている。具材の味が溶けこんだ赤いソースはじっくりと熟成されたワインからできた風味豊かなもので、鶏肉をまろやかなとろみで包んでいた。
 そしてさらに隠し味に入ったにんにくや臭み消しの香草が、料理を飽きのこないしっかりとした味にしている。しめじやまいたけの方も絶妙に歯ごたえがあり、鶏肉の出汁がしっとりとしみていた。

(今日もこうやって美味しいものを食べることができて、私は本当に幸せです)

 料理した人の気遣いが伝わる一皿を味わい、テルエスは心を満たされた気持ちになった。

 ふと目を上げると、他の修道女たちもテルエスと同じように黙々と食事と向き合っている。

 朗読係が読み上げる聖書の言葉と、そして時折食器にナイフがあたる音が響く他は何の音もしない静寂。机の上に並ぶ蝋燭の揺れる光に照らされて、テルエスは心地の良い沈黙と安らぎの中にいた。

(私の作った料理も、スヴェアをこうやって満たしていてほしいです。あのスープを美味しく食べてもらえたなら、それが私が彼女に出会った意味でしょうから)

 その他の大勢がいる部屋に身を置きながら、テルエスは牢獄に一人でいるスヴェアのことを最後に思い出す。
 それは普段の農事を終えた一日の終わりとは違う、不思議な気持ちだった。

 テルエスとスヴェアでは、居場所も食すものも別である。

 だが食べるという行為によって得る穏やかな時間は同じであってほしいと、テルエスは思った。

6 火刑の空を眺めて

 そして翌日。

 予定通り護送の責任者の男が迎えに来て、スヴェアは裁判場に送られた。

 スヴェアが去ったので、テルエスは片付けのために牢獄に入った。

 格子窓から朝日が差し込む朝だけは、牢獄はやたらまぶしいくらいに明るい。
 テルエスはその光の中でまず、食器が重ねて置いてあるのを見つけた。手にとって確認してみると、中身はすっかり空である。

(ちゃんと食べてくれたんですね)

 テルエスは空の食器を見て、ほっと胸を撫で下ろした。
 スヴェアは頑なにテルエスに反発していた。テルエスは出来る限りのことをしたつもりだったが、意地を張られて食事を残される不安も一応はあった。

 だが最後にはスヴェアが折れて、スープを食べた。テルエスの努力は無駄にはならなかったのだ。

 殺人者である大罪人を心を込めて迎える必要はない、と言った人もいる。罪人自身も、処刑される人間である自分をもてなすのは馬鹿馬鹿しいことだと笑った。

 しかしテルエスは、死ぬことが決まっているスヴェアだからこそ、最後に少しは美味しいものを食べてほしかった。犯した罪は重く死ぬのが当然の罰だとしても、何もかも奪われるべきだとは思わない。

 スヴェアにとっての幸せが何だったのか、テルエスに理解する方法はない。
 だが少なくともテルエスの作ったスープを食べているそのときだけは、孤独ではなかったと信じたかった。

 空の食器を布で包むと、テルエスは燭台に残った蝋燭の燃え残りと水差しを片付け、持ってきた箒で軽く全体を掃いた。

 囚人はいなくなり、テルエスの牢番としての役目も終わったのである。

 ◆

 その後、スヴェアは聖女の名を騙った大罪人として宗教裁判で裁かれ、都の大臣たちが望んだとおり火刑に処された。

 罪状は明白でスヴェア自身もすべて認め、誰もが彼女を有罪だとした。
 スヴェアが許されざる罪を重ねたことは真実なので、火刑という判決もきっと間違いではないのだろう。

 処刑は都と大修道院の間にある川の河原で行われ、その灰は川に流されることになった。
 火刑による煙は、テルエスが耕している農園からもよく見えた。
 
 雲一つない青空に、黒い煙が細くたなびいて上っていく。
 テルエスはその様子を、鍬を置いて見上げた。風の穏やかな、春の凪いだ天気の午後のことである。

 嘘のように遠い死を眺めながら、スヴェアがどのような最後を迎えたのか、テルエスは少し想像してみた。

 見物人の野次馬に囲まれていても、スヴェアはきっと可能な限り毅然と振る舞っただろう。あの綺麗だったスヴェアが焼かれる様子は、もしかしたら本物の聖女のように見えたのかもしれない。

 だがその心が何を感じていたのかは、今はもう考えてもわからなかった。

 テルエスの作ったスープは彼女のその死を安らかにしたのか、余計につらくしたのか、それとも何も変えなかったのか。テルエスがその答えを知ることはない。

 鍬を再びしっかりと握り、テルエスはこれからの農作業のことを考えた。春は土づくりや種まきなど、やることがたくさんある。

 最後にスヴェアが炎の中で脳裏に描いたのは失った故郷の人か、殺した聖女か、自分を聖女だと信じた王か、もしくは。
 それもテルエスにはわからないことなのだ。



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