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【短編小説】少女は宴の夜に死ぬ/南の国の章(後編)

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8 奇妙な嫁入り

 帆がいくつもついた巨大な帝国の木造船は潮の流れに乗って海上を進み、ハルティナと積荷の品物を半月もしないうちに大陸の港へ運んだ。

 港のある土地は同じ夏の季節でも、ハルティナの国よりも涼しい場所だった。

 大嘉帝国の帝都があるのは内陸部であるので、港から先は河船に乗り換えて大規模に整備された運河を移動する。
 海でも運河でも旅は嵐に遭うこともなく順調で、ハルティナは外港から五日ほどで帝都の整備された街並みを見ることになった。

(ここが、大嘉帝国の都か)

 都の中央にそびえ立つ鼓楼や、翼を広げた鳥のような形に曲線を描く屋根が優雅な宮殿の遠景、煉瓦造りの屋敷がどこまででも続く眺めを船上から見て、ハルティナは帝都の豪壮さに感心した。

 最初に着いた港や運河沿いの街の活気からも帝国の繁栄は感じていたが、帝都の規模の大きさにはまた驚かされる。
 故郷であるチャンティク王国の王都や聖都も美しさでは負けてはいないとは思うのだが、都の広さや建物の巨大さから読み取れる国力はやはり大嘉帝国の方が勝っていた。

 やがてハルティナの載った河船はいくつかの水門を越えて、宮殿の敷地の外れに設けられた人工池に到着した。

(どうやらここが、旅の終点のようだな)

 船を降りればそこには、池に囲まれる形で建った大きな居館があった。鮮麗な赤や緑の塗料で彩色された、華やかな外観の居館である。

 居館の前には薄青色の衣を着た女官の集団が待っていて、声を奪われているかのように無言でお辞儀をしてハルティナを迎えた。

 王国からここまでハルティナを送ってきた青年は、軒に花の飾りのついた門を開けて中へと案内した。

「こちらが大帝に召されるその日まで貴方がご滞在することになる居館、饗花宮きょうかきゅうでございます。これから貴方は大帝の花嫁である犠妃としてこの饗花宮で最高の暮らしを送っていただくことになります。どうぞ中へ、お進みください」

 青年が呼んだ居館の名前は、意味は分からずとも仄暗い響きを持っているように思えた。

「一国の王女の私にわざわざ最高の暮らしを教えてくれるとは、ありがたいことだ」

 深紅に染められた更紗の衣に合わせて着た薄絹の上着を羽織り直し、ハルティナは皮肉を交えつつ青年に従った。

 青年の言葉に従って門をくぐれば、内側には強い陽差しを遮るように植えられた木々の緑が綺麗な中庭があった。
 ちょうど棗にはささやかな黄色の花が、石榴には鮮やかな赤色の花が咲いていて、花の色は情緒豊かに夏の陰影を彩る。

 青年はハルティナを連れて中庭を一周する形に設けられた渡り廊下を進み、流水紋の浮き彫りが立派な扉の前で立ち止まった。

「搬贄官は犠妃となった方を帝都にお連れする役職ですから、僕の役目はここまでになります」

 そう言って青年が扉を丁重に開いてハルティナを中に通すと、金と銀の装飾が施された柱と唐草文様の絨毯が見事な部屋には、葡萄色の漆塗りが艶やかな円卓と、その卓上に茶の用意をしている一人の男がいた。

 ハルティナと比べて十歳は年上に見えるその男は、客人の存在に気が付くと無愛想な顔つきで黙って顔を上げた。

 男は故国では大柄な方であったハルティナよりもさらに背が高く、武人とはまた違う労働のために鍛えられたものであろう身体をしていた。
 着ている鴉青からすば色の立襟の服は質素だが清潔で、結ってまとめた髪にも乱れがない。骨太な印象の顔は精悍で、肌の色はやや薄くどちらかというと白かった。

「これからは、この男が私の面倒を見るのか?」

 男が何も言わないので、ハルティナはまず隣の青年に尋ねる。
 船旅を共に過ごした青年は、今後の男の役割をハルティナに説明した。

「はい。この饗花宮では彼が貴方のお世話をいたしますので、気兼ねなく何でもお申し付けください」

 そして青年は円卓と同じ葡萄色の椅子を引いてハルティナを座らせると、お辞儀をして部屋を去った。

 ハルティナは青磁の茶器の載った円卓を前にして腰掛け、すぐ近くには男が一人立っている。
 この二人っきりの状況になってやっと、男は渋々口を開いた。

「ようこそお越しくださいました。王女殿下」

 男の声は深い海の底から響くように低く高圧的であったが、言葉遣いはそれなりには丁寧であった。さらに挨拶に続けて、男は名前と役職を名乗った。

「俺はこの饗花宮で、犠妃であるあなたを料理人としてもてなした後に、神に捧げるために肉を割いて烹る役目を持っております、庖厨官ほうちゅうかんのルェイビンと申します」

 ルェイビンという名前であるらしい男の話すことは、祭りの儀式で読まれる祈祷文と同じで、あらかじめ決められた表現によって本質がぼかされていた。
 その正当性があるふりをした言い回しを無視して、ハルティナはルェイビンが請け負っている仕事の実態を見抜く。

「要するに、私を殺す男だな」
「……はい。左様でございます」

 ハルティナが率直に思ったことを言うと、ルェイビンは少々の沈黙を置いて肯定する。
 負い目や罪悪感があるのかどうかはわからないが、ルェイビンは目をそらすことなくハルティナを見ていた。

 だからハルティナはルェイビンを少しは信頼してみて、大嘉帝国について理解できないことを、言葉を選ぶことなくそのまま辛辣に尋ねた。

「この国の神は、なぜ人を喰らうのだ。お前たちの神は、人の血を見るのが好きなのか」

 ハルティナは自分に与えられた運命を、全て納得しているわけではなかった。
 王女として問い質すハルティナの言葉は、意図はしてなくても刺々しいものになる。

 さらなる単刀直入な発言に対してルェイビンは、手にしていた急須を置いて、椅子に座っているハルティナに手を合わせてお辞儀をした。

「殿下。この国には食国ヲスクニという言葉があります。大帝がお召し上がりになるのは、人間だけではありません。俺たちの国の教えでは、食べることは支配することです。大帝は万物を統べる神ですから、牛や豚も、鶏や魚も、そして人間も、生きるもの全てを食されます」

 この帝国の支配者であり神でもある大帝について、ルェイビンは目を伏せて語っていた。食べることは支配すること、というルェイビンの言葉は、ハルティナも感覚としてわからないわけでもなかった。
 だがルェイビン自身が神とされている大帝をどこまで信仰しているのかは、その淡々とした声からは伺えなかった。

 そしてルェイビンは今度は顔を上げて、ハルティナの目をじっと見た。

「ただ殿下のような、遠い国々から犠妃となるために送られてくる女性は、普通の食材よりもずっと神聖で尊いものです。犠妃となる方は、支配下に入った国の象徴として、大帝への永遠の服従を祝福する花嫁ですから」

 お辞儀をしてハルティナに従うふりをするルェイビンの姿は、まるで大きな山犬のようでもあった。
 その犬は最後はハルティナを殺して残った肉を咥えて、主のもとへ持って行ってしまう犬であるはずだった。

 ルェイビンの無愛想な表情からはあまり、熱意や意欲は感じられなかった。
 しかしルェイビンはハルティナの存在そのものには敬意を払って、大切な花嫁だとは言ってくれた。

 それはおそらくこのルェイビンという料理人にとっては、建前に過ぎないのだろう。
 だがもしかすると、ハルティナにとっては王族としての矜持が全てであるように、その建前こそが彼にとっての全てなのかもしれないとも、ハルティナは思った。

 この遠い異郷の大陸の地にハルティナは、歪な婚姻のために招かれた死すべき宿命の花嫁としてやってきた。
 しかし異国を支配する絶対神という、実際に会えるかどうかも怪しい存在が相手であるせいか、なかなか嫁ぐ実感はわかない。

 ハルティナが知っている婚姻は、愛情の有無はどうであれ男女が共に生きるためのものであって、どちらかが死ぬためのものではない。

 だからハルティナは、その死によって完成する婚姻を受け入れるためには、努力をしなければならなかった。

(私が考えていた婚姻とは大分違うが、彼らが私を必要としてくれるなら、それは喜ぶべきことなのだろうか)

 ハルティナはルェイビンが語る帝国の特異な論理に触れることで、徐々にその思考に影響されつつあった。
 だがそれでもハルティナはまだ、ディティロを許せないのと同様に、自分の身にいずれ降りかかる理不尽な死を快く受け入れる気にはなれなかった。

「お前たちの国の考え方が、よくわかった」

 ハルティナは素っ気ない冷たさで、述べられた理屈に理解を示す。

 開かれた窓の外から入る夏の陽射しは故郷よりは弱く、部屋の中にいるハルティナの両手は冷えていた。

 ルェイビンはハルティナとの問答を終えると、実務的なことを付け加えた。

「大帝のいらっしゃる宮帳にあなたが花嫁として捧げられるのは、今日から七日後です。その日まではこの饗花宮で、最後にふさわしい日々をどうぞお過ごしください。俺は神に仕える料理人ですから、あなたが食べたいと望むものは何でも用意しますし、料理以外のことも手配はできます」

 本当にハルティナのために頑張ってくれるとは思えない、消極的な様子でルェイビンは立ち上がった。
 しかしやはり自分の職業だからなのか、料理について話しているときだけは、やる気が見えないなりに妙に堂々としていた。

 そして再び急須を手にして湯気の立つお茶を器に淹れると、ルェイビンはまた黙り込む。

(最後にふさわしい日々、か)

 ハルティナはルェイビンの言葉を、心の中で繰り返した。

9 香油と宝石

 ハルティナが供物として捧げられるまでの七日間。

 神聖な花嫁とはいっても結局犠妃は生贄であるので、形式上は夫になるはずの大帝と会う機会も、どうやら文字通り死ぬまでないようだった。

 だからハルティナは世界の半分を支配する支配者に娶られた妃として、帝国の各地から集められた富によって出来た美しいものに囲まれて、ただ暇を持て余して過ごした。

 饗花宮はどの部屋も壮麗な装飾が隅々まで施されていて、特に浴殿は楽園のように華やかだった。

 ハルティナは毎朝、浴殿の前室で女官たちに丁重に服を脱がされる。
 そして繊細な彫刻の施された円柱のついた戸口の向こうへと送り出されれば、ハルティナの目の前には人間一人を洗うにはあまりにも広すぎる浴室があった。

 花弁のような形をした金製の水盤からこんこんとわき出る湯は階段状の台座を流れ、真っ白な大理石の浴槽に注がれる。

 床は濡れても滑らないように小さな石の粒が敷き詰められ、壁と天井は無数の薄紫色の石片が模様を形作るように張られている。
 それらの欠片のつなぎ目に網のように差し込まれた薄い金板が、採光窓から注ぐ太陽の光によって光り輝く様子は、まるで夕暮れの空に金の籠を被せたかのように眩かった。

 ハルティナはその浴室に置かれたほどよく温められた石の上に横たわり、女官たちの手によって大柄なわりに膨らみの少ない身体を洗われた。
 女官たちが使うのは宝石のついた水盆に入った甘い匂いのする薬湯で、ハルティナはその濃い香りの中でまどろんだ。

(こうなるともうすでに、私は料理されているみたいだな)

 女官たちが手にする柔らかな布で身体を洗われた後に、ぬるめに焚かれた浴槽のお湯に浸かりながら、ハルティナは感慨に浸る。

 縁は金箔を使って仕上げ、正確な円形に作られた浴槽は、ハルティナが脚を伸ばし両手を広げてもまだ大きさに余裕があった。

 毎日浴室で手入れをしてもらってるおかげで、ハルティナの褐色の肌は帝都に着いた当日よりもなめらかさを増している。

 故郷のチャンティク王国は常に暑い国であったので、水浴びは頻繁にしても、湯に浸かって汗を流す習慣はなかった。

 だからよい匂いの薬湯を使って身体を磨かれ、温かいお湯に沈められると、食材として下拵えをされている過程にいるような気がした。

「この浴室のために随分、水と燃料を使っているようだな」

 煌びやかな浴室の裏にある収奪について考えつつ、ハルティナは綺麗に透き通ったお湯を手で掬う。
 おびただしい数の薪と大規模な水路があってこその湯であることは、見ればわかった。

「はい。大帝の花嫁となるお方をおもてなしするために必要なものですから、お湯もたくさんご用意しております」

 側にいた女官の一人は、中身が空になった水盆を持って頷いた。
 女官の声は穏やかで、疑念を感じさせる響きはなかった。

 それからじっくりと汗を流して温まった後に、ハルティナは入浴を終える。

 湯上がりには体を拭かれた後に、これまた広々とした休憩室に通された。ハルティナはそこで女官たちに香油を塗ってもらったり、薄衣を羽織って卓上に用意されている冷えた甘酒を飲んで果物を食べたりした。

 床も空気も暖かだった浴室とは違って、冷たい氷水の入った大きな水盤が置かれた休憩室はさらりと涼しく、温度差が心地良い開放感を生む造りになっている。

 それから長椅子に座り髪を梳いて乾かしてもらった後は、様々な絵柄が織り込まれた錦の衣や、色も形も様々な宝石が嵌め込まれた装飾品が並べられた衣装室に移動し、女官たちに服を選んで着せてもらう。
 それらはハルティナの故国のものと負けず劣らず優れていて、どれも普通の娘ならうっとりしてしまうような、見る者を魅了する出来栄えの品々だった。

 しかし曇って晴れないハルティナの心は、翡翠や瑪瑙の輝きでは高揚することはなかった。

(私は女に生まれたが、着飾って綺麗になることが楽しいと思ったことは一度もない)

 ハルティナは饗花宮で貴人の女性として最高の待遇を受け、世界中から集められた数えきれないほどの美しい宝石を与えらえていた。

 だが王冠が欲しかったハルティナにとっては、蓮柄が色鮮やかな紅色の錦も、蝶や花を象った翡翠と金の首飾りも、望んで得たいものではなかった。

10 鏡に映るもの

 目的もなく過ごす饗花宮での日々は溶けて消えるように流れて、やがてハルティナは最後の日を迎えた。

「殿下。腰巻は黄色と緑色、どちらの色にいたしましょうか」
「そうだな。では、緑色のものを頼む」

 ハルティナは衣装室の大机の上に置かれた衣裳や装飾品を前にして、異国の女官たちに指示を出す。
 机の上にはハルティナが故国から持ってきた更紗もあれば、帝国が用意した帯や髪飾りもあった。

(別に私は、最後に着るのがどんな服でも構わないが)

 汗衫のみを身に着け腕を広げて立ち、ハルティナは女官たちの手を借りて衣裳を纏う。

 ハルティナが選んだ衣裳は、煌やかな衣や帯を幾重にも重ねた、故国由来の絢爛豪華なものだった。

 金箔の張られた裾の長い蘇芳色の裳の上に、銀糸で椰子の葉の文様が織り込まれた腰巻を着て、様々な色のビーズが刺繍された紫の胸巻を上から下に肩を出して巻く。
 巻いて余った胸巻の残りは金の腰飾りや端に珠をつけた腰帯でまとめて、後ろに垂らした。

 化粧は青墨で眼を縁取って大きく強調して、眉を濃く弓なりに黒で描き、くちびるは紅でふっくらと塗る。
 最後に黒髪を結った頭には金の簪が生花と一緒に何本か挿し込まれ、色鮮やかな宝石がはめ込まれた首輪や耳飾りが褐色の素肌を飾った。

 こうして身支度が終わると、責任者であるらしい女官の一人が、ハルティナに脚付きの大きな鏡を見せて話しかけた。

「直すところはどこも、ございませんか」

 体にぴったりと巻かれたハルティナの国の衣装は、帝国で働いている女官たちにとっては慣れないものであるはずだった。

「ああ。特に問題はない」

 透かし彫りの木枠に収まったその大きな鏡の中にいる自分を、ハルティナは一瞬だけ見て頷く。

 鏡に映る自身の姿は見知らぬ誰かのように美しく艶やかで、ハルティナは今ここに立っているのが自分だとは思えない。

(私は最初から、中途半端な存在だった。この使い道がわからなかった命を活かすことができるのだから、きっと私はディティロの選択に感謝してみてもよいはずなんだ)

 ハルティナは鏡の中自分から目をそらし、別れ際に何かを言おうとしていたディティロの顔を思い出す。

 ずるくて冷酷な決断を簡単に下したわりに、最後は心苦しげな眼差しをしていたディティロのことが、ハルティナは嫌いだった。
 しかしそれ以上にハルティナは、生きてはいても何者にもなれず、人を羨むことしかできなかった自分のことを嫌悪していた。

 だからハルティナは従兄弟の薄情さと、異郷の陰惨な因習のことはなるべく忘れて、きっと立派に国のために死ぬことができる機会を得たのだと、自分に強く言い聞かせる。

 ディティロが治める故国は遠く、ハルティナはただ一人で全てが終わるそのときを待っていた。

11 聖性を得る

「お待たせいたしました、王女殿下。夜のお食事を、中庭にご用意いたしました」

 日が傾き空が赤くなった夕べ。料理人のルェイビンは、ハルティナを夕食に呼びに部屋の戸口に立った。
 別にルェイビンを待ってはいなかったのだが、ハルティナはとりあえず期待をしているふりをした。

「食堂ではなく、中庭か。わざわざ私のために、趣向を凝らしてくれているようだな」
「はい。今晩はあなたの最後のお食事ですから、あなたの王国の料理をお作りいたしました」

 ルェイビンは冷めた様子で、しかし自信はありげにハルティナを廊下に連れ出す。

 最初に会ったときと同じ鴉青色の服を着たルェイビンの背中は、ハルティナの故郷にいたどの人よりも広くたくましかった。

(最後のお食事、か)

 刻一刻と終わるときは近づいているらしいが、ルェイビンの態度からは感傷的になれるものは何も感じない。

 ハルティナは床につく長さに仕立ててある裳をつまんで持ち、踏まないようにしてルェイビンの後に続いて、中庭へと向かう。

 夏らしく石榴と棗の花が咲く饗花宮の中庭は、黄昏時の薄暗さと涼しさに包まれており、灯籠がやわらかな明かりを灯していた。

 庭の中央には木製の椅子と円卓が置かれ、天板の上には白い皿や香蕉の葉、高台付きのざるに盛りつけられた料理が載っている。

 ルェイビンは面倒くさそうに椅子をひき、主賓であるハルティナを招いた。

「配膳もあなたの国に近づけたつもりなのですが、いかがでしょうか」

 自分の料理の腕に絶対の自負があるらしいルェイビンは、無関心に振る舞う一方で、ハルティナが気に入らないことは絶対にありえないと言いたげな表情をしている。

 本当にそれほどの出来なのだろうかと思いながら、ハルティナはルェイビンが案内した席に座る。
 しかし料理を一目見れば、自然と口をついて出たのは承認の言葉だった。

「異国での再現にしては、悪くはないんじゃないのか」

 ハルティナは、ルェイビンの料理を即座に褒めた。

 こんがりと丸焼きにされた豚に器いっぱいに入ったスープ、綺麗に切ってむかれた野菜に果実。
 燭台と一緒に天板の上に並べられた手の込んだ料理の数々は、確かにハルティナの故郷の食材や調理法を使ったものだった。

 それらは王族として豪華な食事を見慣れているハルティナから見ても、どれも素晴らしい品々に見えた。

 返す言葉以上に感心しているハルティナを前にして、ルェイビンは当然味も満足するはずだという顔で食事を勧める。

「お褒めいただき、ありがとうございます。出来立ての方が美味しい品はこれから持ってきますので、どうぞお好きな品からお召し上がりください」

 そう言って取り皿を渡し、ルェイビンは必要最低限の敬意を示してお辞儀をした。

 ハルティナはその白く大きな皿を受け取り、せっかくの機会なので食事を楽しもうと腹をくくった。

(態度はどうであれ、この男が料理上手なのは確かだからな)

 七日間の滞在を通して、ハルティナはルェイビンの料理を一通り食べている。
 大陸の料理については比較の対象を知らないものの、どれも質は確かであった。そのルェイビンがハルティナの故郷の料理を作ってくれたのだから、どんな味なのか楽しみではある。

「ではこの野菜と、焼き豚からもらおう」

 ハルティナは食前の祈りを済ませ、青菜ともやしを赤い唐辛子のたれで和えた惣菜や蒸した玉菜を、大きな木匙を使って皿に取り分けた。

 焼き豚は腹に香辛料を詰めて直火で頭ごと焼いたもので、好きな部位を言えばルェイビンが庖丁で切ってくれる。

 香ばしい茶色に焼けた皮と肉を皿に載せた隣には、円錐形に固めて用意された米飯を置く。米飯はウコンの粉がまぶされて鮮やかな黄色になっていて、皿の上を明るく彩った。

(なかなか、良い香りだ)

 ハルティナは自分の故郷の作法に従って、右手でほの温かい肉片をつまんで口に運んだ。
 するとしっとりとした肉の繊維がほろほろと舌の上でくずれて、豚の旨みが口の中いっぱいに広がる。

 その味をしっかりと噛みしめて飲み込み、ハルティナは今度は、香辛料が多めについた部分の肉を黄色い米飯と一緒にまとめてもらう。
 ほどよい粘り気のある米飯はまろやかに香辛料の辛みと絡んで、豚肉の味の良さをひき立てた。

(これは本当に上質な味の豚だな)

 期待を超える焼き豚の味に、ハルティナは手を止めることなくぱりぱりに焼かれた皮まで食べる。

 そうしたハルティナの様子を、ルェイビンは淡泊な態度であるなりに、誇らしげに立って眺めていた。

 ハルティナは少々の敗北感を感じたものの、そそられた食欲には勝てずに指についた米粒をなめる。

 一頭分の豚はどの部位も無駄なく調理されていて、豚足はとろみを活かして煮込まれ、内臓はからりと食べやすく油で揚げて添えられていた。
 きっと自分もこうして残すところなく神に食されるのだろうと、ハルティナは思う。

 豚の濃厚な味に飽きたら、米飯に鶏肉のあっさりしたスープをかけて匙で食べればちょうど舌が休まった。
 鶏の出汁がしっかりと感じられるスープは、芹菜や分葱のような爽やかな風味のある野菜が入っていて、しゃきしゃきと歯ざわりも良く美味しかった。

(次は、魚料理だな)

 皿が一旦空になると、ハルティナは今度は香蕉バナナの葉に綺麗に包まれた魚の蒸し焼きをもらった。

 鮮やかな緑色の葉を解くとふんわりと香蕉の匂いが香り、大蒜や玉葱のペーストが塗り込まれた鰹の切り身が姿を現す。
 ハルティナはその魚の身を指でほぐし、ペーストと一緒に口に含んだ。

(内陸部の都のわりに、魚も新鮮だ)

 鰹はやや身が堅いものの脂がのっていて味が濃く、ペーストの薄い塩味とよく合っていた。
 思ったよりも魚が新鮮で臭みが少ないのは、おそらく帝都の水運が発達しているからなのであろう。

 葉に包まれて蒸し焼かれたことで、大蒜や玉葱のみじん切りと共に旨みが凝縮され、魚はより美味しくなっている。
 小骨もすべてあらかじめ丁寧に抜かれているのも、配慮が行き届いていて食べやすかった。

(後でまた、もう一包み食べてもいいな)

 皿に載せた分の魚をあらかた食べ終えたハルティナは、茉莉花の香りのついた発酵茶を飲んで一息つく。

 そこにいつの間にか部屋を出ていたルェイビンが、大きな木の皿を手にして戻ってきた。

「串焼きをお持ちいたしました。つくねは魚と鶏の二種類をご用意してます」

 ルェイビンは空いた皿を片付けて、鶏のもも肉やつくねの串焼きと付け合せの茹でた薯が載っている皿を円卓に置いた。肉やつくねは、熱する音が聞こえてくるほどに美味しそうだった。
 どうやら最初に言っていた出来立ての方が美味しい料理というのは、串焼きのことであるらしかった。確かに串焼きなら直接手で掴まず食べることができるので、熱々でも食べやすいだろう。

「では魚も鶏も、両方もらおう」

 ハルティナは全ての種類を一本ずつ、自分の皿に取り分けた。そしてまずは、鶏のつくねにかぶりつく。

 串焼きは湯気が立つくらいに熱々で、ハルティナは息を吹きかけながら食べ進めた。唐辛子や香辛料がふんだんに使われたつくねの熱さと辛さに、口の中は忙しくなる。

 また串には清涼感のある風味の植物の茎が使われているので、挽き肉には何とも言えない香りがついていた。
 様々な味が調和した刺激的な味がくせになって、ハルティナは一口、二口と食べ続ける。

(辛い物を食べた後には、甘い薯が美味しくなる)

 唐辛子の辛みが厳しくなったところで、ハルティナは付け合せの茹でた薯をほっくりと割って口にしようとする。

 だがそのとき横に立つルェイビンが、なぜか唐突にハルティナを呼んだ。

「王女殿下」

 いきなり話しかけられたハルティナは、いぶかしむ気持ちで顔を上げた。

「何だ」

 ハルティナの返事は、怪訝そうに響く。

 しかしルェイビンは一向に構わずに、言いたいことを言い始めた。

「俺は以前、チャンティク王国には殺された少女の死体から薯が育つ神話があると、書物で読んだことがあります」

 ルェイビンが言っているのは、ハルティナの国に伝わる、殺された少女が女神になる神話のことだった。

 他国の料理を立派に作れるのだから、他国の伝承に詳しいことは不思議ではなかった。
 とはいえ、ルェイビンがハルティナの国の信仰について話す理由はわからない。

「ああ。死体が食物になった少女エレウニアは、農耕の女神として信仰されている」

 手に持った薯を皿に置き、ハルティナは頷く。

 するとルェイビンは、その引き締まったほとんど無表情な顔に、かすかに微笑みを浮かべた。

「だとすると犠妃であるあなたも、その女神に近い存在なのかもしれません。死んだ後に、その身を食材として食される女性という点で」

 ルェイビンが、低くかすれた声でぽつりとつぶやく。
 その自虐めいた態度と思い遣りのない言葉に、ハルティナは思わず驚いて目を見開く。

(この男が、それを言うのか)

 ルェイビンは、ハルティナを殺して、神に捧げる役目を持った料理人である。
 そうでありながらルェイビンは、戯言や冗談として、ハルティナを殺された女神にたとえていた。

 一応は負い目からの言葉なのかもしれないが、勝手に他国の人間を生贄として連れて来て、そして他国の神話と重ねるとは、あまりに無責任でいい加減である。

 しかしハルティナは、ルェイビンのその情のなさがなぜか嫌いではなかった。

「そうか。私は神に食べられることで、神になるのか」

 ルェイビンにつられて、ハルティナも笑った。

 故郷の伝承を使えば実に簡単に自らの死を正当化できることを、ハルティナは逆に異郷の人間に教えられた。

 食物を探していた人間の王によって殺された少女が食物として復活し、女神として祀られる。

 王国の民は少女を深く敬愛しているが、その信仰は女神となった少女への感謝と憐みだけで成り立っているわけではない。
 傲慢な人間によって殺された少女は、人間が自分勝手に振る舞っているのを見ると、呪いによって飢饉を起こすと言われている。
 人々は祟りを恐れて、女神を祀るのだ。

(ディティロと、ディティロと一緒に私を見捨てた人々は、私を恐れてくれるだろうか)

 暗い希望を抱いてハルティナは、善良であろうとしても心の底では許せなかった者たちのことを考える。
 彼らが悪人ではないことを知ってはいても、ハルティナは聖人のようには振る舞えない。

 ハルティナは剣を手に強くあろうとしたが、これまではその力を存分に自分のために使うことはできなかった。
 ハルティナは自分の存在を認められたかったが、他人に目障りだとも思われたくなくて自分を曲げ続けてきたのだ。

 しかし明日死ぬことになっている今晩、遠い異郷のよく知らない男の前でなら、ハルティナは自分の心に正直になれた。

(私は、私を蔑ろにした者たちを許さない。ディティロも、大帝も、この世界も)

 異邦人のハルティナには大帝が本当のところは何であるのかはわからないが、この大嘉帝国の民が神だと言うのなら神なのだろう。

 ハルティナは現実にはもう何も持ってはいない。けれども見知らぬ神に捧げられる前に残す想いは、殺され女神になった少女の存在と同じように、世界を呪い祝福することができる。
 それは見捨てられた存在の現実逃避でしかないのかもしれなかったが、ハルティナにとっては救いだった。

 気付けば陽は沈んで夕暮れ時は終わり、中庭は暗く灯籠と卓上の燭台だけがにぶい光を灯していた。
 ふいに吹く夜風が、ハルティナの耳飾りや簪に挿した花を揺らす。

 食べかけの料理の載った暗闇の円卓を前にして、ハルティナは静かに言った。

「私は本当は、王になりたかったのだ」
「はい」

 ルェイビンはただ、相づちをうって頷く。

 相手がどこまで理解しているのかはわからなかったが、ハルティナは話し続けた。

「私の国では女は決して王にはなれない。だが私が王になれたのならば、私を生んだ母上を悲しませずに済むと思ったから……」

 言葉を続けるハルティナの目に、熱いものがこみ上げて頬を流れる。ハルティナは自分が多分、泣いているのだろうと思った。
 王になりたかったという叶わぬ願いをはっきりと口にするのも、人前で泣くのも、全て初めてのことだった。

 しかし側に立つルェイビンの表情は変わらず、侮蔑や憐みがこもったものではない、不思議と落ち着く眼差しでハルティナを見つめていた。
 だからハルティナは、自分の想いを過剰に恥じることなく、強がりつつも想いを吐露する。

「だが確かに、神に仕えるお前に丁重に殺されてみれば、私は王よりも貴い、天に立つ神になれるのかもしれないな」

 半ば自暴自棄な気持ちで、ハルティナはまた笑った。

 香蕉の葉に包まれ蒸し焼かれた魚と同様に、海から大陸へと運ばれてきたハルティナは明日、目の前の男の手で魚のように捌かれて死ぬ。
 異郷の支配者でありでも神でもあるらしい大帝にその身を捧げ、肉を喰われることで嫁ぎ、犠牲者として娶られるために死ぬ。

 その先に待つ未来でハルティナは、王よりも絶対的な何かになると信じた。

 それから一寸の間をおいて、ルェイビンは幾重にも着飾って椅子に座るハルティナの足下にまた、山犬のように顔を伏せて跪いた。

「そうなるように俺は、尊い食材であるあなたを、きっと良い料理にさせていただきます」

 料理の話をしているときだけは、思い遣りのないルェイビンの声にも多少は張りがある。

「そうか。それは期待している」

 ハルティナは、手が震えるのを堪えて頷いた。

 実際にルェイビンがハルティナのために作った料理は、どれも綺麗で美味だった。
 まだ食後の甘味は食べていないが、おそらくそれも良い出来映えなのだろうと思われた。

(どうせ喰われることになるのなら、まずい料理よりは美味しい料理の方がよい)

 頬についた涙を左手で拭い、ハルティナは卓上のまだ料理が残っている皿を見る。

 それらの品々と同じように、明日はハルティナが、ルェイビンの手によって美しく素晴らしい料理になるはずだった。



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