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【短編小説】少女は宴の夜に死ぬ/南の国の章(前編)

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1 剣と王女

 熱く湿った空気の中で鬱蒼と茂る、バカウの森の河口の水面を、舳先に赤い旗を掲げた舟が何艘も進む。
 それはこのチャンティク王国の王女であるハルティナを、年に一度の夏至の日の祭が行われる聖都へと運ぶ船団だ。

 今年で十八歳になったハルティナは、大勢の衛兵や水夫を従えて艇主側の座席に座る。
 緻密な文様の藍色の更紗を着たハルティナは、海の国に生まれた者らしく褐色の肌をした長身の少女で、黒髪を後ろで束ねた姿は可愛さよりも凛々しさが勝っていた。

(今年もまた、あの無駄に長い祈祷文を聞くことになるのか)

 ハルティナは心の中でため息をつきながら、真上まで上った太陽をバカウの木々の葉越しに仰いだ。

 聖都へ行き、豊穣を願う祭りに王族として出席するのが、ハルティナが明日果たすべき役割である。
 しかし一方でハルティナは、長い時間をかけて厳粛に行われる祭りの儀式の、畏まった雰囲気があまり好きではなかった。

 側に控える兵士に話しかけて儀式に出るのが億劫だと言うわけにもいかないので、ハルティナは黙って舟が水上を進む音を聞く。

(聖都の街自体は、王都とは違う華やかさがあって好きなんだが……)

 遠くの晴天を見上げたまま、ハルティナは舟が向かう先の土地について考える。
 ハルティナが生まれたチャンティク王国は大小いくつもの島があつまってできた海上の国であり、王が住む王都と女神を祀る聖都はそれぞれ別の島にあった。

 こうしてハルティナが憂鬱な気分で船縁にほおづえをついていると、船団の前方の舟が突然、動きを止めた。

 見れば、水中から短刀や剣で武装した男たちが這い出て舟に乗り込んできて、水夫や衛兵に切りかかっていた。

 水夫の掛け声と櫂を漕ぐ音が途絶えて、刃と刃がぶつかりあう音が響き渡る。

 どうやらハルティナの船団は、賊に襲われているようだった。
 チャンティク王国の領土と領海は広大であるため、こうした賊のような、王権に従わない勢力も少なくはない。

「王女様、海賊の待ち伏せです」

 年若い側近の兵士が、落ち着いた声でハルティナに敵の襲来を告げる。

 敵の行動は計算されたもので、水中から現れた賊と連動する形で、森林の影からは姿の見えない射手が矢の攻撃を加えていた。

「そんなことは、見ればわかる」

 凛としてやや低く、ハルティナの声が響く。

 腰に佩いた銀製の長剣を鞘から引き抜き、ハルティナは立ち上がった。

 ハルティナの乗る舟にも一人の頭に布を巻いた男が乗り込んできて、剣を頭上に振り上げた。
 それはハルティナに、手傷を負わせようとする動きだった。

 だがハルティナは男が剣を振り下ろすよりも早く懐に入ると、そのまま深々と袈裟切りにした。
 肉と骨を断つ、確かな手ごたえが手に伝わる。

 男は自分の死を理解しないまま、ハルティナを凝視しながら息絶えた。
 その死体が邪魔にならないように、ハルティナは死んだ男の腹を、革のサンダルを履いた足で蹴って船から落とした。男の死体は、音を立てて水面に消えた。

 そしてハルティナは返り血を厭うことなく、剣を構えて次の相手の攻撃を誘って斬り殺す。
 堂々としていれば、不思議と矢が当たることはない。

 周囲の護衛も、弓や剣の各々の武器で粛々と応戦していた。自分たちの仕える王女がただの賊に殺されることはないとわかっているからこそ、彼らは慌てずに職を果たす。

(この程度なら、多少の損害で制圧できるな)

 過小でも過大でもない評価を冷静に下しつつ、ハルティナは武器を手に戦闘の未来を見通した。

(そう。女の私が対峙する機会があるのは、この程度の敵だけなのだ)

 剣を振るうことができる機会が終わってしまうことを、ハルティナは心のどこかで残念に思う。

 ハルティナは女性らしく神に祈るための歌や言葉を覚えるよりも、剣や弓を学ぶ方が好きだった。武器を手にして戦うと、これが自分の望んでいることなのだと思えた。

 だが同時にハルティナは、男に生まれなければ願いを追い求められない現実を、はっきりと正確に悟ってもいた。

2 青の都

 襲ってきた海賊を返り討ちにし、その生き残りを捕縛した後に、ハルティナの船団は聖都に入った。
 ほとんどの兵士には休息が与えられ、多少手傷を負った者は施療院で手当を受けた。

 瑠璃色の巨大な神殿を中心に、真っ青な建物が整然と並ぶ聖都は、王国中で最も美しいとされている場所である。
 神殿を訪れる参拝者相手の商売も盛んで活気があり、広々とした通りには宿や土産物屋が立ち並んでいた。

 大きな祭りの日を前にして、土地の住民ではないであろう人々も大勢歩いて見学している。
 初めて聖都に来た経験の少ない兵士は、建物を見上げて驚き続けた。

「誠に聖都は、天上の国のようなところなんだな」
「一体どんな染料を使ったら、このように青い壁になるんだろうか」

 兵士たちは言葉を尽くしても尽くせない様子で、神々に愛された聖都の美を語っている。

(この景色を毎年見ている私だって綺麗だと思うのだから、初めて見た者はなおさらだろうな)

 何度も来ているハルティナもまた、船着き場に降り立った眼前に広がる聖都の美しさにはやはり息を飲んだ。

 だが外観は荘厳な都であっても、そこに住む住民たちは神ではなくただの人であり、王女であるハルティナを一目見ようとする人々の顔は呑気だった。

 船着き場で見物人に囲まれながらも、ハルティナは景色を楽しんだ。
 そうしているうちにハルティナの側に、一人の見習い僧の少年が駆け寄ってきた。

「聖都にようこそおいでくださりました、王女様。老師はあちらでお待ちです」

 黒髪を真っ直ぐに切り揃えた少年は少し緊張した顔をしながらも、しっかりとした態度でハルティナを歓迎した。

「わかった。お前が案内してくれるのだな」
「はい。左様でございます。王女様」

 ハルティナが頷いて少年を見下ろすと、少年ははにかんで受け答えた。

 こうしてハルティナは側に残っていた兵士とも別れて、少年と共に神殿に併設された客殿へ向かった。

 客殿は神殿の参拝や儀式にやって来た王族や一部の豪族をもてなすためにある施設で、古びた情緒のある神殿とは違う、真新しくて綺麗な建物だ。

 聖都にいる人々は皆、海賊を討って来たハルティナをちょっとした英雄として迎えた。神殿や客殿で働く巫女や僧侶も、ハルティナに王女に対するものだけではない敬意を払った。

 だから客殿で待っていた神官の老人も、ハルティナに会うなりその武功を褒め称えた。

「さすがハルティナ王女は、武神と謳われた先王様の御子でございますね」
「別に、賊よりも我々の方が強かっただけだ」

 風通しの良い開放的な一室に置かれた籐の椅子に神官と向かい合って座って、ハルティナは見習いの少年が淹れた甘茶を飲む。
 案内された部屋は神殿の高い階層にあって、欄干に囲まれた縁側からは全ての建物が真っ青に塗られた聖都の鮮やかな街並みを一望できた。

(父上はここ聖都でも、まだなお深く慕われているのだな)

 ハルティナは一昨年に亡くなった、父である先王の姿を思い出す。
 武勇に優れた王であったハルティナの父は、裏表のない気性で臣下からも民からも愛されていた。そのため男勝りなハルティナも、父王似の才気ある王女として好かれている。

 幼い頃は、父親に似ていると言われると嬉しかった。だから剣も弓もよく学んで、父のように強くあることを目指していた。

 しかし大人になった今は、結局自分は王にはなれないのだから、父に似て王にふさわしい風格がある評価されても意味がないとハルティナは思う。

 父王の話題から話をそらすため、ハルティナは天板に獅子が彫られた木製の卓に茶器を戻して、舟を襲った海賊について付け加えた。

「とはいえ賊がたいしたことのない連中だったとしても、帝国との関係の有無を明らかにするための尋問は必要だ」

 ハルティナは捕らえた賊の生存者から情報を引き出すように、配下の兵士に指示を出しておいていた。

 チャンティク王国は現在、海の向こうの大陸に本拠地を置く大嘉ダージャ帝国の侵略を受けていた。
 大嘉帝国は世界の半分を支配しているとも言われる、非常に広大な土地と強大な軍事力を持った国である。

 そのためハルティナの従兄弟である国王ディティロは、帝国軍を撃退するために王都から軍を指揮していた。

 元々牧畜の民の国である帝国は海戦はそれほど得意ではないが、豊富な財力を使って地方勢力の懐柔を図っていたので、海賊と繋がりを持っていても不思議ではなかった。

 だが神官の老人はハルティナの言葉に、それほど差し迫った危険を感じていなさそうな様子で頷いた。

「ここは帝国の本陣からは遠く離れた、女神エレウニアの加護のある土地ですが、近頃は物騒なうわさもありますからな」

 真っ白な白髪と髭で半分顔が見えない老人の声は戦の話をしていても穏やかで、眺めの良い欄干から吹き抜ける風は涼しくて居心地が良い。
 見習いの少年もその部屋の隅で、ハルティナを見てにこにこしていた。

 この聖都に住む老人と少年たちが持つ悠長な平和さに、ハルティナは少々の苛立ちを覚えつつも言葉を飲み込んだ。

(たとえ国難のときだとしても、この聖都で儀式をこなすことが、私の務めらしいのだ)

 戦火が王国を迫っていても、ハルティナは自ら剣を振るって国を守ることはできなかった。

 戦争は男がするものであり、ハルティナは王の子であっても男ではない。

 女に生まれたハルティナは、遭遇した海賊を打ち倒す程度の功績で褒め称えられ、満足しなければならなかった。

3 夏至の日の祭

 建物に塗られた青の染料よりも青い空の夏至の日に、聖都では豊穣を願う祭りが盛大に執り行われた。

 蒼銀の屋根が太陽の光を反射して輝く神殿の周辺では、鮮やかな黄色の腰巻を着た少女たちが菓子を配って色粉を撒く。

 赤いアソカや白いジュプンの生花で飾られた大通りは、王国の各地から集まった楽士や旅芸人が練り歩き、祭りを見物する庶民の目を楽しませた。

 一方で正式な儀式が行われる神殿の中は暑くにぎやかな外の様子とはうって変わって厳粛で、神々の物語を彫った壁画に囲まれた伽藍はひんやりとした空気に満ちていた。

 壁に沿って丸く配置された木製の席には、聖都の周辺に住む豪族や高位の僧が坐っている。
 そして中央の碧玉がはめ込まれた祭壇では、ハルティナを客殿で迎えた神官の老人が祈祷文を読み上げていた。

 無数の金色のビーズで飾った儀礼用の衣裳を纏ったハルティナは、王族として前方の席に座ってその老人の声を聞く。

 ――人の王に石を以って打たれ、弑し奉られた女神に畏こみ畏こみも白す。神荒びて君、天地に宿る。其の肉には薯が生り、我らに恵みを齎さん。

 神官の老人は、昨日よりも立派な真っ白な僧衣を着ていた。
 老人の声はよく響いてはいるものの聞き取りにくく、祈祷文自体の言葉も古めかしいうえに長くて繰り返しが多い。

 そのため儀式が大事なものであるとわかってはいても、ハルティナは真面目な顔をしてあくびを噛み殺さなければならなかった。

(またこの老人の間延びした話し方が、眠気を誘ってくるから困る)

 低く単調な音程を保つゆったりとした老人の声は、空気を細かく振動させるように伽藍に広がっていく。

 神官である老人や周囲に座る高位の僧は、神に祈ることが重要な仕事の一つであるので、一応は神妙な雰囲気を作っていた。
 だがハルティナの見る限り、他の豪族たちは居眠りしている者も毎年少なくはないようだった。

 ――景風吹きて、夏に至る。涼風吹きて、秋が立つ。雨は其の血、川は其の髪。君再び、此の地に生まれ出ずる。

 白髭の老人はさらに祭壇の上の聖水の入った盆に供え物の生花を入れながら、祭壇の上の碑石に刻まれた祈祷文を読み上げる。

 語られている内容そのものは、背後にある神殿の壁画にも描かれている有名な神話であるはずだった。

 流血を好む人間の王マレクに殺された少女エレウニアの魂を慰めるため、この地の民はその骸を土に埋めた。
 すると少女の身体から様々な種類のいもが生まれ、民が生きるための糧となったという。

 この物語はチャンティク王国で広く親しまれているもので、殺された少女エレウニアは豊穣を司る女神として農耕に携わる者の信仰を集めている。

 だから王国の農村では、生贄の動物を殺して肉の半分を食べ、もう半分の肉を畑に埋めるいう儀式が行われることもあった。

 ――雨は其の血、川は其の髪。神荒びて君、天地に宿る。其の肉には薯が生り、我らに恵みを齎さん。君再び、此の地に生まれ出ずる。

 同じ言葉を幾度も繰り返し、女神を祀る夏至の日の祭は進む。

 やがて本当にハルティナが寝入ってしまいそうになった頃に、神官の老人の祈祷はやっと終わった。

 うやうやしく礼をして、老人が祭壇を去る。

 伽藍は静寂に包まれ、しばらくすると今度は、女神となった少女と少女を殺した王の仮装をした巫女の二人が祭壇に現れた。

 深い海のような色合いの青と黒の衣裳を重ねて身に着けているのが女神役の巫女で、火のように明るい緋と白の衣裳を着ているのが王役の巫女である。

(やっと巫女の舞踊の時間になったか。これは綺麗で見応えがあるから、まあ悪くはない)

 ハルティナは肩の力を抜いて、祭壇上の巫女を眺めた。
 くちびるに紅を塗り、大きな目を青墨で化粧した二人の顔は双子のように似ていたが、醸しだす雰囲気はそれぞれ違っていた。

 金銀の冠を被った二人の巫女は、対になるような姿勢になって立ち、ゆっくりと指先を動かした。

 そして巫女の動きに合わせて、祭壇の後ろで舞踊が始まるのを待っていた楽団が音を奏で始める。
 赤い布を頭に巻いた楽団の男性たちが使っているのは、大きな銅鑼に、胡弓や太鼓、縦笛に二組の青銅打楽器など、金色の龍の装飾が美しい伝統の楽器だ。

 素早く打たれる青銅の鍵盤からは、星の瞬きのように細かな高音が鳴る。太鼓は一定の拍を正確に打ち、縦笛からは甘い音が流れた。
 二対の打楽器は調律が意図的にずらされており、同時に叩けば音の重なりがうねりを作った。

 それらが調和した、煌めくような音楽に合わせて、巫女は艶やかな衣裳から小麦色の肩と背中を見せて舞う。
 頬を左右に軽く合わせて近づけたり、手を伸ばして離れたりしながら二人、時折視線を交わして祭壇を廻る。

 首や腰を優雅に揺らし、長い帯を持って手を広げる巫女の舞踊は、神を殺す様子を演じているとは思えないほどに綺麗だった。

 女らしさに欠けたハルティナにとっては特に、美しく舞う巫女はまぶしく見える。

(私は彼女たちと同じ、女に生まれた。だけど私は彼女たちのように美しさのためだけには生きられないし、迷いなく神々に舞を捧げることもできない)

 青い煉瓦敷きの伽藍の床を裸足で舞う巫女の少女の姿を見ながら、ハルティナはひたすらに美を磨くことが使命である彼女たちとは違う、自分の出自について考えた。

 そしてハルティナは、あまり思い出したくはない存在である、母親のことを思い出す。

 父と同じ年に亡くなったハルティナの母は王家に次ぐ格式のある家門の出身で、王に嫁いで世継ぎを産むために育てられた自尊心の高い女性だった。

 だから王に嫁いだ時も、自分は絶対に男子を生み、王の母になるのだと意気込み周囲に吹聴していた。最初に子が宿ったときもまた、腹の中にいるのは絶対に男児なのだと、断言して聞かなかった。

 しかし結局、生まれたのは女子であるハルティナだった。

 焦った母は男児を産むために何度も王の寝所にむりやり入り、怪しげな呪術師のまじないに頼った。だがどんなに王と床を共にしても、彼女が再び子を宿すことはなかった。

 いつも忌々しそうな顔をして横を向いていた母親の顔を、ハルティナは思い出してため息をつく。

(父上は、私を可愛がってくれていたとは思う。でも母上は、私の方を見てくれさえしなかった)

 女子として生まれてきたたった一人の子供に、ハルティナの母は冷たかった。母親に抱いてもらったり、笑顔で話を聞いてもらった覚えは、どんなに幼いときを含めても一切なかった。

 母は自分が世継ぎの王子を生むのだと、そして王の母になるのだと、信じて疑っていなかった。
 だから懐妊して生まれた子供がハルティナであったときは、その赤子を投げ捨てかねない勢いで落胆したのだと、ハルティナは十一歳のときに母親本人から聞いた。

 ハルティナはそのときにやっと、自分は王にも戦士にもなれないのだと理解した。

(それまではずっと、自分は王になるんだと思っていた。女子は王にはなれないとわかるまでは)

 男勝りで武術が得意な子供だったハルティナに、母以外の大人は皆、ハルティナが男だったら立派な王になっただろうと言った。

 幼いハルティナは「男だったら」という言葉の意味を理解せず、自分が王になれば母は悲しい顔をしないですむはずだと、玉座につくことを夢見ていた。

 そのころの自分は自分で思い出して嫌になるくらいに哀れで素直な子供だったと、ハルティナは思う。

(だが何も知らない分、今よりも幸せではあったはずだ)

 ふと現実に戻って顔を上げれば、巫女の舞は王が女神を殺すところまで進んでいた。

 青い衣裳を着た女神役が身体をしなやかに倒し、赤い衣裳の王役が相手の身体を支えながら勇壮な姿勢をとる。それは王が石で少女を撃ち殺した場面を意味する舞いだった。

 それがこの儀式の一番の盛り上がりであり、周りの出席者も寝ているものはおらず、皆熱心に巫女の舞踊を見ていた。

(少女エレウニアは殺されて、女神になった。では漫然と生きている私は一体、何になれるのだろうか)

 ハルティナも周囲の人々と同様に、階段状の席の上から巫女の舞踊を眺めていた。

 ときどきハルティナは、素直な子供だったころの自分はどこかで死んでしまっているような気がしていた。
 幼い日の自分が死んでいるのなら、今ここで生きて巫女の舞を見ている自分は何者なのかとハルティナは思う。

 やがて二人の巫女は、衣裳の裾を揺らしながら去った。

 誰もいなくなった祭壇の背後では楽団が名残を惜しむように、途切れてしまいそうなほどに静かな音楽を演奏していた。

4 帰宅

 女神を祀る儀式が終わると、神殿では夏至の日の祭の最後を締めくくる夜の宴が開かれた。

 儀式の出席者はそこで食事をしながら歓談し、宴が終われば用意された部屋で眠る。
 その後は、翌朝に帰る者もいれば、聖都の見学を続ける者もいた。

 ハルティナは一日だけ余分に泊まって所用を済ませ、二日後に供の兵士を連れて舟で王都に帰った。

 来るときには遭遇した賊は帝国とほとんど無関係だったらしく、帰りは特に問題はなかった。

 海と空の間にそびえ立つ、海辺の丘に建てられた金の瓦と赤い壁の王宮が舟から見えたとき、年若い側近の兵士は目をすがめてその荘厳な眺めを見て言った。

「聖都も美しい都でしたが、改めて見ると王都の眺めもやはり素晴らしいですよね」

 ハルティナは王都の美を認めながらも、素っ気なく答えた。

「王の住む場所なのだから、素晴らしくなければ国が困るだろう」

 真っ青だった聖都とは対照的に、王都は壁に赤土が塗り込まれた建物が多く、海の青に映えて王権の力強さを感じさせる。
 聖都よりも歴史は新しいが、代々の王が私財を投じて貿易の拠点として拡張しているこの港の都こそが、ハルティナが生まれ育った場所だった。

 ハルティナは王都に戻ると、配下の兵士を解散させて王宮にある自分の屋敷に帰った。

 先王の娘の住まいとして十分な格式のある広い屋敷の、白布の壁掛けが飾られた玄関には、留守を任せていた侍女が待っていた。

「お帰りなさいませ。王女様。物騒なこともあったようですが、ご無事とのことで安心いたしました」

 言葉とは逆にあまり心配はしていなかった様子の侍女が、濡れた清潔な布を器に入れて持ってハルティナを迎える。

 ハルティナはその布を受けとり、汗を拭った。

「ああ。こちらは特に、変わりはなかったか?」
「はい、お知らせが一つございます。つい先ほどですけれども使いの方が参りまして、王女様が戻られたらすぐに国王陛下の元へ参じてほしいとのことでした」

 普段から常に落ち着き払っている侍女は、淡々とハルティナに伝言を伝えた。
 国王であるディティロはハルティナの従兄弟であり、同じ王宮に住んでいるので、会って話すのはそう珍しいことではなかった。

「わかった。着替えたらすぐに行こう」

 ハルティナは頷き、侍女に着替えの用意を指示をする。

 侍女が用意したのは、格子柄が織り込まれた涼しげな絣布の衣だった。
 ハルティナはその衣に着替えて、国王の居館へ向かった。

5 王の命令

 昨年即位した新たな国王ディティロは、現在は隠居している先王の弟と、新興の家門出身の女性との間に生まれ育った青年である。

 ハルティナの母とディティロの母は嫁入り前から互いに顔見知りで仲が悪く、あらゆる問題で張り合っていた。

 だから彼女たちの子供であるハルティナとディティロも、顔を合わせて話す機会が多いわりには、微妙な距離のある関係にいた。

 ハルティナが先王の娘として王位を継承するであろうディティロと結婚するという縁談も以前はあったのだが、特に理由もなくいつの間にか立ち消えになっていた。

(別に私は、ディティロのことが嫌いなわけではない。だけどただ、私が得ることはないものを、あいつが持っているのを見るのは辛い)

 国王の居館へと続く庭を歩きながら、ハルティナはディティロと自分の因縁のことを思ってため息をつく。

 このクルタスの花に満ちた美しい庭で、ハルティナとディティロは幼い昔に一度だけ、木刀で手合せをしたことがあった。
 ハルティナはディティロの木刀を打ち落とし勝負に勝ったが、その後に王となり軍を率いたのはディティロだった。

 国王の居館は庭を見渡すことのできる北の端にあり、ハルティナは昔を思い出しながら歩いているうちにそこに辿り着いた。

 居館は魔除けに彫られた獅子の装飾のついた扉が荘厳な建物で、何層にも重なる塔のような屋根は高く黄金色に輝いている。

 見張りの衛兵に扉を開けさせて進めば、吹き抜けの広々とした応接間でディティロは待っていた。

「よく来てくれたな。ハルティナ」

 立派な木細工の長椅子の上に膝を立てて裸足で座り、ディティロは物憂げな微笑みで呼び掛けた。

 ディティロは背丈はハルティナと変わらないが、ハルティナよりも痩せて線が細く、瞳が大きな女性のような顔立ちをしていた。
 服は部屋着として金糸を含んだ黒地の更紗を着て、髪を結った頭上には輪の形をした冠をはめている。

 この男らしさに欠けた王の姿が、綺麗で素敵だと評価する貴族の娘もそれなりにはいる。
 だがハルティナは、自分よりも女のような顔をしているくせに男である、ディティロの外見が好きではなかった。

 ハルティナはディティロと向かい合う形に置かれた椅子に座り、腕を組んだ。

「帰って早々に呼び出して、一体私に何の用だ」

 およそ敬意を感じさせない口調で話す従姉妹の王女に、ディティロは何も言わずに相づちをうって本題に入る。

「うん、どこから話そうか。ハルティナは、俺たちの曽祖父がかつて南の群島にいた叛逆者との戦争で命を落としたっていう話は聞いたことがあるよな」

 ディティロはまず、ハルティナが知っている情報を確認した。

 チャンティク王国は多数の民族が暮らしている広大な国であり、地方が反乱を起こすことも少なくはない。

 かつていた南の叛逆者の話は直接政治に関わる立場にはない者でも知っている話だったので、ハルティナは話を先に進めようと質問で返した。

「最盛期には王国を乗っ取る寸前まで勢力を拡大したという、叛逆者の話か。だが祖父の時代に鎮圧されてからは、南の群島で特に問題は起きてないと聞いているが」

「そうだな。昔の話だと思っていたから、俺も注意を払っていなかった。だがその事情が、大分変わってきた」

 ディティロは表情を曇らせて、大きく開かれた折り戸の向こうの青空を横目で見る。

 王国が置かれている状況を鑑みて、ハルティナはそのディティロの言う事情の変化が何であるのかを推しはかった。

「それは帝国が、絡んでいるのか」

 十中八九そうではないかと思いながらも、ハルティナはディティロに問いかける。
 ディティロは視線を戻して頷き、簡単にわかりそうなことであるのにも関わらず、ハルティナを妙に持ち上げて答えた。

「さすが、ハルティナは察しが良いな。ハルティナが考えている通り、南の叛逆者の末裔が帝国と組んで再び反乱を起こそうとしているとの話が今、複数の筋から出てきている。しかも叛逆者の末裔は、秘密裏にずっと戦の準備をしていたらしい」

「それは非常に、まずい話なんじゃないのか?」

「ああ、まずい。よりにもよって、一番厄介な者たち同士が手を組んだ。どちらか片方だけでも難しい戦なのだから、両方を同時に相手にすれば負けるのは必至だ」

 どんどん雲行きが怪しくなる話に、ハルティナは思わずディティロに事の深刻さを確認した。

 自分の能力の限界を認め、ディティロは敗北への確信を率直に語った。
 その暗澹とした口ぶりからはこのまま有効な手を打てなければ最悪の事態を迎える、つまり王国が滅亡する可能性がかなり高いことが伺えた。

 ディティロは剣の腕はハルティナより落ちるが、軍才がないわけでない。
 それでもその才能は負け戦を勝ちにできるほど飛び抜けたものではなく、確実な勝利を逃さないという堅実な才能だった。

 それではどうするのだとハルティナが問いただそうとしたところで、ディティロは重々しく口を開いた。

「だから俺は、叛逆者の末裔に先んじて帝国に和平を結んで属国となり、服従の証に朝貢しようと考えている。叛逆者に負けて国を失うよりは、海の向こうの国と適当に話をつけた方がましだからな」

 ディティロが至った結論は、大嘉帝国との戦をほぼ全面降伏で終わらせることで、叛逆者の末裔の計画を根本から崩して滅亡だけは避けるというものだった。

 今までの帝国との戦争をすべて無意味にするその選択は、普通に考えれば受け入れがたい。

 しかし帝国との和平交渉を有利に運び、誇りを捨てても実を取ることができるのなら、もしかするとそれほど悪い話ではないのかもしれなかった

(だがこうした状況の中で利を得るには、ある程度の犠牲が必要なはずだが……)

 ディティロが払おうとしている代償について考えて、ハルティナは押し黙る。
 その沈黙を破って、ディティロはハルティナを呼び出した意味を告げた。

「それでハルティナには属国の王女として帝国に嫁ぎ、朝貢品の一つになってほしいんだ」

 様子を伺うような落ち着いた声で、ディティロはハルティナに依頼を語る。

「私に、人質になれということか」

 朝貢品という言葉の意図が完全には掴めず、ハルティナはディティロに尋ねた。

 国と国が同盟する際に人質を送ることで関係をより強固にすることは、よくある外交の手法である。
 しかしディティロの物の言い方は、それだけではない何かがあるように思えた。

 ディティロはしばらく言葉に詰まっていたが、やがてハルティナの目を見て隠さずに全てを話した。

「……人質というよりは、おそらく生贄だな。俺も詳しいことは知らないが、帝国を治めているのは人ではなく神だそうだ。そしてその神の宴に女子の肉を烹て捧げることで、女子を神の死せる花嫁にするという風習が帝国にはあるらしい」

 ディティロが話しているのは、ハルティナが考えていたよりも何十倍もひどい犠牲の話だった。人間が鶏や豚のように扱われて死ぬ国があるとは、簡単に信じたくはなかった。
 しかしディティロの深刻な表情から、それが嘘や冗談の類いではなさそうだということが、ハルティナにはわかった。

「その殺される女子の身分が高貴であればあるほど、捧げた土地は政治的に信頼されるということだ」

 見知らぬ異郷で行われている残酷な儀式について、ディティロは淡々と伝聞を語る。

(帝国では、そんなにも惨く、人が死ぬのか)

 ハルティナの国にも生贄を必要とする神がいることを考えれば、帝国が犠牲を求める道理が理解できないわけでもなかった。大嘉帝国は想像していたよりも強大な国だから、より重い命を生贄に望む神がいるのかもしれないと、ハルティナは思った。
 だがそれでも人が烹て食べられる話を、簡単に受け入れられるはずはなかった。

 そしてまたディティロは申し訳なさそうな素振りを見せて、頼んで願う形をとりつつも、王としてハルティナに命令を下した。

「この国で最も高貴で神に嫁ぐのに適齢の女子は、ハルティナだと俺は思っている。ハルティナが帝国の神の花嫁となってくれれば、帝国が我々を裏切ることはおそらくないはずだ。行ってくれないか、ハルティナ」

 目の前の人間を死なせる覚悟を決めた、ディティロの重苦しい声が、吹き抜けの部屋に響いて消えていく。
 その声を発したディティロの感情を殺した顔を、ハルティナはぼんやりと見ていた。

(私は死ねと言われているのだな。異郷の残虐な風習に付き合う形で、惨たらしく死ねと)

 ハルティナは次第に、自分が置かれている酷な状況を理解する。

 王の命令の内容がわかってまず最初に思ったのは、そんな国に嫁いで死ぬのは嫌だということだった。
 人間を烹て神に捧げる風習が間違いだったとしても、きっとこのまま帝国に送られればろくな死に方はできないに違いなかった。

 そして次に、考えるのも嫌になるほど陰惨な死に方を従姉妹に迎えさせようとする、ディティロの人間性を疑った。
 ディティロも悩んでいないわけではないことは態度からわかるのだが、それでもひどく冷酷な判断に感じた。

 ディティロが今まではっきりと口にしたことはなかったが、やはり女であっても自分よりも血統の良い従姉妹は邪魔だったのだろうかと、ハルティナは薄っすらと考えた。

(異郷の神のために烹込まれて死ぬなんていう、そんな気味の悪い死に方はしたくない。……だけどそれでも私は、ディティロの命令を断れない)

 背筋に冷たい水を流し込まれたかのような気持ちの悪さを、ハルティナは感じていた。
 しかしディティロの言葉を拒んで生きるという選択肢は、ハルティナにはなかった。

 ハルティナには王族としての誇りがあり、死ねと言われれば死ななければ、王女として格好がつかないような気がしていた。
 たとえ、その命令を拒絶するのに十分な正当性があったとしても、求められる意味があれば命を差し出すのが、王位には就けなくても王の娘として生まれたハルティナの矜持だった。

 だからハルティナは否定の言葉を押し殺して、簡潔な言葉で承諾した。

「わかった。私一人が死んで済むのなら、引き受ける」

 実際の想いとは裏腹に、声は怯えを滲ませることなく凛々しく響く。

 自分がじき送られることになる海の向こうの帝国について、ハルティナが知っていることは少ない。
 だが生贄という言葉が比喩ではなく、おそらく現実であることは、十分に理解していた。

 ハルティナは無意識のうちに、自分の身を守るようにさらに腕をきつく組んでいた。

 しばらくの沈黙の後、ディティロはゆっくりと立ち上がり、ハルティナの座る椅子の後ろに歩み寄って回った。
 そしてハルティナの肩に手を置き、ディティロは言った。

「ではすまないが、頼んだ。ハルティナならきっと、承諾してくれると信じてた」

 背後に立つディティロの顔は見えず、肩に置かれた手は冷たかった。ディティロは自分の命よりも建前を重視する、ハルティナの気性をよく理解していた。頼めば必ず承諾することを、知っていた。

(そんなに私に死んでほしいなら、お望み通りに死んでやる)

 ハルティナは声色だけは殊勝なディティロの言葉を聞いて目を閉じ、明るく照らされた吹き抜けの部屋を見るのをやめた。

 それからディティロと別れた後の、自分の屋敷への帰り道。

 ハルティナは一人で遠回りをして王宮の敷地にある海岸に寄り、久々に海に飛び込んでみた。
 幼い頃は泳ぎの練習をしたり遊んだりした海であったが、成長してからは入る機会は少なかった。

 着衣のままぬるい海水に浸かって沈めば、水面はきらきらと青く、遠く輝く。

 水中に広がっていく衣の裾を見ながら、ハルティナは水と身体の境目が無くなり、自分の存在が小さく消えていくような気がした。

6 黒髪に金の櫛

 ハルティナが船に乗り帝国へ旅立つことになったのは、ディティロと二人で会ってから一か月後のことだった。

 和平交渉についての他の臣下との話し合いで忙しいのか、それともわざと避けているのか、ディティロは出立の日までの一か月間ハルティナとはほとんど顔を合せなかった。

 こうして何事もないまま迎えた当日は、空も海も青く一つに広がる晴れた日だった。あまりにも陽射しが強い天気だったので、ハルティナは別れを惜しむには暑すぎるような気もしていた。

 今日が最後の仕事になる侍女は、主がいなくなる屋敷の一室で、ハルティナの髪を普段よりも時間をかけて梳いてくれた。
 侍女は金製の櫛を手にしながら、ぽつりとつぶやいた。

「国王陛下にとって帝国の属国になることは、王女様の命よりも大事なのですね」

 それは今までの日々と変わらぬ召使いの言葉を装ってはいたが、冷え冷えとした国への失望と、ハルティナへの切実な思慕を滲ませていた。

 ハルティナは侍女の言う通り、ディティロが自分にしている仕打ちはひどすぎると思っていたのだが、思ったままに言うことはやはりできなかった。

「王国のためにこの身を役立てることができて、私は満足している。だからあまりディティロを悪く言うな」

 髪を侍女に任せたまま、ハルティナは取り繕った綺麗事でディティロを擁護する。

 その理由はディティロの立場を慮っているからではなく、ディティロを責めれば自分の負けを認めることになるような気がしていたからだった。
 ハルティナは黙って殺されるしかない自分の自尊心を守るために、ディティロの強いる犠牲を正当化していた。

 髪を梳く侍女は何も言わず、顔色も変えない。

 ハルティナが本音を決して言わないことを、侍女はよくわかっていた。

7 帝国への旅立ち

 ハルティナは自分の屋敷で身支度を終えると、衛兵たちを従えて帝国からの迎えの船が待つ港へ輿で向かった。

 王宮からほど近い場所にある港は、いつもはにぎやかに商人が舟から積荷を下ろしているのだが、今日は出入りを禁じられているため静かだった。

 港の白い砂浜には曲刀を腰に携えた王国の兵士が整然と並び、木造の桟橋を渡ったところには渡し船が浮かべられている。
 白い帆を上げた帝国の船は大きすぎて港には入れないので、離れたところに停泊していた。

(まるで嫁入りではなくて、戦争のようだな)

 厳しい日射の下で兵士たちの沈黙を前にした一瞬、ハルティナは自分が花嫁としてやって来たことがわからなくなった。

 だが兵士が集まった雰囲気が戦に似ていたとしても、ハルティナが着ているのは白く柔らかい絹の衣であり、履いているのは歩きづらい金の靴である。
 結った黒髪に載せられた赤い宝石で彩られた冠も、透き通った布を巻いて留める金の腰飾りも、戦支度とは違う美しく優雅な装いで、本来は女性らしさに欠けたハルティナの姿を天女のように魅せていた。

(私はおそらく、もう剣を携えることはないのだろう)

 片方の肩に掛けた更紗の布を揺らして、ハルティナは桟橋の方へと歩く。

 剣を佩かずに着飾るのは落ち着かなかったが、これから異国に嫁ぐ者として、武器を持たないことには慣れなければならなかった。

 生花を置いて飾られた砂浜には兵士たちの他に、王女を異国へ送るのに必要な格式を与える重臣たちも並んでいた。
 そして桟橋のすぐ手前には、ハルティナほどではなくとも国王らしく着飾ったディティロと、まったく見知らぬ青年が二人で立って待っていた。

「ハルティナ」

 ディティロは沈痛な響きで、自分が脆い平和と引き換えに死なせることになる従姉妹の名前を呼んだ。
 ハルティナはその声に答えることなく、ディティロの隣で微笑んでいる青年に視線を向ける。

 その青年は鷹の刺繍が施された、仕立てが良さそうな見慣れない形の立襟の服を着ていた。
 肌は褐色で、甘く整った顔の造り自体は王国に住む人間とそれほど大きな違いはないのだが、後ろで束ねた髪が金色に輝いているのが美しく奇異で目を引いた。

 ハルティナが隣の男をじっと見たので、ディティロは軽くその青年の立場を話した。

「彼は帝国の都まで、ハルティナを案内する方だ。船旅の間、いろいろと面倒を見てくれることになる」

 簡単にディティロが紹介を終えると、青年はうやうやしくハルティナにお辞儀した。

「この度は犠妃ぎひとしてその身を捧げていただき、誠にありがとうございます。王女殿下」

 異郷の青年は爽やかに挨拶をして、見目麗しい笑顔を見せた。年齢はハルティナよりも上に見えたが、声からはある程度の若さと軽薄さに感じられた。

 「犠妃」という言葉はこれまで耳にしたことがなかったが、おそらく生贄となる女子のことを帝国ではそう呼ぶのだろうと推測する。

(帝国はもっと、地味な顔の人間が暮らす国だと思っていたが)

 ハルティナは青年の金色に輝く髪と、美貌に恵まれた顔立ちを、じろじろと眺めて挨拶を返した。

「ああ。よろしく。少し変わった風貌をしているようだが、帝国の大帝にはお前のような人間も仕えているんだな」
「はい。僕は搬贄官はんしかんという、大帝に犠妃として嫁ぐ方をお迎えに上がる役職に就いています」

 また一つ聞きなれない言葉を使って、青年はハルティナの問いかけに答えた。

 そして青年は、ハルティナが進む桟橋の先にある小舟を、手で指し示して招く。

「渡し船をご用意いたしましたので、どうぞこちらに」

 青年は親切な顔をしていたが、見慣れぬ色をした瞳には冷たいものが宿っていた。
 その取り繕われていても伺える酷薄さを感じ取ったとき、ハルティナはやはり自分は間違いなく異国で無残に殺されるのだと悟る。

 青年が誘う方向には、帝国の巨大な帆船もあった。ハルティナはその船に乗って、見知らぬ夫となる神が待つ国へと行くのだ。

 ハルティナが歩き出そうとすると、後ろから再度ディティロが名前を呼んだ。

「ハルティナ」

 それは遠ざかっていたら聞き取れなかったであろう、ささやき声に近いかすかな声だった。

 振り返ると、ディティロは何かを堪えた顔でハルティナを見つめていた。
 海岸に並んだ兵士や重臣たちからは確認できないだろう冠の下のその表情は、ひどく傷付いていて脆かった。

(ディティロが決めたことなのだから、傷付かれても私は困る)

 最後に見せた国王である従兄弟の情に、ハルティナはほだされずに逆に苛立ち、拳を握りしめて顔をしかめた。

 名前の呼び掛けに続くのは、おそらく謝罪なのだと思われた。
 ハルティナはディティロに贖罪の機会を与えたくなくて、謝罪を聞き届けることなく冷たい表情で別れを告げる。

「じゃあ、また」

 もう二度と会うことはないと知ってはいても、口をついて出たのは再会を期する言葉だった。

 そしてハルティナはディティロに背を向けて、異郷の青年と共に桟橋を進んだ。

(私はディティロに、幸せになってほしくはない)

 明るくまぶしすぎる青空の下で、華やかな装束を着て歩きながら、ハルティナはディティロに暗い感情を寄せる。

 ディティロはハルティナよりも弱々しく華奢で、臆病であることを隠さず、他人の顔色を伺うことに長けていた。

 王にはなれなかったハルティナは、王になったディティロが妬ましかった。男にさえ生まれていれば、自分の方が王にふさわしい人物だったはずだと、ハルティナは思っていた。
 そのうえ本当なら王ではなかったはずのディティロが自分に命令をして、一方的に犠牲を強いてきたのも許す気持ちにはなれなかった。

 だからハルティナは、どうせ死ぬのならディティロの人生により濃い影を落としたいと思っていた。

 ディティロが本当のところは善良な人間であることは知っているし、彼は彼で王として重荷を背負っていることは理解していた。
 だがそれでもハルティナはディティロをずるいと思っており、また卑怯だとも感じていたので、彼の不幸を強く願った。

 王族のくせに死を恐れていると思われたくはないから、死ねと命じられればハルティナは潔く死を受け入れいるふりをする。
 しかし本当に清く美しい想いを残して死ねるほど、ハルティナは心の広い人間ではなかった。



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