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【短編小説】少女は宴の夜に死ぬ/西の国の章(前編)

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1 古い記憶

「お前は誰よりも可愛いから、きっと素敵な人に買ってもらえるはずだよ」

 幼い我が子を奴隷商人に売り渡すその日、シャーディヤの母親は娘の手を握りしめてそう言った。

 家の前には商人の荷馬車が止まっていて、残された時間はもう少ない。

「だから、神様に感謝しなさい。お前のその可愛らしさは、神様の祝福なんだから」

 シャーディヤと同じ金色の髪と琥珀色の目をした母親は、静かに微笑みシャーディヤの小さな額にキスをする。
 そのかすかな温もりとくすぐったさに、シャーディヤは笑みをこぼす。

「うん。おかあさんの言うとおりにする」

 子供ながらに自分が容姿に恵まれていることを知っているシャーディヤは、母親の最後の言いつけに素直に頷いた。
 我が子を売るという母の選択が持つ重みはわからなかったが、母親の言う通りにすればきっと自分は幸せになれるのだと信じて疑っていなかった。

「母はお前を忘れない。でもお前は母のことを忘れてもいいからね。忘れてしまった方が、この先辛くはないのなら」

 そして母親は握りしめた手を離し、シャーディヤの頭に、乾いた砂漠の空気から肌を守るフードを被せる。

 それがシャーディヤの、もっとも古い記憶だった。

 貧しい都市の最下層民の家に生まれたシャーディヤは、こうして母親の手によって奴隷商人に売られた。父親や、何人かはいたような気がする姉妹のことは、覚えていない。

 はっきりとシャーディヤの心に刻まれているのは、神様に感謝しろという母親の言いつけだけだった。

2 奴隷の少女

 六歳で奴隷商人の手に渡った後、シャーディヤは人間を売買する市場で売りに出された。
 そうした市場はあちこちの都市で開かれていて、男も女も、あらゆる土地から集められた奴隷が売られていた。

 特に海と砂漠の大国・ベルカ朝の首都ザバルガドで開かれている市場は非常に大規模で取扱いも広く、シャーディヤが競りにかけられたのもその場所だった。

 シャーディヤは綺麗な色の目をした、とても可愛い子供だったので、他の子供よりも高値がついた。
 相場の三倍の値段でシャーディヤを買ったのは、ムスアブというまだらに髭を生やした中年の男だった。

 ムスアブは地味で目立たない男だが、ベルカ朝の大宰相であり、国中でも指折りの大金持ちである。
 都の中心の王宮の次いで良い土地にある、いくつもの部屋がある立派な石造りの平屋の邸宅に、ムスアブは住んでいた。

 邸宅にはたくさんの奴隷がいて、シャーディヤもそのうちの一人になった。
 ムスアブはシャーディアを広間に呼んで床に坐らせ、見下ろして言った。

「わしがお前を買ったのは将来、お前を王の後宮ハーレムに入れたいからだ。そのためにお前には、歌や踊りに楽器、刺繍に外国の言葉など、様々なことを覚えてもらう」

 しわがれたムスアブの声が、淡々と響く。

 ちょこんと床に坐ったまま、シャーディヤは何も考えずに微笑んで答えた。

「はい。かしこまりました、ごしゅじんさま」

 それは甲高く、舌足らずで明るい返事である。
 シャーディヤは誰に対しても、従順で言うことをよく聞く子供であった。

 またシャーディヤは、どちらかと言うと安心した気持ちでムスアブの言葉を聞いていた。

 この世で最も不幸なのは、死ぬまで暗い鉱山で働かされる価値の低い男の奴隷だと、市場で売られていた他の奴隷は語っていた。

 だから幼いシャーディヤは、鉱山がどんなところなのかは知らなかったし、後宮ハーレムに送られることの意味をわかっていなかったけれども、可愛い女の子に生まれて本当に良かったと思って神様に感謝していた。

 シャーディヤが心の中で神様に祈りの言葉を捧げていると、ムスアブはもう一つの命令を付け加えた。

「わしが愛しているのは効率で、嫌いなものは無駄だ。だからお前はわしがお前の代金を支払ったのが無駄と思う日が来ることのないように、よく学んでよく育ってくれ」

 特に深い感情があるようには見えない顔で、ムスアブはシャーディヤの前に壁のように立っていた。
 ムスアブは飛び抜けて優しいわけでもなく、死ぬほど冷酷なわけでもない、ただの主だった。

 そしてその後、シャーディヤは大宰相ムスアブが所有する奴隷として、実に効率的な教育を受けた。
 楽器の演奏法や外国の言葉など、様々な知識を身に着けながら、シャーディヤはより可愛らしく成長していった。

3 望まれた役割

 奴隷として売られて五年後に、シャーディヤは十一歳になった。

 淡い金色の髪はより豊かに、白い肌の美しさはそのままに、シャーディヤは顔立ちはやや大人びて、華奢な身体もだんだんと女性らしさを帯びてきた。

 素直な子供であったシャーディヤは、人に愛されることだけを目指すように教えられればそう育ち、いつも笑顔でいるように言われればそう努力した。
 もしも人を殺すことが使命なのだと教育されたのならば、シャーディヤは立派な殺人者になっていただろう。

 シャーディヤは奴隷として、神様や他人に全てを預けていた。
 優秀な奴隷が解放される慣例もあるのだが、それは極めて稀なことであるらしかった。

 こうしてシャーディヤは主であるムスアブが求めた通りに、王の妃になる少女としてひたむきで純粋に成長した。

 その年は半ばにベルカ朝では、まだ若かったヌウマーン王が病で死んだ。
 ヌウマーン王には王子が二人いたが、どちらもまだ赤子であったため、後継ぎには先王の子として幽閉されていた十四歳の王弟イスハークが選ばれた。

 死んだ王の妃は後宮ハーレムから旧王宮エスキサライに追いやられ、幼い王子たちは血統を守るためだけに幽閉される。

 イスハークの政治的な後見人であるムスアブは、新王が決まるとすぐにシャーディヤを邸宅の広間に呼び出した。

「シャーディヤ。お前は新しいイスハーク王の最初の妃となり、後宮ハーレムに入ることが決まった」

 壁沿いに置かれた椅子に座り、ムスアブはテーブルに載った金貨の枚数を数えながら、シャーディヤに言った。

「光栄なお役目、誠にありがとうございます。ご主人様」

 ムスアブの前に立つシャーディヤは、五年前よりも随分賢くなった顔で、明るく朗らかに返事をする。
 考えていたよりも後宮ハーレムに入るのは早かったが、ヌウマーン王が不慮の死を遂げたからだろうと、不思議には思わなかった。

 ムスアブは手にした金貨の傷や汚れを確認しつつ、シャーディヤに王の妃としての務めを説いた。

「お前の役割は、傀儡の君主となる新王陛下の心を慰めることだ」

 どうやらムスアブは、年若くまだ未熟なイスハーク王には権力を与えず、今後も自分が政治的に優位な立場に座り続けるつもりでいるらしい。

「とにかくお前は、王に愛されればそれでいい。お前はまだ幼いが、相手の王も十四歳だからかえってちょうど良いだろう」

 ムスアブは小柄なシャーディヤを、一瞥して言った。

 シャーディヤはまだ大人ではないので、すぐに世継ぎを生むことはできないだろう。
 だからムスアブが望んでいるのは、傀儡の王を現実の政治に触れさせないための玩具として振る舞うことであった。

「はい、かしこまりました。ご主人様」

 シャーディヤはごく簡単に、頷いた。新王イスハークがどのような人物であるのか、シャーディヤは知らない。

 だがすべては神様の思し召しであるので、シャーディヤは何も不安もなく、従順に生きれば自分は幸せになるのだと信じていた。

 こうして風が爽やかなある秋の日に、シャーディヤは十一歳でベルカ朝の後宮ハーレムに入った。

 ベルカ朝の首都ザバルガドは、三重の城壁と四つの城門を備えた円城の都市である。

 都には官吏だけではなく、商人や職人、学者など、様々な生業の者が住んいた。
 だから幾つもの通りに店が軒を連ねる市場には世界中の商品が集まり、図書館や大学ではあらゆる本の翻訳と研究が進められた。

 都市の中央に位置する王宮はとても壮麗で巨大な建物で、ドーム状の屋根に貼られた緑色のタイルが微妙な光の加減を作り出し、まるで大きな宝石のように輝いていた。

 王の署名が刻まれた王宮の門をくぐった時点で、シャーディヤの所有者はムスアブから王に代わるが、シャーディヤが奴隷であることに変化はない。
 だからシャーディヤが王の妃になるのだとしても、その手続きは淡々と大がかりなことはなく進められた。

 背に合わせて小さめに仕立てられた薄青色の長衣エンターリに透かし織の面紗を合わせて身に着けたシャーディヤは、ムスアブが用意した馬車によって王宮に運ばれ、宦官による検分を受けて後宮ハーレムに入った。

 普通ならば、まずは後宮ハーレムにいる大勢の女性の内の特別な一人として、王の目にとまらなければ妃にはなれない。
 だがシャーディヤは大宰相ムスアブの用意した最初から特別な女奴隷であったので、入浴や着替えを経るとすぐに、寝室で若き新王であるイスハークと二人っきりになることができた。

4 王と妃

「お前が、ムスアブが用意した女か。俺もお前も、男と女と言うには幼すぎるが」

 背伸びした口調の、不安定な高低の少年の声が、優雅に弧を描くアーチ状の天井の部屋に響く。

 その赤い唐草模様を壁一面に描いた寝室の中央に置かれた、透彫の金の装飾が施された天蓋付きの寝台の上に、新王のイスハークは坐っていた。

 まだ十四歳であるイスハークは背も伸びきっていないやせた少年で、声変わりもまだ完全に終ってはいないようだった。

 着用している長衣カフタンは、月と雲の文様が織り込まれた豪華なものだ。黒い巻き毛は細く豊かで、目鼻立ちは整ってはいるが、表情はやや神経質そうに曇っている。

 髪や爪の隅々まで着飾ったシャーディヤは寝台の傍らに立ち、作法に従って名前を名乗った。

「はい。シャーディヤと申します。足りないものがたくさんあるとは思いますが、精一杯国王陛下にお仕えしたいと思います」

 シャーディヤは嘘偽りのない気持ちで微笑んだ。
 そしてあらかじめ習った通りにバブーシュを脱いで裸足になって、イスハークの隣に並んで坐る。
 白く小さなシャーディヤの足の甲は宝石のついた鎖で結ばれた足環と指輪によって飾られ、燭台の明かりによってきらめいていた。

 寝台はシャーディヤが何人載っても余裕がありそうなほどに広く、敷かれている寝具も最高級のもので肌触りがなめらかだった。

 イスハークは自分が年若く権力のない、名ばかりの王であることをよく理解しているらしく、諦めた顔でため息をついた。

「お前を愛して、政治は忘れろと。ムスアブは俺に言っているんだな」

 シャーディヤから距離をとり、イスハークはけだるそうな様子でかぶりを振る。

 さっそく自分の役割を果たすべきときが来たと思ったシャーディヤは、イスハークとの距離を詰めつつ、顔を覗き込んで妃としての気持ちを語った。

「あなたが私をどう思うかはわかりません。でもあなたがどんな王であれ、私はあなたのことをきっと好きになります。私はあなたの、初めての妃ですから」

 シャーディヤはイスハークの人柄についてまったく知らなかったが、どんな人物であるにせよ王は王であるのだから、妃は王を笑顔にしなければならないと思った。

 そのためにまずは、自分は無条件に全てを肯定していると、学んで覚えた言葉で好意を伝える。

 そのシャーディヤの真っ直ぐさを無知によるものだと考えたらしく、イスハークは目の前の少女の編んで結った金髪を冷えた手で撫でた。

「俺のような力のない傀儡の王の妃になるとは、お前も不幸な奴隷だな」

 そのイスハークの声は、まだ若いのに力がなかった。
 イスハークは誰かに所有されることでしか生きていけない奴隷のシャーディヤを憐れみながら、国を統べる王でありながら他人に人生を任せることしかできない自分も憐れんでいた。

 しかし他方でシャーディヤは、自分は神様に祝福された可愛らしい子供であり、たとえ相手がイスハークのような立場の弱い者であったとしても、王の妃に選ばれた自分は他の奴隷よりもずっと幸せなのだと思っていた。

 だからシャーディヤは、自分の髪に触れる褐色の手を自分の手で包んで首を傾げて、再度イスハークに微笑みかけた。

「陛下。私は服従しか知りませんが、誰かに従い続けるのが嫌だと思ったことはありません。神様に与えてもらった幸運のおかげで、私はあなたに会えました。あなたの安らぎのために、私がお役に立てるのなら、それはとても幸せなことです」

 シャーディヤの白い手の下にあるイスハークの手は、指の長い男らしい硬さのある手だけれども、一人の王としては小さかった。

 こうして触れ合うことでやっと、ほんの少しだけは声を届けられた気がした。

 やや長い沈黙を挟み、イスハークはシャーディヤを寝台にそっと倒して手を離し、掛布団を掛けて囁いた。

「そうか。俺がお前に安らげば、お前が幸せになるのなら、俺は王としてお前に安らぎを感じるべきなんだな」

 そしてイスハークはたどたどしくシャーディヤの額に軽くキスをして、自分も添い寝の形で横になる。

 シャーディヤを見つめるイスハークの表情は、明るくはなかった。
 しかしその顔に浮かぶ諦めは、先ほどまでのものとは種類が少々違っていて、目にはかすかな優しさが宿っていた。

 イスハークに向かい合って身を寄せ、シャーディヤもまた持てる限りの優しさを集めて琥珀色の瞳で相手を見る。

「ありがとうございます、陛下。私も頑張ります。あなたの幸せが、少しでも多くなりますように」

 鈴のように澄んだシャーディヤの声は、小声のつもりでも高い天井の部屋によく響いた。

 イスハークは無言で、シャーディヤの小さく柔らかな身体を布団の上から腕で抱き寄せる。

 人に触れることに不慣れな様子のイスハークの腕の中にしっかりと収まって、シャーディヤは目を閉じた。

 十四歳の新王と十一歳の妃の夜は、ただ二人眠るだけで過ぎ去った。

5 卵と棗椰子の朝食

 こうして大人たちに期待された通りに、シャーディヤはイスハークの唯一の寵姫になった。

「お前は実に段取りよく、わしの期待通りに王に愛されてくれたな」

 王宮の廊下ですれ違うと、ムスアブは満足そうにシャーディヤを眺めて頷いた。
 イスハークは政治から遠ざけられた王であり、シャーディヤはそのお飾りの王を慰める妃だった。

 詩歌に楽器、双六に将棋シャトランジ

 シャーディヤは女奴隷として学んだありとあらゆる娯楽と、持って生まれた可愛らしさで、主人であるイスハークの無為な日々に楽しみを与えた。

 二人は数えきれないほどの昼と夜を過ごし、やがてシャーディヤは十六歳に、イスハークは十九歳になった。

 少しだけ鼻先に冷たさを感じる、掛布団の温もりが心地の良い春の日の朝。
 柔らかで上質な枕と寝具に身体を預け、甘くて重い眠気の中で、シャーディヤは目覚めた。

 布団にはシャーディヤのものではない温もりも残されているが、もう一人の姿は隣にはない。

 その代わりに部屋に漂う香ばしい匂いに空腹を刺激されて起き上がると、寝台の横の窓際に置かれた長椅子では、イスハークが朝食を食べていた。

「今日の朝食には、お前の好きな卵があるぞ」

 イスハークはちぎったピタパンに炒り卵を載せて食べながら、シャーディヤの方を笑って見ていた。

「だったら食べ始める前に、起こしてくれればいいじゃないですか」
「お前の寝顔を見ながら朝食を食べるのが、俺は好きなんだ」

 シャーディヤが着衣を整えつつ寝ぼけた声で抗議すると、イスハークはまたピタパンをちぎって食べた。

「私はあなたと二人で朝食を食べるのが好きなのですから、寝たまま放っておかれるのは嫌です」

 水盆で手や顔を洗い、シャーディヤは長椅子の向かいに置かれた座椅子に坐った。

 正面にいるイスハークは、成人として顔も身体も男らしくなり、外見だけは王にふさわしくなりつつあった。

 一方でシャーディヤは十六歳になり、華奢で繊細な容姿は十分に大人っぽく美しく成長したが、表情にはまだあどけなさが残り、生来の可愛らしさはそのままである。

 だから鍍金の飾りがはめ込まれた窓の前に坐る二人は、五年前よりも年齢の差が開いて見えても、ままごとのような雰囲気は変わらなかった。

 黒金の天板に載った宝飾皿には、ピタパンと玉葱入りの炒り卵の他に、胡瓜や棗椰子、オリーブやバターなどが載っていた。

 席につき食前の祈りを済ませたシャーディヤは、自分の皿に炒り卵を載せ、ピタパンでそれをすくった。
 すぐにお腹がいっぱいになってしまうので、一口分は少なめにして頬張る。
 ふんわりと焼かれた卵は胡椒を強く効かせて辛みがあり、玉葱を含めた素材の風味をひき立てていた。

「今日も卵は、美味しいか?」
「はい。あなたと食べる食事は全て、美味しいです」

 微笑むイスハークに、シャーディヤは頷いた。
 そして炒り卵とピタパンを食べる合間に、棗椰子の粒を一つつまみ、幸せいっぱいな気持ちで訊く。

「この食事の後は、昨夜の将棋シャトランジの勝負の続きをしますか?」

 するとイスハークは薄く切った胡瓜に塩をかけながら、一日の予定について答えた。

「いや。今日は異国の異教徒との戦についての御前会議があるから、この後は宰相たちの所へ行かなければならない」

 そう首を振ったイスハークの表情は、少し深刻なものに変わった。

 ベルカ朝は現在、大嘉ダージャ帝国という大陸の中央の荒野から勢力を広げている大国との戦争を目前に控えている。
 大嘉帝国は世界の半分を支配していると言われているほどの強国であるため、戦のための準備や話し合いにも時間がかかっているようだった。

「会議では宰相たちが全てを決めるから、俺がいなくても別に問題はないのだが」

 そう言って、イスハークは自信が無さそうに肩を落とした。
 年若くして即位したイスハークは、自分が国を統治する能力のある王としては扱われてはいないことに自覚的であるため、斜に構えた態度をとることもあった。

 だがそれでもイスハークは少しでも王としての責務を果たそうとして、形式的なものであっても国政の会議にはなるべく出席していた。

 そうしたイスハークの生真面目さが好きだったので、シャーディヤは手を合わせて微笑んだ。

「それでもちゃんと国政を大事にする、誠実な陛下はご立派だと思います」

 ほんの些細なことでも素直に、シャーディヤは好意を伝える。

 するとイスハークは照れて恥ずかしそうに黙って、横を向いた。

「俺を王扱いしてくれるお前こそ、立派な妃だ」

 その言葉もまた、イスハークのシャーディヤへの本心からの愛情だった。
 イスハークはシャーディヤを、純粋で真っ直ぐな、愛しく可愛らしい年下の妃として大事にしてくれていた。

 そしてシャーディヤは王の妃としてイスハークの全てを愛すると同時に、イスハークのような善良な人物を主人にしてくれた神様に感謝もしていた。

 例え人を痛めつけてなぶるような人物であったとしても、愛すべき存在であるなら愛せる自信がシャーディヤにはある。
 しかしそれはそれとしてやはり痛くて辛いことは苦手なので、イスハークが心優しい人物で本当に良かったとシャーディヤは思う。

「しかし最近、戦についての会議が多いですね。その異国の異教徒は、それほど恐ろしい敵なのですか」
「俺にはよくわからないが、彼らはなかなか戦上手であるらしい。だがムスアブは、我が国も十分に戦の準備をすれば対処できるはずだと言っている」

 最低限の教養としてしか異国について知らないシャーディヤが尋ねると、イスハークも説明しづらそうに答えた。
 即位当初に比べれば政治についての知識も増えてはいても、イスハークは傀儡であり、宰相たちはイスハークに国政の実態を隠していた。

「ムスアブ殿がそう仰っているということは、多分大丈夫なんでしょうか」

 かつての主人であるムスアブの能力を、シャーディヤはある程度は信頼していたが、人間性は少々信じられないところがある。
 とはいえ、異教徒との戦争に危険があっても、対応を間違えなければ致命的にはならないという認識は、それなりに正しいとシャーディヤも思った。

「ああ。そうだな」

 シャーディヤと同じ考えなのか、イスハークも頷く。

 食事中の会話が物騒になっても、窓の外の朝空は綺麗に晴れていて眩しかった。

 イスハークとシャーディヤは政治的には無力な状況に置かれていたが、傀儡と奴隷という神様が定めた各々の立場を忠実に生きれば、ささやかな幸せは守れると信じていた。

 だが戦雲が運ぶ血の匂いは、着実にベルカ朝の都であるザバルガドの中心にいる二人に近づいてきていた。

6 滅びゆく国

 ――我がベルカ朝の領土を攻撃すれば、神の怒りにふれるだろう。

 宰相たちによる抗戦の決定に従ったイスハークはそう文書にしたためて、降伏を勧めに来た大嘉帝国の使者の首とともに送った。

 しかし帝国の兵はベルカ朝の兵よりもずっと戦に慣れていて、攻城兵器や火薬の扱いに長けた工兵も多数おり、士気も十分に高かった。
 そのためベルカ朝はじわじわと敗戦を重ねて領土を奪われていき、気づけば首都であるザバルガドは異教徒の軍に包囲されつつあった。

 戦局が悪くなるにつれて投降者も増えて、兵力はみるみるうちに減った。

 だがそれでも人々は、ザバルガドの都には王の精兵と三重の城壁があるから、異教徒の軍に負けてしまうことはないはずだと考えていた。

 こうしていよいよ籠城戦が始まろうとしていたある日、イスハークはシャーディヤがいる寵姫のための居室に来るなり、抑揚のない声で言った。

「宰相たちが逃げた。主犯はムスアブだ」

 イスハークは、この世の終わりのような顔をしていた。

「逃げたとは、一体」

 弦楽器ウードの曲を覚えていたシャーディヤは、楽器を手に床に敷いた絨毯キリムに坐ったまま、状況がわからずイスハークの言葉を繰り返した。

 あまりにも突然の話であった。

 イスハークは部屋に置かれた長椅子に、倒れ込むように腰掛けた。

「ムスアブたちは、自軍の兵の引き連れて、帝国の包囲の隙をついてこの地を去ったんだ」

 イスハークは手短に、ムスアブとその追随者のしたことについて語った。

 どうやらムスアブはイスハークに異国との戦争を始めさせておいて、自分たちはさっさと安全なところに逃げてしまったらしかった。
 それはまるで、王であるイスハークを囮にして時間稼ぎをしていたかのような、裏切りだった。

 最近は直接会うことは減っていたものの、ムスアブはシャーディヤの元々の主である。
 だから彼が無駄を嫌い効率を重視していることはよく知っていたのだが、それでも今回の出来事はもはや笑い話のような裏切りだと思う。

 しかしイスハークの方は、裏切り者ではなく自分を責めているようで、苦しげな表情で目を伏せていた。

「どうやら俺は、お飾りとしての王の役目でさえも、十分に果たせなかったらしい」

 そのまま消え入ってしまいそうなほどに悲痛な面持ちで、イスハークは両手を握りしめていた。

 イスハークは国政を投げ出していたわけではなく、無力なりに責任を負おうとする努力はしていた。
 そうして迷いつつも臣下を信じた結果、イスハークは裏切られたのである。

 情のない人々の裏切りに対しても誠実に、自らに原因があるのだと受け止めるイスハークが、シャーディヤにはとても不幸な人に見えた。
 そして同時に、やはり自分が愛さなくてはならない人だとも思った。

「残った宰相や司令官もいるにはいるが、投降する者も多く、兵力は乏しい。となると、この戦は……」

 イスハークは暗い声で、自国が迎える未来を言いよどんだ。

 すでに何度か大嘉帝国から来た降伏要求を断っているので、和睦交渉を今更行うのは非常に難しいと思われた。
 イスハークは完全に、梯子を外されていた。

 降伏もできず、勝つこともほぼ不可能であるのなら、結末は徹底的な敗北以外にない。

 ベルカ朝が戦争に負けた場合、その国の妃である自分に何が待っているのか、シャーディヤには想像できなかった。
 一番にシャーディヤが考えたのは、自分は王の妃として、まずは自責の念にかられているイスハークを肯定しなければならないということだった。

 だからシャーディヤは戦のことはわからないまま、イスハークの足元にひざまずき、その長衣カフタンの裾に口づけをした。

「この先、この国がどうなったとしても、私はあなたのことを愛しています」

 そう遠くはない死を前にしても、シャーディヤは何も疑うことなく、未来を誓った。

 そしてそのままシャーディヤはつつましく、イスハークの長衣カフタンの裾を手にしたまま考えを述べた。

「今、死んで滅び去るときが来るのなら、それは神様がお決めになったことです。だから私は思い悩むことなく、その終焉を受け入れたいと思います」

 神様は絶対に間違わないし、何事にも神様が与えた意味があると、シャーディヤは信じていた。

 それゆえ誰も責められてほしくない気持ちで、シャーディヤは立っているイスハークを見上げて微笑む。

 イスハークは一瞬虚を突かれたような表情をして、シャーディヤをじっと眺めていたが、やがて目をそらして黙り込んだ。
 どんなに権力を奪われてはいてもイスハークはやはり王であり、亡国を受け入れることはたやすいことではないようだった。

 しかしシャーディヤは従うことだけを教えられてきた奴隷であるので、滅亡にも簡単に服従した。

7 終わりの二人

 ムスアブを含む臣下たちの裏切りによって、ベルカ朝は首都であるザバルガドを守る能力を完全に失った。
 だから異教徒の軍が城門を破り、都を蹂躙し始めるのには、それほど時間はかからなかった。

 期待を裏切られた住民たちは、破壊されつつある街の中を逃げ惑い、敵の兵士に殺された。

 迫りくる異教徒の軍勢を前にして、王宮もまた混乱した。

 捨て身で戦おうとする兵士や、自ら命を絶つ官吏、やっと状況を理解して逃げ出そうとする女官などの大勢の人々が、それぞれ勝手に行動して秩序はない。

 そうした無秩序の中で、重臣たちに見捨てられた王であるイスハークは、存在を忘れ去られていた。

 もはや傀儡としての立場さえも失ったイスハークは、外の音が聞こえない静かな王宮の奥の部屋で、いつもと同じようにシャーディヤと身を寄せ合い寝台に坐っていた。

 生命を司る糸杉の文様が織られた撚糸の壁掛けで壁を覆った寝室は、窓から陽が差し込まない頃合いであるため仄暗い。
 部屋の隅には精巧な七宝細工の香炉が置かれていて、寝台は甘い花の匂いに包まれていた。

 シャーディヤは白地に金の刺繍が施された衣装を、イスハークは深緑色の室内着を着て、その装いは日々のものと変わらない。

 普段の様子とは違うのは唯一、イスハークがひどく心苦しそうな顔をしていることだった。

 絹の寝具の上で互いの手を絡めて、イスハークは救いを求めるように、シャーディヤのくちびるに長い口づけをする。

 それは今までの口づけと同じように優しかったけれども、イスハークの苦悩や自責が伝わるかのように、切ない味がした。

 時間をかけた口づけに、だんだん息が苦しくなってきたところでやっと、イスハークが我に返ってくちびるを離す。

「すまない。つい」
「私は平気ですよ、陛下。むしろ深く想ってもらえたみたいで、幸せです」

 シャーディヤは、イスハークの胸元に頬を寄せた。
 大人になったイスハークの身体は厚みがあり、その心臓の鼓動や息遣いを感じていると心が落ち着いた。
 きっとイスハークも同じように、二人でいることで少しは安心してくれると嬉しいと、シャーディヤは思う。

 イスハークはシャーディヤの絹糸のように柔らかな淡い金髪を撫でて、罪悪感を滲ませた声でつぶやいた。

「外では大勢の民が殺されていて、じきにこの部屋にも帝国の兵士が来るだろう。俺は異教徒の軍隊が怖いし、自分が死ぬのも、この目で人が死ぬのを見るのも怖い」

 何もかもを諦めるしかない状況に立たされたイスハークは、強がって自虐的に振る舞うのをやめて、隠そうとしてきた弱さを震える本音で吐露する。

「お前には、怖いものはないのか?」

 イスハークはどんな宝石よりも大事そうに、終焉を目前にしても変わらず微笑み続けるシャーディヤを抱きしめた。

 その腕の温もりと優しさに何かで答えたくて、シャーディヤはそっと両目を閉じた。

「そうですね。私は、いつか年老いてあなたの寵愛を失う未来について考えるときは、怖いと思ってました」

 シャーディヤは自分で何かを選んだことはなく、ただ与えられた道を生きた結果、イスハークの妃になった。
 しかし全てが他者によって決められていたからこそ、シャーディヤは幸福だった人生をありがたく思っていたし、他の誰かでも良かったはずの自分を愛してくれたイスハークのことが、本当に好きだった。

 ゆっくりと二人出会ってからのことを思い出し、シャーディヤは白い指でイスハークの背中をなぞる。
 そして顔を上げて、澄んで大きな琥珀色の瞳で、イスハークの泣き出しそうに潤んだ黒い瞳を見つめた。

「でも私は幸せな奴隷なので、あなたに捨てられる時は来なさそうです」

 嘘偽りのない気持ちで、シャーディヤは感謝の言葉を紡ぐ。

 するとイスハークはとうとう堪えきれなくなったのか、脆く傷付いた少年の顔をして、声を押し殺して涙を流した。

 シャーディヤは、その頬を流れ落ちる涙を拭いたかったけれども、自分の腕はイスハークの背中に回して塞がっていた。

 何も言わずにイスハークは、シャーディヤの細い身体をさらにきつく抱き寄せた。
 自分を抱きしめる腕の必死さから伝わる切ない愛情で胸が一杯になって、シャーディヤはイスハークの涙とは持つ意味の違う涙を流しそうになる。

 こうしてしばらく二人でお互いの想いを確かめ合った後に、イスハークはシャーディヤを抱きしめる腕を緩めて、身体を離した。

 そして今度は、シャーディヤを寝台の上に押し倒し、懐から短刀を抜いて突きつけた。

「俺は民を守る力のない王だったから、せめてお前だけは、この手で守るべきだな」

 イスハークは迷いながらも、シャーディヤを殺すことで敵の軍勢の暴力から守り、主としての責任を果たそうとしてくれていた。

 黒い巻き毛の前髪の奥の、覚悟と葛藤に揺れる瞳は、シャーディヤに情の深いまなざしを注ぐ。
 そのまなざしに感謝と喜びで答えて、シャーディヤは祈るように手を合わせた。

「最後まで私を愛してくださり、ありがとうございます。陛下」

 綺麗に澄んだシャーディヤの声は、歌の終わりの一節ように美しく響く。

 シャーディヤは滅びゆく国の妃として、死と破壊を目前にしていた。

 だが世界で最も自分を大切にしてくれた、一番好きな人に最後に殺してもらえるのだから、自分は絶対に幸せなはずなのだと信じた。

 同時に、これもまた生まれつきの可愛らしい容姿のおかげの幸運だと思ったシャーディヤは、恵まれた姿を与えてくれた神様に深く感謝した。

 寝台の上に無防備に捧げられた、シャーディヤの白い衣裳を着た小柄な身体を、イスハークは不慣れな荒っぽい優しさで抑え込む。

 そして焦燥感にかられた自分自身に言い聞かせるように、イスハークは低くささやいた。

「お前を苦しませないのが、俺の最後の役目だ」

 イスハークは、シャーディヤの両手なら簡単に指が回るほど細い首に手をかけ、その下の薄い胸の真上に鋭い銀製の短刀の切っ先を置いた。

 最愛の人に自分の心臓を深く貫いてもらえるその瞬間を待ち、シャーディヤは反射的に身体を強張らせて目をつむる。

 慈しんでいるからこそ命を奪おうとする思い遣りを、シャーディヤは知っている。
 だから首にふれる硬い温もりのあるイスハークの手と、衣越しに感じる刃の冷たさが愛しかった。

「陛下……」

 半ば息をするのを忘れて、シャーディヤはイスハークの長衣カフタンを握りしめた。シャーディヤはより少しでも、イスハークの存在を感じていたかった。

 溶け合うほどに近くに重なる互いの熱に、シャーディヤの鼓動は期待に高鳴る。

 甘美な終焉を閉じ込めて、二人は永遠ではない時間を分け合った。

 しかし本当の最期を覚悟しても、イスハークはなかなかシャーディヤに決定的な死を与えてはくれなかった。

 やがて刃の冷たさは、シャーディヤの血を流さないままに離れていく。

 ゆっくりとシャーディヤが目を開くと、イスハークはまた音もなく涙を流して、短剣を傍らに落としていた。

「シャーディヤ、俺は……」

 かすれた声で、イスハークはシャーディヤの名前を呼んだ。

 イスハークはシャーディヤが愛しく可愛いと思っていたので、敵から守るために殺そうとしていた。
 だがシャーディヤがとても可愛いからこそ、イスハークはその命を奪い、責任を果たすことはできなかったらしい。

 自分のために泣いてくれているイスハークの辛そうな表情に、シャーディヤの胸は締め付けられた。
 その苦悩を和らげたかったけれども、自分にできることはやはり、微笑むことだけだった。

「私はどんなあなただって、愛してますよ」

 人を殺すには優しすぎたイスハークの静かな涙を見て、シャーディヤは短剣を手にしていたはずのその汗ばんだ手をそっと握る。
 そして華やかな唐草の幾何学模様が一面に描かれた暗い天井を見上げた後に、再び目を閉じた。

 二人だけの夢から醒めて現実が戻るように、大嘉帝国の軍隊が扉を蹴破って部屋に侵入してきたのは、それからすぐのことだった。

8 略奪者たち

 帝国軍の兵士の手によって、シャーディヤはイスハークと引き離され、鎖に繋がれ牢獄に入れられた。
 シャーディヤは若く可愛らしい王の奴隷として、高い価値のある捕虜だと判断されたので、そう手荒なことはされなかった。

 しかし大嘉帝国の軍は不要と判断したものには容赦がなかったので、シャーディヤは数えきれないほど多くの殺戮を見聞きした。

 皆似た表情で戦う遠い異国の兵士たちは、獣のような言葉で話し、大きな馬を乗りこなして弓矢で人を射る。

 彼らは円城の砦も、水路も、すべてを粉々に壊した。壊さなかったものは、略奪した。

 翠玉のように美しいと謳われていたザバルガドの都は火をかけられ、炎は何日も燃え盛ってありとあらゆるものが灰になった。

 図書館に集められた世界中の本も焚かれ、大勢の人が逃げ込んだ寺院や治療院も焼き尽くされる。

 職人や工兵など、帝国の役に立つと判断された者はわずかに生かされたが、そうではない住民は、老人や子供も殺された。

 また異教徒の軍隊は、ベルカ朝の象徴である王宮を特に、徹底的に破壊し略奪した。
 彼らは壁掛けや枕を全て剣で引き裂き、黄金や宝石だけを持ち去った。そして隠れている者は女も男も全員引きずり出して、惨殺する。

 あまりにも大勢の人が殺されたので、大量の死体の腐臭は街中を覆い、都の近くを流れる川は真っ赤に染まった。

「この苦しみから天上の楽園へ、私たちを導く慈悲深き神よ。正しい道を示してくださる、あなたは偉大です」

 時折牢獄でも響く誰かの悲鳴を聞きながら、シャーディヤは死後にあるはずの神様による救済に感謝し祈った。
 シャーディヤは世界が焦げてくすみ、何もかもが赤黒く塗りつぶされてしまった気がしていた。

 わざわざありがたいことに、帝国軍は王であるイスハークを処刑するときに、シャーディヤを鎖に繋いだまま外に連れ出し見学させてくれた。

 イスハークの処刑は、都の様子がよく見える高台で行われた。

 そして破壊と略奪の結果を見せつけられた上で、イスハークは頭を断頭台に押し付けられ、曲刀で首を斬られて死んだ。

 澄み切った青天の下、大地に一つの血の染みが広がる。

 イスハークに科されたその処刑の方法は一応、大嘉帝国では貴人に対する名誉ある殺し方であるらしかった。
 その痛ましい死とは違って、死後には安らぎがあることを、シャーディヤは祈る。

 処刑されるそのとき、シャーディヤにはイスハークの最後の姿が見えていたが、イスハークにはシャーディヤが見えることはなかった。

 ただ呆然と殺戮だけを目に映し死んでいくイスハークは孤独で無力な王で、シャーディヤはその他大勢の群衆の一人でしかない。

 イスハークは処刑され、主と奴隷が二人で死ぬ機会は失われた。
 シャーディヤは生かされ、現実に一人残されたのだ。



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