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【短編小説】羊肉泡馍―屠殺人と姫君―

1 幼い初恋

 荒涼とした大地に降り積もる白い雪に、凍った川に映る灰色の空。
 世界を四角く囲む城壁の外に広がる景色は、花も緑もなく色彩に乏しい。
 北の果てに位置し、化外の異民族と国境を接する來国らいこくは、城以外は何もないところである。

 娯楽の少ない国の姫として生まれて、琳玉りんぎょくはずっと昔から退屈していた。埃をかぶった書物も、面倒なだけの裁縫も楽器も心を満たしてはくれなかった。

 幼い琳玉の楽しみはただ一つ。
 城の厨房で働くある一人の青年が、羊や牛を捌く姿を見ることだった。

 青年は背が高い他は、とりたてて特徴のない外見をしていた。
 その平凡な姿に反して美しいのが、青年の仕事ぶりだった。彼の手にかかれば、羊も牛も、すべてが華やかな大輪の花のように切り分けられていく。

 彼の握る庖丁が切り開く肉の赤だけが、凍てついた土地に暮らす琳玉の目を楽しませる造り物ではない色だった。それは箪笥に収まる衣装の赤とも、屏風に描かれた鳥の赤とも違って見えた。

 王家の一員として娘を正しく導こうとする母親の言いつけを聞かず、幼い琳玉はいつも厨房の戸の隙間から青年を見ていた。
 仕事をしている青年は琳玉の存在を気に留めることなく、吊るされた羊の前に立ち、鮮やかに刀で骨と皮を解いていく。肩を寄せて屈む姿はどんな貴人に対するよりも恭しく、そっと手でふれる様子は金銀や宝玉を扱うようだった。

 食材として生をうけ大事に育てられた羊は、より良く最後に食されるために青年の刀捌きで形を変えていく。
 肉と皮が離れる音、骨が関節から外れる音、庖丁が肉を断つ音。青年が羊を捌くことで奏でられる音律には、不思議な心地良さがある。

 捌かれる羊の姿も響く音も何もかもが美しく感じられて、琳玉は何度も彼の仕事を覗いた。
 幼い琳玉には、青年によって丁重に切り開かれている羊が、王の娘である自分よりも綺麗で恵まれた存在に見えていた。

2 裏切りと亡国

 それから十年の時が過ぎ、琳玉は年頃の美しい姫君に育った。
 長く伸びてゆったりと結った黒髪は艶やかで、成長して整った顔も蕾が花開いたように瑞々しい。

 しかし琳玉はそれなりの美貌を手に入れてもまだ、食材として大切に捌いてもらえる羊の方が自分よりも幸福な気がしていた。
 特に国政のために嫁いだ夫が裏切り敵国についたという知らせを聞いた今は、より自分の人生に感じるむなしさが強くなる。

「つまり私の夫は、夷狄に寝返ったのですね」

 隅に置かれた青銅の燈台がわずかに部屋を照らす、薄暗い一室。
 琳玉は読み終えた伝令文を卓に置き、向かい合って座る国王である兄の峰文ほうぶんに尋ね返した。
 部屋には他に人影はなく、峰文は椅子のひじ置きに頬杖をつき、ため息をつく。

「ああ。范永晶はんえいしょうは慧国と内通し、砦を明け渡した。今や奴は敵方の将軍で、奴の指揮下にあった五万の兵も慧国の軍だ。永晶をお前の結婚相手に選んだのは、奴の持つ私兵の力で異民族を退けるためであったが……、かえって危機を招いてしまったようだ」

 普段よりもさらに青白く見える顔を歪めて、峰文は琳玉の夫であった男の范永晶について恨み言を語った。

 永晶は代々來国を守護してきた武門である范家の生まれであり、将軍として大勢の兵士を従えている。來国は以前より、北方の異民族の国である慧国に侵略されていた。軍事的な国難を前にして、峰文は范家と王家の繋がりを深めるために、王妹である琳玉と永晶を婚姻させたのだ。

 結婚は完全な政略の結果であり、二人の間に愛はない。

 永晶は名門に生まれただけの冷淡な男で、忠誠や愛情やその他の一切の感情を琳玉に示すことはなかった。彼が琳玉に与えたのは、字面だけは達者な嘘の言葉と取り繕った笑顔だけだった。琳玉もまた永晶に、何か特別な想いを持った覚えはない。

 だから琳玉は、永晶の裏切りそのものに傷つくことはなかった。
 永晶が民や兵のことを考えて行動するはずはなく、彼はただ自分自身が無事であることだけを望む男である。従ってそもそも信頼がないのだから、痛む心も存在しない。

 だが結婚というある程度には重い繋がりで結ばれたのにも関わらず、その関係がまったく何の役にも立たなかったという現実には嫌なものを感じた。いくら愛がないとはいえ、本当に国と妻を捨ててしまった永晶は人としてどうかと思う。
 割り切るのか、割り切れないのか。自分の心の整理がつかないまま、琳玉はとりあえず目の前にいる兄に声をかけた。

「夫の背信に気付かなかったのは、妻である私の責任でもあります。私は兄上を責められません」
「身内からの形式的な慰めも、多少は救いになるものだな。だが結局は私は国を滅ぼした王として、後世で責められるに違いない」

 琳玉の言葉が本音ではないことを見抜きながらも、峰文は小さく微笑んだ。
 峰文は細くやせて神経質そうな表情をしているが、顔立ち自体は端整なので平時であれば王としての威厳も多少はある。

 しかし決定的に最悪な知らせを受けた今夜の、峰文の態度は投げやりだった。国王らしく玉の散りばめられた衣服を身に着けてはいても、峰文は自国の未来について他人事のように述べた。

「永晶は慧国軍を我が国の領土に招き入れ、他の将軍たちを降伏させながらこの城へと向かってきている。いくつか抵抗を続けている砦もあるが、こうも裏切り者が多くてはここもすぐに慧国軍に囲まれることになるだろう」

 冷ややかに響く峰文の声が、容赦なく琳玉に現実を突きつける。
 まだ永晶に裏切られたことだけしか理解していなかった琳玉は、峰文の話を聞いてやっと、自分の身にも危機が差し迫っていることを気づかされた。戦の敗北が続けば、最後は皆敵に殺されるのだ。

 燈台の明かりに照らされた兄の顔をじっと見て、琳玉は尋ねる。

「敗けるのですか、來国は」
「この状況では、勝てるわけがない。滅亡だ」

 峰文は琳玉と目を合わせることなく、背もたれに身を預けてあっさりと終わりを告げた。

「滅亡……」

 実感のわかないまま、琳玉は兄の言葉を繰り返した。
 国が滅びつつあることには薄々気づいていたが、いざ本当に亡国の時を迎えるとなるとすぐには飲み込めない。
 琳玉が椅子の上で固まっていると、峰文は暗い天井を見上げてさらに口を開いた。

「慧国の夷狄どもの略奪と殺戮は、言葉では言い尽くせぬほどに凄惨だそうだ。奴らに滅ぼされた国は、何もかも奪い取られて後には骨も残らなかったとか。この国もきっと同じように、むごい最後になる」

 早くもすべてをあきらめた様子の峰文は、やがて文字も理も知らない野蛮な異民族によってもたらされる結末の話をする。
 峰文は賢い男だった。だが賢すぎるがゆえに、勝ち目がまったくないことを見通し絶望していた。

「琳玉。お前もそう悪い見目ではないから、自分が奴らにどう扱われるかはわかっているだろう。安らかに人生を終えたければ、自害する覚悟なり何なりしておくんだな」
「……かしこまりました」

 身も蓋もなく妹に死ぬことを勧める兄に、心から従う気にはなれない。
 だが残虐な敵の侵略を前に無事に生き残る方法も思い浮かばず、琳玉は渋々うなずいた。琳玉は峰文ほど賢くはないが、自分が弱者であることは知っている。

「話が早い妹だ、お前は」

 有無を言わさない態度で接しておきながら、峰文は琳玉の即答を笑った。

 会話は終わり、二人だけの部屋に沈黙が広がる。

 両親を亡くした今、峰文は数少ない身近な肉親であったが、血の繋がりも琳玉の胸に広がる絶望を軽くしてはくれなかった。

3 凍てついた城塞

 峰文と別れた琳玉は、塞ぎ込んだ気持ちで自分の部屋へと続く廊下を一人進んだ。

 城は石材を積み上げて築かれていて、方楼と呼ばれる四面を高い壁に囲まれた形をしている。四隅には見張り台の役割を果たす塔があり防御に適した造りだが、敵の侵入を防ぐため窓も小さく中は暗い。そのため夜の移動には必ず燭台が必要で、廊下は不気味なほどに闇が広がっていた。

 さらに來国は一年のほとんどが氷で閉ざされているような気候なので、今日も手がかじかむほどに寒かった。石壁に狭く開けられた窓の外の夜空も雲で覆われて何も見えず、ただ凍てついた風が吹き込んでくる。

 寒さと暗さで余計に気が滅入って、琳玉はため息をついて上着の襟を押さえた。
 絹で仕立てられた衣の上に袖まで毛皮の裏地をつけた長袍を着込んではいても、寒いものは寒かった。結い上げた髪をまとめる象牙のかんざしも、金と翡翠でできた首飾りも、見る者がいなければ意味がない。

「こんなにも簡単に敗けて死ぬことになるのなら、私の今までの人生はなんだったんだろうか……」

 夫に裏切られ、兄に死ぬ覚悟を求められ、琳玉はふつふつとわき上がってきた怒りを込めてつぶやいた。

 幼かったころはわがままに生きてきた琳玉であったが、年を重ねてからはある程度の忍耐を覚えたつもりである。国のため、民のためと親や兄に言い聞かされ、仕方がなく琳玉は従順でおとなしい姫君として生きた。

 その最たる例が、今や裏切り者となった夫・范永晶との結婚である。
 十四歳で好きでもない年上の男に嫁ぎ数年、気に入らない人間性に耐えてきたのは、それが国の将来に必要だと言われたからだ。軍事を司る范家との婚姻関係を結ぶことが国を守ることに繋がると信じたからこそ、琳玉は自分を押し殺した。

 だが国のために戦ってくれるはずだった永晶が裏切ったとなると、琳玉が彼と結婚した意味はなくなる。琳玉が慎ましい妻であろうと努力した日々は、まったくの無駄に終わる。

 琳玉も一国の姫に生まれたので、誇り高く死ねと言われればその通りに死ななければならないだろうとは思っている。しかしそれは臣下として尽してくれる人がいればの話で、夫に国ごと裏切られた末の死では納得できない。

 叛意を隠し出征していく永晶の鎧姿を思いだし、琳玉はやりきれない気持ちになった。このまま死にたくはないものの、自害を避けても慧国軍の略奪が待っているのだからどうしようもない。

 苛立ちながら歩いていると、琳玉はだんだんと空腹を感じた。
 夕食は食べたのだが、峰文と話しているうちに腹がすいたらしい。国難の時であっても、食欲からは逃れられなかった。

「厨房へ行って、何か温かい物でももらおうかな」

 夜遅いと言っても真夜中というわけではないので、厨房にも誰かはいるはずであった。普段の夜食は侍女に頼んで自室まで運ばせるが、今夜はそんな手間をかける気にはなれず、自然と足は厨房の方に向く。

 厨房のある一階へと階段を降りていくと、板張りの段が軋んで音を立てた。

 琳玉は厨房へと進むうちに、かつての幼いころに料理人の青年が羊を解体する姿を好きで見ていたことを思い出した。
 彼の手によって羊が切り分けられていく様子は、なぜか胸がわくわくする光景だった。

 今にして思えば、琳玉はその青年に恋をしていたのかもしれない。
 そのころの琳玉は王族としての責任を知らず、望めば何もかも叶うものだと疑わずに生きていた。大人になれば青年のいる世界へ行けるものだと、琳玉は信じていた。

 だが成長するにつれ、人にはそれぞれの領分というものがあり、琳玉はどうやら二人の領分は重ならないらしいことを知った。身分の差は大きく、与えられた役割だけを果たす彼の目がこちらに向くことはなかった。

 彼の世界には決して属せないことを理解した琳玉は、次第に厨房を覗かなくなった。遠く眺めることしかできないものを愛で続けられるほど、馬鹿な夢想家にはなれなかったのだ。

「だけど今日みたいな日は、彼に捌かれていた羊がより羨ましくなるよ。最初から食されるために育てられた食材なら、その死に嘘や裏切りが関わることはないから」

 階段の最後の一段を降りて、琳玉はまたひとり言を言った。

 料理人である青年と食材である羊の間にあった関係は、誤魔化しや偽りしかなかった琳玉と永晶の婚姻に比べてずっと綺麗で美しいものに感じられる。

 琳玉は幼いころに見た光景を懐かしみながら、厨房へと足を運んだ。
 手に持った燭台は暗い廊下の、ほんのわずかな行く先を照らしていた。

4 屠殺人と姫君

 厨房に着いてみると、琳玉の見立てた通りに戸の隙間からは灯かりがもれていた。

 琳玉は戸をそっと叩いて、中にいる者を呼んだ。

 しばらくすると戸が開いて、中から質素な木綿の服を着た背の高い男が現れた。
 琳玉の頭上で影になっている顔は朴訥として無愛想で、怒っているようにも見える。琳玉の記憶に間違いがなければ、それはかつての琳玉が覗き見をしていた料理人の青年の顔だった。

 琳玉は男を見上げ、脳裏に浮かんだ名前を呼んだ。

「えっと、あなたはもしかして瑞雪ずいせつ?」
「下人の名前を、よくご存じですね。王の妹君が何のご用でしょうか」

 男は開けた戸に手を掛けたまま、琳玉を見下ろした。やって来た人間が王妹の琳玉であることは理解できても、その訪問者が自分の名前を知っている理由まではわからないようだ。

「温かい物が少し食べたいと思って来たの。今すぐここで食べたいのだけど、お願いできる?」

 空腹でお腹が鳴りそうな琳玉は、まずは一番に用件を伝えた。
 厨房に来るにあたり、琳玉は心のどこかでは幼い日の片想いの相手との再会を期待していた。だが彼の顔や名前をちゃんと覚えていたわけではなかったので、会えばはっきりとわかったことに驚いた。

 瑞雪は用件を聞くと、渋々といった様子で琳玉を厨房に招き入れた。

「……わかりました。今から適当に用意します。廊下は寒いでしょうから、入って座ってください」
「ありがとう。突然でごめんなさい」

 厨房に入れてもらえたことにほっとして、琳玉はお礼とともに中に足を踏み入れた。

 初めて中から見た厨房は、かつて戸の隙間から見た印象よりも広かった。
 今はたまたま瑞雪しかいないだけで、普段はもっと大勢の人が働いているのだろう。奥には鍋や釜の載った竈がいくつもあり、土間の床の隅には大きな水瓶が置かれている。竈があるからか、普通の部屋よりも暖かかった。

 瑞雪は丁度食材の下ごしらえなどをしていたらしく、何かを入れた壺に蓋をして棚にしまった。
 そしてまた別の壺を棚から出して、瑞雪は素っ気ない態度のまま琳玉に尋ねる。

「これが俺の仕事ですから、気にしないでください。献立は羊肉のすいとんでいいですか」
「ええ、それでお願い」

 琳玉は瑞雪の邪魔にならないように、作業台らしき机の前に置かれた椅子に座って答えた。その席からは、作業台を挟んで瑞雪の様子がよく見える。

 竈に薪をくべる瑞雪の背中は、琳玉の記憶の中の姿からあまり変化していなかった。もしかしたら以前から大人である瑞雪にとっては、十年前も今日もそうたいした違いはないのかもしれない。
 だがそれを見つめる琳玉にとっては随分長い時が経っているので、とても懐かしい気持ちになった。

 瑞雪は昔と同じように琳玉の視線を気に留めることなく、葱や茸などの具材を倉庫から出して調理を進めた。まずは壺に入っていた残り物らしき羊肉の湯を鉄鍋に入れて、竈で温めている。

 もうすでに肉が具になってしまっていることは、羊を捌く瑞雪が好きだった琳玉にとって残念である。だがしっかりと煮込まれ寝かされた羊肉が待っていることを考えると、それはそれで楽しみだった。

 壺の中身を鍋に移した瑞雪は、次に手際よく葱を洗って、包丁で細かく刻んだ。

 包丁の音が心地よく響き、千切りになった葱がまな板の上に出来上がる。
 茸も同様に、素早く切り刻まれた。かつて見た羊の解体をしているときのように、瑞雪は食材を大切に扱い、その美しさを引き出していた。

 蓋を開けて鍋の中の様子を見て火加減を調節すると、瑞雪は今度は焼餅を皿に出した。粉を練って薄く丸く焼いた餅は、保存された結果固く乾いている。
 瑞雪はその餅を皿の上でちぎる。大雑把にちぎった後に、指で砕くようにしてさらに細かくちぎる。この細かくなった餅が、一番重要な具となるのである。

 焼餅をちぎるのは料理を生業をしている人間にとっても時間がかかる面倒な作業だと思われたが、瑞雪はあくまで丁寧に行っていた。
 餅を細かくする作業を見飽きたというわけではないが、琳玉は沈黙を破りたくなって話しかけた。

「ねえ、あなたはどうして料理人になったの?」

 わざとらしく甲高くなってしまった琳玉の声が、物音しかしない静かな厨房の中で異物のように響く。
 瑞雪は手を止めず、また目も上げることなく、どうでもよさそうに答えた。

「どうしてって……そりゃ親が料理人だったから、俺もそうなっただけですが」

 食事で誰かを幸せにするとか、美味しいと言ってもらえるのが嬉しいとか、そういった建前は瑞雪にはなかった。瑞雪にとって料理は、単なる生存の手段に過ぎないらしい。

 その正直さが心地よくて、琳玉は思わずつられて笑みをこぼした。

「そうなんだ。じゃあ私と一緒だね。私も父親が国王だったから、この国の姫でいる」

 一応冗談めかしたものの、これが琳玉の本音だった。
 王の娘に生まれてしまったから国のためと父や兄に従っただけで、自分の国に特別愛情があるわけではない。実のところは、国にも民にもそうたいして興味はなかった。

 琳玉はだんだんと兄の峰文と同じように投げやりな気分になって、さらに軽い口調で続けた。

「あなたはまだ知らないよね。私の夫……范永晶が敵に寝返ったって」
「え、そうなんですか? 范将軍が裏切って、この国は大丈夫なんでしょうか」

 護国の要であったはずの永晶の裏切りの情報は琳玉からの他愛のない質問よりもずっと重要に感じたらしく、この話題になってやっと瑞雪は顔を上げた。手はまだ餅をちぎっていたが、目は多少は動揺している。
 常に平然として見えていた瑞雪にとっても、敵の侵略は恐るべきものであるようだ。

 琳玉は不安げな瑞雪を前にしてかえって落ち着いた気持ちになって、待ち受ける破滅について述べた。

「大丈夫じゃないらしいよ。そのうち、この城も慧国軍に攻め落とされて來国は滅びるって」

 滅びると口にしたとき、琳玉は胸の奥が痛んだ気がした。
 だが同時に肩の荷が降りて軽くなった気もして、不思議な気分である。

「そうですか。それは困りますね……」

 瑞雪は単純にこれからの将来について心配になったのか、目を伏せ考え込んだ。

 だが瑞雪にもわずかには主を慮る心が存在したらしく、少し間を置いて琳玉の方を見た。そして気遣うふりをするのが義理だといった様子で、抑揚に欠けた声で尋ねた。

「この国が滅んだら、あなたはどうされるんですか?」
「さあね。兄上には自害しろって言われたけど」

 琳玉はくすくすと笑って答えた。
 本来は琳玉が死んだところで気にしないであろう瑞雪が、かしこまって殊勝にふるまおうとしているのが面白かった。
 また身内に死ねと命じられれば反発したくなるのに、他人に自分は死ぬのだと言うのは嫌ではないのがおかしい。

 笑い続ける琳玉とは対照的に、瑞雪はただ無表情に琳玉を見ていた。

5 羊肉のすいとん

 そのうちに火にかけていた鉄鍋がぐつぐつと煮立ち、湯気とともに羊の肉のよい匂いが広がった。
 同時に餅をちぎり終えた瑞雪が、熱された鍋に餅や葱を投入し蓋をする。

 着実に料理が出来上がっていく様子を、琳玉は期待に満ちたまなざしで見つめた。

 そしてしばらく待っていると、瑞雪は出来上がったすいとんを器によそい盆に載せて運んだ。

「できました」
「ありがとう。とても美味しそう」

 机に無造作に置かれた一品を、琳玉はお世辞抜きで称賛した。

 青磁の器に入った白濁した湯が、卓上の燭台の火を反射してきらきらと輝く。細かくちぎられた焼餅は汁をすって丁度よい大きさにふくらみ、千切りの葱の緑が白湯に彩を添えていた。
 余り物で手早く作ったものであるのにも関わらず、それは一つの絵のように綺麗だった。

「あとはお好みで、こちらもどうぞ」

 瑞雪はそう言って、小皿に分けた油味噌と辣韭も机の上に並べた。
 付け合わせもあることでさらに食欲がわき、琳玉は満面の笑みで箸を手に取る。

「それじゃあ、さっそく」

 琳玉はまず、ほどよくふやけた焼餅を口に運んだ。
 もっちりとした食感の餅は食べ応えがあり、噛みしめる度に湯の味が染みわたる。
 湯は羊独特の風味が引き立つあっさりとした塩味で、隠し味の花椒の香りと辛みがほんのりと感じられた。出汁の上品な仕上がりと絶妙な塩加減のおかげで、濃厚だが口当たりがやわらかく飲みやすい。

 舌を火傷しないように、琳玉は息を吹きかけ冷ましながらさらに食べた。熱々の白湯は先ほどまで廊下で凍えていた琳玉の体を芯から温めて、幸せな気持ちにする。
 また奥に隠れている骨付きの羊肉もほろほろとほぐれて、残り物とは思えないほどやわらかかった。長時間じっくりと煮込まれた結果、肉の臭みは弱まりまろやかになっている。
 夜食のわりに量はかなり多めであるのだが、優しい味わいのおかげでするすると胃に入ってしまった。

 琳玉は匙で湯気の立つ湯を飲み、瑞雪に問いかけた。

「餅も肉も、丁度良い味わいだね。これは元々の白湯もあなたが作ったの?」
「はい。俺が作ったものです。お口に合いますか」

 一仕事終えた瑞雪は、使い終えた鍋やまな板を片付けながら琳玉の様子を軽く伺った。

「ええ、とても」

 琳玉は今度は具の野菜を含んでもう一口飲み、満足していることが伝わるように微笑んだ。
 シャキシャキとした食感の残る葱は甘くて、茸の歯ざわりも良く、その旨味は湯の味をより深くする。すべての素材が溶け合い一つに重なり、器の中で完全に調和していた。

 冬の城の中での空腹や寒さも、夫の裏切りや兄の無関心による疎外感も、国難を原因とする憂鬱な気分も、何もかもが瑞雪の料理によって満たされ消えた。

 琳玉は今この瞬間だけは、この城で一番幸せなのだと思った。
 これほどに幸福な食事は、これまでの人生にはなかった気がした。

 普段の食事と違い、琳玉の目の前で琳玉のためだけに作られたものであるからより美味しいのかもしれないとも思う。
 瑞雪は何事に対しても最低限の感情しか持ち合わせていないようだが、それでも料理は温かみを感じさせるだけのものがあった。

 そしてまた琳玉の脳裏に蘇る幼い恋が、瑞雪の料理を特別にする。
 琳玉は本当は見ていないのにも関わらず、今夜の夜食に使われた白湯に使う羊を解体している瑞雪の姿が心に浮かんだ。
 本心はどうであれ、瑞雪は料理人として持っている技術のすべてを使い、ただの食材を美しいものへと昇華する。かつての琳玉も今夜の琳玉も、その営みにまぶしく恋焦がれるのだ。

 琳玉は一度はあきらめたものをごく側に感じながら、羨む気持ちで器の中身を見つめた。

 琳玉も切り刻まれ鍋で煮られた羊のように、瑞雪のいる料理人と食材の世界に属していたかった。
 その望みをはっきりと自覚したとき、琳玉の心に一つの理想の結末が浮かんだ。それは口にするのも憚られるような、気味の悪い考えであった。
 だが近い将来に死が待っている琳玉は、自制できずに瑞雪の名前を呼んだ。

「ねえ、瑞雪」
「はい。何でしょうか」

 瑞雪は砥ぎ石で包丁の手入れをしながら返事をした。
 一通り片づけを終えてやることがなくなった瑞雪は、琳玉が厨房にいるため退室することもできずに雑務で時間をつぶしていた。

 反対にできる限り長くこの時間を味わっていたい琳玉は、熱っぽく瑞雪に話しかけ続ける。

「彗国の野蛮人は、攻め滅ぼした国の女や子供を殺して、その肉を煮て食べてしまうって話、聞いたことがある?」

 敵の侵略を恐れる人々が囁く、夷狄に滅ぼされた国の人々が受けた残酷な仕打ち。
 それは異民族への偏見が生んだ間違いの可能性もあるが、城の中からしか世界を覗けない琳玉にとっては真実になってしまった。琳玉はその伝聞を、瑞雪に話した。

「噂では、耳にしたことがあります。それがどうかしましたか?」

 本来は忌避すべき話題を出されてたことで、瑞雪は包丁を研ぐ手を止めて小さく眉をひそめた。琳玉の意図を掴みかねているようだ。
 琳玉はその瑞雪の困惑した表情に一瞬躊躇したが、結局はおそるおそる本題を告げた。

「もしもその噂が本当なら私は、この国が滅んだときにはあなたに捌かれて料理されたい」

 妙に甘くなってしまった琳玉の声が、瑞雪と二人だけの空間に響く。

 自分を捌いて敵の食べる料理にしろというあまりに突飛な依頼に、瑞雪は理解できないといった様子で目を見開いて琳玉を凝視した。
 しかし琳玉も冗談ではなく本気なので、さらに説明を加えて、真意を伝える努力をした。

「おかしな願いかもしれないけど、よく聞いて。どうせ死んでも野蛮人に好き勝手に死肉を食べられるなら、いっそあなたみたい人に素敵な料理にしてもらえたらいいと私は思うの。同じ末路でも、あなたの手でなら綺麗に終われる気がするから」

 どうにも言葉にすると安っぽくなってしまう気がするが、琳玉は後戻りもできないのですべて話した。

 兄の言葉に従って無難に自害すれば、生きている間は大きな問題はない。
 だが死んだ後まで遺体を守ってもらえるという確証はなく、琳玉の死後はみじめなものになるかもしれない。

 ならば敵の残虐行為も踏まえたうえで、自分の望みを叶えてみせようと琳玉は思った。
 滅びゆく国とともにただ死ぬのは嫌になるが、身を委ねる価値のある相手に心を込めて終わらせてもらえるなら、それは本望である。

「だからあなたは生き残って、私の最期を引き受けてほしい。お願いできる?」

 机の向こうで立っている瑞雪を、琳玉は狂いつつも澄んだ瞳で見つめた。

 瑞雪は黙って、包丁を手にしたまま琳玉を眺めていた。

 無骨で朴訥とした瑞雪の顔が一瞬鬱陶しげな表情を浮かべるのを、琳玉は見逃さなかった。それは間違いなく同情や憐憫ではなく、嫌悪だった。
 だが結局は主に従うことにしたのか、頭のおかしい人間には逆らえなかったのか、それともやはり少しは琳玉のことを気の毒に思ったのか、瑞雪は静かに頷いた。

「……かしこまりました。努力します」

 瑞雪は仕方がなさそうに、肩をすくめた。
 嫌々であっても受け入れてもらえたことに安心して、琳玉は笑顔になった。

「ありがとう。あなたは約束を必ず守るって、信じてるからね」
「はい」

 あきらめた様子の瑞雪の目と視線を交わし、契約を結ぶ。

 その後、瑞雪は面倒くさそうに息をついて、再び包丁の手入れに戻った。

 琳玉は包丁を研ぐ瑞雪の横顔を眺めながら、心配事がすっかりなくなった気分で残りのすいとんを付け合わせと一緒に食べた。
 辣韭は甘くほどよい酸味で、油味噌は湯に入れると風味が変わってくせになる。付け合わせのおかげで、最後まで飽きずに食べることができそうだ。

 つい先ほどまでは、琳玉は夫に裏切られ国が滅ぶ自分の未来が憂鬱だった。
 だが今は、すべてが終わる時が楽しみになってきている。

 きっと瑞雪は、琳玉を今以上に綺麗な品々に料理してくれることだろう。
 瑞雪にとって琳玉はただの主の一人でしかなかったが、食材としては大切にしてもらえるはずである。

 国が攻め滅ぼされるからこそ知ることができるこの結末を、琳玉は甘美な気持ちで思い浮かべた。
 民のことも肉親のことも、今はもう一切考える必要がなかった。

 瑞雪の手で花のように切り開かれていく羊の美しさ。

 かつてずっと憧れていたものを、琳玉は手に入れるのだ。



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