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神喰いの花嫁/死に損なった少女(後篇)

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12 慣れない洋装

 神喰いの花嫁になることを選んだ葵依が嫁ぐのは御饌都之宇迦尊みけつのうかのみことという名の神であり、葵依は夏の終わりにその神のいる西都の近くの森にある神殿へ旅立つことになった。
 神々に仕える国の機関として神に招かれた人間を管理する神祇省の書面は、なぜか花嫁に洋装を求めているので、葵依は急遽倫之助の姉にあたる人物に立て襟の白いワンピースを譲ってもらう。

「白無垢とか黒引き振袖とかじゃないと、お嫁さんって感じがしないのだけど」

 出発の日の昼前に、葵依は自室代わりの和室でレース付きの襟の金ボタンをたどたどしく留めて、慣れない着心地の洋服を着た。
 ビーズ刺繍で華やかに飾られた丈長のワンピースは重いものの、絹の生地の感触は心地よく、採寸して作った服ではないわりには大きさも合っていた。

「お前が嫁ぐ宇迦尊って神様も、洋装で暮らしてるらしいからな。神もその花嫁の姿も新時代というわけだ」

 葵依に合わせて鶯茶うぐいすちゃの夏用スーツを着た倫之助は冗談っぽく笑って、普段よりもずっと念入りに梳いてある葵依の髪に幅広のリボンを結んだ。

「これでお前も、立派な一人の淑女になる」

「本当にそう見えるなら、嬉しいけど」

「少なくとも、ただの百姓はこんなを格好をしないだろう」

 適当に褒める倫之助に葵依が疑いの目を向けると、倫之助は服装についての話だけで終わらせて話で切り抜ける。
 下ろした髪の一部を白いリボンでまとめただけの簡単な髪型であったが、手先が不器用な倫之助にしては可愛らしく結んでくれた方だと、葵依は姿見鏡に映る自分を見て思った。
 白粉も白すぎない肉色がものが日焼けした葵依の肌を美しく整え、落ち着いた色の口紅がささやかな彩りを添えている。

(でも確かにまあまあ、思ったよりはましな仕上がりだと思う)

 葵依は赤い目が悪目立ちしなくなったような気がする白いワンピースを着た洋装を、それなりに成功した装いとして受け止めた。
 着飾ることは好きではないけれども、神の花嫁として恥ずかしくない姿になる必要は感じていた葵依は、酷い結果を見ることにはならなかったことにほっとする。

 着替えが終わると、汽車が出る時刻まで時間があるので昼食をとった。
 居間のちゃぶ台の上には、倫之助の実家の女中が作って持ってきてくれた二人分の重箱が載っていて、中にはお祝いのご馳走がぎっしりと入っている。

 緑が鮮やかなえんどう豆や冬瓜を透明な葛でよせた練り込みに、紅白のかまぼこ入りの茶碗蒸し。紅生姜を混ぜたご飯で作った稲荷鮨いなりずしに、こうじ三五八漬さごはちづけにして焼いた鶏肉など、どの料理も葵依と倫之助では絶対に作ることができない丁寧で手が込んだものだった。

「稲荷鮨は香ばしい胡麻入りもいいが、俺は甘酸っぱい紅生姜派だ」

 倫之助は早速箸でいなり寿司をとって、めずらしい笑顔で食べていた。
 細かく刻んだ紅生姜を混ぜた飯の入ったいなり寿司は、お揚げの中が可愛らしい桃色で目で見ても楽しい。

「うん。甘くて美味しい」

 ほどよく小さく作られた稲荷鮨を頬張り、葵依はその甘みを噛んで飲み込んで倫之助に同意する。
 しかし実のところ、葵依は馬鹿舌なので、倫之助が喜んでいるほどには味に感動できなかった。

(普通に不味くはないとは思うけど、見た目以上の良さを感じる味かと言われると別に……)

 葵依はより綺麗なものは、より綺麗だと思うことができる。だが味覚に関しては、何を食べてもただ不味くはないとだけ感じてしまうため、より美味しいものをより美味しく味わうことはできない。
 そのままの生米も、手の込んだ稲荷鮨も、食べやすさはともかく味という観点では葵依にとって同等のものなのだ。
 だから手間のかけられた品々の味の良さがわからないまま食事を続けることを申し訳なく思ったが、葵依のために作られた祝い膳であるので特別美味しいと感じなくても味わうふりをした。

 つやのある葛に覆われた冬瓜となめらかに蒸された茶碗蒸しは喉越しがよく、三五八漬けの肉はやわらかい。それくらいの味の違いだけは何とか理解しつつ、葵依は料理を平らげていく。
 味わい方は違ってもどちらも健啖家の二人は、やがてそれぞれの重箱をきっちりと食べ終えて、卓上を片付けた。
 それから空になった重箱を風呂敷で包んで後部座席に載せて、倫之助と葵依は他所から借りてきた型落ちの自動車に乗り込んだ。
 神祇省の迎えが来ているはずの、遠い最寄り駅まで移動するのである。

「駅に行くのは久々で道が不安だから、ちょっと地図を確認してもらってもいいか」

「うん。いいよ」

 白いエナメルの靴を履いて助手席に座った葵依は、倫之助の指示を受けて古すぎて留め具がゆるくなっているグローブボックスから地図を取り出した。
 倫之助がアクセルを踏むと自動車は低いエンジン音を唸らせて発進し、葵依の手元の地図に描かれているとおりの青々とした山道を走っていく。
 擦り傷だらけのフロントガラス越しに降り注ぐ、晩夏の午後の日光は熱かったので、葵依はドアの窓を開けて入ってくる風を火照った頬にあてた。
 日の透けた葉が輝くニレの木々が流れていく車窓からは時折、茅葺きの小さな民家が見えた。
 倫之助はそのうちの、特に古びて荒れて屋根にも雑草が生えた一軒を横目で見ると、ぽつりと呟いた。

「あれは、俺が長男を死なせた家だな」

 淡々と事実を事実として語るその声から、負い目を聞き取ることは難しい。
 だがわざわざ言わなくても良いことを葵依に教えるその発言そのものが、小さな贖罪なのだと葵依は解釈した。
 だから葵依は、あえて今このときに倫之助に感謝を伝えた。

「私は倫之助に感謝してるよ」

 葵依としては、それなりに真心を込めた一言だった。
 倫之助はちょっと黙ってから、何かを言おうとして、やっぱりやめて頷いて一言だけ言った。

「そりゃ、どうも」

 そっけない相槌のような返事だったけれども、葵依はそれで良しとした。
 葵依は特別に生き残り、そして特別に去る人間として、倫之助の罪を許すことができる気がした。
 田畑を耕し続ける、普通の人生に価値がないわけではない。
 それでも特別でありたいと願うのは、卑しいことなのかもしれない。
 だけど葵依は、きっと本当は普通でしかない葵依は、一人生き残ってしまったからには特別な存在でありたかった。

(だって特別でなければ、わりに合わない)

 倫之助の運転する古びた自動車は、道の脇を歩く付近の村民を追い越して駅へと向かう。
 車の積み荷に葵依の荷物はほとんどなく、帰り道に倫之助が実家に返す予定の空っぽの重箱だけが載っている。
 車の振動で揺れるその重箱の音を聞きながら葵依は、しばらく車が駅に着いてほしくないような、むしろ一足飛びに嫁ぐ相手である神に会いたいような、どっちつかずの気持ちでいた。

13 特別車両の列車

 神祇省からの迎えとして寂れた山奥の駅にいたのは、葵依が都会にいる人々として何となく頭の中に思い描いていた通りの、洒落た洋服を着た青年だった。
 知識のない葵依にもわかるほどに上質な仕立てのスーツだけではなく、形の良い山高帽にぴかぴかに輝く腕時計、つやのある革靴に落ち着いた色合いのネクタイなどのすべてが完璧に調和していて、同じ洋装の男性でも田舎の風景に溶け込んでしまう倫之助とは違った。

「はじめまして、瀬田葵依様。そして守谷倫之助様。駅までのご送迎、ありがとうございました」

 農事で日焼けした人とは雰囲気が違う綺麗な褐色の肌の青年は、精悍な造りの顔に上品な微笑みを浮かべて挨拶をした。
 礼儀正しく自分の名前も言ってくれたはずなのだが、顔や服ばかりを見ていた葵依にはよく聞き取れなかった。
 神祇省の役人に花嫁を託しほとんど部外者になった倫之助は、若干対外的な態度をとりつつも、葵依と最初に会ったときと変わらない淡白さで別れを告げた。

「ああ。じゃあ俺はこれで」

「うん。今日までお世話をかけました」

 これが最後なので、葵依は改めて倫之助にお礼を言った。しかし居候させてもらったと言っても、それなりに働いた記憶はあったので、必要以上には恩を感じない。
 それから倫之助が一人戻った自動車は、鈍いエンジン音とともに山道へ消えていく。

「神喰いの花嫁になることは、今からでも断れますよ」

 二人の間にあるささやかなお互いの思い遣りを感じ取った神祇省の役人の青年が、念を押して葵依に訊ねる。

「いいんだよ。倫之助は多分、ちゃんと納得してくれるから」

 葵依は倫之助が結んでくれた、髪につけた白いリボンに触れながら答えた。
 倫之助のことは嫌いではなかったし、むしろ好意を持っていたと思うけれども、葵依はその別れに奇妙な高揚感を覚えている。
 好きだからこそ、好きなまま別れることができるのが葵依は嬉しかった。

「……では葵依様は、こちらの車両に」

 神祇省の役人の青年は小さく頷いて、薄青い銅板葺きの屋根の擬洋風建築の駅舎に停まっている列車を指さした。
 深い紫色の車体に金色の縁飾りが施された列車は、青年が言うには特別車両というもので、本来はやんごとのない身分の方々が乗るものであるらしい。
 その車両に乗り込んだ瞬間、葵依は元いた北州の田舎から隔絶された。

(こんなに綺麗なものが、乗り物なんだ)

 床には唐草模様の絨毯が敷かれ、天井には花鳥が描かれた車内の席に座り、葵依は深い息をついた。
 座席は椅子と言うには重厚すぎる真紅の布張りの長椅子で、葵依が座ると身体を包むようなやわらかさで沈み込む。
 調度品の細工の一つ一つの細やかさに目を見張り、葵依はかしこまって姿勢を正した。

「少々長い移動になりますが、ごゆるりとおくつろぎください。この列車には寝台車も食堂車もありますから、御用があればなんなりと」

 制服を着た車掌や乗務員に何かの指示を出しつつ、役人の青年は緊張する葵依に声をかけた。

「うん。ご親切に、ありがとう」

 何をすればくつろいだことになるのかわからなかったが、葵依は何とか頷いた。
 まだ白煙を上げる先頭車両は動き出していないけれども、窓から見えるニレの木の林はもうすでに先程までとは違って見えていた。

14 森の奥の洋館

 最初に自動車に乗ったときはその速さに感動したものだが、機関車は自動車以上に速く景色を飛ばして北から西へと走り抜け、葵依はたったの一晩で西都に到着した。
 西都の玄関口となる駅は、広々とした広場のついた煉瓦造りの建物で、辺境では一生見ることのないほどの人や自動車が集まっていた。
 そこから立派な黒塗りの高級車に乗って、数多くの神々が住んでいるという神在森かみありのもりへ向かう。
 役人の青年が運転する車は古い町家や新しい洋風建築が入り交じる華やかな街を抜け、郊外になると意外と北州と変わらない田園風景が広がる道を進むと、やがて深い森に入っていった。

 神在森のブナの木々は、葵依が幼い頃から見てきたニレの木々よりも緑が濃く、空気の違いが肌で感じられた。
 自動車が通る道は舗装されていたが、車道から一歩外れれば太古から続く自然だけの世界が広がっている。
 その静かな森の一角に、神聖な雰囲気にそぐわない一つの洋館が建っていた。

「こちらが御饌都之宇迦尊様の現在のお住まいである、新醒館しんせいかんです」

 独りでに開く柵状の門をくぐり、館の車寄せに駐車して、役人の青年は葵依を車から降ろした。

「本当にこんな、外つ国みたいなところに神様がいるの?」

 並べられたタイルが幾何学模様を描いている地面に立った葵依は、直線的な濃紺の屋根をぐるりと囲む棘状のきらびやかな棟飾りが、太陽の光を反射するのを見上げた。
 三階建ての高さがあって、白い化粧漆喰で真新しく塗られた館は、庇付きの大きな窓にはめ込められたガラスが鏡のように輝き、森の緑や空の青色に映えて華麗である。
 青年は重厚な彫刻で仕上げられた木製の玄関扉を開けて、宇迦尊の住まいについての説明を続けた。

「もう少し奥に入った場所には、甘醒殿という名前の伝統的な様式の神殿があるんですが、宇迦様が飽きたと仰るので新しいお屋敷を建てました」

 家に飽きるとはどういう感覚なのだろうと思いつつ、葵依は青年の後ろをついて屋敷の中に入った。
 見たことがない形の花の柄が美しい壁紙の張られた館中は、あまり人の気配がなく廃墟のような雰囲気があった。だが本物の廃墟と違って埃や蜘蛛の巣などもなく隅々まで真新しく綺麗なので、薄汚れた民家に慣れている葵依はその美しさに感動すると同時に居心地の悪さを覚える。

「では、葵依様はまずは花嫁衣装に着替えていただいて……」

 青年は丁寧に磨かれた板張りの廊下を進み、いくつもあるうちの一つのドアを開けた。
 薄い紗のカーテンから淡い光が差し込むその部屋には、まっ白なレースを重ねて真珠を散りばめた豪奢で繊細なドレスが準備してあった。
 隅には洋式の三面鏡も用意してあり、異国の化粧品なのであろう金銀の優雅な小瓶や箱が置かれている。

 しかし葵依がそのドレスを着るのは自分なのだと実感する前に、衣装部屋のドアが再び開いた。
 廊下から顔を出したのは、役人の青年によく似た顔の男だった。精悍な顔立ちはほとんど同じなのだが、白い調理服を着て無愛想な表情を浮かべているので、与える印象はまったく違う。

「おい、ちょっと困ったことが起きた」

 服装からすると料理人らしいその男は、葵依を無視して役人の青年を呼びつけた。

「少々、お待ち下さい」

 青年は葵依に置かれていた椅子に座るよう指示して、やって来た男の方に駆け寄った。
 そして二人は、小声で深刻そうに話し出す。
 葵依は言われた通り優美な金箔仕上げの椅子に座ってしばらく待っていたのだが、二人の話が終わる気配がないので立ち上がった。

「何か、問題があったの」

 もしかすると自分にも何か間違いがあったのかもしれないと、葵依は不安な気持ちで二人に訊ねる。
 双子のようにも見える役人と料理人は目配せしてどこまでを話すかを決め、まず料理人の男のほうが口を開いた。

「宇迦様……つまりお前が嫁ぐ相手でもある俺たちの主が、行方をくらましたんだ。そこら中を探したんだが、屋敷のどこにも見当たらない」

 料理人が明かした事情は、葵依に直接原因があることではなかった。しかし葵依の今後には大きく関わることであったので、思わず大きな声で聞き返した。

「私が嫁ぐ神様が、どっかに行っちゃったってこと?」

「はい。だからこれから僕と彼で神在森に行き、宇迦様をお探ししようと話していました」

 葵依を心配させまいと、役人の青年が穏やかな口調で対応について語る。
 だが青年の目は例外的な事態に対する消極的な姿勢が滲み出ていて、その場しのぎの言葉でごまかしているように見えた。
 葵依はもう片方はせめてやる気があってほしいと料理人の方を見たが、そちらも面倒くさそうに腕を組んでいるだけである。

(私の結婚のために、誰も真剣になってくれないのなら……)

 自分の置かれた状況を理解した葵依は、ある一つの覚悟を決めた。

「じゃあ私も、探す」

 頼りにならない役人たちのお役所仕事に任せていられないと、葵依はドアの方へ歩き出す。
 宇迦様と呼ばれる神が姿をくらました理由はまったく想像もできなかったが、葵依は遠い北の果てから招かれてきたからには、神に絶対に娶ってもらわなくては困ると考えていた。
 他に選択肢が少なかったとしても、あったのかもしれない別の未来に背を向けて葵依はここにいるのだから、葵依を花嫁として選んだ神にはこの結婚を成功させる義務がある。
 だから土地勘はまったくなかったが、葵依は何としてでも神を探し出し、自分の伴侶として隣に座らせる気持ちでいた。

「お待ち下さい、葵依様」

 深く入り組んだ森で花嫁まで行方不明になっては困ると、役人の青年が葵依を引き止めようと手を伸ばす。
 だが葵依は、ただ気乗りしない様子で突っ立っているだけの料理人の男の側に回ることで、青年の手を逃れてドアを抜けた。
 そして追いつかれないように廊下を走って玄関を抜け、脇目も振らずに門を開けて外へ行く。

15 神探し

 本来は白く優雅なはずのワンピースの裾を翻し、洋館から走り出た葵依は膠石こうせきで舗装された車道を横切り、夏でもしっとりと冷たい森の奥に当てずっぽうに入った。

(だって会ったこともない神様が、どこに行くかなんて知らないし)

 葵依は半ばやけくそなって、妙に昂ぶった気持ちで古い葉が折り重なってできたやわらかい土を踏みしめる。
 靴は幸い、踵の低い歩きやすいものを選んで買ってもらっていたので、歩くことは苦にならなかった。
 地面は苔むした木の根や草に覆われ、頭上の空は天高く伸びたブナの木々の葉が広がる夏の終わりの森は、目に映るものすべてが緑だと思えるほどに緑に満ちていた。
 だからまだほんの数歩しか歩いていないつもりであっても、自分がどこからどこへ歩いてきたのかわからなくなる。

「どこにいるの、神様」

 葵依は人生で一番の大きさで、声を張り上げた。しかし森は広く深いので、どれだけ大きい声を出しても永遠に並ぶ木と木との間に吸い込まれていく。
 葵依は次第に髪が邪魔になり、飾りとして結んだリボンを解いて髪をまとめて結び直した。
 木漏れ日が射し、太陽の光がきらめくところに誰かがいる気がして近づき、何もないからまた別の方向へと進む。
 そんなことを繰り返しているうちに、だんだんと日は傾きあたりは薄暗くなってきた。
 木々の隙間から見える太陽の光が、緑に覆われた世界をやわらかな茜色で包む。

 歩き疲れてはいなかったが、さすがに埒が明かない気がしてきた葵依は、一際太く大きなブナの木の根元を見つけたところで足を止めた。
 その木の手前には、ちょうど小さな水の流れがあり、かすかな夕暮れの光が反射して、葵依の顔が水面に映っているのが見えた。
 水面に映る顔の赤く変色した瞳は不気味な光を宿し、適当に結び直した髪は荒れて化粧は台無しになっている。ふと視線を落としてみれば、真っ白で綺麗だった洋服も枝や木肌に擦れて汚れていた。
 意図せず自分の姿を改めて見てしまった葵依は唐突に不安を覚え、神が姿を消したのは自分が原因ではないとは言い切れない気持ちになった。

(もしも私がお姉ちゃんみたいにちゃんと綺麗な人だったら、神様もどこにも行かないでいてくれたんだろうか)

 葵依は木の根元のくぼみに腰を下ろし、適度に堅い幹にもたれてため息をついた。
 夕露に濡れた草が冷たく足に触れ、肌寒さを感じても羽織るものは何もない。
 それならいっそすべてを地面に預けてしまおうと、葵依は大の字になって寝転んだ。

(でも綺麗だったお姉ちゃんは死んじゃって、生きているのは私だけだから……)

 ひんやりと湿った土の上に横になれば、まるで自分も木の根の一部になったような気がして、不安に揺らいだ心も落ち着いていった。
 下から見上げた夕暮れの森は、昼間に歩いていたときとは表情を変えて、暗い木々の影を葵依に落とす。
 そのどこか懐かしさを感じる土の匂いの中で目を閉じて、葵依は虫の声の一つも聞こえない薄暗く神秘的な静寂に耳を澄ました。
 そのまま一瞬、葵依は眠っていた。
 しかし葵依がいよいよ本当に深い眠りに落ちてしまうところで、すぐ近くから話しかける声がした。

「君も気の毒だね。僕なんかを探して、こんなところで寝ることになって」

 ほんの一言を聞いただけで、葵依は理由もなくその声に心惹かれる。
 絶対に幻聴ではない、はっきりと耳に響いた澄んだ声に目を覚まして、葵依は慌てて髪を手で撫でつけながら身体を起こした。

「神様?」

 やっと自分を娶ってくれるはずの神を見つけたと思って、葵依は知らぬ間に霧が立ち込めていた周りを見回した。
 しかし葵依は神を見つけたのではなく、神に見つけられたのであって、その姿を目で見ることはできなかった。
 大人びているけれども、少年らしさを残した低くなりきらない声は、ずっと昔から知っている相手のような親しさで葵依に話しかけてくる。

「君も僕を神様って呼ぶんだね。神様でも宇迦尊でも、君の好きに呼んでくれれば良いけど、それは本当の僕じゃない」

「神様ではないなら、あなたは何なの」

 赤い瞳で誰もいない森の夕闇を見つめて、葵依は何も考えないまま、宇迦尊であるはずの声を相手に不可解な問答を始めた。
 葵依の問いかけに姿の見えない対話者は、自嘲に近い笑い声を上げた。

「さあ、何だろうね。僕が知っているのは、僕が覚えていることだけだから」

 すべてがでまかせの話であるかのように、宇迦尊は葵依の耳にささやく。ほんの小さな声でも聞き取ることができるのは、目には見えない宇迦尊がすぐそばまで距離を詰めているからで、葵依は肌が触れるか触れないかの近さに誰かがいる気配を感じていた。
 宇迦尊は明らかに他者に対して拒絶の態度をとっているのに、彼の声はなぜか聞く人の心を惹き付けて、彼を受け入れても良い気持ちにさせる。
 だけど彼に心を開いたところで、彼は人に心を開くのだろうか、と葵依は疑問に思った。

(別にちゃんと私を娶ってくれれば、神様じゃなくても構わないけど)

 身も蓋もなく真実に興味を持たない自分もいたけれども、宇迦尊が訊ねてほしそうにしている気がしたので、葵依は彼のささやき声にあわせて、そっと小さな声でつぶやいた。

「じゃあ、教えて。本当のあなたを」

 葵依は宇迦尊の声がする方向に土に汚れた手を伸ばして、触れられないものに触れようとした。
 すると暗く影の濃くなった森を赤々と包む夕霧の、何もないはずのどこかから水のような何かが葵依の中に流れ込んできた。
 それは葵依の手のひらを通り抜けて、腕から身体の奥を冷たく浸す。

「嘘でも望んだなら、最後まで付き合ってくれきゃ駄目だよ」

 宇迦尊は葵依の関心も無関心も見抜いて、話しかける。
 その時にはもう、宇迦尊の声は葵依の身体の中から聞こえていた。どうやら宇迦尊は、葵依の身体の中に侵入してきたようだった。

(普通に姿を見せて、普通に話してくれないのは神様だからなんだろうか)

 わざわざ身体に入り込む必然性はわからなかったが、不思議と嫌な気持ちはしなかった。
 無意識の内に葵依は、自分の心も身体もすべてを宇迦尊に明け渡していた。

「長くなってもちゃんと、僕の話を聞いていてね」

 自分ではないものが内側にいる感覚にこそばゆさを覚える葵依に、宇迦尊は念を半ば命令するように言った。
 葵依が立ち上がれないまままばたきをすると、夕暮れの橅の森とは別の、凍てついた大地が現実の景色に重なって見えた。
 どこまででも白く暴風雪が吹き続けるその世界は、おそらく宇迦尊の記憶の中にある風景である。
 こうして、宇迦尊の昔語りと追憶が始まった。

「何万年も昔の、春も夏もなくて一年中が寒かった頃。僕は飢えていて死にそうだった。誰からも置いてかれて、見捨てられて、何も持っていなくて、汚くてみすぼらしくて。人間だったのか、他の獣だったのかもわからない」

 宇迦尊は淡々と、自らの最も古い記憶を葵依に聞かせて見せる。
 太古の昔の世界は今よりもずっと寒く、ただ目に映るだけで肌が痛くなるような寒さを感じる、激しい吹雪に支配されていたようだった。
 伝わってくる記憶によれば、その真っ白な大地できた雪溜まりの中にかつての宇迦尊はいた。
 小さくて弱かった宇迦尊の身体は分厚い雪に埋もれているので、彼が何の生き物であったかはもちろん、本当に汚くてみすぼらしい存在だったのかどうかもわからない。
 ただ宇迦尊が孤独に雪の中に残され、冷たく息もできずに死にかけていたことは確かだった。

「僕は寒くて、何も見えなかった。身体も冷たくて動かなくて、もうすぐ自分が死ぬってわかっていたけど、死にたくはなかった。だから唯一聞こえた吹雪の音にお願いしたんだ。僕を殺さないで、どうか生かしてくださいって」

 死にかけていた宇迦尊は、神ではなかった。そのとき神として力を持っていたのは、宇迦尊を凍えさせていた吹雪である。
 だから幼い宇迦尊は、圧倒的な力で逆巻く吹雪の音に願った。

「僕の祈りが聞こえたのか、それとも何も聞いていなくて、すべては気まぐれだったのか。理由はわからないけど、吹雪は僕を空に運んだ。それから僕はいろんなものを見た。空の果ての星を。星の果ての暗闇を……」

 白く閉ざされた大地を映していた葵依の視界は反転して、分厚い雲の向こうにあるまぶしいほどに青い空や、息が詰まるような漆黒の闇が現実の森を塗りつぶすように目の前に広がる。
 暗闇の果てにある無数の星の明かりや、その星々が終わりを迎えた後の暗闇などの、宇迦尊がそのとき見た光景を葵依は見せられていた。

 簡単に生ける者の命を奪うことができる吹雪は、宇迦尊の命は奪わずに弄んだ。
 命を生かすときと殺すときの差がどこにあるものなのか、その決定権を握る存在ではないものにはわからない。
 だが訳も分からないまま、ただ一人だけ死病から生き残ったことがある葵依は、宇迦尊が生かされたことをおかしいとは思わなかった。
 理由もなく死ぬこともあれば、理由もなく生かされることもある。葵依は人の一生を、そういうものだと考えている。
 だから葵依は黙って、宇迦尊の声を聞き、その記憶を眺めていた。

「気づいたときには、僕は地上に帰ってきていた。僕はありがたいことに、時が経っても年をとらず、何があっても決して死なない存在になっていた。だから死にたくないという願いを叶えてくれた吹雪に、僕は何度もお礼を言った」

 宇迦尊の見せる景色が、遠い空の向こうの世界から、徐々に雪が溶けて生まれたばかりの木々が芽吹き始めた大地に変わる。
 自分に与えられた結果の残酷さに気づいている宇迦尊の感謝は、今はもう皮肉が混じっていた。
 雪解けの水が川となって海に流れ、森が広がり大地を覆って変化し続けても、宇迦尊は何も変化することなく、限りのない時を生き続けた。
 葵依はやがて、かつての宇迦尊の目を通して、太古の人間の姿を見た。
 獣を食べて獣の毛皮をまとう彼らは、畏怖の念を抱いて宇迦尊を見つめ返した。

「永遠を生きる僕を見た人間は、僕を神様だと思って森で祀って生贄を捧げた。僕は死ななくなったけれども、弱くて死にそうだったときと変わらずずっと飢えていたから、人間が捧げたものは何でも食べた。鶏でも、魚でも、人間でも。自分で狩って食べるよりも、人間がくれるものの方がより美味しい気がしたから」

 羽を毟って食べる鶏に、小骨ごと噛み砕いて食べる魚。手間のわりに食べられるところは少ないけれどもやわらかい人間。
 太古の人間に神として扱われた宇迦尊は、捧げられる生贄の味に幸せを覚えていた。
 いくら食べても飢えが満たされることのない日も、人間に崇められ続けることに退屈さを感じる日もあったが、決して死ぬことのない宇迦尊は生き続けた。
 宇迦尊は死の恐怖に怯えることなく、神として人間に生贄を捧げられる存在でいることが幸福なのだと信じていた。

「だけどある日、生贄として連れて来られた女の子が、僕に言ったんだ」

 宇迦尊はそこで、声色をこれまで聞かせなかった愛情のこもったものに変えて、ある一人の少女について語った。
 いつの間にか遠い昔の風景は見えなくなっていて、葵依と宇迦尊のいる現実の森は、夕日が完全に沈んで木々の隙間から見える空の端からも赤みが消えた夜になっていた。

(月が……)

 葵依は深い群青の夜空に浮かぶ満月を見上げて、それから橅の木々の影を霞ませる夜霧が白く照らされているのを、同じように光る二つの瞳で見る。
 その霧に霞んだ木陰の中に、一人の少女の姿があった。
 真っ白な死んだ動物の毛皮を被った、色白で小柄な少女は、粛々と奥ゆかしく宇迦尊のそばに寄ってかしずく。そして神である宇迦尊を敬いつつも憐れみ、まるで勝ち誇ったように微笑みかけて、そっと唇を動かした。
 上目遣いで甘える生贄の少女の瞳が勝ち気で可愛らしく見えるので、宇迦尊が少女に心惹かれていたことは葵依にもすぐにわかった。
 その声のない幻の声を補い、宇迦尊は少女が語った言葉を繰り返した。

「死んで終わることができない神様は可哀想だから。いつか神様にも終わりが来たらいいねって……。そう言って、女の子は幸せそうに笑って僕に食べられた」

 少女がなぜ自分に同情していたのか、宇迦尊にはわからなかった。
 満足気に目を閉じる少女を抱き寄せ、宇迦尊がそっと口づけをすると、少女の形の良い顎は赤く血に塗れて崩れた。
 胸に口づけをすれば胸の肉が千切れて割れ、首に口づけをすれば頭が落ちる。
 そうして少女のやわらかな肉は順番に宇迦尊の胃の腑に収まって、後には血まみれの骨と毛皮しか残らなかった。

 食べることでしか好意を表せない宇迦尊の手によって、少女は生贄としての一生を全うし、完全な終わりを手に入れた。
 その残骸を地面から拾い上げたとき、宇迦尊は少女が最後に残した言葉の意味を理解し、死ぬこともできず食べ続けるしかない自分は「可哀想」なのだと知った。
 食べて食べられる、連鎖の中にいることの美しさを理解すると、そこから外れた自分がひどく歪に思える。
 白い骨になって終わりを迎えた少女が、宇迦尊は羨ましくなった。

「だからその日から、僕は人間を食べるんじゃなくて、人間に食べられる存在になることにした」

 新しい願いを持った宇迦尊は、今度は神として自分の力で望みを叶ようとして、人に食べられるために生まれた食物神のふりをした。
 彼が御饌都之宇迦尊と呼ばれる存在になったのは、そのときのことである。
 宇迦尊は生贄の代わりに自分を食す人間を花嫁として差し出させ、自らの肉を食べさせた。

「僕は食べられても蘇り、代わりに僕を食べた人間が死ぬ。だけどいつかは僕を本当に食べ尽くして、この再醒を終わらせてくれる女の子に出会えると信じていた」

 今はもう半ば諦めた様子で、かすれた声が望みを明かす。
 信仰心のある人間が救いを求めて敬虔に祈るように、たった一つの希望にすがって、宇迦尊は終わりを探していた。
 しかし決して死ぬことのできない存在となっていた宇迦尊は、人間に食べられても終わることはできなかった。
 それから葵依は、無数の花嫁が宇迦尊の肉を食べては死んで土に還り、幾度もその大地から宇迦尊が蘇るのを宇迦尊の目で見続けた。
 神を畏れる花嫁に、神を支配したがった花嫁。神に恋した花嫁に、神を嫌悪した花嫁。
 次第に神喰いの花嫁と呼ばれるようになったその少女たちは、それぞれの立場で神を食し、ときには少女ではなく男であることもあった。

(私は、こんなにもたくさんいるうちの一人でしかなかったんだ)

 あまりにも大勢の花嫁がいるので、葵依は神に嫁げることがそれほど特別なことだとは思えなくなった。
 そして花嫁の数だけ宇迦尊も様々な形に料理されて、捕食者としての飢えは薄れ生贄の人間を喰らっていたのもずっと昔のことになった。
 切り刻まれて、煮込まれて、焼かれて、蒸されて。
 しかし何度花嫁たちに食べられても、宇迦尊に終わりは来なかった。
 すべての追憶が終わると、強い風が吹いて森の葉がこすれて一斉にさざめく。
 本来ならきっと気が狂いそうな幻であったはずだけど、葵依の心は宇迦尊の不思議な力で耐えることができていた。

 木々が立てる音とともに、宇迦尊は葵依の身体から離れた。入ってきたときとは反対に、水に似た何かが流れるように葵依の手のひらを抜けていく。
 そうやって流れ出たものが人の姿を作り、喪服と同じ黒い色をしたスーツを着た青年の形を作る。
 そこでやっと、宇迦尊は葵依の目の前に現れた。

(これが、神様の姿)

 葵依は長い幻覚にぼんやりとしていた意識を取り戻し、慌てて座り直して、自分を見下ろして立つ宇迦尊を見上げた。
 銀色の長い髪を結んでまとめ、黒絹で仕立てた洋装を着こなした宇迦尊の姿は、声から想像していたものよりもずっと大人っぽくて、葵依は思わず本当に先程まで自分の中にいた存在なのかどうか確かめようと思わずじろじろと凝視した。

 そうしていると髪と同じように色の薄いまつげに縁取られた金色の瞳が葵依を捉え、目をすがめて見定めた。
 自分の価値が測られていることを感じながらも、葵依もまた宇迦尊を姿を審美する。
 深い森の闇が際立たせる白い肌も、どこまでもなめらかな線を描く眉も鼻すじも輪郭も、涼やかで形の良い目も口も、均整のとれた細身の立ち姿も、宇迦尊のすべてには美が宿っていた。

(やっぱり神様は、綺麗だ)

 宇迦尊は神ではないという説明を散々聞かされた葵依であったが、宇迦尊の月に似てまばゆい姿を見ればごく自然に神だと思った。
 元が何であれ、人間は宇迦尊を神だと信じ、接し続けてきた。宇迦尊もまた人間の死に様に憧れ、人間に好かれるために人間を真似た。
 その結果、宇迦尊はその信仰と想いに見合った美しい姿になっている。
 葵依が何も言えずに見惚れていると、宇迦尊はゆっくりと膝をついて屈んだ。
 そしてわざわざ葵依に目線を合わせてから、そっと突き放した。

「僕はずっと待っていた。でももう僕は、食べることにも、食べられることにも飽きたんだ」

 外見よりも少年らしさを残した宇迦尊の声が、静かな絶望を語る。
 かつては食べることにむなしさを覚えた瞬間が宇迦尊にはあった。
 しかし今では食べられることにも飽きてしまったので、宇迦尊は姿を消してみたようだった。
 無数の花嫁と結ばれ、食されながら、宇迦尊は永遠の孤独の中にいる。
 他の場所にいる神と呼ばれる存在がどういうものなのかわからないが、今葵依の目の前にいる神は、そういう存在だった。

(相手は神様だけど、でも気持ちはわかる気がする)

 葵依は人とは違う、限りのない時を生きる宇迦尊を自分とは遠い存在とは思わず、むしろ親しみを感じて近くに座っていた。
 なぜなら葵依も、かつての宇迦尊と同じように死ぬはずの瞬間に死なず、自分が生きている意味を求めているからである。
 本当はまったく別の似ていない気持ちなのかもしれないが、葵依は宇迦尊に自分を重ねた。
 だからそれまで黙っていた葵依は、考えがまとまると急に饒舌になって、深い笑みを浮かべた。

「じゃあ私がその、あなたを終わらせる最後の女の子になるよ」

 葵依は水面に映る自分の姿に触れるときと同じ気持ちで、暗闇に浮かぶ宇迦尊の顔に手を伸ばし頬に触れた。
 人に食べられるために生まれ変わり続けた宇迦尊の白い頬はなめらかでやわらかく、しかし食べるのがもったいなく感じるほどに美しかった。

「君が?」

 突然頬を頬を掴まれた宇迦尊は、疑いのまなざしを向けつつも、葵依の手に自分の手を重ねて首を傾げた。
 求めても手に入らないことを繰り返し、宇迦尊は簡単な希望には騙されてくれない絶望を抱えていた。
 だからこそ自分が終わらせてあげたいと願い、葵依はもう片方の宇迦尊の腕を掴んで身体を引き寄せた。
 そしてそのまま地面に倒れ込み、葵依は意図して宇迦尊に押し倒された形を作る。
 落ち葉が重なってできた土はやわらかく、二人の身体を優しく受け止めた。
 葵依のエナメルの靴は脱げて、ワンピースの裾は少々乱れた。

 様々な花嫁を見てきている宇迦尊は動揺はせず、しかし意外そうな顔はして、地面に手をついた自分の下に収まるあまり小柄ではない少女を見つめた。
 森を歩き回っていた葵依は白い服ごとあちこちが汚くなっていたが、埃ひとつついていないスーツを着た宇迦尊は、葵依に触れてもまったく汚れることはない。
 葵依は夕露に濡れた冷たい土と、程よい宇迦尊の温もりに挟まれて、夜風に冷えた自分の身体の奥にある自分の熱を感じていた。

 だから葵依は、宇迦尊の首筋に手を回して、強引に口づけをした。経験のない葵依には接吻の良し悪しはわからず、ただお互いの肌の色やくちびるのやわらかさの違いだけが印象に残る。
 それから間が持たなくなったところでくちびるを離した葵依は、宇迦尊の銀色の前髪に触れ、真っ直ぐにその瞳を覗き込んで断言する。

「きっと私は、あなたを食べても死なずに生きるから。だから私が生きる代わりに、あなたは死んで終わることができる」

 さらさらとした宇迦尊の髪の感触を楽しみながら葵依は、「汚染されたものを口にしても死ななかったお前は、神を食べても死ぬかどうかわからない」と倫之助に思いつきで言われたときのことを思い出していた。
 言葉は時に無責任で、適当で何も考えていないからこそ想いを動かす。
 だから葵依も、何の根拠もなく自分は宇迦尊を救うことができるのだと口にした。
 必然性が説明できなくても、生きるときには生きるし、死ぬときには死ぬ。
 だから葵依は、ただ言いたいことを言ってしまえば良かった。
 宇迦尊は髪を弄ぶ葵依の腕を掴み、試すように微笑んだ。

「本当に、そんなことが言えるんだ」

「言えるよ。だって私は、特別だから。あなたの代わりに神様にだってなれる」

 宇迦尊の細い手が、意外と弱い力で葵依の手首を握る。
 勝ち目があるのかどうか知らない挑戦に受けて立ち、葵依は謎めいた自信と万能感で言い返した。
 神喰いの花嫁としての葵依は、大勢いる中の一人でしかないのかもしれない。
 だがそれでもやはり、死病にかかって死んだ人々と同じ土地に生き、同じ米を食べて生きていたのに死ななかった自分は、絶対に特別なのだと信じている。
 死ぬはずだったのに生き残った意味を探す人間として、終わりを求める神の気持ちがわかったのだから、神にだってなれるとも葵依は考えている。

 そうした発想の飛躍を面白がったらしく、宇迦尊は掴んだ葵依の手首を地面に押し付けると、もう片方の手でそっと葵依のくちびるに触れた。

「そこまで言うなら、これで最後だと思って君に食べられてみようか」

 葵依は白い月光と橅の木々の影ごと宇迦尊を眺めていて、その姿をじっくり見るのに夢中で、細いけれども確かに肉のついた指を味わう余裕はなかった。

(私は犠牲者にはならないし、この可哀想な神様だって救える)

 葵依は目を閉じずに、味がわからない代わりに宇迦尊の美しさをなるべく堪能した。
 土の匂いも、風の音も、すべてが目に映る光景と結びつき、葵依の中の永遠の記憶になる。
 願った通りであるならもうすぐ失われるはずの、宇迦尊の諦めと期待が入り混じったまなざしを、葵依は忘れないでいたかった。

16 華燭の宴

 その後、十分に二人っきりの時間を過ごした葵依と宇迦尊は、神在森を歩いて新醒館と名付けられている洋館に戻った。
 洋館では役人と料理人が何事もなかったかのように待っていて、婚礼の準備を進める。
 土ぼこりまみれになっていた葵依は、見慣れない陶製の浴槽で清められ、衣装室で最初に見た白い真珠とレースのドレスを着せられた。
 それから髪を梳いて結い上げられ、見たこともない小瓶をいくつも使った化粧を施された葵依は、役人の案内で食堂に連れて行かれる。

 薄手の白いカーテンが夜風に揺れる広々とした食堂は、透明なガラスの小さな飾りがいくつもついた豪奢な電灯の明かりにまぶしく照らされていた。
 そのきらめきの中には、一寸の乱れもなく白布が掛かった円卓がある。
 ガラスの花瓶に挿した紅葵べにあおいの花で飾られた円卓には、宇迦尊が先に着席していた。

「早くおいで。君と僕のための晩餐だよ」

 森で身につけていたものとは違う、白い蝶ネクタイ付きの燕尾服を着た宇迦尊は、葵依の方を見て急かす。

(この服と靴じゃ、すぐには行けないんだけど)

 慣れないハイヒールとドレスに苦労して、葵依は何とか自分の席に辿り着いた。

「これは、あの料理人が作ったものなの?」

 宇迦尊の向かいの椅子に着席した葵依は、ちょうど自分の席の前に載っている皿を覗き込んだ。
 丸い白磁の皿の上には、皮をむかれて櫛切りされたいちじくと、赤く澄んだ色をした塩漬け肉の薄切りが、緑が鮮やかな葉物の生野菜と一緒に盛り付けられている。
 細かく刻まれた木の実や白い鰹節のようなものなど、葵依の知らない食材も使われたその料理は、卓上に飾られた花よりも華やかだった。

「そう。明日、僕を料理するのも彼なんだ」

 宇迦尊は食卓に置かれた籠からいくつかの丸くて小さなパンを小皿に載せて、葵依の手元の近くに置いた。艷やかに焼かれたパンからは触れずともかすかなぬくもりが感じられ、綺麗な薄茶の表面からは香ばしい匂いがした。
 食卓に並んだ料理の美しさに感心して、葵依は目を輝かせて頷いた。

「じゃあきっと、あなたも素敵な料理になるね」

 葵依は顔を上げて、葵依と違って格式の高い婚礼衣装を完璧に着こなしている宇迦尊を見つめた。
 館に雇われている料理人の腕は素晴らしく、彼が宇迦尊を料理するのであればそれはとても美しい品々になると思われた。

(こんなに綺麗なものを食べてしまうのはもったいないけど、私に食べられるためにあるんだから仕方がないね)

 美に対してはそれなりの感受性があるものの、繊細な味の機微はまったくわからない葵依は、宇迦尊も目の前の料理も食べて無くしてしまうのが惜しい気がする。
 だから神喰いの花嫁としての自分の役割を果たすため、葵依は食事に味わうこととは別の意義を見出す努力をしようとしていた。

「それじゃあ揃ったところで、いただこうか」

「うん。いただきます」

 宇迦尊はいつの間にか紅い酒が注がれていた杯を手にして、葵依に呼びかけた。
 洋式の食事を始める手順を知らない葵依は、とりあえず宇迦尊と同じように杯を掴んで一口飲んだ。
 紅い酒は独特の酸っぱさがあって甘く、葵依が想定していた酒の味とは違った。

(外つ国のお酒っていうのは、こういうものなんだろうか)

 葵依が不思議そうな顔をしていると、葵依よりもずっと優雅に杯を傾けていた宇迦尊が、酒の材料について説明した。

「このお酒は、ローゼルを使っているから赤いそうだよ」

 そして静かに飲んだグラスを置いた宇迦尊は、今度は皿の脇に置かれた銀製の器具を使って料理を食べ始めた。
 ローゼルとは一体なんだろうと考えつつ、葵依は宇迦尊を適当に真似て銀製の器具を握る。
 米も箸もない食卓は初めてで、そもそも今始めていることが食事だという意識も薄い。

(こんな洒落たもの、食べたところで絶対に味がよくわからないだろうし)

 葵依は味わうということを諦めて、むしろ味もわからないのに立派な料理を平らげてしまうことに、逆に破壊的な喜びを見出そうとした。
 物を美味しく食べることは葵依にとって高度すぎる営みであり、ただ生きるためには味わう必要はないことを葵依は知っている。
 神を食す神喰いの花嫁は普通、神の肉の美味しさに満足して死ぬらしい。
 それならばその美味しさを理解できなければ死ぬことはないのだと、葵依は味覚が鈍い自分が生き残る確信を強めた。



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