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神喰いの花嫁/死に損なった少女(前篇)

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1 湖の近くの村

 葵依あおいの住む翠古すいこ村は北州の端の森の外れにあって、大きくて深い湖がある。
 昼は太陽、夜は月に照らされて輝く湖はいつ見ても綺麗で、葵依はニレの木の木陰からその場所を眺めるのが好きだった。
 掬ってしまえば同じ水なのに、よく晴れた日の湖の水は井戸の水と違って青い色をしている。

「おねえちゃん。どうしてここの水は、こんなにきらきらしているの?」

 赤い縦縞模様のちゃんちゃんこを着た六才の子供だった葵依はある日の午後、隣をゆっくりと歩いてくれている姉の瑞枝みずえの着物の裾を掴んで、今いる通学路から見える湖の水がなぜ美しいのかを聞いたことがある。
 すると葵依よりも五つ年上の瑞枝は、優しい横顔で頷いた。

「うん、そうだね」

 一瞬目を伏せては立ち止まり、瑞枝は妹の葵依の肩にそっと手を置いて湖の方を向く。

「私もよく知らないのだけど、この湖には昔、光る女神様がいらしたそうだよ。女神様の光が今でも水の底に残っていて、湖が輝くのですって」

 葵依と同じ貧しい百姓の父母のもとに生まれていても、瑞枝の言葉遣いは不思議となぜか丁寧である。
 姉の説明は何の根拠もないものだったけれども、幼い葵依はその曖昧な昔話をまるごと信じて納得した。

「じゃああの水をぜんぶのんでなくしてしまえたら、もっとずっときれいなひかりがあるの?」

「さあ、どうかしらね。この湖は冷たいから、あまり飲みすぎるとお腹を壊すと思うけれども」

 葵依が素朴な願望を口にすると、瑞枝は首を傾げて微笑み、やんわりと妹の無茶な発言を注意する。
 色白で大人びた顔立ちをした瑞枝は、真っ黒に日焼けした葵依よりも美人で、百姓の家の子のわりに洒落ている名前にも負けていない。

(わたしのおねえちゃんは、いつもきれいだ)

 葵依はうっとりとした気持ちで瑞枝を見上げ、陽光に照らされた前髪の下で淑やかな瞳がまばたきをするのを見ていた。
 妹の自分と違って生まれつき美貌に恵まれている瑞枝に、葵依が嫉妬することはなかった。
 むしろ葵依は美しいものに目がないので、きっと自分より女神に似ているはずの姉も、湖と同じように好きだった。
 だから葵依は姉と湖を少しでも独り占めしようと、どんぐり眼を一生懸命に開いて見つめる。
 太陽の光がまぶしい湖畔を歩く二人の影は、澄んだ青空の色が溶けたように広がる湖の水面に、ゆらゆらと揺れて映っていた。

 湖の向こうの山よりもずっと遠くにある都会にはハイカラな洋服を着た人がたくさんいて、牛の肉を使った洋食や甘く溶けるような洋菓子を食べて生きていると、学校の先生から聞いたことがある。
 田舎にいる葵依は野良着を着た大人と雑穀の混じった米の味しか知らず、洋服も洋菓子も見たことがないけれども、それしか知らないからこそ目の前にあるものを好きでいられた。

2 光る指先

 そんなある平凡な、半日で学校が終わった昼過ぎの帰り道を姉妹で歩いた日から五年後。
 葵依の好きだった湖の色は、澄んだ青色からくすんだ灰青に変わっている。
 そして比喩ではなく本当に、夜には湖がうっすらと青白く光り輝くようになっていた。
 月のない夜にも光る神秘的な湖の光を見た葵依は、きっと女神の力に違いないと信じていた。
 しかし翠古村の大人たちは水の色が変わった理由について、湖の向こうにある山の峠で軍隊のための特別な鉱石が掘られているからだと話した。
 元々ほんの小さなサワガニしかおらず、魚を放流してもまったく育たない湖だったため、鉱山からの排水が流れてきても気にする人は少なかった。

 またそれどころか大人たちは、湖の水を使って布を染めて作る村の特産品の染物が、夜に青白く光る布になったことを喜び、珍品として高値で売るために新しい工場を作った。
 数十人ほどが働く小さな工場だが、赤いレンガ造りのその建物は、他に何もない寒村にとっては立派なものだった。
 十六歳になった姉の瑞枝も、大勢いる若い女工の一人として村の染色工場で働いたので、やせた土地で米を作って暮らしていた家族の暮らしも、ほんの少しだけ余裕が生まれた。

「あの湖と、瑞枝のおかげで、ちゃんとした飯が食べられるなあ」

 鍋が吊り下げられた囲炉裏の近くであぐらをかき、老いて髪が薄くなった父が以前よりも具の量が増えた味噌汁をすする。
 葵依の家族が住んでいるのは、三間取りの狭い茅葺きの民家である。
 母と瑞枝、そして葵依は下座にいて、父と同じように夕食をとっていた。
 まるで余所の子のように一人だけ姿勢良く座る瑞枝は、手にした椀を箱膳に置いて父の言葉に受け答える。

「やっていることは前と変わらないのに、お給料が随分上がりましたから」

 自分が働いて得た賃金が一家を支えることになっても、瑞枝の態度は謙虚である。
 瑞枝は以前は別の染色工場で働いていて、地元に新しい工場ができたことをきっかけに戻ってきていた。
 あと何人かいる他の姉は全員遠くに嫁に行ったきりなので、葵依はあまり会ったことがない。

(お姉ちゃんが、ずっとここにいてくれたらいいのに)

 葵依は小学校に通いながら家の農事を手伝って過ごしていて、瑞枝がいないと子供は一人だけなので寂しかった。だから瑞枝に嫁に行ってほしくないと願いつつ、葵依は不器用に箸を握って毎日同じ味がする味噌汁を飲む。
 しかし父よりは若いけれども疲れた顔をした母は、自分が生んで育てた子にしては美人な瑞枝をまじまじと見つめて、どんな家に嫁いでもらおうか考えているようだった。

「あんたにももっと良い生地の着物を、仕立ててやらなきゃいけないね」

「今なら少しは金も残っているし、いいんじゃないのか」

 美しい娘をより美しくして価値を上げようと母が提案をすると、父も賛同する。
 貧しいなりに工夫をしようとしてる両親に微笑みお礼を言うと、瑞枝は妹の葵依の方を見た。

「うれしい。それじゃ私は、葵依の分を縫おうかしら」

「え、わたしに?」

 急に話を振られた葵依は、慌てて顔を上げて隣の姉に聞き返す。
 すると瑞枝は、瑞枝の黒くなめらかな髪と違ってこわごわと短い葵依の髪に触れ、やわらかな声で言って聞かせた。

「葵依ももうすぐ大人になるのだから、きちんとした服を一つくらいは持たなければいけないでしょう」

 そう言って葵依の頭を撫でる瑞枝の手は、光る湖から引いた水に工場で触れているからか、指の先がうっすらと青白く輝いていた。
 まるで女神に祝福されているようだと、葵依は不思議な光の宿った姉の手を見て思う。

「うん。お姉ちゃんがそう言うなら」

 葵依は綺麗なものを見るのが好きなのであって、自分が着飾ることに興味はなかった。
 しかし指の先の美しい輝きも、その手の優しいぬくもりも、どれも好きなので素直に姉の言葉に頷く。
 葵依は工場が出来てからの村の日々の様子に違和感を抱いていたけれども、まだそれは掴みどころのないちょっとした引っ掛かりでしかなかった。

3 何かの異変

 暗い雲が広がった空から雨が降り続けている、梅雨のある日。
 葵依は姉のお下がりの浅葱色の着物に編笠を被り、湖のほとりの木陰の下に座っていた。
 分厚い雲によって太陽の光はまったく見えないためあたりは暗く、雨が描く波紋が揺れる湖の水面だけが鈍い光を放っている。
 その光は不気味だけれども見るものを惹きつける何かがあり、葵依は湿度がある冷たい雨の匂いの中で、湖を見つめ続けた。

(この湖の話をお姉ちゃんから聞いたあの日から、もう五年もたったんだ)

 以前の清く澄んだ眺めとは違う光景に自分や周囲の変化を重ね、葵依は変わったことと変わらないことについて考えた。
 特に祝ってもらえたわけではないけれども、葵依は誕生日を迎えかつての姉と同じ十一歳になっている。
 そうやって自分の背丈も、見える景色そのものも変わる一方で、季節が移っていく自然の感触は昔と同じで、ひんやりとした雨の向こうには短い夏が待っているはずだった。

(今年の梅雨は、去年よりどんよりしているような気がするけど)

 灰色の空と薄白く光る湖の境目を見つめ、葵依は半ば霧のように重い空気を吸った。
 葵依が雨に濡れながらも木陰に佇み続けているのは、同僚の葬式に出かけた姉の帰りを、道の途中で特に理由もなく待っているからである。
 だから暗い気持ちになるのは、新しい工場に隣村から勤めていた、姉の同僚の死の話を聞いたせいなのかもしれないと葵依は思う。
 姉と同い年の女工だった彼女は、あるときから病で仕事を休むようになり、すぐに戻るという話だったのが結局一度も回復せずに死んだらしい。

(すごく元気な子だったって、お姉ちゃんも言ってたのに。なんで死んじゃったんだろう)

 葵依は物事をよくわかっている方ではないが、姉の同僚の死の話には不気味なものを感じた。人が死ぬのはよくあることでも、何かが変な気がしたのだ。
 しかしなぜおかしいと思うのか、考えてもわからないから、葵依は姉の帰りを待っていた。
 葵依が抱いていた違和感はだんだんとはっきりとした疑念に近づいていたけれども、それでもまだ人に伝えられるような確信はまだなかった。
 しばらくそのまま木陰で木の幹にもたれて雨の音を聞いていると、そのうちに湖沿いの砂利道を誰かが歩く音がした。

「お姉ちゃん」

 姉の瑞枝に違いないと思った葵依は、すぐに立ち上がって道に出た。

「葵依、待っててくれていたの?」

 歩いてきたのはやはり葬式帰りの瑞枝で、葵依と同じ編笠を被り、黒染めの着物を着た姿でこちらに歩いてくる。
 だが曇天の薄闇の中で、瑞枝の身体全体がまるで亡霊のように青白く光っているように見えたので、葵依は一瞬息を飲んだ。

(工場で染まった指先だけじゃなくて、体中が光ってる?)

 変な空の暗さに見間違えたのかもしれないと、葵依は目をこすった。
 改めて見てみると、姉の発光は気のせいと言えば気のせいだと言えるほどであったが、葵依にはやはり青白く光っているように見えた。

「こんなところにいたら、風邪をひくでしょうに」

「だって、お姉ちゃんが」

 幼い妹が雨の中で自分を待っているのを見つけた瑞枝は葵依に駆け寄り、屈んで顔を覗き込んだ。
 葵依は不安な気持ちのまま俯き、何を言えばいいのかわからなくなった。
 それでも瑞枝は、葵依が言葉にできないことをそれとなく察して微笑んだ。

「心配してくれて、ありがとうね。早く家に、帰りましょう」

 濡れた手をつなぎ、瑞枝は葵依を連れて歩き出す。
 瑞枝は明るく振る舞っていたが、長いまつげに縁取られた瞳には、悲しげに何かを恐れていた。
 一緒に働いていた同い年の少女が原因不明の病で死んだのだから、悲しむのは当然である。しかし瑞枝が何を恐れているのかは、葵依には想像できない。

(私が怖い気持ちでいるから、お姉ちゃんの顔も怖がっているように見えるんだろうか)

 葵依は姉に手を引かれながら、その顔をおそるおそる見上げた。
 三日月のようにほのかに光るように見える横顔は綺麗だけれども、綺麗すぎて不吉な気がした。
 それから姉は家につくと、疲れたと言って早めに寝た。
 その日を境に姉はよく寝込むようになり、葵依の漠然とした不安は、次第にはっきりと恐ろしい現実の出来事になった。

4 腐爛

 真っ青に晴れた空を昇る太陽の強い光と、時折やってくる夕立の雨が、稲穂を大きくしていく夏。
 まず最初に壊れ始めたのは、不思議な明かりが灯っていた瑞枝の指先だった。瑞枝の指先は腫れ上がったかと思うと出血して崩れ始め、爪は剥がれ落ち、骨が砕けて肉や膿と混じり露出するようになった。
 そして光が体中に広がったのと同様に、身体全体が指先と同じように腐り落ちていく。
 肉の赤色と膿の黄色が混じって腐り落ちながらも、青白い光を保ち続ける身体は毒の花が咲いたように痛々しく、実際にひどく痛むようで、布団に横たわる瑞枝は苦しみ呻いていた。
 両親が何個かの卵を用意して祈祷師を呼んでみても効果はまったくなく、治すことはおろか瑞枝の苦痛を軽くすることもできない。

「隣町で死んだ瑞枝の同僚の娘も、同じような病だったそうだよ」

「じゃあ瑞枝は、このまま死ぬのか」

 父と母は何もできないまま、布団を血まみれにして横たわる娘のいる部屋の襖の前で、希望のない会話を交わす。
 父親の口ぶりは、このような酷い状況になってしまったのなら、瑞枝はいっそすぐに死んでしまったほうが良いだろうと言っているようだった。

「やっぱりお姉ちゃんは、もう治らないんだ」

 一日で一番蒸し暑い昼過ぎのそのときに、学校の出校日から帰ってきた葵依は、鞄を置いて両親に言った。
 葵依も父親の調子に引っ張られて、心配しているというよりは、冷たく突き放した態度になってしまう。
 その声で葵依が帰ってきている気付いた両親は、とっさに取り繕った様子でいつも通りのふりをした。

「あら。おかえり、葵依」

「台所に母さんが握り飯を作ってくれてあるから、それを持ってお堂の方に行ったらどうだ」

 深刻な話を娘に聞かせないという配慮なのか、それとも単に面倒だから遠ざけようとしているのか、曖昧な笑みを浮かべる父親は葵依に外に出かけることを勧めた。

「うん、わかった。そうする」

 わざわざ姉の病の話題に戻そうとは思わず、葵依は台所へ行って握り飯を弁当箱に入れて巾着に包んで再び家を出た。
 父親の言う通りに子供のたまり場になっているお堂に行けば、何人かの友人たちも集まっているはずだったが、人に会う気分ではない葵依は、家にほど近い雑木林の中の木陰で、握り飯を食べた。
 塩辛く漬けた高菜の葉で包まれた握り飯はやや固めで、不味いわけではないけれども二、三個食べると飽きる単調な味である。
 握り飯を食べ終えた葵依は、眠気を感じて地面に腰を下ろしたまま寝ようとした。
 だが目を閉じると引き戸の隙間から一瞬見えた姉の姿が目の裏に浮かび、辛い夢を見てしまいそうで怖くなって起きる。嫌な予感が予感以上の現実になってしまったことが、葵依はどうしようもなく恐ろしかった。

(私のお姉ちゃんなのに、私はお姉ちゃんと顔を合わせるのが怖い)

 葵依は立ち上がり、額に浮いた汗を手で拭った。
 そして病で変わり果てた姉のことを考えたくなかったので、気を紛らわせるため結局子供のたまり場であるお堂へ行くことにする。

(どれだけ悩んでもお姉ちゃんのためにはならないなら、私は辛いことなんか考えたくない)

 薄暗く涼しい雑木林を抜け、太陽の光が暑く照りつける砂利道に出て歩きながら、葵依は暗い気持ちを振り払おうとした。
 葵依は姉のことが好きだからこそ、姉が病んで崩れていく様子と向き合うことができない。
 母親が看病のために瑞枝のいる部屋に入ったときには、血や膿や、崩れ落ちた肉の破片のついた着物の洗濯を頼まれることがあるのだが、その汚れの凄惨さを目にするだけでもう葵依は精一杯である。
 誰よりも美しかった姉の顔が腐り落ちていくのは、葵依にとっては世界が壊れたことに等しく、どう接すればいいのかもわからない。
 葵依は綺麗な姉が好きなのであり、醜いものは好きではないのだ。

5 桔梗の花

 祈祷師を何度呼んでも瑞枝の病は治らなかったので、両親は新しい着物を買うために使う予定だったお金で隣町の診療所に診せようとしたが、そこにいるのはヤブ医者で何人も患者を死なせているという噂があったため結局やめた。
 そうして状況が良くなることもなかったが悪くなることもなかった、瑞枝が小康状態にいた八月の半ば。
 家の近くの田畑の雑草を抜いていた葵依は、水田の脇の斜面に桔梗の花がいくつか生えているのを見つけたので、三本ほど手折って家に持って帰ることにした。
 薄紫色の五枚の花弁は綺麗な形に開いていて、凛とした涼し気な色合いが暑い夏には見ていて気持ちが良い。

(この花を、お姉ちゃんにあげよう)

 どれだけ変わり果てた姿だとしても、妹として勇気を出して病床の姉に会わなくてはならないと考えていた葵依は、桔梗を手に心を決めた。
 花を渡すという目的があれば、葵依は何とか姉と対面できる気がしていた。
 家に戻ると、父親も母親も村の集会に出かけていていなかった。
 葵依は牛乳の入っていた空き瓶に半分ほど水を入れてから手折った三本の桔梗を挿し、意を決してふすまの前に立った。

「お姉ちゃん、入るよ」

 建付けが若干悪いふすまを動かすには少々力を入れる必要があって、開く音は静まり返った家全体に勢いよく鳴り響いた。
 部屋の中には薄汚れた布団を頭まで被った瑞枝であるはずの人がいて、その姿は葵依には見えなかった。

「葵依?」

 人が来る気配を察してあらかじめ身を隠していたらしい瑞枝は、布団の中から葵依の名前を呼ぶ。
 葵依は正直なところ、瑞枝の顔を見ずに済んでいることにほっとしていた。

「お姉ちゃんに、これを……」

 透明なガラスの空き瓶に挿した涼し気な桔梗を、葵依は布団の脇にそっと手を伸ばして置く。
 部屋の中に入る勇気は、なかなか湧いてこなかった。
 瑞枝は薄い布団の隙間から、そっと葵依の様子を伺っているようだった。
 布団と布団の間は暗くなるはずなのに明るく、あの湖と同じ光がうっすらと身体から放たれているのがわかり、ちらりと見ただけで葵依の心は緊張した。

「桔梗がもう、咲いているのね。私のために、ありがとう」

 畳の上に置かれたものが何かわかったらしい瑞枝は、葵依にお礼を言った。
 少し疲れている雰囲気ではあったが、声が優しく綺麗なのは、以前と変わらなかった。
 葵依は瑞枝の代わりに、瑞枝が見つめている桔梗の花の瑞々しさを見つめて頷いた。

「うん。どういたしまして」

 それから葵依は特に何を喋れば良いのかわからず、瑞枝も何も話し出さなかったので、「それじゃあ」と声を書けてまたふすまを閉めた。

(お姉ちゃんは、喜んでいてくれてたよね)

 葵依はそう感じて、少しは姉のためになれたのだと自分を評価しようとした。
 しかし数日後に茶色に枯れた桔梗を母親が手にしていたときには、葵依は本当に花で見舞ったことが正しかったのかわからなくなった。

6 棺は埋まる

 幸か不幸か、瑞枝は数日後に急に状態が悪くなって息を引き取ったので、病床の姉にどんな言葉をかけるべきか葵依が迷う必要はその後なくなった。
 病に苦しむ姉がどんな思いでいたのかもう知ることができないことを、葵依は半分後悔して、半分安堵していた。
 だから死んだと母から聞いてからまた、葵依は姉が臥せっていた部屋の襖を真夜中に開けた。蒸し暑い夏の夜なので、まだ生きているときから続いている腐臭は家中に広がっていた。
 遺体は棺に入るまえの状態で、手ぬぐいを顔に被せられて布団の中にいた。
 綺麗にいつも梳いて結んであった黒髪は抜け落ち、赤黒い肉塊しか見えない瑞枝の身体は、命が失われても白い蛍のような光を帯びている。
 しかし光ったところで、もう何も美しくはなかった。

 ◆

 翌日の葬儀の朝には、村の若者の数人が瑞枝の墓の穴を掘ってくれた。
 死因が不可解なこともあり、瑞枝の葬儀は招かれる人数も少ない控えめな規模のものになる。
 たくさんの線香の匂いとともに布でぐるぐるに巻かれた姉の身体は棺に納められ、家から運び出された。
 人が少ない葬儀なので、葬列もいつもよりも短かった。
 棺を埋めるのもまた村の若者で、父親と母親と、そして葵依はただ遺族として沈黙するだけで良い。
 村の若者は汗を流し、時折お互いに適当に声を掛け合いながら、掘り返した土をスコップで元に戻していた。

 墓地は山と山の間の日があまり射さないところにあったけれども、それでも湿り気のある空気はむっとして暑かった。
 葵依は棺にかけられていく土を眺めながら、姉の身体は地面の中でも光り続けるのだろうかと、湖や湖の水を使って染められる布を思い浮かべながら、ぼんやりとその光景を想像する。
 なぜ姉が死んだのかはわからなかったけれど、葵依はその理由を知るために辛い現実を掘り下げようとはまったく思わなかった。

7 ただ死ぬだけ

 梅雨が開けたら夏が来て、夏が去ったら田んぼの水を抜いて、鎌で穂を刈り取る秋になる。
 例年なら葵依の住む翠古村も、そうした季節の農事に勤しんでいるはずだった。
 しかしその年は異様な数の村人が死に、いつもどおりの農事をこなすことが難しくなった。
 まず瑞枝の死と他の村人の葬式の時期が重なったと思うと、また別の村人も原因不明の病になったと聞いた。

 症状は皆身体が薄く光ることから始まり、やがてそこら中が腫れて血まみれになって、嘔吐と下痢を繰り返して死ぬ。
 最初は工場で働いていた若い女性ばかりが倒れていたのが、そのうちに若くはない者や男も似た症状の病になるようになって、一ヶ月もしない間に翠古村はあまりにも多すぎる死の災厄に見舞われた。
 姉の四十九日が終わる頃には、葵依の父も母も死病を発症して、残暑の中で死んでいく。

「あの湖が、わしらを殺す」

「馬鹿なやつが変な工場なんかを建てるから、女神様を怒らせた」

 村人たちは皆、自分たちがの身に降り掛かっている厄災の原因を白く光り輝くようになっていた湖に求め、口々にそうささやいた。
 各々の家には井戸があり、湖の水を直接飲むことはあまりない。しかし死の病の光は異変が起きた湖と同じ色をしているので、村人たちは経緯はどうであれ発端はそこに違いないと確信していた。

 ◆

 葵依がその死病にかかったのは燕が南に去って涼しくなった頃で、家族の中では一番最後だった。
 他の家のことを気にする余裕がある人がいないから比べられないけれども、おそらく村全体でも遅いほうだと思われた。

(もしかすると、私が最後なのかもしれない)

 人々が順番に倒れて死んでいく中で、葵依は自分も近いうちに死ぬことをすっかりと受け入れて疑問に思わなくなっている。
 しかしまた同時に、死ぬまでは生きていなければならないことも漠然とわかっていた葵依は、一人になってもできる範囲で日々の生活を送り続けた。
 だから身体に力が入らなくても、葵依は台所の土間の上で身体を引きずり、米びつから冷たい生米を掴んで食んでいる。
 元々味覚が鈍い方である葵依は、美味しいとか不味いとかはあまり感じない。
 噛むことも飲み込むことも難しかったが、さらさらとした米粒を口に含んで舐れば甘く、何かしらの栄養は取れている気がした。

 何とか物を食べようとするのはどちらかと言うと惰性の行動で、葵依は明日が来るのを望まず、両親や姉と同じように自分にも終わりが訪れることを待っている。
 寝室で死んだままになっている両親の死体を埋葬することができないのと同じように、今の葵依には米を炊いて食べる力も、何か意味のあることを考える力もなかった。
 もっと言うならば葵依は、熟しすぎた果実のような姉の死体を見たそのときから、考えることをやめている。

 それから葵依は生米を口に含んだまま、朝日が差し込む半開きの戸の隙間からゆっくりと這い出て、湖を目指した。
 熱で朦朧とした頭では、なぜ自分が湖に行こうとしているのかわからなかったけれども、葵依は家を後にした。
 体中の骨が砕けたように痛かったけれども、土まみれになりながら、腕の力で少しずつ移動する。
 空は秋晴れで気持ちよく晴れていたけれども、静まり返った村の家々に生きている人の気配はない。
 田畑を耕す人が皆死んだから、今年の翠古村の収穫は厳しいものになるはずだけれども、食べる人が死んでしまった今はそんなことはどうでも良かった。

 時折意識を失ったような休息を挟みながら前に進み続け、葵依が湖を見ることができたのはもう日も暮れる頃だった。
 沈む太陽の光に赤く染まりながらも、暗く黒い山の輪郭を水面に映した湖は、徐々に濃くなっていく夕闇の中でゆっくりと青白く発光しはじめている。
 その微妙で毒々しい色の重なりを見つめていると、葵依は葬式の前夜に見た姉の死体を思い出した。

(湖もお姉ちゃんも、昔は綺麗だったのに)

 自然の理を無視した歪で不気味な光景を前にして、葵依は失われてもう戻らないものがあることに、どうしようもなく辛い気持ちになった。
 自分の命が終わりつつあることよりも、美しかったものが今はもうこの世にはないことが悲しい。
 だが幸いなことに、葵依には悲しむ時間もそう長くは残されていないはずだった。
 そのうちに目に映る光もぼやけて消え、身体に触れる地面の匂いも感触もなくなって、どれくらいの時間が過ぎたのかもわからなくなる。
 いつかは自分がどこで何をしているのかもわからなくなるときが来て、きっとそれが死ぬということなのだと信じ、葵依はそのときを待っていた。

8 隣村の診療所

 長いのか短いのかもわからないほどに深い眠りの中にいた葵依は、誰かが耳元でささやいた気がして、目を覚ました。
 しかしまぶたを開けて横を見てもそこに人影はなく、見えるのは真っ昼間のまぶしい太陽の光に満ちた窓ガラスの向こうに生えている木々と、暗く日陰になっている室内であった。

(全然知らない、見たこともない部屋だ)

 真新しいがこじんまりとした洋室には、何かの瓶や分厚い本が並んだ棚が並んでいて、全体的に消毒の臭いが漂っている。
 混乱したまま布団から身体を起こそうとして、葵依は自分が水色のやわらかい布地の単衣を着て、小学校の保健室でしかみたことがないような金属製のベッドに寝ていたことが気がついた。

(普通の民家ではなさそうだけど……)

 村で死病が流行したことも半分忘れていた葵依は、記憶を遡って自分の置かれている状況の把握を試みた。
 そうして湖を目指して家を這い出たところまで思い出したところで、ドアが開いて一人の男が入ってきた。

「お、普通に回復したようだな。目の様子が少し、おかしいが……」

 くすんでくたくたになった白衣に身を包み、無造作に髪が伸びているわりに洗練された顔立ちをしているその男は、挨拶もせずに葵依のいるベッドに近づいてきた。
 そして男は無遠慮に葵依を見下ろすと、やにわに葵依の頬を掴み、細い懐中電灯で目に光をあてた。
 眩しさに葵依は目をつむったが、男は指で強引にまぶたを開かせる。
 懐中電灯の光でよく見えなかったが、男は葵依の目を観察しているようだった。
 右目が終わったと思うと、次は左目に同じことをされる。両目分きっちり観察してやっと、男は葵依を解放した。

「何で、こんなことするの」

 男の手の冷たさも、懐中電灯の人工的な光も不快だった葵依は、寝台の上から男をにらみつけた。
 男は村にいた人の誰よりも背が高くて健康に見え、育ちが良さそうで紳士的な雰囲気であるところもあるのに、やることは強引だった。
 質問にどう答えるべきか一瞬迷った様子を見せた男は、すぐに思いついた顔をして後ろの棚の引き出しから大きくて重い手鏡を取った。

「だってほら、お前の目は赤くて、変に光っているだろ」

 男は葵依に手鏡をのぞかせて、その目の異変を説明した。
 その言葉の通り、葵依の実年齢以上に幼く見えるどんぐり眼は、元々はごく普通に黒かったのに、今は血のように赤い不気味な色をしていた。そのうえ薄暗い日陰の部屋にいる葵依の目は、あの湖と同じ青白い光をうっすらと発しているのがわかって、まるで悪いものに取り憑かれたように見えた。

「あの病気のせいで? でもどうして目だけ……」

 生きている人間のものではないような自分の瞳の色を見て、葵依は怖くなって目を見開いたが、すぐにそれよりももっと恐ろしく変わり果てた姉の姿を思い出した。
 葵依は改めて自分の身体をよく見て触ったが、目の色が違うこと以外は、日焼けした肌も爪の形が悪い手もどこも変化がなかった。

「翠古村ではみんな、お前以外は酷い死に方をしていた」

 葵依の疑問に先回りするように、男が静かに無情な大量死を告げる。
 他に生き残りがいないことは何となくわかっていたうえ、家族も幼馴染も知り合いも、みんな死んでしまったこととじっくり向き合うには不可解なことが多すぎると思った葵依は、死者を悼むよりも先に男に向き合った。

「私は瀬田葵依。瀬田益蔵の次女で十一歳の葵依。お兄さんは、一体何なの」

「俺は医者だ。蔦倉つたくら村の守谷もりや診療所の医者の、守谷もりや倫之助りんのすけと言う」

 葵依が自分の名前を教えると、男は初対面であることをすっかり忘れていた様子で名乗った。

「守谷って確かあの、やぶ医者って評判の……」

 隣村にある病院として名前を聞いたことがあった葵依は、思わず失礼なことを口走る。
 だが倫之助は気分を害したそぶりはまったく見せずに、淡々と事実は事実として認めた。

「確かに俺は治療というものが苦手で、開院直後に患者を四人ほど死なせた。それからまったくほとんど、この診療所に来る患者はいない」

 倫之助は妙に堂々とした態度で医者としての腕の悪さを語ると、今度は棚から薄い紙の雑誌を何冊か取り出して目次を葵依に見せた。

「だが研究方面では悪くはない立ち位置で、投稿論文が学術雑誌に何回か載っていて、しかもそれなりに評価も引用もされているんだ」

 薄黄色の紙の束に印刷された細かい文字は、難しい漢字やカタカナが並んでいて葵依にはまったく何が書いてあるのかわからなかったが、鈴之介の長い指の先にある人名は確かに守谷倫之助と書いてあるように見えた。

「お前のいた翠古村を見に行ったのは、論文のためでもあり、一応人助けのためでもあった。学会のために東都に出かけていた関係で調査が遅くなり、残念ながら俺はあまり役に立たなかったが、お前を含めて興味深い情報は手に入った」

 倫之助は大事そうに薄い紙の本を棚に戻すと、近くにあった木製の小椅子に腰掛けて、意外と若く賢そうな顔にかすかな微笑みを浮かべて葵依を見つめた。
 その態度に感謝をすればよいのか、それとも怒りを覚えるべきなのか、わからなかった葵依は黙ってこちらからも男を観察した。
 葵依が何も言わないでいると、倫之助は半ば独り言のように、饒舌に持論を話し続けた。

「あの死病の原因はおそらく、皇国軍の新型兵器のための鈾石ゆうせき鉱山の開発による、湖と地下水の汚染だ。湖が光っていたのも鐳砂らいさ銫砂しょくさのような汚染物質が溶けていたからで、大元は向こう岸の鉱山から流れてきたんだろう。この蔦倉村は別の水源を使っているから今のところは問題はないが、翠古村は水も米も土壌もすべてが汚染されたから……」

 勝手に広がっていく倫之助の考察は、女神が湖にいると思っていた葵依にはちっとも理解できない内容で、質問したところでわかるものではないことは明らかだった。
 だから葵依は、倫之助の言葉を遮って、他のことについて訊ねた。

「それならお兄さんのおかげで、私は助かったってことだよね」

 きっとそうなら感謝の言葉を述べなければいけないと、葵依は思っていた。
 しかし倫之助は葵依の問いに首を横に振り、開業医としてはやぶだと認めたときと同じように正直に受け答えた。

「いや、違う。俺は三日前にお前をこの診療所に連れてきて寝かせただけで、特別なことはしていない」

 早口だけど聞き取りやすい、すっきりとした倫之助の声が葵依の期待を突き放す。
 倫之助は何でも知っていそうな表情をしているわりに、葵依が知りたいことの答えは何も持ってなかった。

「じゃあ、なんで私だけが生きているの?」

 聞いても無駄だという確信を持ちながらも、葵依はだんだん腹が立ってきて問いを重ねた。
 もうすぐ死ぬから何も考えずにいたのに、これからも生きるなら何かを考えなくてはならない。
 その現実が、葵依を苛立たせた。
 家族も何もかもを失えば悲しい気持ちになると思っていたのに、実際の葵依はどちらかというと怒りを感じている。
 ただ一人生き残ったうえに瞳の色をおかしく変えられて、不当な罰が当たったような気分だった。

「それは俺にもわからない。わからないことがあるから、学者は研究するんだ」

 倫之助が腕を組み直し、本人としては実感こもっているのであろう言葉を述べる。
 患者の葵依が肩を震わせていても、倫之助は対応はどこか無感情でずれたものだった。
 そして博識だからこそわからないものはわからないと開き直る強さがあるらしい倫之助は、そのまま適当に思いついたことをまた話しだした。

「だが、あえて宗教がかった説明をするなら、お前は西洋の国々にいるという『聖女』のようなものなのかもしれないな」

「せいじょ……?」

 生まれてこの方聞いたことがない単語に、葵依は言葉を学ぶ赤子のようにおうむ返しに繰り返した。
 すると倫之助はそれについては意外とわかりやすく、言葉の意味を説明した。

「火刑にされても、死病にかかっても、神に愛されているから死なないのが聖女だ。彼女たちは西洋では神に近い存在として敬われて大切にされていると、昔読んだ洋書に書いてあった」

 洋服すら縁遠い葵依にとって、西洋の神への信仰はまったく接点がないもののはずなのに、不思議なほどにすぐに聖女については理解できる。
 それは葵依のいる皇国に生きている神々とは別のものであっても、同じように人に信じられている神にまつわる話だからかもしれないと、葵依は思った。
 倫之助の方も皇国の民として、ごく普通に神々の力を信じているようで、何のてらいもなく神を語った。

「俺は信仰心がある方ではないが、この国の神々を支える仕組みの中にも、そういうものがいてもおかしくはないのかもしれないな」

 それは適当で当てずっぽうな推論で、何か根拠があるものではなかった。
 だがそれゆえに、倫之助と初めて会って何も信用できていない葵依も、多少は信じることができた。

(私が生きていることにも、悪くはない意味があるのなら……)

 倫之助には何も言葉を返さず、葵依は窓の向こうに見える雑木林を見つめて心を落ち着けた。
 だんだん秋が近づいて低くなっている太陽は、ほどよい強さの日差しで森の木々を照らしていた。
 考えてみると葵依は、姉や両親と違って、身体が光ったことも、体中が腐り落ちて布団を血で染めたこともなかった。
 死病が湖の女神の呪いではなく、倫之助の言う鉱山の砂のせいであるのなら、葵依は自分が死ななかったことこそが女神の祝福なのだと信じたかった。

9 居候

 他に行くあてがない葵依は、そうと決めたわけではないものの、流れで診療所を兼ねた倫之助の自宅に居候することになった。
 倫之助の自宅は、洋風の診療所部分は白塗りの清潔感のある木造建築だが、住居部分はごく普通の畳張りの民家になっている。
 裕福な地主の家の三男である倫之助は、診療所で閑古鳥が鳴いていても食べていけるようなのだが、ささやかな世間体を守り近くために田畑を耕して自給自足の生活を装っていた。
 だから葵依は家に置いてもらう代わりに、倫之助の農業の真似事を手伝った。

「鍬も鎌も苦手なんだが、一人で百姓をやっていれば、少なくとも人殺し扱いはされないからな」

 きっと陽気な自虐で言っているのであろう笑顔で、患者を死なせた医者である倫之助は、三日月型の鎌を手に紺染の野良着を着て秋晴れの田んぼに立っていた。
 葵依は倫之助から借りた同じぶかぶかの野良着を着て、冗談に対する反応に困りながら稲の刈り取りを手伝っている。
 若干使い古されていても綺麗な紺色に染まっている野良着は、葵依が知っている野良着よりも随分立派で、育ちの違いというものを感じさせた。

(翠古村からほんの少し離れただけで、もうこんなに知らない世界があるんだ)

 真剣に働いていないのに貧しさとは無縁で、他人を養えるほどの余裕を持って生きている倫之助は、葵依にとってまったく未知の存在だった。
 危なっかしい手付きで稲穂を刈り取る倫之助を横目で見ながら、葵依は慣れた早さでさっさと刈る。
 金色に色づき頭を垂れた稲は豊作で、狭い山間にきらきらと輝いていた。
 葵依は背を屈めて稲の根元を握り、その清々しい匂いをかいで、今はもう誰もいない自分の家や村の田畑のことを思い出した。
 葵依は鏡のように水が張られた田んぼも、まっ白な雪に覆われた田んぼも、どの季節のものも綺麗で好きだった。

(お米の味は全部一緒だとしても、あの田んぼのお米をもう誰も食べられないのは寂しいな)

 結局倫之助に説明してもらっても死病が流行った理由はよくわからなかったが、あれだけの人が死んだ土地で育ったものを食べることが危険であることは何となく理解していた。
 だから人の家の田んぼを手伝うのには思うところがあったが、仕方がないことだと割り切って鎌を手にする。
 それから葵依は、一列、二列と刈り終わったところでまったく進んでいない倫之助の方を振り向き、手の速さに反した遅さで先程の冗談に反応を返した。

「稲穂の命なら、たくさん刈り取っても怒られない?」

 葵依は鋭い鎌を手にしたまま、赤くなった目に倫之助を映した。
 しかし倫之助はまったくその色を恐れることなく、葵依の冗談を受けて少々意地の悪い微笑みを浮かべる。

「そうだ。むしろ逆に働き者って言ってもらえる」

 少し離れたところにいる倫之助は、近くにいるときとは違う調子で声を張って答えた。
 謎の死病から生き残り、人と違う見た目になってしまった葵依はおそらく、蔦倉村の他の村民と会ったら恐れられて嫌われるはずだった。
 しかしそもそもまず頼った先の倫之助が村民から除け者にされているので、葵依はある意味では心が傷つく機会から守られている。
 だからこそ、ただ真面目に悲しむのが難しいほどの大量の死に触れた葵依は、現実を受け入れるために自分の生きている意味を考えることがあった。

 欲しいのは、涙を流して悲しむ時間ではなく、生きていても良いのだと思える理由である。
 倫之助が言ったように自分が聖女のような特別な存在として生きているのなら、葵依は何かこれから意味のある役目を果たさなければならないような気がしていたのだ。

(でも死病のことを調べて後の世のためになるとかは、私には絶対無理だから)

 近くにいる人間が一応は医者なので、医者になって人のためになると思いついたこともあったが、葵依は勉強が得意ではないし自分の限界を知っていた。
 葵依は苗を植えたり、雑草を抜いたり、脱穀したりする以外のことができない。
 だから葵依は倫之助に背を向けまた作業に戻ると、稲を根から綺麗に刈り続けた。
 居場所は変わっても、ほどよくかたい稲の感触は幼い頃から知っているものと変わらず、葵依は田畑ではとりあえず役に立つ人間でいられた。

10 祭りの夜に

 収穫が終わった神無月の半ばには、翠古村でも行われていたように蔦倉村でも秋祭りが行われていて、お神楽や相撲の奉納が村のあちこちで開催されて賑わっているらしかった。
 土地の神に捧げられる神酒は見物客にも振る舞われ、空き地では男たちが酒宴を開くこともある祭日である。

 だが倫之助は祭りには出かけず、自宅の居間に置かれた箱火鉢で栗を焼いて食べていた。
 熱された栗の甘く香ばしい匂いに包まれた部屋の片隅であぐらをあき、倫之助は分厚い本を片手に剥いた栗を頬張っている。
 障子の外からは、祭りの神楽の笛の音が微かに遠く聞こえていたが、それ以外はまったく日常通りの家の様子であった。
 特に何をすることもない葵依も倫之助の隣で、焼けた栗を火箸を使って箱火鉢から出して食べている。

「あなたはどこにも行かないんだね」

 葵依は火傷しない程度に冷ました栗を手で掴み、剥きながら倫之助に訊ねた。焼く前にあらかじめ皮に切れ目を入れてある栗は、素手でも簡単に剥くことができた。

「ああ。別にお神楽も相撲も興味ないからな」

 文字がびっしりと並んだ本のページをめくり、倫之助は本当に祭事についてどうでも良いと思っている様子で座っていて、もう日が落ちて暗くなった窓の外を一瞥もしない。
 だがよそから来たばかりの葵依に対しては多少の配慮を見せて、本を読みながらでも一応提案をしてくれた。

「お前が行きたいなら連れて行ってもいいが、俺と行くより一人の方が良いかもしれないな。餅とかも配られてるし、行ってくるか?」

 他の住民から好かれていないことをヤブ医者として自覚している倫之助は、葵依に秋祭りに出かけるなら一人で行くことを勧める。
 ただの疑問で話しかけただけで、別にどこかへ行きたいと思っていたわけではない葵依は、濃い黄色が綺麗な栗の実を割って質問に答えた。

「出かけたいわけじゃないからいいよ。私も別に、お餅もお神酒も興味ないから」

 倫之助の言葉の真似をして、葵依は軽く微笑む。
 裕福な倫之助の家には常に食べ物がたくさんあるので、味は二の次でただ空腹を満たせれば良い葵依が餅の配布に惹かれることはない。
 一方でもしかすると倫之助と違って、葵依はまだ誰かと仲良くなるチャンスがあるかもしれない。
 疫病のことがどう思われるかは忘れて、試してみれば良いのかもしれない。
 だけど葵依は祭りには出かけず、倫之助の家にいることにする。

(だって倫之助が良い理由もないけど、他の人が良い理由もないから)

 葵依は特に現状を変える必要性は感じず、今の生活に満足をしているわけではないが、不満を抱いているわけでもなかった。
 だから葵依は、すぐそこにいる倫之助から離れて、他の誰かを探そうとは思わない。
 倫之助は自分のそばに座り、栗を剥き続ける葵依を横目でちらりと見ると、すぐにまた本のページに視線を戻して呟いた。

「そうか。なら良い」

 竿縁の天井に取り付けられた電灯は明るく、親子でも兄妹でもない他人同士の倫之助と葵依を照らす。
 その人工的な光にも似た、冷たくも温かくもない倫之助の距離感に、葵依は不思議な居心地の良さを感じ始めていた。

11 中央からの手紙

 それから四年ほど倫之助の家に居続けて、葵依は十五歳になった。
 裕福な実家から食べ物を譲ってもらっている倫之助と同じ恵まれた食生活を送った結果、葵依は目の色はおかしいままであるものの、背が高く十字絣の着物が似合う健康的な少女に育った。
 倫之助は時折注射というもので葵依の血を抜いたり、目やら爪やらを調べたりして、それを何かの文章にしてどこかに送っているようだったけれども、どんなことが書かれているかは葵依の知るところではなかった。
 だから診療所の赤い郵便受けに入っている封筒の中身が、倫之助が葵依を使って書いた論文に関わるものであったとしても、葵依は興味を持たないまま開封せずに倫之助に渡す。
 しかしある蒸し暑い文月の下旬に届いた封筒はいつもと様子が違ったので、夏野菜の収穫から戻った葵依は郵便受けの中をじっと見つめた。

(これ……、倫之助宛てじゃなくて、私宛て?)

 文章を読むことは苦手でもさすがに自分の名前くらいはわかる葵依は、瀬田葵依と書かれた長形の白封筒を裏返して見た。
 送り主には神祇省じんぎしょうという聞いたこともない名前が書いてあって、何のことかはさっぱりわからない。
 葵依は蝉の声がよく聞こえる青々とした診療所の横の小路を横切って、勝手口から住居部分に入った。
 そして三つ編みに編んだ髪が跳ねる勢いで障子を開けて、縁側にあぐらをかき水うちわをあおいでいる浴衣姿の倫之助に話しかける。

「これ、私宛てなんだけど。開けても良いってこと?」

 これまで郵便物をもらう機会がなく、戸籍簿の住所もあやふやなままにしている葵依は、倫之助の近くに座っていつもと違う手紙を渡した。

「これは神祇省って書いてあるな。神祇省って言ったら、神々の面倒を見てる国の省庁だ」

 倫之助は手紙を受け取ると、大人とは思えない汚さでびりびりと端を破った。
 神祇省というのは、どうやら個人の名前ではなく、何やら偉い仕事をしているお国の人の集まりであるようだった。

「それで、なんて書いてあるの」

 読めなくても書面の雰囲気が気になった葵依は、倫之助が広げる無機質な活版で印字された妙な手紙を覗き込む。
 倫之助は普段の自分宛ての郵便物を読んでいるときよりも難しい顔をして、書面を読んでいた。

「どうも神祇省は、お前を神喰いの花嫁とかいうものにしたいそうだ」

「かみくいの、はなよめ?」

 倫之助の「科学的な」話に出てくるものとは違った方向にわからない言葉を使われた葵依は、首を傾げて意味を訊ねる。
 自分も半分以上は理解していなさそうなわりにやはり偉そうに、倫之助は国が葵依に求めているらしい役割について話した。

「たしか食べ物の神に嫁いで、その神を食べて死ぬ巫女みたいなものだな」

 倫之助の説明は、間違ってはいないのだろうけど、大雑把に省略されすぎていて、葵依には現実感のある話に思えなかった。

「どうしてそのお嫁さんは、神様を食べなきゃいけないの。神様を食べると死んじゃうのは、神様の肉に毒があるってこと?」

 自分で考えてもわからないことをわかっている葵依は、倫之助を質問攻めにする。

「いやそうじゃなくて、神が美味しすぎるからだって話だったはずだ」

 倫之助は葵依に身を乗り出されても焦ることなく、たらいに入れた水にうちわを浸して、うっすら汗をかいた無愛想な顔であおいだ。

「美味しすぎると人は死ぬの?」

「そうやって食べられては蘇る神が西都の方にいるという話なのであって、どういう理屈なのかは俺は知らん」

 いまいち納得できない葵依がさらに訊くと、倫之助はばっさりと自分の理解を超えた説明を断って強引に本題に入った。

「で、この紙に花嫁になるかどうかを書いて返書するものらしいが、お前はどうする」

 倫之助は厚紙の記入用紙を葵依に見せて、奇妙で謎めいた縁談を引き受けるか否かの判断を迫る。
 何も理解していないものの、不思議と答えには迷わない葵依は、すぐに明るい声で答えた。

「よくわかんないけどなれますって言うなら、なるよ。だって私が何かになれる機会ってあんまりないでしょ」

 葵依は自分のような妙な死病に冒されたことがある人間と一緒になってくれる者はいないものだと思っていたので、どこかの神様が葵依を花嫁にしてくれるなら、断っては失礼だと感じていた。
 また美しいものが好きな葵依は、きっと美しいに違いない神の姿も見たかった。

(嫁いだら死ぬっていうのが変だけど、見えるものは見たい)

 きっと倫之助も同意すると思って、葵依は開かれた書面から顔を上げる。
 しかし倫之助はいつもどおりの澄ました顔をしていたけれども、その反応は意外と殊勝なものだった。

「なるほど。あの日に死ななかったお前はこれから今、死ぬんだな」

 倫之助はほんの少しだけ寂しげな瞳で葵依を見つめて、水うちわを手放した手で葵依の頬に触れた。
 研究のためにさわられることはあっても、思い遣りによって触れられることはこれまでなかったので、暑さに火照った頬に心地よい、冷たく濡れた倫之助の手の感触に葵依は言葉を失った。

(倫之助は、私にこういう優しいことをしてくれる人だったんだ)

 人の命を軽んじる発言ばかりをしていても、一応は医者だったらしい倫之助は、数少ない生きて助かった患者である葵依が神に嫁いで死ぬことを悲しんでいるようだった。
 結局は倫之助は他人なので、死んでほしくないとかそういう引き止める言葉はかけない。
 だが人らしく命を慈しむ心で、葵依の選択を肯定しつつも残念に思ってくれている。

(意外と倫之助は、私のことを大切にしてくれたんだろうか)

 葵依は驚きに身体を強張らせ、頬に触れる手に自分の手を重たりとか、いじらしい反応は一切返せないまま倫之助を凝視した。
 自分は貴重な研究材料なのであって、科学的な興味しか持たれていない。
 そう思って約四年間、ただの隣人か仮の保護者として流してきた倫之助の存在は、思っていたよりも特別な可能性を秘めていた。
 もしかすると倫之助は、これからもっと真面目に二人の時間を重ねれば、葵依を深く愛してくれるのかもしれない。ひょっとすると葵依が頭を下げて頼み込めば、結婚だってしてくれるのかもしれない。
 最初に出会った頃は十一歳だった葵依は、十五歳になった今、やっと本当の意味で倫之助と出会えた気がした。

(私は倫之助のことが嫌いじゃないし、大事に思ってもらえるなら嬉しいけど……)

 熱くまぶしい太陽の光から守られた縁側の影の中で、とっさのことで身体が動かなかった葵依は、せめて微笑もうとして変な困り顔になる。
 その結果、倫之助には戸惑いだけが伝わり、嬉しさは伝わらない。
 自分の気持ちを完全にわかっているわけではないものの、おそらくその反応のすべてが葵依の出した答えだった。
 そっと葵依の頬に触れていた倫之助も、同じように無意識の内に判断を下して、必要最低限の優しさと水滴を残して濡れた手を離す。

「まあ、お前はあの村で死んだ人たちと同じものを食べていたのに生きてるんだから、神様を食べても本当に死ぬかどうかわからんけどな」

 倫之助はすぐにこれまで通りの剽軽ひょうきんで失礼な態度に戻って、一瞬だけ聞かせた切なげな声をすっかり忘れる。
 こうして葵依の初恋は、始まる前に消え去った。
 恋とも言えない短い交わりは結局、葵依が神を食べて死ぬという特殊な役割を与えられたことによる、一瞬のまぼろしなのである。



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