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平家物語の「舞台」を巡る旅② ~一ノ谷合戦

平家物語の「舞台」を巡る旅①のつづきです。

須磨には平敦盛のお墓が2つ、ひとつは須磨浦公園、もうひとつは須磨寺にあります。そこでまず須磨寺にお参りし、次に「小宰相身投」の平通盛、小宰相の跡をたどって、新開地=旧湊川のあたりを巡りました。その後、夜の海を屋島に向かって出航。

山陽電車で須磨浦公園駅から三宮方面に3駅戻ると、須磨寺駅があります。

駅から山側に向かって、須磨寺の参道にある須磨寺前商店街を歩いて行くと、交差点の先に須磨霊泉がありました。

看板には〈霊泉流水口で手や顔などを洗わない様にして下さい。またその際は「上洗い」をご利用下さい〉とあります。今も現役で大切に使われているんですね。とてもまろやかで、この水で淹れたコーヒーはさぞかしおいしいだろうなあと思いました。1995年阪神大震災のときには、貴重な水源となったそうです。

須磨寺

さあ、須磨寺に着きました。

須磨寺仁王門

平敦盛と熊谷直実

源平の庭の平敦盛(左)と熊谷直実(右)。写真ではよく目にしますが、実物をみたのははじめてです。これは、あの場面ですね。

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いくさやぶれにければ、熊谷次郎直実、「平家の公達たすけ舟に乗らんと、汀の方へぞおち給ふらむ。あっぱれ、よからう大将軍に組まばや」とて、磯の方へ歩まするところに、練貫に鶴縫うたる直垂ひたたれに、萌黄匂の鎧着て、鍬形うったるかぶとの緒しめ、黄金こがねづくりの太刀をき、切斑きりふの矢負ひ、滋籐しげどうの弓もって、連銭れんぜん葦毛あしげなる馬に黄覆輪きんぷくりんの鞍おいて乗ったる武者一騎、沖なる舟に目をかけて、海へざっとうちいれ、五、六段ばかり泳がせたるを、熊谷、「あはれ大将軍とこそ見参らせ候へ。まさなうも敵にうしろを見せさせ給ふものかな。かへさせ給へ」と扇をあげてまねきければ、招かれてとってかへす。(巻九 敦盛最期)

平家は戦さに敗れた。熊谷次郎直実は「平家の公達がたすけ舟に乗ろうと、水際の方に逃げるだろう。ああ、身分の高い大将軍と一対一で組み合いたい」と言って、磯の方へ馬を進めているところに、練貫に鶴の刺繍をした直垂に、萌黄匂の鎧を着て、鍬形うった甲の緒を締め、黄金づくりの太刀を腰に差し、切斑の矢を負い、滋籐の弓を持って、連銭葦毛の馬に黄覆輪の鞍おいて乗っている武者が一騎、沖にいる舟を目がけて、海にざっと馬を乗り入れ、岸から55~66メートルぐらい馬を泳がせているので、熊谷は「おぉ、大将軍とお見受けした。卑怯にも敵にうしろをお見せになるか。お戻りください」と扇をあげてまねいたところ、その武者は招かれて戻ってくる。

たとえるなら、アルマーニの甲冑を身につけ、金ぴかの太刀に、金ぴかの鞍、ひとめで大将軍▼とわかる武者を、源氏方の武士熊谷直実が見つけます。当時の侍たちは成果主義でポイント制ですから、名のある武者を討ち取ることを目ざしていました。大将軍を一対一で討ち取ったらポイント何倍?

 平家軍なら、平清盛の子や孫、兄弟や兄弟の子どもたち、つまり平家一門の公達が大将軍と呼ばれます。武力に秀でているから大将軍というわけではありません。

上にあげた平家物語「敦盛最期」の文章には、敦盛の気持ちも、熊谷直実の気持ちも具体的に書かれていません。でも場面描写を読むだけで、この時二人がそれぞれどんなことを考えていたのか、わかるような気がしませんか。遠浅の浜ではあるけれど、55~66メートルぐらい離れていたにもかかわらず、熊谷の呼びかけに応じて戻っていく敦盛の気持ちを想像してみてください。

また、この時の熊谷の気持ちは、捕らえた敦盛を見て、そして直接言葉を交わすことで、大きく変化します。見どころ聴きどころです!

◎熊谷直実Aと熊谷直実Bについて書きました。AもBも同一人物です。→熊谷直実!
◎平家物語「敦盛最期」の原文と現代語訳は、こちらから閲覧とダウンロードができます

義経腰掛けの松

たしかに古そうな松が、屋根に守られています。

池のほとりに、小さなホームベース形の石碑があるのが見えますか。

敦盛卿首洗池と書いています。須磨寺には敦盛の首塚があるのでした。

須磨寺にある敦盛のお墓は首塚、須磨浦公園にあるお墓は胴塚だそうです。

いやー、須磨寺はすごかった。誤解のないよう書いておきますが、いい意味で源平テーマパークでした。宝物館には、敦盛が腰にさしていた小枝(青葉の笛)、敦盛公像、一の谷合戦屏風。ユニークなものとしては、一ノ谷合戦の様子を小石人形が再現する動く展示があります。急な崖を馬が次々と下りてきたり、源氏の白旗と平家の赤旗が動く中、敦盛小石人形がクルッと向きをかえて熊谷小石人形のほうにすすんだりと、これがよくできているんですよ。ぜひ須磨寺でご覧下さい。

源平の庭で須磨名物敦盛だんごを食べて、須磨寺駅に戻ります。

さらばじゃ!

平重衡とらわれの遺跡

須磨寺駅の改札を出たすぐのところに平重衡とらわれの遺跡の碑があります。重衡はここで生け捕りにされたあと、鎌倉に送られ、さらに奈良に送られて処刑されました。東大寺の大仏が焼け落ちた、奈良の僧たちとの戦いの大将軍だったからです。

平家物語~語りと弦で聴く~滅亡の焔~ 上演章段、奈良炎上・入道死去・千手前 舞台映像を無料公開中。男前な平重衡が登場します。

平通盛と小宰相

山陽電車須磨寺駅から新開地駅まで移動します。乗車時間は12分間。新開地は旧湊川を埋め立てた跡地だそうです。平通盛は湊川(旧)の川下で討たれました。

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越前三位通盛卿は、山手の大将軍にておはしけるが、その日の装束には赤地の錦の直垂に、唐綾からあやおどしの鎧着て、黄河原毛きかわらげなる馬に白覆輪しろぶくりんの鞍おいて乗り給へり。内甲うちかぶとを射させて、かたきにおしへだてられ、おとと能登殿には離れ給ひぬ。しづかならん所にて自害せんとて、東にむかっておち給ふ程に、かたき七騎がなかに取りこめられて、つひに討たれ給ひぬ。(巻九 落足)

越前三位通盛卿は、山手の大将軍でいらっしゃったが、その日の装束は赤地の錦の直垂に、唐綾威の鎧を着て、黄河原毛の馬に白覆輪の鞍をおいて乗っておられる。甲の内側を射られ、敵に間に入られ、弟の能登殿教経と離れてしまった。静かなところで自害しようと思って、東にむかって逃げているときに、七騎の敵に囲まれて、ついに討たれてしまった。

『平家物語』のお話。一ノ谷合戦の前日、山の手から攻めてくるであろう源義経に備えて、平宗盛は能登殿(教経)に山の手の守りを依頼、能登殿は兄の通盛とともに向かいます。通盛はその夜、妻の小宰相を呼び寄せて名残を惜しんでいましたが、それを見つけた弟の能登殿に怒られ、いそいで小宰相を帰します。邪魔しないでよ弟のくせに、とは言わないんだろうな、小宰相は。

願成寺

新開地駅から山の方に歩いていくと、願成寺があります。

観光地化されていないお寺ですが、境内に平通盛と小宰相のお墓があります。

今もお参りする人がいるんですね。あ、私たちも。

C願成寺の場所を地図で確かめましょう。山の方に行くと鵯越があります。通盛は、山手の守りをかためるため陣におもむき、妻を呼びよせて弟に怒られ、戦さで敗走して、5新開地駅のあたり、旧湊川の川下で討ち死に。この近辺には、雪見御所の遺跡や、通盛、教経の弟の平業盛の碑、さらに海の方にいくと清盛塚など、たくさんの史跡がありますが、歩きすぎて足が痛くなってきたので、三宮駅にもどります。

①新神戸駅 ②阪神三宮駅 ③須磨浦公園駅 ④須磨寺駅 ⑤新開地駅 ⑥ジャンボフェリーターミナル

夜の海を行く

愛する通盛が湊川の川下で戦死したとの知らせに、一ノ谷から屋島に向かう船の中で、ショックのあまり起き上がれなくなってしまった小宰相。明ければ2月14日という真夜中、屋島まであと1日という距離で、海に身を投げます。

ジャンボフエリー

うしろは宮崎に行くフエリー

神戸から、屋島がある高松に行く、ジャンボフエリーの時刻表をみると、4便が24時に高松着。これが体験ツアーにぴったり(もちろん海には飛び込まない)。三宮から連絡バスでフエリーターミナルに行きました。

2022年4月18日現在

ジャンボフエリーの公式ページ には大きく【神戸ーうどん ニャンコフェリー】とあります。あー、うどん(香川)県高松のわら家のうどん食べに行きたいニャ、いえいえそれはなりません、明日は時間がないニャ(葛藤するわたしの心の声)

船内にあった航路図

いと大きやかなる船なりき。

りつりん2 3664トン 全長115.91m  幅20.00m  航海速力18.5ノット (wikipediaによる)

屋島が見えてきた

屋島が見えてきました。暗い海です。

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北の方やはら舟ばたへおき出でて、漫々たる海上かいしょうなれば、いづちを西とは知らねども、月の入るさの山の端をそなたの空とや思はれけん、しづかに念仏し給へば、沖の白洲に鳴く千鳥、天のとわたる梶の音、折からあはれやまさりけん、しのび声に念仏百返ばかり唱へ給ひて、「南無西方極楽世界教主、弥陀如来、本願あやまたず浄土へみちびき給ひつつ、あかで別れし妹背いもせのなからへ必ず一つはちすに迎へ給へ」と、泣く泣くはるかにかきくどき、「南無」と唱ふる声ともに、海にぞ沈み給ひける。

北の方はそっと船端に出て、広い海の上なので、どちらが西かもわからないけれど、月がしずんでいこうとする山の端を、西の空とおもったのだろう、静かに念仏なさると、沖の白州に鳴く千鳥、天の門わたる梶の音、今だからこそ味わい深いのか、小さな声で念仏を百返ほど唱えて「南無西方極楽世界教主、弥陀如来、きっと願いどおりに浄土に導びき、いとしい夫とともに、かならず同じ蓮に迎えてください」と泣く泣く遠くにむかって呼びかけ、「南無」と唱える声とともに、海に沈んでいった。

屋島から見た夕焼け。通盛と屋島で暮らしていたころ、小宰相は西方浄土を思って、このような景色を見ていたのでしょうか。

撮影 kayano yukiko

今回は静かに終わります。

◎平家都落に同行した小宰相が屋島沖で身を投げるまでのこと→逃げ惑う人々、そして「小宰相身投」

つづきは 平家物語の「舞台」を巡る旅➂ 「壇浦合戦」「先帝身投」編


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