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『平家物語』~熊谷直実!~

誕生寺=法力房蓮生(熊谷直実の法名)が、法然上人が誕生した屋敷を寺にしました。岡山県久米南町にあります

熊谷直実に注目

『平家物語』の人気章段のひとつ「敦盛最期」。「とくとく頸をとれ」と十七歳で死んでいった平敦盛、息子と同じ年頃の美しい若武者の命を、自らの手で奪うことに煩悶はんもんする熊谷直実。涙無しには聴けない章段です。

熊谷直実はのちに法然上人のもとで出家しますが、『平家物語』には平敦盛を捕らえる前の、熊谷直実も描かれています。「敦盛最期」より前の熊谷Bの姿は、「敦盛最期」の熊谷Aしか読んだことのない人には、ちょっと意外かもしれません。

くまがい-なおざね〔-なほざね〕【熊谷直実】
[1141~1208]鎌倉初期の武将。武蔵国熊谷の人。はじめ平知盛に仕えたが、のち源頼朝に仕え、一ノ谷の戦いで平敦盛を討った話は有名。建久3年(1192)所領争いに敗れ、自ら髪を切って法然の門に入り、蓮生れんじょうと名のった。

デジタル大辞泉

一ノ谷合戦前夜

源氏の侍大将、熊谷直実(熊谷B)は息子の小二郎直家とともに、一ノ谷の城郭への一番乗りを狙って、味方にも気づかれないように西の木戸口に近づいていました。

あたりは漆黒の闇、熊谷直実は、自分たち以外にもこのあたりに潜んで夜明けを待つ味方の者がいるかもしれないから、とりあえず名のるぞと、大声で叫びます。「武蔵国の住人、熊谷次郎直実、子息小二郎直家、一ノ谷に一番乗りだ」(言ったもん勝ち?) 真夜中なので平家方はこれを無視。

そのうち味方の平山季重もやってきて熊谷直実にたずねます。「熊谷殿はいつからここに?」「日が暮れたころ〈宵〉から」(着いたのは深夜だから、これはうそ)

1184年(寿永三)2月7日。東の空が明るくなった頃、熊谷直実は、味方の平山の前で再度名のっておくかと「以前も名のったが、武蔵国の住人、熊谷次郎直実、子息小二郎直家が一谷に一番乗りだ、われと思わん平家の侍どもはおれにかかってこい」と叫びます。夜が明けたので、平家方も「さぁて、夜通し名のっている熊谷親子を引っ捕らえてくるかぁ」と木戸から出て来ました。一ノ谷合戦の始まりです。

熊谷直実は、平家の有名な武将たちを名指しして戦いを挑みますが、あまりの勢いに圧倒された武将たちは、勝負を避けて途中で引き返します。なお、この時息子の小二郎が左の腕を射られて軽傷を負いました。

なにがなんでも先陣

すこし時間を遡って、2月4日午前7時。源義経の軍勢が京を出立。山側の丹波路を二倍速、つまり2日かかる距離を1日で進み、そのまま三草山に陣をとる平家に夜討をかけて勝利します(巻九 三草合戦)。6日の明け方、義経は軍勢を一ノ谷の城郭の西から攻める部隊と、坂を駆け下って背後から攻める部隊〔搦手からめて〕の二手に分けます。一ノ谷を西から攻める部隊は土肥実平が指揮を任されました。

熊谷直実は、搦手の坂落部隊に入っていましたが……。

【現代語訳】
(2月)6日の夜中ごろまでは、熊谷、平山は搦手の部隊にいた。熊谷二郎直実は、息子の小二郎直家を呼んで「搦手は、大勢で険しい崖を駆け下りるから、誰が一番ということもないはずだ。よおーし俺たちは、これから土肥実平が向かった播磨路に行って、一ノ谷に一番乗りをするぞ」

六日の夜半ばかりまでは、熊谷、平山搦手にぞ候ひける。熊谷二郎、子息の小二郎を呼うで言ひけるは、「この手は、悪所を落とさんずる時に、誰先といふこともあるまじ。いざうれ、これより土肥が承って向かうたる播磨路へ向かうて、一の谷の真っ先駆けう」

巻九 一二之懸

どうやら義経の命令を無視して、ひそかに海側におりて、一ノ谷の西の木戸に向かったようです。相談したわけでもないのに、平山も同じように考えていたというのは、おもしろいところです。とにかく一番乗りして手柄をたてる、東国武士にはそれが大事。

兵庫県立歴史博物館>デジタルミュージアム>絵解き 源平合戦図屏風
地図:源氏方の進路
地図:生田森・一の谷周辺

熊谷直実が捕らえた武者は

一ノ谷合戦の勝負はたちまち決しました。熊谷直実は、大手柄を期待して、大将軍と一対一で組み合おうと考え、敗走する平家の公達きんだちを追います。*大将軍になるのは平家一門の子息(公達)

一目で高級品だとわかる甲冑を着て、助け船に乗ろうと馬を海に乗り入れ、沖合い五六段(55~66メートル)ぐらいのところにいる武者を見つけた熊谷直実は、「あはれ大将軍とこそ見参らせ候へ。まさなうも敵にうしろを見せさせ給ふものかな。かへさせ給へ」と呼びかけます。

「まさなう」の終止形は「まさなし(正無し)」。古典単語は適切な漢字をあてると意味がはっきりする例が多いのですが、「まさなし」も直訳すると”正しく無い”という意味です。つまり、「敵に背中をみせて逃げ出すのは大将軍のふるまいとして”正しく無い”ですよ」と熊谷直実は呼びかけました。

武者は、熊谷直実の呼びかけに応えて水際に戻ってきます。(敦盛君!そのまま逃げて!戻っちゃだめ!と叫びたい)

なんとかしてお助けしたい

熊谷直実はたちまち武者を組み敷いて、頸を取ろうとしますが、かぶとを押し上げてみると、息子の小二郎と同じ年頃の美しい若者でした。――ここで熊谷Bは熊谷Aに変わる。

【現代語訳】
この人一人をたとえ討ち取ったとしても、負けるはずの戦さに勝てるはずもない。たとえ討ち取らなくても、勝つはずの戦さに負けることはよもやあるまい。息子の小次郎がちょっとしたけがをしても、おれは胸が苦しかったのだ、この殿の父は、息子が討たれたと聞いて、どれほどお嘆きになるだろうか。なんとかしてお助けしたい。

この人一人討ち奉ったりとも、負くべきいくさに勝つべきやうもなし。また討ち奉らずとも、勝つべきいくさに負くる事もよもあらじ。小次郎がうす手負うたるをだに、直実は心苦しうこそ思ふに、この殿の父、討たれぬと聞いて、いかばかりか嘆き給はんずらん。あはれたすけ奉らばや

巻九 敦盛最期

後ろを振り向くと、雲霞の如く押し寄せてくる源氏の軍勢。助けたいのに助けられない、自分の手で頸を斬るしかないのか、熊谷直実の心の葛藤を、『平家物語』は短い言葉でたたみかけるように描写します。

美しい若武者の名前は平敦盛。十七歳の若者が、前途を悲観して逃げるのをやめ、ここで死んでしまおうとするのも悲しい。

熊谷直実が「ああ、弓矢をとる身ほど情けないものはない。武芸の家に生れていなければ、このようなつらい目にあわずにすんだのに。おれは非情にも討ち取ってしまった」と慟哭するのも悲しい。

ただ一つの救いは、熊谷直実に他人の痛みや苦しみを、自分のことのように思いやることができる心があったことでしょうか。

熊谷Aも熊谷Bも、全部あわせて熊谷直実です。でも手柄を立てることに邁進する熊谷Bの姿を知ることで、一の谷の戦いで平敦盛の頸を斬ったことが、熊谷直実の人生を変える大きな出来事だったということがはっきりと理解できます。

#わたしの本棚   『平家物語』新編日本古典文学全集 小学館

敦盛最期の原文と現代語訳はこちらから閲覧とダウンロードが可能です。


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