見出し画像

絵画を値切って買ってしまった後悔の話


 居間の壁に、絵画を一枚だけ飾っている。俺が購入した生涯初めての、そして現在に至るまで、所持している唯一の美術品だ。
 黒色と金色の顔料を主とし、日本画の様式で描かれたその作品は、ラオスの夜を描いた風景画だ。何もかもが溶けてしまいそうな夜空の元で、椰子やしの木と上座部じょうざぶ仏教の寺院が燦然と輝いている。どこか超現実的で陶然としてしまうような魅力を放つ作品を、俺は「美しい」という安直な一言だけで総括したくはない。


 作品の創造主は、以前から懇意にしていた後輩だ。彼は美大を卒業したのち画家としての活動を初め、創作業だけで完全に生計を立てている。更には絶え間なく新作を産み出し様々な賞を獲り続けており、平凡な自営業者の俺にとっては雲の上の存在と言える。
 このように到底交わりそうにない彼と俺は、彼の作風と俺の嗜好の一致を知った共通の友人を介して親交を持った。
 彼の作風は、アジア諸国を旅してフィールドワークしつつ、目にした壮麗な景色や交流した人々の姿から得たインスピレーションを基にして、日本画の様式に落とし込む……というものだ。
 一方の俺は大学に在籍していた六年間の夏、ほぼ毎年のようにアジア諸国を巡っていた。主目的は遺跡巡りだったが、先輩のフィールドワークを手伝った経験も一度だけある。話題の共通項となりうる出来事を、意図せず俺は経験していたらしい。


 摩訶不思議な食べ物、心踊るような秘境、日本では到底ありえない衛生状態のお手洗い、体調不良の経験談……等々。俺たちは時折顔を合わせては、それぞれが訪れた土地の話題に花を咲かせた。とはいえ、彼の方が俺よりも「旅人レベル」は圧倒的に高く、言語の壁さえもすり抜けて、いかなる土地でも暮らしていけるのではないか?と思えるほどの順応力を持っているようだった。また、持ち前の感受性による異文化の捉え方は興味深く、歳下ながらも敬服するばかりだった。


 さて、約十年前のある日。まだ駆け出し時代の彼から個展の案内を受け、俺は雑居ビルに居を構えた画廊に立ち寄った。彼はおろか画家の個展を訪れること自体が初めてで、さながら美術展を見に行くような感覚だった。
 受付で彼との挨拶を済ませると、俺は画廊を見渡した。中国。モンゴル。インド。タイ。ラオス。様々な土地の空と大地、そこに息づく命。一分足らずで全ての作品を眺めてしまえそうな狭い空間には、彼が巡ってきた世界、いや、彼が生きる世界そのものが、キャンバスという窓越しに広がっていた。
 やがて、靴音だけが響き渡る画廊の片隅で、俺は足を止めた。
 冒頭で述べた絵が俺の心を射抜き、視界を支配した。


 個展は作品を売る場だ、と承知はしていた。とはいえ、俺は「気に入った作品を買う」との発想には至らなかった。美術館の展示物のように個展で見れば満足するものだと捉え、そのまま真っ直ぐ帰路に就いた。
 曇りがかった東京の夜空はビル群の灯りで黄色く染まり、行く道に潜むはずの暗闇は街灯と自動販売機に追い払われていた。そんな見飽きた日常風景を脳内で塗り潰したのは、つい先ほど目を奪われた、非日常的かつ幻想的なラオスの夜の光景だった。
 もう一度、あの作品を生で見たい。
 鑑賞の余韻に浸るうち、俺はようやく気が付いた。美術館の常設展に展示さている作品は基本的に無くならず、時間さえあれば常に鑑賞できる。しかし、今回のような「売り物となっている一点物の作品」は、買い手が見つかってしまえば、恐らく永久に見る機会を失う。
 そして、余韻に浸れば浸るほど、タイトルの下に付された数字──十万円という価格が、作品同様に俺の心から張り付いて離れなくなった。

 一ヶ月ほど経った後。彼と顔を合わせた俺は、改めてラオスの夜に魅了された本心を、面と向かって告げた。自作が鑑賞者の琴線に触れたことを、彼は素直に喜んでくれていたように感じられた。
 会話の流れの中で、くだんの作品が売れ残っている事実を知った。俺が作品を手中に収められるチャンスは、まだ消えていなかった。とはいえ、十万円という価格は、展示されていた作品群の中では比較的安価な部類だが、即決で購入を決められる金額ではない。社会人になりたての約十年前なら尚更だ。
 興味は抱いているが、金銭面での引っ掛かりを感じてもいる。そうした俺の心中を察したのか、彼はごく自然に告げた。

「値引きします。言い値で売りますよ」

 言い値で、あの絵が俺のものになる。俺にとって都合の良すぎる言葉に一瞬狼狽うろたえながらも、非常に有り難い申し出であることは確かだった。
 かつてネパール・カトマンズの土産物屋でレプリカ仏具の値下げ交渉をした時を思い出し、恐る恐る告げた。

「それなら……七万円で」

 七万円という金額を提示した理由は、俺自身よく覚えていない。「流石に大幅な値下げは失礼だ」「安くなるならそれに越したことはない」。相反する気持ちと、「三割値下げならキリが良いので問題ないだろう」との無根拠な甘えから発せられた金額だったように思える。
 値下げ額の三万円も、きっと若かりし日の彼にとって、決して安価な金額ではなかったはずだ。このような強引な要望だったにも関わらず、彼は即答した。

「わかりました!」

 交渉成立。いや、商談成立、と言った方が正しいのかもしれない。
 数日後、後輩は俺の家に、絵よりも一回り大きな箱を携えて訪れた。作品を自ら運び入れるばかりか、立派な額縁まで用意してくれていた。詳しい金額は覚えていないが、額縁だけでも一万円近い値段がしたはずだった。事前に用意した封筒には七万円丁度しか入れておらず、せめて額縁代を払わせて欲しいと言ったものの、彼は「おまけだから気になさらず」と固辞した。どこまでも親切な彼に平身低頭しながら、俺は素直に厚意に甘えた。
 かくして、俺は七万円を対価とし、魅惑的なラオスの夜を毎日眺められる権利を手に入れた。


 作品を購入してから、十年近い時が経とうとしている。彼は更なる精力的な活躍を行なっており、壁面を埋め尽くすような大作の買い手も付くようになったらしい。依頼を請け負って絵を描く機会も増えたようだ。今でも個展が開かれる際には差し入れを携えて足を運ぶが、どの作品も異国情緒を表現するだけに留まらず、生命感を覚えるような強さを秘めているような気がしている。日本画家としての彼の飛躍は、美術の素人の俺にも明らかだった。


 そんな飛躍に従って、俺は作品を値切ってしまった過去を、日に日に思い悩むようになった。当時、決して定価の十万円を用意できなかったわけではない。しばらく節制して生活する必要はあったかもしれないが、値切らなければ絶対に手が届かない金額ではなかった。
 欲しい物が安価で手に入ったのだから、むしろ素直に喜べばいいだけかもしれない。だが、その場の勢いで三万円を出し渋ったばかりに、俺は作品と彼の表現者としての価値を貶めてしまったのではないかと、どうしても後悔の念にさいなまれてしまう。
 今なら思える。俺の心を未知のラオスに誘ってくれる素晴らしい一枚には、十万円以上もの価値が存在した。心の底から欲していたのだったのなら、値切りをするべきではなかった。創作物に対して支払う金額は、創作者と作品に対する誠意であった……と。


 ただし、増えたものは後悔に限らない。作品の存在を意識すればするほど、一目惚れをした日よりも思い入れが強くなっている。
 額縁の埃払いはも欠かしていないし、傷まないように湿度が高い場所には飾っていない。どうにか可能な限り作品を後世まで残るよう大切に取り扱い、じっくり眺めてで続けたい。美術の「び」の字も知らないど素人に作品を売ってくれた彼に対する、俺からのせめてもの罪滅ぼしと感謝の証として。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?