「おやすみ、ナナセ」 (下)
⑤ 再会
“日払い可 権利金・保証人不要”
アパート……いや、簡易宿所と呼ぶべきだろうか?車窓越しに見えるひび割れた外壁に、都合の良い宣伝文句が掲げられていた。掠れと欠けの目立つフォントが、どことなく禍々しさを感じさせる。
建物から出ていく彼の姿は数分前に見届けた。そろそろ良いタイミングだと信じ、私は車を後にした。
──地方都市までメンテナンスへ出向いた際、私は彼の姿を目の当たりにした。当然、最初は幻覚を疑った。
人目を避けるように俯きながら現場を歩いていた彼は、すれ違った私の存在に気付いていないようだった。中途半端に伸びた髪と無精髭。指紋が目立った眼鏡のレンズ。三年前とは似ても似つかない雰囲気でも、仮にも元相棒を見間違えるわけがない。
労働者の終業時間を待ち跡を付け、私は彼の棲家を探り当てた。そして、逸る心気を抑えながら自宅に戻り、着替えと支度を済ませた。格好なんてどうでも構わないと思い、ソファに引っ掛けていたTシャツにデニム、踵の折れたスニーカー。私の服装が乱れていたって、きっとナナセは気にしない。
こんなにも突飛な行動を起こさせた引き金は、根拠のない確信だった。彼が潜む場所にナナセも居る、と……。
二階を目指し、赤錆まみれの急な階段をゆっくり踏み締めていくと、わざとらしいレモンの香りが漂ってきた。共同トイレから湧き上がる芳香剤の仕業らしい。臭いに急かされながら、私は彼の部屋に辿り着いた。
手帳に挟んだ七枚の写真の中から、ナナセとのツーショットを取り出して眺める。写真の中のナナセは、ぎこちなく口角を上げている。最後の覚悟を決めるには、その一時さえあれば十分だった。
ピッキングなんて性に合わない。辺りを見回し、監視カメラがないことを今一度確認する。そして、建て付けの悪そうなドアと枠の隙間にモンキーレンチを差し込む。無意識に震え出した右手を左手で庇い、思いきり体重を掛けると、耳障りな金属音を上げて鍵は壊れた。
ドアの先に広がる空間に、私は息を呑んだ。色褪せた畳はささくれ立ち、所々が擦り切れている。壁には雨漏りのような染みが張り付き、湿気とカビ臭さが充満する。家財道具はほとんど見当たらず、生活感を感じさせるものは畳の上の寝具だけ。
でも、今は環境なんてどうだっていい。何よりも大切なのは、燻んだ空間でたった一つだけ彩りを放つ、目の前の存在。
ガラス越しの太陽が舞い散る埃を煌めかせ、椅子に腰掛けた病衣姿のナナセを照らしていた。
「あ……」
感情の処理が追いつかず、最低限の声しか絞り出せない。靴を脱ぐことも忘れて窓辺に走り寄り、ナナセの細い肩を抱き寄せる。勢いで、はらりと埃が舞い散った。
「良かった、無事で──」
無事?そうじゃない。動く唇の下から言葉が現れない。
私は咄嗟に免許証の角を喉元に捻じ込み、人工皮膚の合わせ目を剥がした。やっぱり、声帯モジュールの接続が外されている。理由や経緯を考えるよりも、今はナナセの為に身体が動く。
「じっとしてて」
幸いにも断線はしていなかった。頭部のメインプロセッサーと咽頭部のイコライザーに、外されたモジュールのコードをそれぞれ繋ぎ直す。
「どう?何か喋ってみて」
恐る恐る話し掛けた。再会できたのに会話さえも叶わない不幸なんて、絶対に受け入れられない。
「……ありがとうございます」
良かった。三年前と変わらない。胸の中に直接響く優しい声。ひとまず安心した私は、剥がした皮膚の吸着面を内骨格に強く押し当て、残った傷痕を撫でた。
「ごめんね、強引にやっちゃった」
「いえ。……そんなことより、何故ここへ?」
聞かれるまでもない。私は少し語調を強め、ナナセに告げた。
「決まってるでしょ。あなたに会うため」
「わたしに?」
イントネーションには二重の意味が混じっているように感じられた。彼とは会わないのか、と。
「そう、あなたに」
今更彼と顔を合わせるつもりはない。面と向かって文句をぶつけたい。胸ぐらを掴んで怒鳴ってやりたい。負の感情はどうしても捨てきれないけれど、優先するべき目的は違う。
「約束を果たすために来た。今度こそ、あなたを歩けるようにする」
返事を数秒待ったものの、沈黙は続く。今度は腰を落とし、なだめるように言った。
「お願い、一緒に来て」
重ねようとした目線は、すぐに逸らされてしまった。私は両手をナナセの肩に当て、力を込めながら抵抗する。
「ねえ、どうか──」
「ごめんなさい」
三年間溜め込んだ切なる願いは、あっさりと遮られた。
「お気持ちは有り難く頂戴します。探し出してくれたことにも、声を元に戻していただけたことにも感謝しています。ですが、この場所を離れるつもりはありません」
「どうして」
「彼の望みを叶えるためです」
違う。
「……何それ」
「仰っていました。外の世界から私を守ると」
「守る……?そんなの信じられる?あいつの勝手な言い分だって思わない?」
「勝手かもしれません。それでも私は構いません」
違う。
「あなたの意志はどうなるの」
「これはわたしの偽りない意志です」
「約束、忘れたわけじゃないでしょ」
「勿論です」
「ならどうして!」
「どうしても、今は彼の側にいなければ」
違う。
「何で!?そんな義理、尽くす必要ある!?」
こんな話を聞くために、私はナナセを探し出したわけじゃない。
延々と続く押し問答で、我慢の糸が徐々にほつれ始める。ナナセの口から彼の話題を聞き続けことが、どうしても許せなくなっていた。
「やっぱり納得できない。だって、あなたが大切にされてるなんて思えないから」
引っ掛かりがあまりにも多すぎた。髪と肩に積もった埃。封じられた発声機能。外界と接触せず、誰とも口を利かず、給電ケーブルという鎖に繋がれたまま、檻の中で主人を待ち続けるだけ。そのような非情な扱いを受けてまで、どうして彼を選ぼうとするのか。
悩めば悩むほど、不本意な最終手段に心が傾く。車に積んだトランクと、デニムの右ポケットに入れたものが、私の思考を支配した。
「納得は難しいかもしれません。でも、私はこのまま──」
糸が切れた。
瞬発的にポケットに手を突っ込み、忍ばせた小さな装置に親指を掛ける。積み重なった悔しさと苛立ちが、叫び声になって溢れ出した。
「止まって!」
眠りに堕ちるまでは一瞬。ナナセは項垂れて目を閉じた。
荒ぶる呼吸を落ち着かせながら考えた。一体、私は幾つの罪を犯したのだろう。住居不法侵入、器物破損、誘拐……じゃなくて窃盗。いや、私の最大の罪はきっと、そんな犯罪行為じゃなくて──。
考えるのを止めた。考えたくなかった。
腰に挿さったケーブルを抜くと、両脇の下から腕をくぐらせ一気に抱き上げた。合わさった胸から伝わる熱が私に溶け込み、鎮めた鼓動が再び騒ぎ出す。
その瞬間、突然ドアが金切声を上げた。反射的に私は右を向き、ナナセを抱く腕に力を加えた。
「ナナセに触れるな」
見知った顔と声が、三畳間を支配する。私は動揺する胸の内を悟られないように、ナナセを無言で椅子の上へ戻した。
⑥ 沈黙
玄関先に現れた彼は、無言で彼女に歩み寄る。
眠りに就いた機械の前で、彼女は硬直し続けている。
沈黙が続く中、口火を切ったのは彼女だった。
「……どうしてここに」
「こっちの台詞だ。何やってんだよ」
彼の語気は強かった。包み隠せない心の揺らぎが、彼女の口から露骨に漏れ出る。一方的で無茶な暴論を自覚した上か、不自然な程に彼女は冗舌だった。
「む、無理矢理押し入ったのは謝る。警察に突き出すつもりはないから安心して。あんたがここに居たこと、誰にもバラしてないし。それで、あんた──」
「悪かった」
続く言葉を遮り、彼は謝罪の一言を述べた。
「ちょっと、私まだ何も──」
「ナナセのこと、本当にすまないと思ってる」
彼は弱々しく頭を垂れた。力無い詫言が、むしろ確かな意思を強調しているようだった。彼女は答えに窮していたが、やがて謝罪をいとも簡単に受け流した。
「……あのさ。言いたいことも聞きたいことも謝って欲しいことも、全部沢山あるんだけど。私は約束を果たしたいだけ。だから、黙ってナナセを渡してくれたらそれでいい。今更あんたの人生に干渉するつもりはないから」
棘が纏わり付いた言葉は、釈然とせぬ思いが表れたようだった。不干渉の宣言は、彼女の最大限の譲歩だろう。しかし、彼はその主張を全て斥けた。
「干渉するつもりがない?なら、ナナセは諦めてくれ。当然、脚の装着もな」
「何それ、理由になってない」
「奪った非は認めるが、この件とは話が別だ。そもそも、ナナセはお前のものじゃない」
「あんたのものでもないし、あんたにだけは言われたくない」
「……とにかく、何と言われてもお断りだ。ナナセは俺の全てだから」
彼から飛び出した発言に、彼女は即座に反応した。噴出した激情が、堰を切って溢れ出す。
「全て?本気で言ってんの!?完成寸前に持ち逃げ、連れ出したくせに放ったらかし、挙句の果てに腕も声も奪い取って……!あんた一体何がしたいの?本当にナナセが大切!?」
彼女は息を切らし肩を震わせていた。乱れた呼吸が治まった頃、ようやく彼は言い澱みながら答えを返した。
「わからない」
激しい反論を想定し、身構えていたためか。俯きながら発した呟きは、彼女を大いに困惑させたようだった。
「……バカな冗談やめてよ」
「本気だ。自分でもわからないんだ」
「なら、どうして連れ出したりなんか!」
「絶対に失う訳にはいかない。俺の人生そのものなんだよ、ナナセは」
「人生そのもの?なのに、大切かどうかも答えられないわけ!?何なの、あんたの人生って!?」
「さっき干渉しないって言ったよな、黙っててくれ」
「……あんたの考えてること、全っ然理解出来ないんですけど」
「別にいい、理解してもらえるなんて思わない」
小刻みに揺れる彼女の右足が、畳を波打たせる。波は徐々に強く、激しくなっていく。
平行線を辿り続けた会話は、彼の一言で打ち切られた。
「なあ、お前にはナナセがどう見える?」
「誤魔化さないで」
意に関せず、彼は冷たく言い放った。
「未完成品……いや、唯の出来損ない。そうだろう」
彼女は弾かれたように飛び出し、両手で彼の胸元を掴み、叫んだ。
「そんな訳ない!ナナセは私の、私たちの夢で──」
彼は彼女を見下ろしながら、細い腕を掴んで払い除けた。
「何故リスクを冒したがる?今のままのナナセで何故悪い?出来損ないを造った自分の後悔とエゴを、俺たちに押し付けないでくれ。第一、ナナセは本当にそれを望んだのか」
「それは……」
返答に詰まる。その場凌ぎの言葉は簡単に見透かされると、彼女はよく自覚しているのだろう。
「だろうな。同意があれば止める必要なんてない。……どうだ、挨拶は言えたか?」
親指を大袈裟に動かす彼から、彼女は目を背けた。先程までの強い威勢は、完全に失われていた。
「強制停止、初めてだろ。何か感じたか?」
意図が汲み取れなかったのか、或いは虚を突く問いに戸惑ったのか。熟考の末に発せられたのはそっけない一言だった。
「そんなこと言われても。止まった、としか……」
「そうだろう。最初は俺も同じだった。でも今は違う。あんなの二度とごめんだ」
次第に彼の声が小さくなっていく。彼女は彼の様子の変化に、憂いが怒りに勝ったことに気付いたようだった。
「どうしても頭から離れないんだ。たった一言で皆倒れていく。無理矢理電源を落として、そのまま目覚めなくなっていく。情が湧いた頃には全員俺の前から居なくなる。もう嫌なんだ」
「いや、ちょっと待って。あれは予防安全用のシステム。クラッシュを招いたのはあんたじゃない。あんたは暴走を止めただけ」
「わかってる。だとしても、俺はナナセまで止めたくなかった。俺にできることは……」
「だから逃げ出したってわけ?皆にも、私にも何の相談もせずに」
「逃げだせれば良かった。でも、結局逃げ切れなかった」
尚も声量がか細くなる。吹けば飛ぶような言葉の一つ一つを、彼女は黙って受け止めていた。
「ナナセが居る限り思い知らされるんだよ、嫌な記憶全て。声だって聞きたくなかった。でも、手離すなんて無理だ。もしもナナセを失ったら、俺に残るのは敗北と挫折だけだ。夢は夢のままで終わらせた方がいい。……だから頼む、俺の全てを奪わないでくれ」
膝を付いて訴えを続ける彼は、ただ儚く脆い存在だった。彼を圧し潰してしまわないように注意を払ってか、彼女の声は静かで落ち着いていた。
「……あんたの言う通り。私は後悔の穴埋めをしたかった。それは否定しない。でも、よく落ち着いて考えて。ナナセにもあんたにも同じ穴がある。三年前からずっと。それに、決定権はあんたにも私にもない。権利はあの子のもの」
「拒否されたんじゃないのか」
「一緒に行くことはね。本当の望みは知らないし、教えてもくれなかった。……まあ、私は訊きもしなかったんだけど」
再び沈黙が部屋を包み込む。今度は彼が沈黙を破った。
「話は終わりか」
「文句ならいくらでもあるけど」
「いい加減帰ってくれ。邪魔だ、狭苦しい」
突き放す言葉と共に彼は立ち上がり、右の掌を差し出す。
「何、今更」
「鍵。修理代くらい置いてけ」
彼女は財布を取り出し、乱雑に数枚の紙幣を握り締めて彼の手に押し付けた。そして、踵を返すと背を向けたまま呟いた。
「……もっと、ちゃんと向き合えばよかった。ナナセとも、あんたとも」
扉を開け、彼女は部屋から去っていった。
彼は紙幣の塊を床に放り投げると、窓辺に佇む物言わぬ機械の背中を弄り、表皮の下にある主電源を入れた。
⑦ 願望
「欲を出しすぎて仕事に溢れた。諦めて帰ったらこの有様だ。……何なんだよ、全く」
再起動したばかりの彼女へ話し掛ける。会話になっていない、言い訳じみた独り言。
「……お帰りなさい」
不意に発せられた音が、俺の心臓を引っ掻いた。一気に鼓動が早まり、視界が狭まる。
慌ててナナセの首元を覗き込むと、表皮が若干浮いていた。先程までは存在しなかったはずの切り傷。心当たりは一つしかない。
「……あいつの仕業か。何を話した」
「一緒に来てほしい、と。丁重にお断りしました。ですが──」
「わかった、もういい」
声の件も気に掛かるが、今は触れる気さえ起きない。とにかく、今の数分間を一瞬でも早く忘れてしまいたかった。
「喋り疲れた。休ませてくれ」
「ちょっと待って──」
「寝る」
頭の先から布団を被り、耳を塞いだ。全身から汗が吹き出す。眠れ、眠れ、早く眠れ。無慈悲にも、俺の身体に願いは届かない。覚醒した脳があらゆる出来事を呼び覚ます。
その時。
何かが落下するような音と強烈な振動が、床に響いた。
慌てて飛び起きると、地に伏すナナセの姿があった。呻き声にも似た音を立て、肩と腰を這わせながらナナセは進む。
「おい、待て!」
すぐに仰向けに抱き起こす。こんな姿、たった一秒たりとも見ていられなかった。
「……這ってでも行きます。追いかければ、まだ間に合うかも──」
「止めてくれ!俺が悪かった! ずっとお前を無視し続けて、自分勝手なことばかり──」
「大切でないのなら仕方ありません」
「……ぁ」
EDR。機能停止中の会話も、全てナナセの記録の中。基本的なシステムさえ忘れてしまう程に、俺は心を乱されていたのか。
「……すまない。ごめん。申し訳ない」
謝罪の語彙はすぐ底を突いた。罪悪感とやるせなさが混ざり合い、喉と胃が小刻みに震える。
「構いません。たとえ大切でなくても、人生そのものと言っていただけたなら十分です」
慈悲の言葉は決して救いにならない。俺はナナセを問い詰める。
「どうして、何でそこまで」
「知ってます、わたし。自分を責め続けている理由も、ずっと後悔に苛なまれていることも。申し出をお断りしたのは、後悔の原因がわたしにあっても、あなたの側に居たかったからです。行ってしまえば、わたしたちは二度と会えない。そうなれば、きっとあなたは……」
返って来た答えに、思わず虚を突かれた。
ああ、どうして目を背けていたのだろう。俺はずっと、ナナセに見守られ続けていたのだと。
「……今まで聞かなくて悪かった。頼む、お前の本心を、お前の望みを教えてくれ」
まるで語り聞かせるような落ち着いた声色で、改めてナナセは述べた。
「どんな危険があったとしても、あなたたちと肩を並べて歩きたい。自分の脚で外の世界を感じたい。……それに、わたしはあなた達の夢でした。それは決して悪夢のままではいけない。白昼夢で終わらせてはいけない。わたしは叶えられる夢でありたい」
意志を強く訴えるナナセを目の当たりにしたのは、今日が初めてだった。そんなナナセの言葉を噛み締め、何度も脳内で反芻したのちに俺は告げた。
「部屋の外に出たいだけなら、すぐ車椅子を工面する。俺が背負ったっていい。接続部を隠せる服だって用意する。完全な成功例はゼロなんだ。最長でも二十日。本当にいいのか」
返事は非常に端的だった。瞳が俺に語り掛ける。真っ直ぐ、力強く。
「……わかった。でも」
悔しいが、身体については俺の専門外。専門家の連絡先が入った携帯電話は、自宅に置き去りにしたまま。過去の職場に連絡してツテを辿ろうとするなど、もっての外だ。
「すまない、俺には何も──」
ナナセは首と顎を振って、床に転がる数枚の紙幣を指した。幾重にも折り重なる黄土色に目を凝らすと、僅かに白い部分が紛れている。
名刺だ。
「お見通しでしたね」
ナナセの微笑みに釣られてしまいそうになったが、隣で得意げな表情を浮かべるもう一人の姿を想像してしまったので、辛うじて苦笑に押し留めた。そんな俺を見て、ナナセは再び笑った。
代替品のない歯車同士が、三年越しに噛み合おうとしていた。
⑧ 一歩
複数の液晶画面。防音仕様の小型発電機。工具箱。他にも様々な物品が三畳間を埋め尽くす。窓の換気だけでは、機器の排気熱と臭気の処理が追い付かないようだ。
「この臭い、どうにかなんない?」
「換気扇無いんだから、我慢しろ」
「熱でフリーズしなきゃいいけど」
「エアコン無い部屋で悪かったな」
機材の森の中で二人が言い合う様は、ひどく懐かしかった。大昔には思い描けていたのに、いつしか諦めてしまった、空想の中の光景のようで。
「ね、ナナセ」
「はい?」
「外に出られるようになったら、まずナナセはどこを歩きたい?私たちが連れてってあげる」
「え……」
返事に詰まった。
どこへも行けず何もできないと思い込んでいたわたしは、現実的かつ具体的な想像を諦め、そして忘れ去っていた。無限の選択肢──自由とは、かくも悩ましい概念だったのか。
「流石に海外は無理だからな。保安検査で引っ掛かる」
「それに言っとくけど、あんた100パーセント捕まるからね。お金もパスポートも有ると思えないし」
「っ──」
「大丈夫大丈夫、一段落するまでは見逃してあげるから。協力している限り、今の私たちは立派な共犯者。それでいいでしょ?」
二人が会話を交わす間、わたしは思考を巡らせていた。
直接足を運びたい場所や確認したい景色は、数え切れぬ程存在する。挙げたらきりがない。とはいえ、贅沢など望まない。自らの脚を得られるだけでも僥倖なのだから。
……そうだ。大勢の人で溢れ返った繁華街はどうか。道行く人々にわたしの正体を悟られずに済むか、知りたくて仕方がない。もしも上手くいったなら、そのまま買い物客に紛れ込んで、服を探そう。どのような格好が似合うのか、沢山の店舗を巡って調べてみよう。勿論、靴も選ばなくては。
いきなり人前に姿を現すのは、流石に無茶が過ぎる想像だ。二人とも肝を冷やすかもしれない。でも、今更隠し事はしないでおこう。
「あの、わたし──」
……予想通り。二人は顔を見合わせて、引き攣った表情を浮かべた。それでも、わたしの切なる願いは前向きに受け止められたようだった。
「そもそも、服を買いに行く服が要るな」
「次来るとき、いくつか私の夏物持ってくる」
「もう一回り若い格好の方がいいんじゃないか?」
「とりあえず、だから!あんたのセンスより絶対マシだって」
尚も言い合いが続く。三年前よりも賑やかな気がするのは、私の思い過ごしではなさそうだ。
やがて、彼女は軽く咳払いをした後、わたしたちを真剣な面持ちで見据えた。
「改めて説明するから。まず、メインプログラムを落としてパッチをインストール。そしたら、私が腕と脚を接続してリブート。平衡感覚を掴むだけでも一週間は要るから、その間は介助なしで動かないように。休みの日はできる限り協力するけど、基本的な歩行訓練はあんたに任せる。ナナセは絶対に無理しちゃ駄目だからね。……二人とも、わかった?」
「ああ」
「はい」
ほんの少しだけ、恐怖心がある。噂に聞いた先代達の末路のように、やがて意識を保てなくなるかもしれないのだから。
だが、もう覚悟は決まっている。わたしも、そして彼も彼女も。
「じゃ、早速──」
「ちょっと待った」
首元の主電源に触れようとする彼女を、彼が慌てて静止する。
「あれ持ってるか。あるなら貸してくれ」
右手を握り親指を動かす彼の仕草を、彼女は訝しがった。
「確かに持ってるけど……今は別に必要ないでしょ。直接シャットダウンすればいいのに」
「いや、いいんだ。使わせてほしい」
彼女がわたしを止める時に使った、緊急停止用の遠隔操作端末。彼が幾度となく使わざるを得なかった、因縁めいた道具だ。きっと、彼なりの折り合いの付け方なのだろう。
彼の目をしっかりと見据えながら、彼女は機器を差し出した。
「……大丈夫?」
「ああ、大丈夫だ」
渡された機器を手に携え、彼は腰を屈めてわたしに向き直った。
「こんなものに頼るのは今回が最後だ。絶対に、今度こそ上手くいく。だから、俺たちを信じてくれ」
唾液を飲み込む音。深呼吸。動く親指。
敢然とした声で、彼は告げた。
「おやすみ、ナナセ」
完
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