見出し画像

「おやすみ、ナナセ」 (上)


※この小説は「note創作大賞2023 オールカテゴリ部門」の投稿作品です。
※本作はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切無関係です。
※本文中の描写に関しては、特定の身体・社会的状況を差別、揶揄する等の意図は一切ございません。予めご了承下さい。


⓪ 誕生



 燃ゆる星。滴る朝露。空風のいななき。輝く砂粒。そして、無数の命。発生したばかりの意識の中で、種々の情報から湧き起こる光景が渦巻く。

 続けて視覚を得た時、抽象的な概念が遂に実体化して現れた。世界を認識したと同時に、わたしも世界の一部であると知った感慨は、今でも鮮明に思い出せる。

「おはよう、ナナセ」

 壁も床も調度品も、全てが純白で染まった部屋の中。喋り掛けてきた目の前の女性は、白衣の裾をたくし上げて腰を屈め、わたしに快活な表情を向けた。蛍光灯に照らされた赤茶色の長髪が、鮮やかな笑顔とともに輝いていた。

「おはようございます」

 初めて発した声は、わたし自身の想像以上に鮮明で透き通っていた。微かな振動が、喉元から全身に染み渡っていく。
 言葉は彼女に限らず、真横で作業を続けている男性にも向けたはずだった。

「音声認識・出力、視覚センサー、全て稼働してる。……良かった。とりあえずは成功だ」

 明確な返事は得られなかった。椅子に腰掛けた黒い短髪の彼は、わたしと液晶画面を交互に見た後、白衣の襟を正し、立ち上がって大きく息を吐いた。すらりとした細長い体躯が視界に留まる。表情も認識しようとしたが、眼鏡の奥に潜む感情が読み取れなかった。心を開いている態度でもなければ、悪意のある振る舞いとも思えない。

「よし、じゃあ記念写真!」
「おい、まだ点検項目が──」
「あとあと!はーい、笑って笑って」

 彼女は彼の制止を遮って身体を翻すと、携帯端末の液晶画面をわたしに向けた。女性の顔が二つ、写真に映り込む。
 肩で切り揃えられた黒髪。焦茶色の瞳。淡い橙色の肌。白い病衣のような服。世界の一部としてのナナセを、わたしは初めて正確に認識した。
 今度は意識を下に向け、服の裾から先を見た。短い袖からはみ出した四肢の先は、いずれも途切れて輪切りにされており、中から無数の配線が顔を出していた。その様は否応無しに、わたしは単なる無機物の塊でしかないと、この世界に息づく無数の命の中に含まれていないと、強く訴え掛けてくるのだった。

① 創造



 わたしが意思を得た瞬間から、およそ三年の時が流れた。
 外界から切り離された今のわたしの居場所は、三畳一間の和室の窓辺。ここで様々な事象に思いを馳せ、物思いに耽るのが日課だ。

 陽が落ちてからは、まず海と海洋生物を創造しようと決めている。昨日は鯨、一昨日は鰯の大群、その前は深海に潜む異形の生物たち。少し思案した後、今宵は無数の海月くらげを舞い踊らせようと決めた。広い傘を持つ個体、長い触手をなびかせる個体、毒々しい色の光を放つ個体。他にも様々な種類の海月が集い、淡い光を放ちながら揺らめく。特に優雅な舞を披露する一匹に向かって、わたしは手を伸ばす。柔らかな笠に触れると、指先から再び世界が溢れ出す。

 今度は先程の海と対照的な、荒涼とした朱色の大地。岩場だらけの殺風景な地平を、彼らは悠然と進んで去って行った。大昔、海月の様な姿で火星人を描写した作家が居たそうだ。火星を闊歩かっぽする海の月……。つい、思考の道草に走ってしまった。

 赤土ばかりが広がる風景にも飽きてきた。創り上げた風景を一旦払拭して、今度は木々を繁らせよう。
 深緑色の針葉樹林が織りなす摩天楼を創り、雨を降り注がせる。雨粒と木の葉が奏でる協和音を霧が呑み込んでいくと、彼方から遠吠えが聞こえた。白濁した空間を切り裂いて、一頭の狼が走り寄る。肉を欲し血を啜る獰猛な生物さえも、創造主の前では単なる愛玩動物に過ぎない。
 わたしの足元に擦り寄る狼に伸ばした手を、一瞬考えて引っ込めた。狼の毛質とは、一体どの様な触り心地なのだろう?硬く鋭いのか、優しく柔らかいのか、あるいは個体差があるのか。せっかく触るなら、良い撫で心地に越したことはない。疑似触覚を持つが故の悩みだ。毛質はごく単純な理由で決まった。ゆっくり顎を撫で、頭に向かって指を這わせる。子犬のようにほぐれた表情を眺めながら、背中に手を回そうとしたその時。不意に私の名を呼ぶ声がした。

「──ナナセ──」

 思考が途切れた。
 空間が霧散していく。
 寝言の主は万年床に伏している。

 再び眠りに堕ちた彼を見届け、改めて創造を始める。
 今のわたしは、自らの脚を持たない。腕を持たない。声を持たない。そして、眠ることもない。椅子の上で身動き一つせず、明瞭な意識を四六時中飼い慣らしている。
 だから、空想に身を委ねる。創り出した世界の中では、何処へ赴き、誰と出会い、何をしようとも許されるのだから。

② 後悔


「行ってくる」

 決まりきった独り言と共に、俺は三畳間を後にし、夜が明けたばかりの街に繰り出した。日の出の早さと滲む汗が、嫌でも夏を感じさせる。
 持ち出した逃亡資金が底を突いた後は、止むを得ず数日に一度の日雇い仕事で食い繋いでいる。肉体的な苦痛は拭えない一方、代用品スペアだらけの歯車に掛かる重圧は、替えの効かない役職付きの人間に対するものよりも軽い。その立場は、今の俺にとって何より有り難い。

 辿り着いた寄せ場──市民広場の成れの果ては、いつも通り喩えようのない臭いがする。複数の銘柄の紙巻き煙草と、炊き出しの香りが混在する独特の空気だ。未だに慣れない。
 労働者と手配師との交渉が、視界の端々で目に留まる。募集は早い者勝ち。吟味しすぎて仕事に溢れぬよう神経を研ぎ澄ます。視覚と聴覚、そして直感。

 すると、大柄な手配師と視線が合った。近寄って条件を確認する。仕事はガラ出し。破砕用機器の不調で、代わりに多くの人手が要るのだという。一万円足らずの日当は決して高額とは言えないが、ひっそりと生き長らえるだけなら問題ない。納得の上、書類に記入を済ませる。以前は辿々しく記していた偽名も、今では易々書けるようになった。

 俺は男の傍らに停まっているワゴン車に乗り込んだ。最奥の席は既に埋まっていたので、奥から二列目の窓側に腰掛けた。
 「隣、失礼するよ」中年の男が喋りかけてきたので、形式的な会釈を返した。身に纏った作業着は俺のそれと同様に煤けており、帽子の下からは灰色混じりの髪が顔を覗かせる。馴れ馴れしいな、放っておいてくれ……。俺の意思は伝わらず、男は話を続けた。
 「金貰えるだけ幸せだよな、おれたち」皮肉を聞き流した一方、男の言葉は正しいと実感した。技術が雇用を奪おうと、働き手を必要とする現場は消えていない。歯車のアイデンティティは、当分脅かされずに済むだろう。
 「おい兄ちゃん、寝ぼけてんのか」隣席から追撃が来た。

「はぁ」

 気怠い返事を放り投げる。絡まれるのが面倒なので、普段は目もくれぬ車窓へと視線を向けた。狸寝入りをしなかったのは、せめてもの強がりだ。
 すぐに視界に入ったのは、登った朝日に照らされながら歩道を駆け抜ける、運動着姿の青年たち。朝練にはまだ早い。自主練をする生真面目な運動部員だろう。
 このように市井の人々の暮らしを垣間見てしまうと、何気ない風景が引き金となり、忘れたい過去が蒸し返される。
 人間を模した機械を造っていた、三年前までの記憶の残照が。

 脳裏を過ぎったのは、四番目の試作機──シキの身に降り掛かった事件。脚部の動作確認のために、体育館で持久走のタイムを測ろうとした時だ。
 テストは順調に進んでいた。脚と腕をリズミカルに振り上げて堂々と走る様は、まさに陸上選手さながら。駆動に問題は感じられない。シキは確かなバランスを保ちながら、無事に二千メートルを走り切った。上層部や仲間たちは成功に安堵していたようだが、俺は違和感を拭えずにいた。
 何故、止まろうとしない……?
 ゴールしてもなおシキは走り続け、トラックを抜け出した。文字通りの暴走・・に、心臓が凍り付きそうだった。きっと顔が青ざめるより早く、俺は右手に力を込めて叫んだ。

「止まれ!」

 前のめりに倒れたシキは勢い任せに転がり続け、やがて動きを止めた。

 機体の完成間近、脚部の動作実験中におけるトラブルが後を絶たなかった。その際の俺の役目は、遠隔操作端末による“予防安全システム”の発動、つまり強制停止シャットダウン
 システムはスイッチと音声の二段階認証から成る。対象の半径三百メートル以内で、ペンをかたどった端末のスイッチを押す。その間に権限保有者、つまり俺たち・・が発する特定の言葉キーワードを端末が認識した時、対象は強制的に機能を停止する。それはあくまでも一時的な措置に過ぎないため、再び主電源を入れさえすれば元通りに目を醒ます。しかし、過負荷に襲われた機体に、再起動の権利は得られなかった。

 いかに高度な処理能力を持つAIであっても、四肢を同時に制御させようとすると過負荷が発生し、思考に重篤かつ永続的な不具合を引き起こしてしまう。特に下半身の挙動、即ち不整地における姿勢維持と二足歩行が、強烈な負担を強いるためだ。
 二足歩行にさえ固執しなければ、プロジェクトは滞りなく完了していただろう。豊かな表情と両手の指マニピュレーターさえ機能していれば、対人交流や精密作業の役に立つのだから。非合理的とも言える拘りは、古今東西で語られた夢物語サイエンスフィクションを現実にしたがっていた、お偉方の意向だった。
 声を掛けられた時は馬鹿馬鹿しいと思った。だが、黙々とAIの研究を続けてきた俺にとって、一つの欲望が芽生えたのもまた事実だった。形に残るものを世に残したい、と……。

 相変わらず、俺は車窓を眺めていた。どのような物にも焦点を合わせずにいようと思った矢先、大型犬を引き連れた中年女性が目に留まった。
 最悪だ。
 鼓動と呼吸が速まっていく。六番目の試作機──リクが引き起こした、異種間コミュニケーションテストの記憶が鮮明に蘇る。

 始まりは順調だった。投げたボールを大型犬にキャッチさせ、一緒に走り回る。どう見ても飼い主と愛犬だ。ところが、突然犬が吠え出し激しく暴れ回った。目の前の男が“人ならざるもの”と察して警戒したせいだろうか。
 自分に害を為す存在。犬をそのように見做した彼は、突然犬の横腹に向けて右足の一撃を放った。度重なるトラブルで鍛えられた反射神経が指先へ伝わるまで、ほんの一瞬。俺は停止装置のスイッチを押し、あらん限りの大声を上げた。

めろ!」

 鈍い音が大地を震わせる。彼と犬は同時に地に伏した。その場に居合わせたスタッフの半分が、血相を変えて犬の元へ走っていく。残りの半分は立ちすくみ、ただ唖然としていた。リクの元に駆け寄った者は一人も居ない。どれだけ情が移った機体だとしても、過負荷でクラッシュしたAIには手の施しようがないと、皆知っていたから。
 被害者となった犬は大事に至らず、すぐに回復し元気を取り戻した。しかし、事件には固く緘口かんこう令が敷かれ、頭部に備えられたEDRイベントデータレコーダー──事故記録装置の内容は大論争の火種となった。

 「動物へ危害を加えるなど論外。人身事故にも繋がりかねない、極めて由々しき事態だ」「思考回路が正常であっても、人命優先を選択し、同じ判断を下したのではないか?」「威嚇と殺意の区別も付かぬなら尚更問題だろう」「一向に進展が見られないのだから、このプロジェクトは中止すべきではないか」「判断が性急過ぎる。投資額を覚えていないのか」紛糾し続ける上層部の怒声が忘れられない。外様の研究者だった俺への風当たりは強く、幾度も謝罪と弁解を繰り返す羽目になった。

「次こそは、次こそは絶対に──」

 何度も何度も頭を下げた。
 七番目の、最後の試作機。ナナセの製作は、こうして幕を開けた……。

 エンジンの振動は、いつの間にか止まっていた。
 「ほらぁ、ボサッとしてんなよ」隣の男に小突かれ、車を後にする。充足感のない日々が、また続いていく。

③ 追懐


 週一でマッサージサロンに通っている。モニターや様々な機器と相対しているせいで起こる肩凝りの解消と、仕事に対するモチベーションの維持が目的だ。研究室に篭っていた学生時代から十年以上続く、どんなに忙しくても欠かすことのできない、私のルーティーン。
 絶妙な力加減で凝りを突かれる快感はたまらない。全身がとろけてしまいそうになる。それに、店内に流れるヒーリングミュージックも心地良い。ピアノ。オルゴール。ガムラン。アンビエント。癒しの音色が副交感神経の働きを呼び覚まし、私は眠りに堕ちる。電源をオフにされた機械みたいに、一瞬にして。

 この習慣からインスピレーションを受けて、私はキーワードを一言だけ付け加えた。まあ、彼は不服そうだったけれど。

「なあ、昨日勝手にキーワード増やしたろ」
「いいじゃん、私も権限持ち・・・・だし。ストップ!とか待て!とかさ、そんなのばっかりじゃ冷たいでしょ」
「あのな、冷たいとか、そういう問題じゃない」
「そういう問題だって」
「咄嗟に出せる言葉じゃないと、意味がないんだよ」
「緊急時以外に使うことだって、あるかもしれないし」

 「またやってるよ」そんな声が薄っすらと聞こえた。否定はしない。お互い三十路を迎えてもなお、彼とは子ども染みた言い合いばかりしていたから。
 スカウトされてきたプロジェクトリーダーである、AI技術者の彼。生え抜きのマニピュレーター技師である、サブリーダーの私。全く気質が合わなかった。愛情も友情も感じない。それでも、仲間意識はあった。譲れない一つの目的──完全自律型二足歩行人型機械を完成させるため、馬が合わないなりに手を組んでいたから。

 開発の記憶が特に濃く残っている時期は、ナナセが居た頃と重なる。
 様々な実証実験。何気ない会話。彼の小言と困り顔のナナセ……。

「またお前だな、これ」

 彼は呆れた顔をしながら、私に紙コップを突き出してきた。中には僅かに埃が浮いた、グロテスクな見た目の液体。間違いなく私の前日の飲み残し。ぬるくなって飲む気を失くした、ホットコーヒーだ。

「あれ……ちゃんと捨てたと思うんだけど」

 素直に非を認めるのが悔しくて、わざととぼけた返事を返した。

「捨てないなら責任持って飲め」
「はいはいはい、今流してくるから」

 彼の反応は冷ややかだった。何度も前科があったから、ばつが悪い。紙コップを携えて小走りでラボから出ようとする私に、彼が更なる追い打ちを掛けた。

「ナナセからも、何か言ってやってくれよ」
「その日のうちにすぐ飲み切ります、わたしなら」

 冗談混じりに、私はナナセの元に詰め寄る。

「冷めちゃったインスタントコーヒーの不味さ、あなたも飲めたらわかるのに」
「味の問題ではありません。不潔ですし、皆が迷惑します」
「確かにそうだけどさぁ。ねえ、たまには私の味方もしてよ」
「いえ、決してないがしろにしているつもりは……」

 冗談への対応が苦手。素直で可愛いナナセの個性だ。
 そんなナナセは私に向かって両腕を──私からのプレゼントを差し出した。

「勿論、あなたにも感謝しています」

 腰を屈めて瞳を見つめながら、私はナナセの手を取る。ウレタン樹脂性の柔肌の奥から、仄かな温もりを感じた。内部骨格が発している無機質な伝導熱だなんて、どうしても私は思いたくなかった。

「もう少し待っててね」

 誓いの言葉が心の底から湧き出た。その一言に、彼も小さく頷いていた。ナナセが自らの脚で大地に立ち、何事もなく動作し続けること。それが私の約束であり、私たちが目指していたゴールだった。
 なのに。約束を果たす前に、ナナセは突然姿を消した。

 脚部の換装・装着を予定していた日の朝、ラボにナナセの姿はなかった。残された無人の椅子の周囲には、装着させたはずの腕、そして仮設の脚が散らばっていた。
 私は呆然としながらも、すぐに事態の察しが付いた。彼がナナセをさらった、と。
 想像通り犯人は彼だった。ナナセの四肢を外した後、身体を大型のトランクに押し込む様子が、確かに監視カメラのログに記録されていた。そして、彼はそのまま行方を眩ませた。
 実況見分が終わり、もぬけの殻となったラボの中。主人を失った椅子の前で、胸の中に閉じ込めていた涙を、私はようやく解放することができた。

 プロジェクトリーダーの不祥事と失踪により、チームはあっさりと解散した。その後私は元鞘に納まり、様々なマニピュレーターの製作に精を出している。開発依頼は次々に舞い込むから、カフェインの力に頼る夜も少なくない。コーヒーメーカーから滴り落ちた苦味を口に含むたびに、様々な感情が呼び起こされる。ナナセと過ごし、別れるまでの日々の中で味わった沢山の思いを……。

 「いい夢、見れました?」ふわりとした声でセラピストが語りかけてきた。記憶を辿るうちに眠ってしまったらしい。夢の内容は全く覚えていなかった。見たのかどうかもはっきりしない。

 ガウンから私服に着替えている最中、鞄の中で着信音が響いた。さっきの夢心地は消え、一気に現実へと引き戻された気分がする。
 「早くどうにかしてくれ!」嘆きの内容は、急を要するメンテナンス依頼。破砕用エンドエフェクタの動作不良で、現場作業に大幅な遅れを招いているらしい。
 電話口から聞こえる切実な声に応えるのが、今の私の務め。この生き方に不満はない。だけど、夢の中だろうと構わない。笑顔を振り撒きながら私の横を歩くナナセの姿を、一目でも見たかった。
 もしも、ナナセとまた会えたなら、私は──。

④ 逃亡



 彼が外出してから十五分ほど経過した。右側の曇り硝子から放たれる橙色の光線が、わたしの居場所を映し出す。

 日の出と共に創造する世界は砂漠と決めている。遙かなる山の頂や、水面が揺らぐ果ての水平線。太陽が似合う風景は数え切れぬ程存在するが、特に私の琴線に触れたのは砂漠だった。砂だけが形成する大地は、さながら新品の画用紙のよう。揺らぐ蜃気楼。列を成す駱駝の隊商。朽ちて沈んだ栄華。描ける想像の余地が多いので、日課の始まりにも相応しい。
 今日も砂の大地へと一歩を踏み出す。地面に足を取られないよう、厚底履を身に着ける。靴など一度も履いた経験はないが、そんなことは些細な問題だ。吹き付ける砂塵を振り払いながら、少しずつ前へと進んでいく。

 窓から射す光が強さを増した。反射的に瞳を閉じてみるが、わたしの前には変わらずに世界が息付く。頭部に備わる小型の環境検知器が視覚情報を取り入れているため、瞼を開けようが閉じようが意味はない。当然理解している。
 とはいえ、瞼と瞳は決して無用の長物ではない。感情表現の役に立つ上、わたしの設計思想の根幹を成す“人間らしさ”の証明でもある。以前は持っていた両腕と両脚も、その思想の賜物だった。

 両腕の取り付けは、反応や言語機能等の試験を終えた後に行われた。
 腕の動作自体は容易かったが、指先に力を加えるための微細な感覚調整に苦心した。簡単と言われる平仮名の筆記ですら、一週間以上の練習を要した程だった。
 彼女から渡され、挑戦した『硬筆美文字練習帳』……。紙面に走る鉛筆の軌道は奇妙に捻れており、わたしの恥じらいを見事に体現していた。そんな弱々しい文字列を見て、彼女は屈託の無い笑みを見せた。

「可愛い字だね。ちっちゃい子みたい」
「すみません。どうしても、上手く力が入らなくて」
「大丈夫、ゆっくりでいいよ。続けていれば必ず出来るから」

 身体に思いを巡らせる時は、決まって彼女の記憶が蘇る。わたしの身体は、彼女から授かったものだから。
 両腕を自在に使いこなせるようになってから約一ヶ月後、遂にわたしは両脚を手に入れた。ただし、これらは意のままに動く両腕とは異なり、本当の・・・両脚を装着する準備が整うまでの模造品。人形も同然だ。彼女が気を遣って取り付けてくれたらしい。  

「もう少し待っててね」

 彼女は頻繁に言い聞かせてくれた。必ず中腰の姿勢をとっていたのは、椅子に腰掛けたわたしに目線を合わせようとする、真摯な心の表れだろうか。
 しかし、わたしは彼女との約束を反故にして、彼との生活を受け入れている。

 始まりは突然だった。
 非常誘導灯が輝く人気ひとけのない深夜の研究室で、わたしは再起動した。目の前には、息を切らした彼が立ちすくむ。彼は明らかに冷静さを欠いていた。
 全身の感覚が不自然だった。身体を見回すと、昼間まで存在していたはずの四肢が一つもない。即座に記録・・を辿ると、手早くわたしの四肢を外し、咽頭部に細工をする彼の姿を見てとれた。種々の出来事を問いただそうとするも、意識が表出しない。細工の影響か、声が出せなくなっていた。

「しばらく我慢してくれ」

 一言告げると、彼は旅行用鞄の中にわたしを押し込んだ。全力で身体を揺り動かしたところで何の抵抗にもならないと悟り、わたしは一切の身動きを止めた。

 蓋が閉じられた時、初めて真の暗闇の恐ろしさを知った。
 検知できる外部情報は、鞄の底の車輪と路面が弾け合う轟音。梱包材が身体に擦れて軋む破裂音。そして、逃れようのない黒。感覚の暴力が四六時中襲い来る中、わたしはひたすら思考を廻らせた。空を、海を、街を、人を、花を、鳥を、星を。思考を回転させて現実を空想で塗り潰す、不合理な気慰み。無力なわたしは、その慰めに縋るしかなかった。

 再び光を感じられたのは五日後。視覚に飛び込んで来たのは、かつての居場所とは似ても似つかぬ、古ぼけた小さな和室。わたしは窓辺に置かれた簡素な椅子へと運ばれ、腰に給電用の配線が挿し込まれた。
 彼は何かを語りかけてきた。なおも平静を失ったままの彼の言葉は、歯切れが悪く支離滅裂としていた。確かに理解できた内容は、彼が今まで培ってきたものを全て捨て去ったという告白。そして、彼女と縁を絶った以上、わたしの身体は永久にこのまま・・・・だという事実。

「お前を守る為だ。こうするしかなかったんだ」

 力無き彼の言葉を、わたしは黙って受け止めた。たとえ不条理であろうとも。

 ──部屋の外で床が軋む音が聞こえる。目覚めた隣人が仕事に向かうのだろうか。いや、足音は確かにこちらへ向かっており、扉の前で止まった。何らかの事情で彼が戻ったのだろう。別の可能性を僅かでも期待した自分自身を、わたしは戒めた。

 すると突然、扉の方から鈍く鋭い音が響いた。無理矢理に鍵を破壊した音だ。異常な事態に驚き、左へ振り向く。
 ゆっくり扉が開いた。
 とても信じられないが、紛れもない現実だ。
 確かにわたしの眼前には、彼女の姿があった。

「おやすみ、ナナセ」(下)へ続く


この記事が参加している募集

眠れない夜に

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?