初めて落涙した映画体験─ 名作ジブリ映画「On Your Mark」2023年再上映
●初めての涙
約1600本の映画を観てきた31年間。その生涯の中で、涙を流した鑑賞体験は初めてだった。
決して大袈裟でも法螺でもない。俺はノンフィクションを書く際、“感情を盛らない、捻じ曲げない”と心掛けている。このスタンスと本稿で語る出来事を、どうか皆様に信じてほしい。
2023年2月中旬、イオンシネマ シアタス調布──。スタジオジブリ・宮崎駿監督の傑作「On Your Mark」が、28年振りに映画館で上映された。より詳しく言うなれば、「耳をすませば」再上映企画の同時上映との呼び方が正しい。公開当時(1995年)の形態が完全再現された、という訳だ。
念願の再上映企画。喜び勇み、足を運んだ劇場。スクリーンが輝きを放つ巨大な筺の中、俺は人知れず涙を流した。
●俺と「On Your Mark」
「On Your Mark」。それはCHAGE&ASKAの同名楽曲に併せて作られた、僅か6分48秒の短編作品。地上が放射能に汚染されたディストピア世界を舞台に、2人の警官と翼の生えた少女の逃避行を描いたSF活劇である。キャラクターの台詞は一切存在しない上、“ループもの”や“虚構と現実の曖昧さ”を匂わせる意味深な描写が多く、宮崎駿監督の作品群の中でも特に難解な映画と言えよう。
「On Your Mark」の鑑賞は、決してこの度の企画が初めてではない。2005年に日本テレビで「猫の恩返し」とともに放映された際、中学生だった俺は本作を目にしている。
伸びやかな歌声に合わせて映し出されていたのは、不気味な世界観。スピーディーかつ高密度のアクション。無言でも伝わる相棒同士の絆。そしてミステリアスな少女──。魅惑の約7分間。
自分より一回り以上も歳をとった男性達が主人公であったためか、解釈を委ねる要素が多いからか、素直にハッピーともバッドともとれない結末のせいか(当時は“トゥルーエンド”という概念を知らなかった)。本作は俺の幼心に、他のジブリ作品よりも格段に大人な雰囲気を漂わせる作品として印象に焼き付いた。後に「風立ちぬ」が公開され、その印象は上書きされることになるのだが……それはまた別の話。
ちなみにこの鑑賞時、俺は涙を流していない。
以降は長らく本作を観る機会に恵まれず、“非常に面白い映画”との曖昧模糊とした印象だけが、断片的に俺の記憶領域に張り付いていた。
そんな中で巡ってきた今回の企画。逃す訳にはいかない。そもそもブルーレイを購入すればいつでも本作を鑑賞できるが、非リアルタイム世代の俺は再上映への憧れを捨てきれない。また「風の谷のナウシカ」「千と千尋の神隠し」が再上映される機会は今後もあると思われるが、本作の優先順位はそれらよりも確実に低いだろう。この好機を逃せば、あと10年……いや、20年待っても“次”は訪れないかもしれない。
「チケットを取れ!」
脳から電気信号が発せられる。しかし、予約開始の情報を知った時点で希望日の座席は8〜9割埋まっていた。迂闊……。勿論「耳をすませば」目当ての方も多かったのだろう。いずれにせよ、今回の企画の注目度の高さ、そしてジブリファンの熱意を感じたことは言うまでもない。
こうして無事にチケットを確保した俺は、いざ調布へと赴いた。
●念願の再上映鑑賞、そして……
俺は比較的前列の座席に腰掛けた。少々見づらい席となってしまったが、贅沢は言っていられない。周囲には約500人もの老若男女。同志よ。首と共に目線を上げて予告編を眺めながら、俺は皆と共に上映開始を待った。
10分程経ち予告編が終わる。大スクリーン、黄色い背景に黒字で「ジブリ実験劇場」。
高らかなハイトーンボイスのイントロ。放棄された都市。歪な石棺を思わせる巨大建造物。物々しい警察車両。澄み渡る青空。
「On Your Mark」が始まった。
矢継ぎ早に物語が展開していく。摩天楼が妖しく光る地下都市。謎の宗教団体を武力制圧する警察組織。響き渡る銃声の爆音。積み上がる死体の山。施設の奥で鎖に囚われている少女。背には純白の翼。
場面は唐突に転換する。流れる1番サビ。青空の下を走る黄色いオープンカー。主人公に促され、少女は風を纏い、笑顔で空を舞う。
──この瞬間。そう、この瞬間だった。
突然、俺の両方の目尻から大粒の涙が溢れ出た。
この段階では、物語はほぼ進展していない。一般的に涙を誘発する可能性が高い要素──喜怒哀楽を大きく揺さ振られてもいないはず。
困惑した。俺は何故、涙を流しているのだろう……?
これまで観てきた映画の中には、価値観を揺り動かされた作品、幾度も定期的に観返す作品、感想を綴らずにはいられない程に興奮した作品が何十本も存在する。
俺はそれらの映画に対して感動はすれども、不思議と涙を流したことがなかった。例えば先日絶賛評を述べた「THE FIRST SLAM DUNK」。度々語っている「ロッキー」シリーズ。人生の指針の一つ「恋はデジャ・ブ」。観る度に切なさに襲われる「ブレードランナー」。その他多くの“心の一本”であっても、涙を流した瞬間は一瞬たりともない。
そんな俺が、僅か7分に満たない鑑賞済みの短編作品の、冒頭1分半程で落涙した。自分史の中で、歴史的大事件と言わざるを得ない体験だった。
●2度目の涙は流れなかった
あの衝撃をもう一度……!
調布での鑑賞後、俺は即座に「On Your Mark」が収録された映像ソフト「ジブリがいっぱいSPECIAL ショートショート 1992-2016」を購入した。なお「宮崎駿作品集」における本作のディスクは大人の事情により入手困難だが、先述のソフトは今日でも容易に購入可能である。
部屋の照明を落とし、PS4にディスクを挿入。近所迷惑にならない範囲で音量を上げる。準備は整った。
──やはり、名作は何度見ても名作だった。
それに映像ソフトによる鑑賞は、一般的な劇場での鑑賞とは異なるメリットを得られる。特に日本語字幕機能をONにし、歌詞と劇中描写のリンクを改めて認識できたことは大きな収穫だった。
例を挙げると「落ちて行くコインは二度と帰らない」=死者がアップで映るシーン、「僕らがそれでも止めないのは 夢の斜面目掛けて行けそうな気がするから」=主人公達が絶望からとある夢に向かって足掻くシーン等。宮崎駿監督の連想力の強さを改めて思い知った。
しかし。冒頭の同じシーンを観ても、俺は全く涙を流さなかった。2度、3度。続けて繰り返し観ても、結果は同じだった。
何故、あの時俺は涙を流したのだろう。
視界を覆う大スクリーン。爆音で全身を震わせるサラウンド。映画館のイベント上映=非日常空間の雰囲気。思わず陶然としてしまう程に超現実的な美しさの少女。中学生の頃から知っていた切ない結末の想起。
理由は幾らでも見つけられる。きっと単一の要因ではない。上記のいずれも正解かもしれない。一方で納得もできない。いや、そもそも納得していいのか……?と、俺は自問自答を止められずにいた。
俺は己の感情に対して理由を探し求めてしまう癖がある。だが、今回の件でふと感じた。己の涙の理由を詮索するのは野暮かもしれない。感情の分析とラベリングをする度に、透明なはずの涙が余計な色で染まってしまう気がした。
本作を映画館で観た体験が、俺の心だけでなく涙腺まで揺さぶった。たまには余計な分析などせず、その奇異な事実を味わうだけで満足しても良いだろう。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?