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つぶやきのあつまり

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自分のつぶやきをただあつめたものです
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2020年6月の記事一覧

私があまり感性を開けていなかった時に出会った、常に感性が全開の、眩しいお姉さんにもらった貝殻たち。一緒に海にいって、私はただ波を眺めていたけど、お姉さんは完全に海と一体になっていたんだなあ、と今は思う。私のことを思って貝殻を集めてくれたこと、その優しさを今、とても感じて、嬉しい。

心は"踊る"、"弾む"、"満たされる"、時には"枯れる"こともあれば、心に"沁みる"、"響く"ことも。今日は、優しく"揺さぶられた"ような。心を湖に例えるなら、たった一滴、ぽとん、と。その波紋の動きを眺めていたら、一日が終わりそう。私が想像するものは、やはり、私のものでしかない。

業務終了17:30、あぁ、今週も終わった。先週の金曜日は心が枯れていたけど、今日は元気。代わりに頭から煙が出そう…たくさん勉強しました。途中から何度も同じところをたどってしまって疲れた。でも、出来る、という気持ちがあるので、大丈夫です。今は出来なくても、そのうち出来るようにする。

今夜もキャンドル。夢うつつ、心が開いていく。はっと目を開けて、さっきまで、とても浅い、とてもいい夢をみていたと感じる。夢の世界でしか会えない人に会っていた気がする。本当はいつでもどこでも、私が会いたいと思えば、会えるんだろうな。ほんとうは…

白米、お味噌汁、煮物、サラダ、漬物…今日は自分でつくったごはんが美味しいと思った。それは私が料理上手なわけではなく、ちゃんとつくろう、と思って自分のためにつくれたから。ここ最近はすごく適当で、いい食材もだめにしていたと思う。誰のためでもなく自分のために、ごはんを作れることは幸せ。

まだ全然潜れないけど元気になってきました。休日は大事だ。星のマークを書くのが小さい頃から下手。本日3回目のコーヒーを淹れよう。私は大丈夫、大丈夫…と言い聞かせる。コーヒー淹れる時くらいは、おマメと対話したい。南米から、アフリカから、東南アジアから、私のところに来てくれた豆たちよ。

今の部屋に住み始めて1年以上経つのに、向かいのアパートの誰かが毎日バイクで出かけていくというのに最近、気がついた。7:30前にバイクのエンジン音がする。19時とか20時に帰ってくる。今日みたいな雨の日もかわらない。行ってらっしゃい、と心の中で。なんで今まで気づかなかったんだろう。

(つづき)でもやっぱり潜りきれない。沈む力があれば潜る気持ちもいらないのに、浮いてしまう。海の底が私を遠ざけている。いや、その主体は海の底ではなく、底に眠ってしまった私の感性なのでは。思考が邪魔をする。心配が抵抗を生む。複雑にするのは昔から得意で、簡単にするのはずっと、できない。

業務の時間が終わるとPCを閉じて音楽をかけて横になる。狙って曲を聴くときもあればApplemusicにお任せするときもある。不思議とピタリとくる音楽に沈んでいくうちに「ちがう、もっと深く、そこじゃない、そこにはない、もっと潜れ、思い出せ、全部底に沈んでいるのを取りに行け」と声が。

人として好き、たまらなく好き、という人、いそうでいなかったけれど、今ならいる。しかも何人も。つまり恋愛とかそういうものではなく、こう、心が触れ合える人というか。何か小さく響き合う感じ、近づくと波紋が生じる感覚。相手にとって私もそうだったら、より嬉しいなあ。(写真は苔のドアップ)

さっきは半分寝ながら書いたので、自分でも何を思っていたのかあまり覚えていません…それはそれとして、いま、散歩をしながら、むかしの知り合いと、その子が失った猫のことを考えながら歩いていたら、小柄な白い猫に会いました。月のある方に消えていったけど、似ていたのだろうか、知り合いの子に。

休憩にさまざまに手に取る本の中にハン・ガンの『すべての、白いものたちの』(斎藤真理子さん訳)があります。「ある記憶は決して、時間によって損なわれることがない。苦痛もそうだ。苦痛がすべてを染め上げて何もかも損なってしまうというのは、ほんとうではない。」という言葉、留めておきたく。

電気を消して、淹れたてのコーヒーをのみながら詩を読んでいたら、いい涙が出てきた。「現実だけが世のぜんぶなのではない」という最後の一文に、悲しいほどの安堵を覚えた。この詩の作者がもうこの世にいないと知って、また少し悲しくなる。でも残された詩が、本が、いつまでも友人でいてくれる幸せ。

今日もゆったり夜散歩に出かける。いつもは川沿いをひたすら歩くけど、今日は少し違う気分で、まずコンビニで100円のアイスを調達。川とは反対側へ。途中ですれ違った女の子2人組が、誰かのモノマネなのか、変な声を出して笑っていて、私もつられて笑ってしまった。幸せな光景だと思った。