釈徹宗×若松英輔 往復書簡「宗教の本質とは?」2 若松英輔「言葉 コトバに内包されるエネルギー」(『群像』)/ルドルフ・シュタイナー『平和のための霊性/三分節化の原理』
☆mediopos3346 2024.1.15
若松英輔と釈徹宗の往復書簡
「宗教の本質とは?」の二回目は
若松英輔から釈徹宗へと宛てられているが
書簡の後半では
キルケゴールの『不安の概念』を導きとして
「不安」の可能性が示唆されている
キルケゴールは
「不安は自由の可能性である」
「不安になることを正しく学んだ者は、
最高のことを学んだことになる」とし
その意味における「不安」は
「一切の有限性を破壊しつくし、
かくしてそのあらゆる欺瞞を曝露する」という
しかも「人間というものは、いちども
不安になったことがないということのために、
あるいはひとたび不安のなかに
崩れたことによって滅びてしまう」がゆえに
「不安」は人間にとって
避けることのできない「冒険」であり
それを生き抜く道を見出さなければならないとする
「不安」という「冒険」を歩むということは
「克服」するためにあるのではなく
それそのものを「深める」ためのものだろう
そしてそれゆえにこそ
「不安は自由の可能性」ともなり得る
現代そしてまさに現状は
実質的な戦争状態であるといえるだろうが
その渦中にあるということは
「不安」とともにあるということである
そんななかで
わたしたちは「自由の可能性」である「不安」を
どのようにして深めることができるだろうか
ほぼ100年前のヨーロッパでは第一次大戦が起こったが
その渦中におけるルドルフ・シュタイナーの
「戦争、世界史のカルマ」という講義が訳されている
そこでシュタイナーは
「私たちのこの時代は、毎日、毎時間、毎分、
「目覚めよ!」と求めている」と語り
「もしも今後も私たちが唯物主義しか、
しかも高度に洗練された唯物主義しか持てないなら、
今のこの三年間に生じたことを土台として、
眠れる人類には気づかれることなく、
この土台の上に物質の財を求める新たな競争が始まり、
人びとはそれを平和のたまものとして崇めるでしょう。
そうしたら人間の魂は、死後、
この世の破壊を渇望し続けるでしょう。
今後も破壊がとどまることはないでしょう。」
と続けている
まさにその100年後の現代を語っているようだ
そうなってしまうのは
「科学的な進歩は上昇線上を辿」っているが
「人間の道徳は、それと同じように進歩」しない
からなのだと示唆し
そのためには霊的認識が不可欠だとしている
いうまでもなく唯物主義/科学主義においては
そこから道徳的なものを導きだすことはできないからだ
いわゆる宗教的なところでは
神/神々からの救いや道徳的なこととが説かれもするが
それは一人ひとりの「自由」に基づいたそれではない
シュタイナーは「霊学そのもの」が
道徳的な衝動の源泉であるという
いうまでもなくここでいう「道徳」は
ふつういわれるような意味での
「下位の部分」でのそれではなく
「われわれはこういう宇宙から生まれたのだ。
われわれは世界の中で生じるどんなことにも責任がある。
なぜなら、霊学の認識内容を学ぶことで、
未来に向かって働きかけていきたい」
そうした衝動としての「道徳」である
そしてその衝動は
私たち一人ひとりの「自由」から発し
その「自由」の霊学的な根拠は
「素材が消えても、ふたたび新しい素材が生じる」
という意味での「存在の恒存」にある
「存在の恒存」とは「物質」「素材」の恒存ではない
物質素材の恒存からはいかなる自由も生まれない
「人間の中の素材が消滅して、仮象になり、
新しい素材が生じると、そこに「自由」の可能性が、
そして愛の可能性が現れる」という
それは「予め定められているのではない」がゆえに
「自由」と「愛」の可能性となる
キルケゴールは霊学的な視点を持たなかっただろうが
「不安」について語るとき
シュタイナーの示唆する「自由」と近しい
「予め定められているのではない」がゆえに
「不安」は「自由」への導き手として生まれ
それを生き抜く「冒険」を通じて深められていく
現代のさまざまな「不安」も
そのような「自由」と「愛」の可能性への
「冒険」となるための導き手ともなるだろう
そのためにも私たちは
「毎日、毎時間、毎分」
目覚めていなければならない
■釈徹宗×若松英輔 往復書簡「宗教の本質とは?」2
若松英輔「言葉/コトバに内包されるエネルギー」
(『群像 2024年2月号』)
■ルドルフ・シュタイナー(高橋巌訳)
『平和のための霊性/三分節化の原理』(自由と愛の人智学3)
(春秋社 2023/11)
(若松英輔「言葉/コトバに内包されるエネルギー」〜「不安と心配」より)
「不安は無い方がよい。そう言いたくなる気持ちは分かります。我が心、ここにあらず、というような心持ちで日々を生きるよりは、深いところに根を張って、落ちついて生きた方がよいのではないか。そうした思いも、もちろん理解できるのです。
こうした状態をここでは「心配」と呼ぶことにしたいと思います。
「心配」と「不安」は似て非なるものです。「心配」の核にあるのは「私」ですが、「不安」の真ん中には「私」だけでなく「人間」がいるように思うのです。
「心配」は人を閉じた世界へと封じ込める。しかし「不安」と正当に向き合うとき、私たちは深まりの経験のなかで自己だけでなく他者を、さらには人間の本性をすら見出すことができるのではないでしょうか。「不安」をめぐる経験を振り返ると、私が人間の弱さということを真剣に考えたのも、等しさとは何かを考えたのも、強く「不安」を感じていたときだったのです。」
(若松英輔「言葉/コトバに内包されるエネルギー」〜「人間の証し」より)
「ある人物場「不安」をめぐって次のように書いています。
不安の手にかかっては、誰も不安から逃げ出すことはできない。一切は万事休すなのである。————気晴らしのときも、雑踏のなかであろうとも、仕事の最中であっても、昼となく、夜となく・・・・・・。(『不安の概念』村上恭一訳)
「不安」は容易に逃れることのできない「問い」として私たちのもとを訪れる、というのです。
この一節を書いたのはセーレン・キルケゴールという哲学者です。
(・・・)
動物も天使も不安になることhない。不安は人間であることの証しであるとも彼は述べています。もし、私たちが不安を簡単に手放したり、あるいは見過ごすようなことがあれば、人間の証しを自ら打ち捨てることになるかもしれないのです。」
(若松英輔「言葉/コトバに内包されるエネルギー」〜「キルケゴールとの対話」より)
「同じ本でキルケゴールは自らのいう「不安」を次のように凝縮した言葉で語り直しています。
不安は自由の可能性である。この意味での不安だけが、信仰を介して〔信仰と結ばれ〕、ひたすら教化育成してくれるものである。この意味での不安は、一切の有限性を破壊しつくし、かくしてそのあらゆる欺瞞を曝露するのである。(同前)
この一節にある「自由」とは単に囚われのない状態を指すのではなく、有限性の彼方、超越性と意味の色彩を近くします。「不安」を抱くのは、私たちが通常意識と呼ぶ場所よりも深い場所からの呼びかけである。人は、過ぎ去る時間に自己を幽閉しがちになる。そうした弱き人間を解放しようとする内面からの促しだというのです。」
(若松英輔「言葉/コトバに内包されるエネルギー」〜「不安の可能性」より)
「キルケゴールはさらに「不安」は、人間にとって避けがたい「冒険」であるともいいます。「不安な気持ちになることがどんなことかを知っておくことこそ、誰もが通過しなければならない冒険ではないか」と書き、この「冒険」を生き抜く未知を見出さねばならないと説くのです。
なぜなら、さもないと人間というものは、いちども不安になったことがないということのために、あるいはひとたび不安のなかに崩れたことによって滅びてしまうからである。(同前)
キルケゴールの問いは正しいのではないでしょうか・私たちは不安とは何かを問う前にそこに恐れをなして立ちすくんでいるのかもしれません。
宗教をめぐるこの往復書簡で「不安」を問い直してみたいと思ったのは、今日の宗教が、不安をか国福する方法を語るのに忙しく、不安の可能性を探究していないように感じているからでもあります。祈りも瞑想も、あるいはもしかしたら念仏も、不安を鎮める方法ではなく、深めるものだったのではないでしょうか。」
「同じ本でキルケゴールはこう書いています。「不安になることを正しく学んだ者は、最高のことを学んだことになる」。」
(シュタイナー『平和のための霊性』〜「戦争、世界史のカルマ」より」
*「第一講 霊学から見た第一次世界大戦の背景」一九一七年九月二九日 より)
「人びとが安易に思う込むことのできるもっとも間違った考え方は、平和がどこから来ようと、たとえローマ教皇から来ようと、平和であることには変わりはない、という考え方です。もちろん、平和が教皇からもたらされたとしても、害になることはありません。けれども問題は、行動を共にする人たちが、平和をどう考えているか、ということです。
私たちのこの時代は、毎日、毎時間、毎分、「目覚めよ!」と求めているのです。しかしこんにち、霊学を、人智学を理解してくれるのは、人類は今、二者択一を迫られている、と分かっている人だけです。すなわち、霊を受けとめるか、それとも渾沌に留まるか、の二者択一です。
いたるところに張り付いている渾沌は、現在の血にまみれた渾沌よりも良いわけではありません。もしも今後も私たちが唯物主義しか、しかも高度に洗練された唯物主義しか持てないなら、今のこの三年間に生じたことを土台として、眠れる人類には気づかれることなく、この土台の上に物質の財を求める新たな競争が始まり、人びとはそれを平和のたまものとして崇めるでしょう。そうしたら人間の魂は、死後、この世の破壊を渇望し続けるでしょう。今後も破壊がとどまることはないでしょう。
唯一、霊的な態度をとろうとする内的衝動、そうせざるをえないという感情、理解。それを生かすことだけが更なる前進を可能にしてくれるのです。
時代を少しでも理解しようとするのでしたら、そして私たちがすでに何度もこの血で考察したような深刻な現実でこの時代を測るつもりなら、今書かれ、語られているすべての恐ろしい世界史上の出来事、すべての慰めのない俗悪な、表面的な出来事をも、心を開いて感じることができなければなりません。」
*「第二講 知的進歩と道徳的進歩の矛盾」一九一七年九月三〇日 より)
「現代という時代は、昨日の話からも感じていただけたと思いますが、人間の思考と感情と意志が大きく変化しなければならない時代なのです。魂の在りようが別のものにならなければならないのです。これまで身につけてきた習慣は、まさに内奥の魂の生活に関わる部分において、消えていかなければなりません。そして、新しい形の思考と感情が表れなければなりません。このことはまさに時代の要請なのです。」
「今私たちは、この世で生じていることに深い悲しみを感じています。感じないわけにはいきません。しかしその一方で、これまでの数十年間にこの世を去った、少なからぬ魂たちが、この地上での破壊的な出来事を激しく求めている、ということも忘れてはならないのです。そういう魂たちは今、霊界において、この世での破壊的な出来事から死後の霊的=魂的な生活に必要な力を汲み取ろうとしているのです。
ですから今、私たちは、人類の未来を破壊しようとする働きを鎮めるための唯一の力である霊的生命を働かせるために、できるだけのことをしようとしています。私たちがよく意識していなければならないのは、これまでの過去の時代においては、事情が異なっていたということです。ですから、唯物主義の時代であっても、惨憺たる戦争の時代を惹き起こさざるをえない事情がこれほどの規模で生じることはなかったのです。しかし、将来はますますそうなっていくでしょう。
人類は古くからの幻想にいろいろ苦しめられています。そういういろいろな幻想は、これまでは、将来に較べると、それほどひどいものではありませんでした。一般的な言い方ですが、今の時代の人びとの魂は、まだ眠り込んでいますので、現在こんなに烈しく変化しつつある事情に気づいていないのです。けれども時折、あれこれのことが本能的に表面に現れています。そして、人びとはどのこちょを現代の大きな謎であると感じています。ただその謎を十分に深刻に感じとるところまでには来ていません。
そういう謎のひとつは、現在の嵐のように襲っている破壊的な出来事の印象の下に、何人もの人たちが気づいていることなのですが、それにもかかわらず、その人たちも多くの点で、その謎を解く鍵が見つけられずにいるのです。私の言おうとしている謎とは、人類の進歩の中に見えがくれしている、知的進歩と道徳的進歩との間の矛盾であり、不一致です。」
「主知主義的、もしくは科学的な進歩は上昇線上を辿っています。人間の道徳は、それと同じように進歩してはいません。もしも道徳が知性と同じように進歩していったとすれば、現在の世界破局は生じたでしょうか。今進歩しているのと同じ仕方で破局が生じたでしょうか。まさに、人間の道徳的進歩が生じなかったからこそ、そして知性の進歩が反道徳的な在り方をするようになったからこそ、こんなにも多くの点で破壊が進んでしまったのです。
こんにちでは多くの人がこのことをはっきりと認めています。人間の道徳的進歩と知的な進歩との間には、矛盾、不一致が生じているのです。ただ、こんにちの時代は、人類の本当の進歩に寄与すべきこういう問いが十分に受け取られることを求めてはいません。こんにちの人間は、人間の思考と行動の深い根底について、何も教えられていないのです。人間の中で区別され、宇宙のまったく異なる領域に位置づけられているすべてが、こんにちの人間にとって混ぜこぜになっているのです。」
「私たちが睡眠中に留まっている世界は、ひとつのはっきりした特徴をもっています。すなわち、道徳法則は何も持っていないのです。驚かれるかもしれませんが、私たちは眠ってから目覚めるまで、道徳法則を何も持っていない世界にいるのです。その世界は、いわば、まだ道徳的ではないのです。朝、目覚めると、私たちは知性の方向へ向けて肉体とエーテル体を取り込もうとする衝動を霊界から持ち込みます。しかし、この霊界からは、道徳性の方向へ向けて肉体とエーテル体を取り込む衝動が持てません。それはまったく不可能なのです。なぜなら、眠ってから目覚めるまでに私たちがいる世界には、道徳法則がないのですから。人間が物質界に生きなくても済むように神々が配慮して下さったら、もっとよかったろうに、と思っている人たちは、間違っているのです。なぜなら、もしそうなったら、人間は決して道徳的になれなかったでしょうから。人間はこの地上での人生によって初めて道徳を身につけるのです。この世でのみ、道徳的になれるのです。私たちは霊界から肉体の中に叡智は持ち込めても、道徳は持ち込めないのです。
なぜ人間は道徳に関してこんなに劣っているのかを明らかにするためには、このことを知ることが非常に大切です。」
「神々は人間を自動制御装置にしようとしたのではありません。どうすれば進歩できるのかを認識できるような自由な存在にしようとしたのです。
なぜ神々は助けてくれないのか、という非難の言葉を発しても意味がありません。霊的認識のために、まず何かが為されなければならないのです。」
(シュタイナー『平和のための霊性』〜「三分節化、人間と宇宙の関係づけ」より」
*「第三講 秘儀の復活————霊視・霊聴・霊的合一」一九二〇年一一月二八日 より)
「考えてみて下さい、世界の歩みはそもそも何によって可能なのでしょうか。現実に何がおきているのでしょうか。人はそういうことを考えていません。そうでなかったら、今生じている現実を認識することで、過去の時代に「美と叡智と力」と呼ばれたものを、人間は今新たに受容するための形式を見つけださなければならない、と真剣に考えないわけにはいかなくなるはずです。この美と叡智と力は、人格の進歩の過程で、今は霊視、霊聴、霊的合一と呼ばれなければなりません。
今、私たちはアーリマンに汚染された世界と向きあっているのです。こええまで何度も言いましたが、私は「過渡期」というコトバを安易に使うつもりはありません。なぜなら基本的にどんな時代も過渡期なのですから。でも、一九世紀の最後の三分の一の時代以来、アーリマ主義のような特別の衝動が急速に影響を及ぼしています。こんな時代はめったにありません。」
「外的な科学によって世界を機械化するのであればあるほど、自分の内部からかつての叡智をひとつの内的な科学として生じさせなければなりません。この科学なら、人間を完全に支配しているものを、自分の支配下におく力をもつことができるでしょう。」
(シュタイナー『平和のための霊性』〜「自由と愛、世界の出来事にとってのその意味」より」
*「第二講 宇宙創造の根源としての道徳衝動」一九二〇年一二月一八日 より)
「現代の世界観は、外的な感覚世界のための自然科学を基礎にしています。包括的な魂の問題に関しては————心理学はもはやそのような問題を含んでいませんので————、以前の宗教の身上に逃げ道を見出すしかありません。この世界観には橋をはけることなどできません。そこでは、一方に物質があります。この物質界は、この世界観によれば、原初の霧から出てきたのです。すべてはそのような霧から球体になってとび出てきたのです。そしてそのすべては、いつかふたたび、一種の宇宙の泥に戻るのです。
これが現代科学の方向によって提示された宇宙生成の外の姿です。この宇宙生成だけが、現代の科学者によって唯一現実的なものだと思われています。道徳的なもの、道徳的な世界秩序は、この宇宙像のどこにも居場所がありません。道徳的な世界秩序はひとりで、孤独に存在するしかありません。
人間は道徳衝動を魂の衝動として、魂の中に抱いています。けれども、もしも自然科学の言う通りだとしたら、生きて働いているすべては、人間も含めて、原初の霧から生じたのです。そして、その人間の中から道徳原理を立ち上げようとするのです。ですから、もしもいつか宇宙(世界)が泥沼状態に戻るべきだというのなら、そこは一切の道徳理想の墓場でもあるでしょう。一切の道徳理想は消えてしまうことになります。橋はどうやっても架けられません。そしてひどいことに、私たちが首尾一貫して考えるのであれば、宇宙秩序の真の道徳性は、こんにちの科学の側からでは、どうしても認めることができないのです。
現代科学が首尾一貫していないときにのみ、道徳的な世界秩序は意味をもちうるのですが、主位一貫しているなら、科学がそれを認めるはずはないのです。」
「日常生活の中で体験するどんな道徳行為も、気体の生体の中に光の源となって沈潜し、液体の主体の中に音の源となって沈潜し、固体の生体の中に生命の源ちょなって沈潜するのです。みなさんの魂を道徳理念に向けるときは、いつもそうなのです。皆さんが道徳衝動を共感して受けとるときも、ただ理念として受けとるときも、その理念を他の人の中に見いだすときも、自分の行為をその意味で内的に肯定し、満足するときも、その行為が道徳理想に燃え上がるときも、いつもそうなのです。」
「外から見ても、熱はからだの中にありますが、その熱が生体として人間の中に有機的に組み込まれることによって、魂が、魂的=霊的なものが、この熱生体に介入します。そして、熱という廻り道を通って、私たちの道徳的な体験のすべてが人間の生命に介入するのです。
今「道徳的」という言い方をしましたが、もちろん一般の人が考えている「道徳的」のことだけではなく、例えば、壮麗なる宇宙の姿を見ることで生じる衝動のことも意味しているつもりです。その衝動は次のような言葉となって当たられる衝動です。————「われわれはこういう宇宙から生まれたのだ。われわれは世界の中で生じるどんなことにも責任がある。なぜなら、霊学の認識内容を学ぶことで、未来に向かって働きかけていきたい、と心を燃え立たせているのだから」。
私たちは、霊学そのものを道徳的な衝動の源泉であると思っています。ですから霊学を学ぶことで、道徳的なものに心を燃え立たせることができるはずなのです。霊学上の認識に由来する情熱は、同時に高次の意味での道徳的なものの源泉でもあるのです。
しかし通常、「道徳的」と呼ばれているものは、道徳的なものの下位の部分にすぎません。私たちが外なる世界の出来上がった自然秩序についてもっている理念は、みんな理論の上の理念でしかありません。」
*「第三講 愛————外界への帰依」一九二〇年一二月一九日 より)
「皆さん、人間の中には二大理想が互いに結びつき合って生きています。自由と愛の二つです。この世で生きる人間は、この二つをこの世のために結びつけることで、自己実現を計るのです。
そこで、あらためて考えてみましょう。いったい何によってこの理想、この至高の理想を、意志の力に浸透された思考生活の中で実現できるようになるのでしょうか。そうです。もしも思考生活が物質上の経過にしか関わろうとしないなら、意志が思考内容の領域に働きかけ、意志がどこでますます力を発揮するようになることはできないでしょう。」
「思考する存在としての私たちは、今、自分の中に鏡像としての現実だけしかもっていません。そして、そうであることによって、私たちの新陳代謝から輝きのぼるもうひとつの現実が、思考生活の単なる鏡像としての現実に浸透することができるのです。
思考生活が鏡像となって存在しているということは————こんにち非常に稀なことですが————私たちが何にもとらわれずに思考しようとするとき、もっとも純粋な思考生活である、数学上の思考を行うとき、はっきり見てとることができます。」
「私たちの通常の意識は、外的な現実ではやっていけなくなると、少なくとも原子という硬直した現実に頼ることになってしまいます。(・・・)
人間が硬直した、永遠に変わらぬ原子を取り上げるのは、人間がすがっrている思考が弱いからでしかありません。現実に即した思考から見ると、素材が絶えず解消され、ゼロにまでなるのです。
私たちが存在の恒存について語れるのは、素材が消えても、ふたたび新しい素材が生じるからにすぎません。たとえば、一定の量の資料が或る家に持ち込まれ、そこで模写されたのですが、資料そのものは消失してしまいました。そして模写されたものが世に出ました。そういうとき、私たちが、持ち込まれたのと同じものが出て来たのを見て、同じものだ、と思うとします。それと同じ間違いに耽っているのです。実際は、旧い資料が燃えてしまい、新しく書き写されたのです。
同じことが宇宙における生成にも言えます。そして、この点にまで私たちの認識を勧めることが大切なのです。なぜなら。人間の中の素材が消滅して、仮象になり、新しい素材が生じると、そこに「自由」の可能性が、そして愛の可能性が現れるのですから。自由と愛は、私の『自由の哲学』で示唆したように、一体を成しているのです。
なんらかの世界観に則って、素材の不滅を主張する人は、一方で自由を否定し、他方で究極の愛を否定しています。なぜなら、人間の中で過去のものが完全に消滅して仮象になり、そして未来のものが新たに生成し、すべてが萌芽になることによってのみ、過去のものに左右されることのないものへの帰依が、つまり愛の感情が生まれるのですから。そして予め定められているのではない行為が、つまり自由が生まれるのですから。
自由と愛は、霊学的世界観によるのでなければ、本当に理解することができないのです。」
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