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曰く付きの風呂屋。

 この街の住宅街には、曰く付きの風呂屋がある。
 煉瓦で造られた屋根、年季が入って汚れた白壁、隣に設置されたコインランドリー。よく目にする、何の変哲もない風呂屋。
「湯」と赤文字で記された、青色の暖簾を潜る。入ってすぐ左側には下駄箱があり、そこに脱いだスニーカーを入れる。
 正面を向くと受付があり、小窓から老婆が喫煙しながら、難しい表情で雑誌を読み耽っているのが分かる。道理で、入ってからずっと煙草臭かったわけだ。お客さんからのクレームはないのだろうか。
 小窓の上に、料金の書かれたパネルが設置されていた。「大人500円、子供100円」と記されている。相場が分からない為、高いのか安いのかは判断出来ない。
 財布を上着のポケットから取り出しながら、受付に向かう。
「あの、大人1人で」
 老婆は吸っていた煙草を、真ん中に「湯」と書かれた透明の灰皿に押し付けると満面の笑みを浮かべた。
「ありがとねぇ。500円だぁ」
 煙草を吹かしながら雑誌を読んでいた時の怖そうな表情とは違う、可愛げのある笑顔に驚いた。戸惑いつつも、財布から取り出した500円玉を青色のプラスチック製会計トレーに置く。
「丁度だねぇ。ゆっくりしてなぁ」
 老婆が笑う度、口から見える黄ばんだ歯。高齢のせいなのか、何本かなくなっていた。
 受付の隣にある通路を進む。
 背後から、すしゃ、すしゃ、とマッチを擦る音が聞こえた。

*

 マッサージ機が設置されていたり、牛乳瓶が販売されていたりする部屋を通り過ぎ、白文字で「男」と記された青色の暖簾を潜る。そして、すぐ目の前にあるスライド式の木製ドアを開ける。
 脱衣所があった。左側には木製の棚があり、1段1段に3つずつ枝を編んだような籠が置いてある。右側には洗面台とドライヤーが3つ並んでいる。
 受付の老婆が煙草を吹かしている以外は、よくある風呂屋の光景だ。
 服を脱ぎ、籠に入れて、硝子張りのスライド式を開ける。
 両脇と真ん中に洗い場があり、奥に横長の浴槽がある。浴槽がある側の壁には大きな富士山の絵。どこまでいっても典型的な風呂屋だ。こういうところに行った覚えはないのに、懐かしさを覚える空間だった。
 お客さんは、自分を含めないで計3人。こちらから見て、真ん中の左側向きの洗い場で身体を洗う太った男が1人、右端の方でお湯に浸かる面長の男が1人、左端に置かれた白色のプラスチック製の椅子に座る強面の男が1人。
 左側の通路を通り、浴槽へ向かう。
 不意に視線を感じた。思わず、辺りを見回す。誰も僕なんか見ちゃいない。……気の所為か。
 浴槽脇に置いてあるプラスチック製の桶で、浴槽から掬い取ったお湯をお腹から下にかける。適度な熱さのお湯が身体を温める。次は頭からお湯を被る。
 まただ。お湯を被っている所為で目は開けられないが、やはり視線を感じる。でも、目を開けると、自分に向いていた視線は消える。
 一体、何なのだろう。
 気を取り直して浴槽に入り、もくもくと湯気の立つお湯に浸かる。少し熱めのお湯が、執筆で疲れ切った身体を癒す。
「ふぅー……」
 溜まり切った負の感情と共に息を吐き出す。目を瞑り、ふやけ始めた脳で、ここへ来た目的を整理する。
 住宅街にある風呂屋、「掃」。ここには黒い噂がある。アングラ街をテーマに記事を書く物書きとして、噂の真相へ一歩でも近付くべく掃の湯へ足を運んだ。
 何でも閉館時間になると、ここで死体処理が行われるらしい。殺し屋、殺人鬼、突発的な事故……。様々な理由で死体を生み出してしまった人々の、駆け込み寺的な存在。証拠を一切残さず、綺麗に掃除してくれるとのこと。仮に死体処理が行われているとして、受付にいた喫煙老婆が仕事を請け負っているのだろうか?
 とは言っても、都市伝説レベルの話だ。証拠があるわけではない。血塗れの死体掃除屋が薄汚い浴槽で死体を切断する凄惨な光景を想像していたが、実際に入ってみたらよく見る風呂屋だった(まだ閉館時間ではないが)。作り話のような気がしてきた。
 ざぶあぁ……。
 浴槽の端の方でお湯に浸かっていた、面長の男が立ち上がった。色白で、細身の彼は、浴槽から出た。
 彼の後ろ姿を追っていたら、目が合った。その瞬間、ぞくっと背筋に冷たいものが走った。入っていた時と、頭にお湯をかけていた時に感じた得体の知れない視線と同じだった。
 細身の男は軽くシャワーを浴びると、スライド式のドアを開けて脱衣所へ行った。
 逆上せているにも関わらず、僕はお湯から上がれずに動けないでいた。
 面長の男の背中を目で追ってしまった理由。彼が浴槽から立ち上がった際、身体中を愛おしそうに眺め、自分の右肩をべろりと舐めていたから。4回も。
 面長の男が脱衣所から出たのを確認すると、僕も早々に上がり、碌に身体も洗わず煙草臭い掃の湯を後にした。

*

 少し寒い風が頰を撫でる。風呂上がりの心地いい時間の筈が、身体が芯から冷え切っていて早く帰りたくてしょうがなかった。
 暗くなり始めた道を、街路灯の光に照らされながら早足で進む。
 よくある見た目の風呂屋、受付で煙草を吹かす老婆、謎の視線、死体掃除、右肩を舐めた面長の男……。容易に触れてはいけない、深い闇だったのかもしれない。
 この街の住宅街には、曰く付きの風呂屋がある。

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