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ただ受け止めるという励まし

    最初に通っていた大学を2年で中退しようと決めた時、友人が鍋一杯のおでんを作り、家の前へ置いていってくれたことがあった。鍋の上に残されたメモ用紙には、確か「“苦しい時は上り坂”/ よかったら食べてね」と書かれていた。彼女は私に「何で大学辞めちゃうの?」と尋ねてこないかわりに、グツグツとおでんを煮込み、呼び鈴も鳴らさずそっとドアの前に置いて、原付バイクで走り去っていった。

 それから十数年の間、私は何度か、この“苦しい時は上り坂”という言葉を借りて、落ち込んでいる人を励まそうとしたことがある。「これからもっと良いことがあるよ!」なんて言ったこともあった気がする。でも、年や経験を重ねるごとに、そんな言葉を軽々と口にできなくなっていき、励まし方が変わっていった。

「前回会った時『とても落ち込むことがあって…』と話した私に、minaさんは『これからいいことがありますよ』とか言わず、ただ聞いてくれたんですよ。それがとても良かったんです」

 そう言ってくれたのは、最近久しぶりの再会を果たした年上の女性だった。おぼろげな記憶だが、私は当時、確かにあれこれ詮索したり、強く励まそうとはしなかったものの、“上り坂”に似た言葉を口走った気もする。だけどその方の記憶の中で、私は「ただ聞いていた」のだそうだ。

    もし当時の私が本当に余計なことを言わず、ただ受け止めることに終始していたならば。それはたぶん、40年ほど生きてきて、辛さはその人にしかわからないのだし、どん底の時は励まされるより、ただ聞いてもらえたり、共感してもらえたりする時間が必要だということを私自身が経験してきたからかもしれない。

    ところが、だ。結婚5年目になる韓国人の相方に「ただ受け止めるという励まし」をされても、私はちっとも嬉しくなかった。彼はつい最近まで、私が「痛い」と言ってもじっと黙りこみ、何も反応しないことが多かった。「洗濯は俺が干すよ」とか「ご飯作ろうか?」みたいな気遣いどころか、「大丈夫?」のひと言もない。痛いとわめく女の横で、無視を決め込む男の図、である。そんなことが何度も続くと、体調が絶不調の時は「何でこんな奴と結婚したんだろう」と毒の一つも吐きたい気持ちになり、悲しくなったものだ。

 そこである時、怒りを抑えて尋ねてみることにした。「何で大丈夫のひと言もないの?」と。すると彼は「だって大丈夫じゃない人に『大丈夫?』って聞くのはおかしいだろ。痛そうなんだから、そっとしておいた方がいいと思って」と言うではないか。むむ、腹は立つけど一理ある。黙って聞いていることが彼なりの受け止め方で、世の中にはそう考える人もいるのかと、自分の脳みその中に新たな回路が生まれた気がした。

 それでも私は彼とは違う人間なので、「痛い」と言えば「大丈夫?」と気遣ってくれる人と暮らしていきたいのだと、何度も何度も伝えてきた。そのかいあってか最近やっと、相方が少しずつ共感の言葉や慰労の姿勢を見せてくれるようになった。私は「ああ、これで別れずにすむわ」と内心ほっとした。他人からしたらどうでも良い話でも、私たちにとってはお互いの励まし方にズレがあることが、この数年大きな問題だったのだ。

 相方と暮らして「辛い時には何の言葉もいらない。そっとしておいてほしい」と思う人もいるのだと気づけたことは、私を少しだけ大人にしてくれた。それでもやっぱり誰かが落ち込んだり、泣いていたら、ただじっと受け止めるだけでは終われなくて、「きっとこれからもっと良くなるよ」なんて、余計な励ましをしたくなるかもしれないけれど。

 そんな時は、心のひき出しをそっと開けて思い出してみたい。友人が黙って置いていった、あのおでんのことを。そして「ただ聞いてくれた。それがとても良かったんです」と言っていたあの方の笑顔を。


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