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『82年生まれ、キム・ジヨン』を語る① 義母と私と母の物語

 50年生まれの義母

 数か月前、ソウルから車で2時間ほど離れた田舎町にある夫の実家を訪ねた時、義母がこんな話を始めたことがあった。その時私は台所に立ち、義母と一緒に昼食用のチャプチェ(韓国春雨と肉や野菜を甘辛く炒めたもの)を作っていた。

「結婚して国民学校(小学校)の教師を辞めた時、お父さんがソウルで会社に勤めていたんだけど、息子が生まれて1年経った頃、突然、実家に帰って酪農をしようと言いだしてね。お金を貯めたらソウルに家を買おうって言ってたのに、結局この隣町に家を買ってしまって」

 手を止めて、遠い目をしながら話し始めた義母は1950年生まれ。今年、満70歳になった。調べてみたところ、義母が20代に突入した1970年代の韓国における大学進学率は、女性25.3%、男性24.2%で、その中でも義母が卒業した教育大学(2年制の専門大学)の進学率は女性3.0%、男性2.3%だった。

【参考資料】統計庁『統計で見る女性の人生』2003年7月報告書

「義両親は何十人もの人を雇っている農家だったから、私は毎日、仕事をしに来る人全員の3食のご飯と、午前・午後の새참(セチャム/間食)を作るのが仕事だった。小さな息子を背負って、料理して片付けて、料理して片付けての繰り返し。子どもが夜泣きして眠れなかった日も、また朝から働いて。ここに来るまでは勉強や仕事ばかりしていたから、料理なんて全然できないじゃない?だから全部、義母に教えてもらったんだよ」

 断片的に何度か聞いたことがある話だったけれど、この日の義母はいつもより饒舌で、まるで自叙伝を開いて読み聞かせるかのように、昔話を続けた。

「ある日、2番目の息子が生まれた後だったかな。義母が私の知らない間に、大学でもらった教師の資格証明書を燃やしてしまったの。それを知った時ものすごくショックで、おぶっていた2番目の息子を連れて家出しようとしたら、靴が片方しかなくて。お父さんが隠してたのよ。どこにも行けないようにって」

 話に耳を傾けながら作り続けていたチャプチェは、ほぼ完成に近づいていた。一つずつ炒めた野菜や肉と、茹でて下味を付けておいた春雨を手でしっかり混ぜ合わせていく。「素手でやりなさい」と言われ、一瞬躊躇してしまったけれど、混ぜながら「ああ、これが韓国語で言う손맛(ソンマッ/手の味)っていうものか」と、しみじみ感じている自分がいた。

「結婚して仕事を辞めて、お父さんと一緒に田舎へ来て。やったこともない酪農や農業を始めて、最初はすごく大変だったし、自尊心が傷つく毎日だった。今でも思うのよ。教師を辞めていなかったら、大学の同期たちのように出世したり、最後まで働き続けたりしていたのかなって」

 義母は、3人の子育てと酪農や農作業に明け暮れながらも、家で塾を開き、子どもたちに勉強を教えていた時期があったそうだ。料理やダンスや太極拳を習ったり、今年初めには介護施設等で働ける「療養福祉士」という資格試験に挑戦し、見事合格したり。家族のために多くの時間を費やしながらも、常にできることを探して挑戦し、向学心を持ち続けてきた。

 私が「自尊心はどうやって取り戻されたんですか?」と尋ねると、義母は苦笑いしながらこう言った。「取り戻せなかったよ。ただ受け入れて、今まで暮らしてきただけさ」。そんな義母に私も心を開いてみたくなり、結婚後、ずっと胸に秘めていた思いを告げることにした。

「お義母さん、私は韓国に農業体験取材に来た時、1冊の本を書きたいと思っていました。でも夫と出会って結婚し、すぐに子どもを授かって、計画はストップしたままです。お義母さんの人生とは比べることができませんが、私は韓国に来てから、日本では一人でできていたことすらできなくなり、この国では自分が何の能力もない人間のように感じて、落ち込むことがよくあるんです」。

 義母は静かに頷きながら、私の話に耳を傾けてくれた。そうしている間にお腹を空かせた夫と義父がやってきたので、私たちは慌てて食卓に箸やキムチを並べ、チャプチェの横にご飯を添え、息子が寝ている間にと、急いで昼食を済ませたのだった。

82年生まれの私、59年生まれの母

 今、日本では、昨年韓国で制作された映画『82年生まれ、キム・ジヨン』が公開されている。この作品はその名の通り、1982年生まれの女の子に一番多い名前を授けられたキム・ジヨン(33歳)が主人公だ。

 家庭や学校、職場、結婚後の妊娠・出産、子育て、再就職などを通して彼女が感じてきた「女性としての生きづらさ」について描かれた作品で、原作の同名小説は2016年に韓国で出版され、ベストセラーになった。その後、日本を始め世界中で翻訳本が出版され、大きな話題を呼んだ。

 韓国・ソウルのはずれに住み、1歳の子どもを育てているキム・ジヨン。彼女は妊娠・出産に伴い仕事を辞め、これまでの経歴が断絶されたものの、自分にできる仕事をまた始めたいと思っていた。しかし、ある日突然、他人の人格が憑依したようにふるまい始め、夫の勧めで精神科のカウンセリングを受けることに———。

 最初この本のあらすじを知った時、自分と彼女が置かれている状況があまりにも似すぎていて、なんだか読むのが怖くなり、すぐに小説を手に取ることができなかった。

 私はキム・ジヨンのように自分の言葉を失い、他人の人格が憑依するようなことはなかったけれど、3年前に韓国移住し、2年前に出産してからつい最近まで、自分が何を好きで、何がしたかったのか?どうにもわからなくなってしまった時期が続いていた。それはつまり、自分を見失ってしまったのと同じことだった。

 子育ての合間に、息抜きのつもりで読んだSNSやニュースのせいで、時折、見たくないものまでが目に入り、ドロドロとした気持ちが私の中で渦巻いた。自分より恵まれていて幸せそうにみえる人がいると嫉妬し、自分より大変そうな人を見ると共感したり同情したりするものの、「この人よりはましか」などと、自分を慰めることはできなかった。

 子どもを産んでからはずっとそんな調子だったので、正直言って、キム・ジヨンの人生にまで首を突っ込む余裕がなかったのだ。しかし、結局私は彼女の人生に対する興味を抑えきれず、昨年の夏、1歳前の息子をおんぶして寝かしつけながら、スマホの小さな画面でこの小説『82年生まれ、キム・ジヨン』を読んだ。

 その秋に映画が公開されると、2時間半だけ夫に息子を任せ、近所の映画館に足を運んだ。出産後、夫が一人で息子の面倒を見たのはこの時が2回目で、私が一人で映画を観に行ったのは初めてのことだった。

 私には母国語で気楽に話せる同じ国出身の夫や、頼りになる姉、時々会って話せる元同僚は近くにいないし、「韓国に住む外国人」という時点でキム・ジヨンよりはるかに不利な立場にいるのだけれど、それでも彼女はまさに、「私」そのものだった。

 育った国は違えども、同じ年に生まれ、韓国に住み、1歳の子ども(映画では生後26か月の設定になっていた)を育児中の私たち。多感な10代の頃、日本にいた私は1991〜93年にかけてのバブル崩壊を経験し、韓国でジヨンは1997年のIMF通貨危機(国家破綻の危機)に直面していた。

 景気が悪化し、人を育てるのではなく使い捨てするような企業が増え、大学が就職予備校化していく中で、2000年代前半、私たちは大学生活を過ごした。

 映画の中でキム・ジヨンは文学部を卒業後、広告代理店に就職。私は教育学部を卒業後、少しでも書くことに近づきたいと編集記者の職に就いた。ところが、実際社会に出てみると、結婚や出産のために仕事を続けられなくなった人がたくさんいて、ジヨンと私ももれなく、その内の1人になった。

 注意深く周りを見渡してみると、「私は絶対仕事を続けたい」と固く決意していた友人たちは、最初から遠方に住む人や転勤族をパートナーとして選ばなかったし、産休や育休の制度が整った職場を選んでいた。自分の職場の近くに家を買ったり、実家のすぐ近所に家を建てたりもしていた。子どもを持たないという選択をした人もいた。それはもう計画的で、いつからかそんな計画的人生のレールを自分から降りてしまった私は、舌を巻くばかりだった。

 仕事を辞めてしまえば、ただの人だ。結婚を機に夫の勤務地へ引っ越しすれば「〇〇さんの奥さん」と呼ばれ、子どもができれば「△△ちゃんのお母さん」と呼ばれ、「あれ、私って誰かの奥さんやお母さんになるために生きてきたのかな?」と思うことがあった。

 どこぞの誰かが「子育ては将来への投資よ」なんて話しているのを耳にすると、まるで自分が不良債権のように思えてきて「お父さん、お母さん、こんな娘でごめん」と情けなくなることもあった。義母が言っていた「自尊心が傷つく」とは、まさにこういう状態のことを指すのだろう。

 映画の中では、精神を病んでしまったジヨンを哀れみ、励まし、包み込む母親の存在感が圧倒的だった。そして、いつ何時も家族のために自分の人生を犠牲にしてきたジヨンの母の姿は、どうしても自分の母や、先述した義母の姿と重なってしまうのだった。

 私の母は1959年生まれ。4人兄弟の末っ子だった母は、家の事情で進学を諦めて就職し、21歳の頃、転勤族だった私の父と結婚した。幾度の引っ越しと仕事探しを経験しながら子ども2人を育て、50代初めの頃、義両親を2人同時に介護する生活が始まり仕事を退職。7年後、同居していた義両親が相次いで旅立ち、今やっと自分の人生を取り戻しているところだ。

 振り返れば、母には小さい頃から「あなたにはやりたいことを全部やらせてあげたい。やりきってから結婚してほしい」と言われてきた。しかし、高校生の頃、私も若い時の母と同じく、家庭の事情で「コントラバス奏者になる」という夢を諦めねばならなくなった。

 常々「やりたいことをやれ」と言っていたはずの母が大反対したものだから、私は明確にあった「やりたいこと」や「夢」を見失い、その先どう生きていけば良いのか指針を失ってしまった。

 それをきっかけに「人が生きるとはどういうことか?」と考えざるを得なくなり、のちに「物書きになりたい」という決意が生まれることになったのだが、大学卒業時点では経済的自立を優先したため、本来の夢を封印する形になった。

 「生きること、そのすべてが取材なのだ」と自分に言い聞かせてはいたものの、どこか真っ暗闇なトンネルの中に放り込まれたような感覚で、30を過ぎて韓国に語学留学するまで、私はそのトンネルから抜け出すことができなかった。

 今ならあの時の母の気持ちがよくわかるのだが、1997年、高校1年生だった頃の私には、誰にも頼れない状況で子どもを産み育てることの厳しさについて、全く想像もできていなかった。

 裕福ではなかったものの、何不自由なく暮らしてこられた私の人生は、両親の労働やさまざまな犠牲によって成り立っていたのだと。そう心の底から実感できたのは、実際に自分が異国の地で出産し、人の親になってからのことだった。(②へつづく↓)

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