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美しいものは、すぐそばに

 少し前、桜の蕾が開きかけていた頃、家からほど近い場所に工芸作家の工房があることを知った。しかもそこで、在韓日本人女性が作るお弁当とお茶を味わえるイベントがあると知り、桜が舞い始めた頃、初めてその工房を訪れた。

 自分の興味関心に導かれ、こうして何かの催しに参加するなんて何年ぶりだろう。日本から韓国へ移住する前は、一人であちこちへ出かけ、初対面の人と話し、そこで見聞きしたことを文章や写真で伝えることが主な仕事であり、ライフワークでもあった。ところが、この4年間は育児や仕事、コロナ等で、そんな機会を全く持てずにいた。工房まで車を走らせる道中は、日本に置き去りにしてきた自分の一部を取り戻していく、そんな感覚に包まれていた。

韓国の伝統工芸“ポジャギ”のカーテンが印象的な工房

 この工房がある坡州パジュという街は、韓国の北の端に位置し、北朝鮮との軍事境界線に隣接している。そんな少し辺鄙へんぴな場所にある工房まで、日本人女性が振る舞うお弁当とお茶を味わいに来るお客さんとは、一体どんな方たちだろう?

 緊張の面持ちで工房の扉を開いた数分後、「私も一人で来たんです」という日本語堪能な韓国人女性に出会った。美しく小花が活けられた木のテーブルに並んで腰かけ、向かい側に座っていたご婦人2人に挨拶すると、お一人はこの春、娘さんが日本の大学(それも私の実家がある県)に留学したばかりだと教えてくれた。もう一人のご婦人も15年前に日本を訪れて以来、日本が大好きになり、何度も旅行したことがあるという。

 同席したみなさんは自家用車やバス・地下鉄に乗り、1時間以上かけてここまでやって来たそうで、お茶、日本食、工芸作品などを愛する方たちだった。

ひと口菓子とウェルカムティー(エルダーフラワーブレンドハーブティー)

 ウェルカムティーを片手に、おしゃべりに花を咲かせていると、竹製の弁当箱が運ばれてきた。蓋を開けると、思わず口から「わあ」という声が漏れた。彩りがあまりにも美しく、食べるのがもったいないと思いながらも、私は箸に手を伸ばした。写真を撮るのもそこそこにして。

 同席のみなさんは、スマートフォンで何枚も写真や動画を撮影していた。韓国の多くの人たちは写真を撮るのが大好きだ。どちらかというと雰囲気重視で、アーティスティックな写真を好むというのが、私の勝手な分析。また、写真を撮られるのも上手で、自分が最も美しく見えるポージングを知っている人が多いように思う。カメラを向けられると未だにピースするしか能がない私は、写真に素敵に納まろうと努力する韓国の人たちが、いつもちょっと不思議で、うらやましくもある。

 向かいのご婦人は「男性が一緒だと『写真ばっかり撮って!いつになったら食べられるんだ』って言われちゃうから、こういう所には女性同士で来るのがいいのよね」と言って笑った。

弁当箱の蓋を開けるとこの彩り

 今回のイベントのテーマは「春のピクニック(봄소풍)」。その名にふさわしい、旬の香りがぎゅっと詰まった料理を味わいながら談笑していると、先ほど熱心に写真を撮っていたご婦人が、目をくりくりさせてこう言った。「日本の家庭では毎日こういう料理を食べているんですか?」と。私はわが家の日々の食卓を思い出し、ふき出しそうになりながら、大きく首を横に振った。

【お献立】
たらの芽・タコ・ワカメ・枝豆の胡麻味噌ソースがけ
エビとアボカドの春巻き、レンコンの素揚げ
ローストビーフとワサビ、タマネギマリネ
卵焼き、ニンジンラぺ、たたきごぼう
グリーンサラダとミカンドレッシングジュレ
紫芋&クリームチーズボール

筍ごはん、油揚げ、山椒の葉
春野菜・豆腐・ドライトマトの味噌汁

 「うわーたらの芽!今年初だ!」、「春巻き食べたいなと思ってたんよなあ」、「レンコンって素揚げするだけでもこんなにおいしんや」。ひと口食べるごとに目を大きく見開いたり、「おおっ」とうなったり。韓国で人気の日本ドラマ『孤独のグルメ』の井之頭五郎さん並みに、心のつぶやきが止まらない。ああ、それにしても、誰かが作ってくれるご飯って何でこんなにおいしいんだろう?同じ食材を手に入れたとしても、私にこんな組み合わせや繊細な味付けができるだろうか?

 今回料理を振るまってくださったYOMEKOさんことUchida Yoshikoさんに後日少し伺ったお話によると、料理に使う野菜や木の芽などは、イベントの日程に合わせ、親しい農家さんに直接準備してもらっているそうだ。韓国にはない日本の野菜や品種を育ててもらうために奔走することもあったという。「ここは海外だから。郷に入れば郷に従うしかない」と、いろんなことを諦めがちだったこの4年間。YOMEKOさんの活動を知れば知るほど、どこにいても諦めなければ何だってできるのかもしれない、と勇気が湧いてきた。

 口直しに登場したのは、イチゴと発酵茶のスープ。涼しげなガラスの器でいただくと、気分はもう初夏のよう。

昨年冬から春にかけて、例年より価格が高騰していた韓国のイチゴ。やっとお財布に優しい価格になったものの、残念ながら味わえるのはあともう少し

 この日最後にいただいた京都の宇治抹茶と桜餅は、心と身体に沁みわたる味だった。今まではお抹茶よりコーヒー、和菓子より洋菓子が好きだったのに。日本に帰れなくなって3年目になるからだろうか。単に年を重ねて嗜好が変わってきたからだろうか。ともかく、この日味わったお抹茶と桜餅のことは、一生忘れられないと思う。

久々の桜餅。手で持ってかぶりつきたい気持ちをぐっと抑え、
竹製の菓子切りでひと口大にして、ゆっくりと味わった

 実は例の流行病にかかってから2か月経っても、まだ鼻の奥が詰まり、耳が少し聞こえ辛く、味覚が劣った感じが続いている。以前より疲れやすくなったのに夜はすぐ寝付けず、朝もなかなか起きられない。これは後遺症なのか、ただの老化現象なのか?考えても答えは出ないので、私はこの春、美しいものにたくさん触れて、自分を癒したり喜ばせたりすることを増やしていこうと心に決めた。

 例年以上に桜の開花を待ちわびて近隣の名所まで愛でに行ったり、道端で黄金色に輝くレンギョウに目を細めたり。公園を散歩中には足元のスミレやタンポポと見つめ合い、通勤中の車の中からは街路樹の新緑の芽吹きにハッとして。美しいものに触れると、自然に笑みがこぼれてくる。「ああ、生きてて良かった」と、春の訪れに心から感謝したくなる。

 今回のイベントに参加したのも、自分の心をワクワクさせたいという思いからだった。そうしたら出会えた。目も舌も喜ぶ食事や、美しい器や空間のしつらえ。そして、国籍も年齢も住む場所も何もかも異なる、だけど「心惹かれるもの」が似ている人たちに。

 桜餅をいただいた後、娘さんを日本に送り出したばかりのご婦人が微笑みながらこう言った。「今日は本当に春のピクニックに出かけたような時間でしたね。出会えて嬉しかったです。私たち次もまた、ぜひ一緒に参加しましょう」。

イベントが開かれた工房前にて。
看板の向こうに小さく見えるレンガ色の建物は、ロッテプレミアムアウトレット坡州

 足早に散っていった桜に続き、今度はツツジの蕾が開こうとしている。今朝は公園内の小さな森で、まぶしい新緑の世界に入り込んでいく雌キジに出くわした。森の外に出ると、日差しはもう初夏のようだった。

 美しいものは、こちらが見つけたいと願えば、すぐそばにたくさんあるのだから。瞬きしている間に過ぎ去ってしまう春をもう少し、あと少し、この目に焼きつけておきたい。

▲YOMEKOさんのイベントは반김craft(bangimcraft/소반을 만드는 양병용작가의 아뜰리에)で4月29日まで開催中。詳しくは工房のInstagram(@bangim.craft)を参照


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