見出し画像

法律と恐怖

法律は守る。この確固たる思いは何から生まれてきたのだろう。
僕の中に当たり前にある法律を守ると言う頑なな決意。
法律を学んだわけでは無いので、ほとんど知らないし、自分に関係のありそうな条項ですら知らないものもたくさんある。
法を作ったわけではないので、愛着もなければそれが制定したことに賛成の意を唱えたわけでもない。
裁判沙汰になったことも無いので、もちろん治安維持の恩恵には預かってはいるが、直接的に助けられた思い出もない。

むしろ、守って欲しければちゃんと必須で伝えとけよ。後出しでほら、書いてあります!とか言われても到底納得できないし、
とんでもなく勉強したもののみが取得できる資格がないと扱えません。とかも意味わからないし、そんな大天才が大勢集まってああでもないこうでもないと何日も、それこそ何年も話し合っても決められないことすらあるけれど、
いや、そんなフワッフワな感じにすんな!という気持ちもある。

確実に僕の中には法律に対するアンチなおじさんが存在している。

にも関わらず。だ。
なぜここまで法律に対して守ろうという決意が芽生えるのか。
差別は良くないが、同じくらい気に入った物件が2つあって、片方は両隣が犯罪者で、もう片方は両隣がいつも肉じゃがを余らせそうなグラマラスなお姉さんだった場合、たとえ寝起きで朦朧としてても後者を選ぶだろう。たぶんイトコくらいの距離の関係性の人が人質に取られていても後者を選ぶだろう。
法律に対して信頼をおいていないくせに、法律を犯した人に対して恐怖や畏怖の感覚が芽生えるのはなぜなのか。
そして自らも進んで法律を守ろうとするのはなぜなのだろうか。
不思議でならない。

もちろん、「罰則があるから」で解決する話ではある。お金にしても禁固刑にしても嫌に決まっている。しかし、それだけでは説明がつかない気もする。
親や先生が言ったからか?いや、それであれば廊下も走らないだろうし授業中おしゃべりもしないだろうし、靴下は脱いだあと裏返すだろう。けれどもそれらはしっかりと破ってきた。同じように叱りや時には身体的ダメージを受ける可能性があるのに。

すこし別の角度から考えてみよう。
もし、あなたの家族や大事な人が家に帰ってくるなり、口論の果に誰かを殺めてしまったと告白したらどうするだろうか。
僕の場合、リードタイム無しで通報するだろう。正当防衛(と、本人が思う)ならむしろ、正直に素早く警察に然るべき説明をしたほうがいい。
情状酌量の余地のあるようなことを相手にされたり言われた場合でも僕なら通報一択だ。

これは、その人と比べて法律の方が大事だと判断したからなのだろうか。
いや、そうでもなさそうだ。
個人的には、道路交通法の細かい隠れルールみたいなものでは無く、ニュースや何かで罰せられた人を見ていたりする絶対的にやったらダメとされている事。
窃盗や殺人などの社会的に明確に悪とされている行為を行った時点で、その人への信頼や愛情がなくなってしまうのだ。
ルール内でどうにかしようともがいて考えるのではなく、感情やその時の衝動を優先してしまう心根が嫌なのだ。
自分を相手取った際にも同じようにルール破壊をしてしまう可能性があるのであれば、考慮しなければならない事や注意しなければならないことが無限に広がってしまう。
そうなるともうその人とのコミュニケーションは格段に簡単に言えば面倒くさいのだ。

人と接するときもスポーツやゲームする時も、僕らは何かしらの前提を置いてものを考える。それがルールと呼ばれるものだ。
たとえば、サッカーならボールを持ってゴールまで走ってはならないから、相手がボールを持つかもしれないと言う行動に対して対策を取る必要がない。
これが、コイツは持つ可能性あります。となったらもう、その人とプレーするのは格段に面倒くさい。
人と人とが会話する際、急に顔面を殴られることはない。と言うルールで暮らしているさなか、この人は殴る可能性があるとなれば、右手はいつでもガードできるようにして置かなければならないし、万が一それで倒れても大丈夫なように、後ろに柔らかめの何かを敷いて置く必要がある。そんな人と絡むのはコストが高すぎるのだ。

これらを考えてみると、破るルールと破らないルールに違いがある事が分かる。
それは、制定者を知っているか知らないかだ。
法律やサッカーのルールって、僕らは誰が決めたかわからない。
けれども廊下を走るなとか、靴下を裏返せと言うルールは目の前で先生や親が提示してきたルールなのだ。

僕はきっと「知らない」ことに恐怖を覚えている。
もし、知っている誰かが発行したルールであれば、自分の交渉で改良や廃止、議論などの行動が起こせる。言わば自分の手の届く範囲の事象なのだ。だから恐れない。
これが法律となると、自分の力ではどうにも出来ず、文句を言う先もない。あるのかもしれないが「知らない」のだ。
だから、疑問を持つことすらも無駄で、無敵だから恐怖なのだ。
法律を力や知力で改正できる可能性のある立場や人物であれば怖くはないだろう。

このことを考えていくと、もしかしたら人生であらゆる瞬間に役立つかもしれないと思った。
いじめられる事がルールになっている子は、いじめっ子を知り、いじめのルールを変更する術を知ればいい。強大な力に弱いやつなのか、社会的な信用度を失うのが怖いやつなのかを知れば交渉はより、可能になるだろう。
別れるルールになっている二人がいたとして、それが怖いのは相手をよく知らないからなのかもしれない。何が阻害要因なのか、そしてそれは自分に解決可能なのかを明確にすれば例え別れるルールを変更できなくてももう怖くはないだろう。
恐怖や不安を克服していくことは、知っている事を増やせば可能なのだ。
書いてるうちに色々書きたい事が出てきて最初に思った着地ではなかったが怖くはない。
自分がどういう人間か僕は知っているのだから。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?