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In my bag Ⅴ(最終話)マザーズバッグ

 妊娠中にベビザらスで買ったマザーズバッグをななめ掛けにし、今朝は靴も靴下も履きたがらないタクトを裸足のままでベビーカーに乗せる。

 忘れ物はないかな?タクトの着替えとタオル、お茶のマグ、おなかが空いてぐずった時用のバナナとスティックパン、オムツ3枚とおしりふき、高所作業車とミキサー車のトミカとはたらくくるまの絵本、そしてレジ袋3枚。財布と携帯も大丈夫。

 マンションのエントランスを出る時は必ず、
「タッくん、おでかけ、レッツゴー!」と声をかける。するとタクトはにこにこと嬉しそうな顔をして、ベビーカーの横から私の顔を覗き込む。

 来月2歳になるタクトがよちよちと歩き出した頃から、2LDKの狭いマンションの中で1日を過ごすことができなくなった。オフスイッチの壊れたおもちゃのように家の中を走り回ったり飛び跳ねたりしているのを注意し続けなくちゃいけないし、たまに静かだなと思えば、大人では考えられないような悪事を働いているから。私の買ったばかりの折り畳み式携帯は、反対方向に真っぷたつに折り壊され、結婚前にユウスケと散々悩んで買った皮張りのベージュのソファには、油性ペンで真っ黒な前衛アートが描かれた。

 正直、私にとって育児は、残業まみれで働いた最後の職場での仕事よりも数倍過酷なものだ。仕事には一応休みもあったし、なにしろ報酬が用意されていた。だけど育児は違う。24時間365日無償で拘束。自分だけの自由な時間は皆無だし、授乳や夜泣きでこの2年間、朝までぐっすり眠ることもできていない。

 そして育児を辛いと感じてしまうこと自体が、ストレスの種になる。自分には母性が不足しているのではないかとか、タクトの落ち着きがないのは私の愛情不足が原因なのではとか、くよくよと悩んでしまう。

 外に出かけて遊ばせることでタクトの有り余る体力を消耗させてお昼寝への流れを作らないことには、家事をする時間が捻出できない。密室育児で鬱々としてしまわないためにも、月・水・金は近所の公園かショッピングモール、火曜は児童館、木曜は電車でふた駅の実家で午前中の時間を過ごすようになった。

 今日は火曜なので、近所の児童館に行く。「すくすくクラブ」に参加するのだ。クラブと言っても何か特別なことをするわけではなく、ただ児童館の職員さんと一緒にアンパンマン体操を踊ったり、音楽に合わせて手遊びをしたりするだけ。でもこのクラブは、今の私にとって大切な居場所だ。


 今日の活動では、画用紙に絵の具で親子の手型を取った。こんな図工のようなことをするのは、一体何年ぶりのことだろう。隣同士並ぶ大小の手の形を見て、タクトの手が私の手よりも大きくなるのはいつのことなんだろうと気が遠くなる思いがした。


 帰り支度をしていると、リノちゃんママが1枚の写真を手渡してくれた。

「タッくんママ、これ、この前撮った写真。タッくんめっちゃかわいく写ってたからあげる」

 それは「すくすくクラブ」のハロウィンパーティーで撮ったもので、ミツバチの仮装をしたタクトが満面の笑みで私の腕に抱かれて写っている。写真の中の私の横顔もタクトの顔を見て優しく微笑んでいた。

 私、お母さんの顔してるじゃん。

 そのままリノちゃんママと、最近駅ビルの中に開業した小児科について話しているとタクトがこちらへ向かって走ってきた。

「たっくん、ちっち、でちゃ。」

 オムツを替えなくては。

 使用済みオムツは各自持ち帰る規則になっている。ずっしりと重くなったオムツをレジ袋に入れ、マザーズバッグに押し込む。もらった写真はバッグのポケットに入れてある母子手帳に挟んだ。

 児童館の玄関で、今度は上着を着ないとごねているタクトをベビーカーに乗せた。寒空にトレーナー1枚では風邪をひかしてしまいそうだが仕方ない、このまま行こう。ベビーカーを押し始めると、こちらを覗き込みながらタクトが叫んだ。

「れっちゅごー」

 また新しく言葉を覚えたんだ。

 大丈夫、私はこの子を大きく出来ている。


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