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街場のメディア論 (内田 樹)

自分探し

 本書は、神戸女学院大学での内田樹氏の講義が原型となっていますので、当初想定されている読者は「学生」です。

 近い将来社会に出て行く学生たちは、就職活動を通じて自分が就職する企業を探すことになります。それは、自分と仕事とのマッチングを模索する営みでもあります。
 大学においてキャリア教育を教える立場にもある内田氏は、この就職活動において学生たちが意識する「適性と天職」という発想の否定から講義を始めます。

(p21より引用) 与えられた条件のもとで最高のパフォーマンスを発揮するように、自分自身の潜在能力を選択的に開花させること。それがキャリア教育のめざす目標だと僕は考えています。この「選択的」というのが味噌なんです。「あなたの中に眠っているこれこれの能力を掘り起こして、開発してください」というふうに仕事のほうがリクエストしてくるんです。自分のほうから「私にはこれこれができます」とアピールするんじゃない。今しなければならない仕事に合わせて、自分の能力を選択的に開発するんです。

 この感覚は非常によく分かりますね。
 私も40年ほど会社勤めをしているので、多くの若手・中堅社員をみてきていますが、仕事を通じて大きく伸びるかどうかは、まさにこの「発想の転換」の成否にかかっているように思います。

 もちろん、どんなことがあっても「仕事に合わせるべき」と言っているのではありません。

(p30より引用) 「天職」というのは就職情報産業の作る適性検査で見つけるものではありません。他者に呼ばれることなんです。中教審が言うように「自己決定」するものではない。

 「自分(の意思)」がすべてではないということです。「自分探し」で仮に(どんなものか分かりませんが・・・)「自分」が見つかったとしても、それと「自分がやるべきこと」に関わることができるかは別物です。

(p30より引用) 人間がその才能を爆発的に開花させるのは、「他人のため」に働くときだからです。人の役に立ちたいと願うときにこそ、人間の能力は伸びる。それが「自分のしたいこと」であるかどうか、自分の「適性」に合うかどうか、そんなことはどうだっていいんです。

 内田氏のこのコメントは、かなり極端に振った言い方ではありますが、「他者への貢献を自己目的化する」と、そのエネルギーはものすごく大きなものになるというのは、そのとおりだと私も思います。

 本書の後半での「贈与経済」についての立論でも、内田氏は、「他者との関係性」という視点からその理路を説いています。

(p207より引用) 今遭遇している前代未聞の事態を、「自分宛ての贈り物」だと思いなして、にこやかに、かつあふれるほどの好奇心を以てそれを迎え入れることのできる人間だけが、危機を生き延びることができる。

 最終講での内田氏からのエールです。

メディアの価値

 内田氏も、学者としては比較的マスコミへの露出も多い方で、まさに「メディア」を仕事場にしているお一人です。自分自身にも大きな関わりがあることから、わが事として「メディア」の動向については注視し、積極的に発言しています。

 昨今のこの手の議論は、インターネットに代表される新たなメディアの台頭と、新聞・テレビといった従来型メディアの衰退といったコンテクストが主流になっています。
 こういったステレオタイプの対比スタイルに対して、内田氏は、もっと根源的な価値判断がなされるべきだと指摘しています。

(p41より引用) メディアの価値を考量するときのぎりぎりの判断基準は「よくよく考えれば、どうでもいいこと」と「場合によっては、人の命や共同体の運命にかかわること」を見極めることだろうと思います。そういうラディカルな基準を以ってメディアの価値は論じられなければならない。どのメディアが生き残るべきで、どのメディアが退場すべきかがもっぱらビジネスベースや利便性ベースだけで論じられていることに、僕は強い危機感を持っています。

 この指摘は重要です。新たなメディアであっても「どうでもいいもの」は淘汰されるでしょうし、旧来メディアでも「重要なもの」は生き残るということです。

 では、「どうでもいいもの」であるメルクマールは何か、考えられる一つは、「正義」を追求するものか否かでしょう。
 このメディアの正義感がまた曲者です。メディア、特にテレビや新聞といった一般大衆に露出の多いメディアは、自ら「正義の味方」であることを標榜しますし、「弱者の味方」として振る舞います。

(p83より引用) メディアが一度「正義」だと推定したら、それは未来永劫「正義」でなければならないと思っている。「推定正義」が事実によって反証されたら、メディアの威信が低下すると思っている。でも、話は逆なんです。事実によって反証されたら「推定」をただちに撤回することがむしろ、メディアの中立的で冷静な判断力を保証するのです。

 「推定正義」を貫くメディアの姿勢に大きな問題があるとの考えです。これも、実感として首肯できる点ですね。

 さらに、こういう一種独善的なメディアの暴走は、「メディアとしての矜持」の喪失に根源があるようです。

(p93より引用) 具体的現実そのものではなく、「報道されているもの」を平気で第一次資料として取り出してくる。僕はこれがメディアの暴走の基本構造だと思います。

 これもそのとおりです。メディアが、直接情報源にリーチしないのであれば、まさに存在する意味はなくなります。
 一次情報の無条件な盲信に基づく情報の変形と拡散、こういったメディアの暴走の増幅が、すでにネットの世界では通常状況として起こっています。内田氏の用語を借りると、「発した言葉の最終責任を引き受ける生身の個人」が見えないのです。ネットにおける匿名情報の危うさが拡大している今こそ、顔の見える個としての責任あるメディアが復権する機会なのです。

 「どうしても言っておきたいこと」を語っているかが、メディアの命脈をつなぐものだと内田氏は説いています。ここにメディアとしてのraison d'êtreがあるのです。「自分しか語らない」、すなわち「語る自分」を確固たるものとしているか、それは別にNew mediaであろうとOld mediaであろうと関係はありません。
 要は「個としての主体的責任」に根源的な存在意義を認めているか否かの問題です。

市場原理

 本書は「街場のメディア論」というタイトルではありますが、直接的にメディアに関する話題以外でも、興味深い主張が数多くありました。

 そのうちのいくつかを以下にご紹介します。

 まずは、「市場原理の暴走」について。
 内田氏がある国立大学の看護学部に講演にいった際経験したエピソードです。
 そこのナースセンタには、「『患者さま』と呼びましょう」と呼びかけるポスターが掲示してあったそうです。厚生労働省からの指示によるのですが、この病院では、「患者さま」と呼び始めて、院内規則を守らず、ナースに暴言を吐き、入院費を払わず退院する患者が増えたとのこと。

 この状況に対する内田氏のコメントです。

(p77より引用) 当然だろうと僕は思いました。というのは、「患者さま」という呼称はあきらかに医療を商取引のモデルで考える人間が思いついたものだからです。

 医者と患者が向き合う医療現場も「売る人」「買う人」という「市場関係」と相似形で語ることができるのでしょうか。市場は決して誤らないという「市場原理主義」を、商取引以外の社会関係にまで無条件に敷衍するのは、明らかに間違いだと私も思います。

 こういった市場原理主義適用の過ちは、医療現場に止まらず教育現場でも見られます。

(p122より引用) 市場原理を教育の場に持ち込んではいけない。そのことを僕はずっと言い続けています。・・・「社会制度は絶えず変化しなければならない。それがどう変化すべきかは市場が教える」という信憑そのものが教育崩壊、医療崩壊の一因ではないのかという自問にメディアがたどりつく日は来るのでしょうか。

 もうひとつ、「著作権」について。
 最近、デジタルコンテンツの流通拡大に伴い「著作権」については様々な立場からの議論がなされています。内田氏は、公にした自身の評論・論文等については「著作権フリー」を実践しています。広く自分の主張を広めるためには、その方が良いとの判断ですが、「著作権」をビジネスの商材ととらえる動きもあります。

(p147より引用) 短期的利益と引き換えに、著作権を軽んじる社会では、創造への動機づけそのものが損なわれる。
 中国のような海賊版の横行する国と、アメリカのようなコピーライトが株券のように取引される国は、著作権についてまったく反対の構えを取っているように見えますけれど、どちらもオリジネイターに対する「ありがとう」というイノセントな感謝の言葉を忘れている点では相似的です。

 著作権はビジネスベースで扱われるべきものではなく、読者に対する「贈り物」であり、それに対しては「感謝の気持ち」で報いるべきというのが、内田氏の主張です。非常に面白い考え方だと思います。

(p176より引用) 「価値あるもの」があらかじめ自存しており、所有者がしかるべき返礼を期待して他者にそれを贈与するのではありません。受け取ったものについて「返礼義務を感じる人」が出現したときにはじめて価値が生成するのです。・・・ひとりの人間が返礼義務を感じたことによって、受け取ったものが価値あるものとして事後的に立ち上がる。僕たちの住む世界はそのように構造化されています。

 「著作権」として認められる「価値」の根源はどこにあるのか。これを追求する中で提示された「贈与経済」というコンセプト、そしてそれに依拠した内田氏の立論はとても独創的で興味深いものです。

 最後に、「メディア」の話題に戻ります。
 内田氏によると、昨今のメディアの劣化はその「定型的パターン化」の帰結とのこと。

(p99より引用) メディアの定型性は二種の信憑によってかたちづくられているというのが僕の仮説です。・・・
 第一は、メディアというのは「世論」を語るものだという信憑。第二は、メディアはビジネスだという信憑。この二つの信憑がメディアの土台を掘り崩したと僕は思っています。

 この内田氏の指摘は、現代メディアの本質を結構的確に言い表しているように思いますね。



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