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罪と罰 (ドストエフスキー)

(注:本稿は、2016年に初投稿したものの再録です)

 世界的にも名作と言われている有名な作品ですが、今ごろになって読んでみようと思い立ちました。
 何種類も訳本は出ているのですが、レビューをチェックして、まずは読みやすさ重視で亀山郁夫氏のものを選んでみました。

 小説ですから、物語の内容の紹介はネタばれにならないように最小限にするとして、断片的な表現や描写で気になったものを覚えに書き留めておくことにします。

 まずは、主人公ラスコーリニコフの思いや台詞からです。

(1巻 p11より引用) 人間がいの一番に怖れるものって何かってことだ。新しい一歩、自分の新しい言葉、人間は何よりもそれを怖れているんだ・・・

 新しいものへの怖れ、ロシアにおいては新たな社会体制でもありました。

 ラスコーリニコフの妹の婚約者、弁護士のルージンにはこう語らせています。

(1巻 p353より引用) 経済学的な真理はこう付けくわえています。社会のなかで、個人の安定した仕事が、・・・多くなればなるほど、社会はますます強固な基盤をもつことになって、社会全体の事業も整備される、とね。つまり、ひとえに自分のためにだけ利益を得ながら、まさしくそのことによって万人に益をもたらし、隣人にも、破れた上着よりもいくらかましなものを着せてやれるようになる、それも私的な、個人的な気前よさの結果としてではなく、全体の、いわゆる《大進歩》の結果としてそうなるわけです。

 もうひとつ、1巻では明らかにされなかった「ラスコーリニコフの行動に至る動機」につながる彼独特の思想を示唆した記述。

(2巻 p163より引用) 要するに、ぼくの結論はこうなんです、つまり、何も偉人にかぎらず、ほんの少しでも人よりぬきんでてる人間はみな、ほんのわずかでも何か新しいことが言える人間はみな、そういう自分の資質のせいで、ぜったいに犯罪者になるしかないっていうことです。

 一種の “選民思想” ですね。抜きん出ている人は、過去を壊すこと(=犯罪)が使命であり義務だということですが、そのために「刑法犯」まで犯してもよいとなると・・・、普通これは流石に行き過ぎなのですが、その世界にまで踏み込んだラスコーリニコフにとっては、自らの理論において正当化される行動だったわけです。

 さて、私もようやく読み終えました。
 ロシア文学はいくつか手に取ったことはありますが、本格的な長編小説を読んだのは、恥ずかしながらこれが初めてだと思います。(ちなみに「戦争と平和」は全巻持っていますが、まだ1巻の途中です)

 この物語、描かれているのはわずか2週間ほどの間の出来事なのですが、まさに圧倒的な質量を感じます。
 そして、シンプルなタイトルの「罪と罰」、「罪」はたぶんこれだろうと思うものがあるのですが、「罰」は何が相当するのでしょう・・・(むしろ、これが「罰」?)。

(3巻 p446より引用) せめて運命が後悔をもたらしてくれたなら―心臓をうちくだき、夜の夢をはらう、じりじりと焼けるような後悔を、おそろしい苦しみに耐えられず、首吊りのロープや地獄の底を思いえがかずにはいられないような後悔をもたらしてくれたなら!ああ、どんなにかそれを喜んだことだろう!苦しみと涙、それもまた生命ではないか。しかし、彼は自分の罪を悔いてはいなかった。

 物語のエピローグ、最後は主人公たちにとって僅かに明るい光が見えるような余韻ですが、そこに至るラスコーリニコフの心の苦悶が「罰」なのでしょうか・・・。

(3巻 p462より引用) この幸せがはじまったばかりのころ、ときどきふたりは、この七年を、七日だと思いたいような気持ちになった。彼は気づいていなかった。新しい生活は、ただで得られるものではなく、それははるかに高価であり、それを手に入れるには、将来にわたる大きな献身によって償っていかなければならない・・・。

 こういった作品を味わう上では、旧弊たる「国語の授業」の得意技、「この小説の主題は何か?」といった問いは不相応です。
 読後のゴールとしての「解釈」への拘りは全く不要だと思わせるような作品でした。



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