新編 普通をだれも教えてくれない (鷲田 清一)
(注:本稿は、2012年に初投稿したものの再録です)
会社近くの図書館の書棚を眺めていたとき、ちょっと変わったタイトルが気になって手に取った本です。
著者の鷲田清一氏は大阪大学総長も務めた哲学者です。哲学といっても専門は「臨床哲学」とのこと。私としては、初めて耳にしたジャンルです。
本書は、こういった視点から鷲田氏が様々な新聞・雑誌に発表したエッセイを取りまとめたものです。身近にある多彩なテーマを鷲田氏独特の切り口で解きほぐしていて、なかなか興味深い内容でした。
たとえば、「被災の周辺に〈顔〉が感じられる」というタイトルの小編から。
鷲田氏は、街中で見かける「顔」、生身の顔もポスター等の顔も、「応答のない抽象的な顔」だと感じていました。しかし、1995年(平成7年)1月17日に発生した阪神淡路大震災直後、被災地近辺では、圧倒的な存在感を持った「顔」が著者に迫ってきたのでした。
昨年の今頃も日本中でそういう顔が溢れていたことでしょう。
もうひとつ、「私的なものの場所」というエッセイから、「他者」との関わりの中での「自分」についての考察。
他者との関わりが新たなアイデンティティの可能性を拡げてくれるという考えです。
一昔前に流行った「自分探し」、(私はこの言葉にはどうも馴染めないのですが、)この探索が何か真なる自分が自分の内部にあることを前提にしているのであれば、決してこの営為のゴールは見えないのだと思います。アイデンティティが内在的な単一なものであるという硬直的な考えは、かえってアイデンティティの不安定さを増幅してしまうのです。
最後は「思いが届くだろうか ホスピタリティについて」の章、「ささえあいの形」で語られている「インターディペンデンス(相互依存)」の形。
この究極の感覚、その境地にはもちろん到底至っていませんが、ほんの少しわかる気がします。
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