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新編 普通をだれも教えてくれない (鷲田 清一)

(注:本稿は、2012年に初投稿したものの再録です)

 会社近くの図書館の書棚を眺めていたとき、ちょっと変わったタイトルが気になって手に取った本です。

 著者の鷲田清一氏は大阪大学総長も務めた哲学者です。哲学といっても専門は「臨床哲学」とのこと。私としては、初めて耳にしたジャンルです。

(p64より引用) 哲学は市井の多くのひとたちのなかに生きている。多くのひとたちによって生きられている。ほんとうに大事なものは何か、それをひとびとの生き方のうちに見つけるのが哲学ではないのか。・・・そんな思いで同僚とはじめた「臨床哲学」の事業はまちがっていないと、確信を新たにした。

 本書は、こういった視点から鷲田氏が様々な新聞・雑誌に発表したエッセイを取りまとめたものです。身近にある多彩なテーマを鷲田氏独特の切り口で解きほぐしていて、なかなか興味深い内容でした。

 たとえば、「被災の周辺に〈顔〉が感じられる」というタイトルの小編から。
 鷲田氏は、街中で見かける「顔」、生身の顔もポスター等の顔も、「応答のない抽象的な顔」だと感じていました。しかし、1995年(平成7年)1月17日に発生した阪神淡路大震災直後、被災地近辺では、圧倒的な存在感を持った「顔」が著者に迫ってきたのでした。

(p92より引用) それぞれのひとがそれぞれにかけがえのない「あのひと」に思いをはせる、そういう思いつめた気配を、道行くひとの顔や背筋や指先にふと感じた。

 昨年の今頃も日本中でそういう顔が溢れていたことでしょう。

(p93より引用) 面前でじっと見つめられるというのでなくてもいい。だれかがわたしを気づかい、わたしを遠目に見守っている、そういう感触、それが〈顔〉の経験ではないか。顔とは、「呼びかけ」、あるいはささやかな「訴え」であり、見られるものではなくて与えるものだ、そしてそういう顔の存在が他人を深く力づけるのだということを、つくづく思ったここ数日であった。「ボランティア」の精神というのも、実はこの、〈顔〉を差し出すという行為のなかにあるのかもしれない。

 もうひとつ、「私的なものの場所」というエッセイから、「他者」との関わりの中での「自分」についての考察。

(p201より引用) じぶんはだれか。それをすぐに内部に、つまりじぶんのなかで持続する同一性に求める習慣から一度じぶんを隔てる必要がありそうだ。わたしたちの「だれ」はむしろ、他人との関係のなかで配給される。この関係が、わたしたちにアイデンティティのステージ、それも複数のステージを設定してくれるということ、そこに視線を戻す必要がある。その意味では、先の震災後、多くのひとがかかわったボランティア活動も、そういうステージにじぶんを置く行為だったように思えてくる。
《私生活に欠けているのは他人である》

 他者との関わりが新たなアイデンティティの可能性を拡げてくれるという考えです。
 一昔前に流行った「自分探し」、(私はこの言葉にはどうも馴染めないのですが、)この探索が何か真なる自分が自分の内部にあることを前提にしているのであれば、決してこの営為のゴールは見えないのだと思います。アイデンティティが内在的な単一なものであるという硬直的な考えは、かえってアイデンティティの不安定さを増幅してしまうのです。

 最後は「思いが届くだろうか ホスピタリティについて」の章、「ささえあいの形」で語られている「インターディペンデンス(相互依存)」の形。

(p291より引用) 他人が過ごした時間の厚みを、微笑んで受けとめる。同情するでも批評するでもない。距離を埋めも空けもしない。ただしっかりと受けとめること、それだけが相手を支える力となる。

 この究極の感覚、その境地にはもちろん到底至っていませんが、ほんの少しわかる気がします。



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