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リスクを生きる (内田 樹・岩田 健太郎)

(注:本稿は、2022年に初投稿したものの再録です。)

 いつもの図書館の新着本リストの中で見つけた本です。

 内田樹さんの著作は今までも時折手にしていましたが、直近では「サル化する世界」以来になります。他方、岩田健太郎さんの著作はやはり新型コロナ関係になりますが「感染症は実在しない」を読んだぐらいです。

 本書は、ちょっと気になるお二人の対談ということで手に取ってみたのですが、想像どおり興味深いやり取りや指摘がいくつもありました。
 それらの中から順不同ですが、いくつか書き留めておきます。

 まずは、昨今の社会で頭をもたげている「反知性主義」の話題から、内田さんのコメントです。

(p74より引用) 権限をトップに集中するということをこの四半世紀ほど日本のあらゆる組織で進めてきたわけですけれども、その結果、組織の上から下までイエスマンで埋め尽くされ、定期的に大量のブルシット・ジョブが発生するようになった。それが日本衰退の実相だと僕は思います。

 知性のないトップを頂いた不幸です。が、そういった社会体制を許してきたのは、多くの国民の “知性軽視の姿勢” なのでしょう。

 続いて、大学をはじめとした日本の教育水準について。
 内田さんは、1991年の大学設置基準の大綱化以降、大学の査定とそれにもとづく資源配分が始まったと語ります。そして、その「査定」が大学の劣化の元凶でした。

(p97より引用) 査定というのは「みんながしていることを、みんなよりどれだけ上手くできるか」の競争です。「誰もしていないことをしている」というのは格付け不能ですから、ゼロ査定されるリスクがある。だから、格付けが厳密になればなるほど多様性は損なわれる。それは当然のことなんです。 格付けと多様性は共存できない。日本の学術的発信力がこの四半世紀で先進国最低レベルまで下がったのは、査定を推し進めたことが最大の理由だと僕は思っています。

 査定による大学の淘汰は「教育への市場原理/マーケティングの導入」によりもたらされたのですが、市場原理が教育を裁くのは暴挙そのものでした。

 そして、最後は、「専門家」についての岩田さんのコメント。

(p141より引用) 専門家とは、専門領域のフレームが見えている人。要するに、「ここまではわかっている、この先はまだわからない」という境界線がちゃんと見えている人がプロなんです。「わかる」のが専門家ではない。むしろ「わからない」のが専門家。ややこしい言い方になりますが、わからない領域があるのをわかっているのが専門家であり、それを意識させ、気づかせてくれるのが非専門家なんです。

 未だ終息には至らない「新型コロナ禍」を発端として “感染症” に関する情報が様々な人々から発信されました。その中には、明らかな “素人” “門外漢” もいますが、いわゆる “専門家” とタイトルされた一群も登場しました。

 これらの自称・他称の “専門家” が、岩田さんの定義にしたがって区分され、それぞれの発言の背景や論拠が明示されたとしても、結局のところ、そういった “科学的・論理的な判断軸” を認め、それを踏まえ自分の頭で考えて判断するか、それとも “一言で言えば” といった単純思考で声の大きい方に迎合するか・・・、要は、情報の受け手である私たち主体の姿勢によるわけです。

 根本的な問題は、“受け手の反知性化” です。



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