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歴史とはなにか (岡田 英弘)

 はるか昔に読んだE.H.カーを思い出すタイトルです。
 とても抽象的なだけに、かえってどんな内容だろうかと興味がわきます。著者の岡田英弘氏は、東京外国語大学名誉教授、中国・日本古代史の専門家です。

 まずは文字どおり、著者による歴史の定義から。

(p10より引用) 「歴史とは、人間の住む世界を、時間と空間の両方の軸に沿って、それも一個人が直接体験できる範囲を超えた尺度で、把握し、解釈し、理解し、説明し、叙述する営みのことである」

 何が歴史かというのは、個人の範囲を超えて何を歴史と認識するかということだとの論です。

 そういった観点から、著者は、歴史特に中国史・日本史における通説的考え方を検討していきます。
 本書で開陳されている著者の指摘には、独自の立論に基づく興味深いものが多数ありますが、それらの中からいくつか以下にご紹介します。

 まずは、「柳田国男の民俗学の位置づけ」について言及した部分です。

(p102より引用) 柳田民俗学は、常民文化の復原をこころざした。・・・
 日本の常民のなかには、唐心で汚染されていない、本来の日本(大和)民族のおこない、姿が残っているはずだ。これらを拾い出し、洗い清めて、うまくつじつまを合わせて組み立てれば、古代ギリシア神話のような、美的に調和のとれた、壮大な構造がつくれるのではないか。それを、日本人のアイデンティティの基礎にしよう、という試みなのだ。

 著者は、日本において「歴史」が重視される理由として、「明治以後の日本人の国民的なコンプレックス」があると考えています。
 19世紀、日本は外圧により開国したことから、古来の自分たちの文明に代わって全く異質な外来の文明の採用に動きました。さらに、第二次世界大戦の敗戦という社会的・精神的断層も経験しました。
 こういった道筋が特異なコンプレックスを生起させ、新たに日本人としてのアイデンティティの再構築が求められたのだという論です。

 それから次は、「正史」についての論考。
 著者の歴史の定義には、「一個人が直接体験できる範囲を超えた尺度で」との要件がありますが、これは「価値中立性」を求めたものではありません。「よい歴史」は普遍性を有するものですが、個人が記す以上、完全に普遍的であることは不可能でしょう。著者の描く「歴史」の現実的な姿は、分かりやすくいえば、「自己の立場を正統化する物語」だともいえるようです。

 そういう観点からみると各国・各王朝の「正史」の記述内容には、多かれ少なかれ、それが書かれた政治状況を踏まえた史実の取捨選択・改ざん・創作が見られるのです。すなわち、よく言われているように、正史は「時の権力の正統性の根拠づけ」のためという合目的的な記述であるということです。

(p134より引用) そもそも、もともと七世紀、八世紀に日本で歴史を書きはじめた人たちだって、『日本書紀』で民族の起源を語っていたわけじゃない。・・・語っていたのは、皇室の君主権の起源だったのであって、民族や国民の起源じゃなかった。ところが、われわれはつい、十九世紀に発生した国民という観念、二十世紀に発生した民族という観念で、こういう歴史書を、読みかえてしまうのだ。

 したがって、この類の「歴史」は史実とは限りませんし、そこに描かれている内容はごく限定的な視点のみにフォーカスされているのです。ここに、著者は、「日本書紀」や「古事記」の記述から、日本「国民」、日本「民族」の由来を語ることの誤りを指摘しています。

 そして、もうひとつ、この「国民」とか「民族」という観念について。

(p165より引用) 「国家」や「国民」は十九世紀からはじまった新しい観念であり、「民族」はさらに新しく、二十世紀に入ってからできた、しかも日本でしか通用しない観念だから、そんな用語を使って、十八世紀以前の、国家や国民がまだなかった時代の歴史を叙述するのは間違いで、とんだ時代錯誤だ。

 著者の論では、「国民」という観念は、革命により王の財産を奪った受け皿として発生したものであるし、「民族」については、日露戦争前後日本で「nationalism」を「民族主義」と訳したのが起源の日本固有のものだというのです。

 最後に「歴史」を議論する際には必ず登場する「マルクスの唯物史観」についての著者の考えを書きとめておきます。
 著者は、特に現代史を論じる場合、唯物史観は議論に不適格なバイアスを生じさせるものだと考えています。

(p144より引用) 歴史には一定の方向がある、と思いたがるのは、われわれ人間の弱さから来るものだ。世界が一定の方向に向かって進んでいるという保証は、どこにもない。むしろ、世界は、無数の偶発事件の積み重ねであって、偶然が偶然を呼んで、あちらこちらと、微粒子のブラウン運動のようによろめいている、というふうに見るほうが、よほど論理的だ。
 しかし、それでは歴史にならない。・・・もともと筋道のない世界に、筋道のある物語を与えるのが、歴史の役割なのだ。・・・世界の実際の変化に方向がないことと、歴史の叙述に方向があることとは、これはどちらも当然のことであって、矛盾しているわけではない。

 唯物史観は「政治の論理」であって「歴史の論理」ではない
 著者の考え方は明確です。



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