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多様性を認めるって言葉は、ただの綺麗ごとではないかと思ったり

人間関係ミニマリスト無関心シリーズで、なんとなく思っていることを3本も一気に続けて書いてしまったので、仕方ないのでもやもやシリーズを続けてあげています。
ちょっと私のもやもやnoteに食傷気味の方は、このあとに控えている来週の「バゲット殺人事件(仮) ソロキャンプ編」まで遠慮なく、しばしお休みくださいませ。


昨今やたらと口にされる「多様性を認める」という言葉。
なんか、それを言っとけば間違いなしみたいな気がして、少しうさん臭さを感じ始めている。かくいう私もよく「多様性を認め合う社会やからね」とよく口にしてはいるが。
ここで、「多様性とはこうだ!ダイバーシティ!!」とか声高に語れるほどの言葉は持ち合わせていないのだが、自分の中のなんとなくの引っ掛かりを書きたくなったので、今日はそれを書きながら自分で少しもやもやを整理するのが目的です。

「多様性を認める」って言っても、認めることのできる多様性って、自分の想定内だったり一般的に認め合っていこうと言われているジャンルに限定されている気がする。例えばLGBTとか、宗教、障害などなど。
同性が恋愛対象であることは認めることが可能な多様性だが、ロリータ傾向のある恋愛だとちょっと眉をひそめるし、2次元じゃないと愛せない人なんかは「ちゃんと人間を愛そうよ」とか言って認めにくい人も多いだろうし、かと言って、小児性愛なんかは当たり前だけど認めるわけにはいかない。
多様性を認めるということは、社会に予想していない異物も混入することであり、かなりリスキーなことだと思う。それなのに、リスキーな部分には目をやらず、寛容に認められる差違にだけ目を向けて認めると言うのでは、多様性を認めるとは言わないのでは。
そもそも「認める」とはどういうことか調べてみた。

「認める」とは
1 目にとめる。存在を知覚する。気づく。
2 見て、また考えて確かにそうだと判断する。
3 正しいとして、また、かまわないとして受け入れる。
4 能力があると判断する。
5 気をつけて見る。じっと見る。

多分、「多様性を認める」の認めるは3の意味で正しいこととして受け入れるということだろう。だから私には抵抗があるのだなあと今分かった。
正しいことだけを認めるなんて、誰が正しいかそうでないかを決めるのだろう。世の中、正しいことばっかりではないし。
認めるとか尊重するとか、なんか偉そうな感じがするときもあるんだけど、それは私がひねくれているだけかも知れないけど、でもそう思える。
「よし、お前を認めよう」「君の考えを尊重するとしよう」みたいな上下関係がうっすらなくもない。逆に「おい!認めろよ」「尊重してよね」という主張と要求が強すぎる時もあるかも知れない。虐げられる人は声を大にして主張しないといけない局面もあるだろうが。

「認める」「認めてもらう」だけじゃなくて、時には、究極を言えばこれも「無関心」でもいいんじゃないか、と思う。
(あ、ここでの「無関心」は、マイノリティーが虐げられていても自分には関係ないし、という排除するニュアンスの「無関心」ではないです。)
分かろうとして歩み寄って理解し合うのが理想だとしたら、自分とは全然違い過ぎて意味不明です、分かりません、と白旗をあげて、無関心で(近くに)いること。このスタンスでもいいような気がする。
結局、「こうあるべき」「こうすべき」と自分の考えを押し付けたり、マジョリティーがマイノリティーを排除したり呑み込もうとするからいけないのであって、それぞれ違って分かり合えないけど口出しはし合わないことで、とりあえずそれでやっていこう、ってのも多様性に対する一つのスタンスの取り方ではないかなと。
例えば、友達に、他人に全く理解してもらえないような私自身の変な所を話しても「分かるよ」「自分もそういう部分があるかも」と同調的だったり支持的に聞いてもらえることはよくあるが、ヘンテコ仲間のしめちゃんにはよく「全く分からへん。」「めっちゃおもろいけど私には100%そんな部分はないわ。」と断言されることがある。
そして、それが支持的に「分かる分かる」と尊重されるよりも、逆に気持ちがいい時がある。綺麗ごとを言わないしめちゃんの得な部分ではあるが。
彼女は、「もしかしてよくよく聞いてみたら理解できるかも…」と思ってちゃんと詳しく聞いてくれるが、それでも結局自分とは違い過ぎると分かると、否定ではなく、自分は違うということを表明だけはする。だけど存在を否定されてはいない。
全く分からん部分として、そこに「こうあるべき」と押し付けてこずに、その分からない部分に関しては、分かり合えないゾーンであると思って「無関心」の引き出しに入れておいてくれる。そして一緒にいてくれる。それは、認めるの1の意味「目にとめる。存在を知覚する。」に近いかも知れない。自分と全く違う存在がここにいる、とだけ知覚してあとは干渉しない。「そんな人もおるんかも知れんね、私は違うし全く理解できないけど」という切り離し方が、対等でお互いにとって気楽な時もある。

多様性を認めるってどこまで認めるの?
ちゃんと深い部分まで話を聞いて理解した上で認めるに至ってるの?
人それぞれやんって言うけどそれは向き合うことから逃げてないか?
だったら最初から誰に対しても等しく無関心でいてもいいんじゃないの?
いやそれじゃ寂しいじゃないのってそれの何がいけないの?
口出ししないから、こっちのことにも口出ししないでね、それが自由ってもんでしょうっていう無関心の形もアリじゃないの?
分かろうとするのをやめてもいいのでは?
分かり合えないし分かろうとするのもやめるけど、それは置いといて一緒にいるってのは結構、居心地良くないか?

などなど、そういう問いが頭に浮かんでは答えが出ず考えがまとまらずにどんどん散らばっていくタイプの人間です私。
人と人はきっと必ず分かり合えると思って生きている人と、
分かり合えないからこそ話し合うんだという人と、
分かってもらいたくて語る人と、
そこまで分かってほしいと思っていない人と、
本当の意味で分かり合えることなんてないと思って生きている人とでは、まったく会話がかみ合わないし、それぞれの出すベストアンサーも違う。
だから、こんなダラダラと好き勝手に書いている素人のnoteで「多様性とは」の結論なんて出るはずもなく、出すつもりもないし、書けるはずもない。
ただ、「無関心」というワードで連想した日頃もやもやしていたことをダラダラっと書いただけ。そんな今日の人生。


写真はインド、コルカタのマザーテレサの施設の入り口。

関係ないけど、「NO VISITORS 」の看板の手書きのフォント、海外でよく見かけるけど可愛くて好きです。
とくに「BETWEEN 」の「E」が可愛い。

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