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ネブワースが絶頂期だった 【映画感想】

全世界同日公開の映画「oasis ネブワース1996」を見てきた。


oasis関連の映画はいくつも見てきたが、今回のはドキュメンタリー映画で、主役はギャラガー兄弟というよりも、ファンだった。
1996年にoasisが行った25万人のネブワースでのライブのドキュメンタリーだったのだが、何とも胸が震えた。
もう私の青春ど真ん中で、1996年と言うと19歳。音楽に夢中だった。UKロックの盛り上がりに熱狂していたし、TSUTAYAでCDをレンタルする時代にデヴィッドボウイやクイーン、ピストルズなど過去のスーパーアーティストのCDをレンタルしてきたが、当時の「今」のアーティストとしてCDが発売されてレンタルではなくバイト代で買う、というのはoasisが初めてのバンドだったような気がする。pulpやblur、1997年からはradioheadに寄っていったが、とにかくUKロックに熱狂していたし、UK好きの男の子の誘いなら、1回くらいならデートしてあげるわよ、とデートに応じて音楽の話に盛り上がりまくるという私の黄金時代だった。かな。本当か。どうだろ。記憶ねじ曲げか。まあいいや。そんな時代。
ネブワースの映画の中では、当時私と同年代のoasisのファンが、チケット発売日に、家の大きな電話からダイヤルを何度も回して取ろうとしていて、取れた人たちは写真入りの紙のチケットをゲット。朝まで遊んだ帰りのレコード店でチケットを2枚だけゲットしたラッキーな子たちもいた。ネブワースまでの遠い道のりをみんなでバスに乗ったり、小さな軽自動車で相乗りで向かったり、長距離を歩いている姿。みんな自然発生的にoasisの曲を合唱し始めたり。キャミソールやoasisTシャツを着た若者たちが会場入りしてタバコとビール。なんだか全てが懐かしくて、それだけでこみあげるものがある。
余談だが、カセットテープでoasisのライブ音源のラジオを録音していたファンの姿にも、微笑ましく思った。録音中にカセットテープをB面に裏返すタイミングが難しいのは世界共通だったのか、と笑った。
ライブまでのファンの姿が、ネブワースの1年後の1997年に第1回目のフジロックフェスティバルへ行った私と友の思い出と完全に重なって(私も同じように、友達と朝まで遊んだ帰りにチケットぴあでフジロックのチケットを手に入れた)、感情移入し過ぎて、「The masterplan」で涙が流れてしまった。

ファンの視点からのドキュメンタリーに自分自身がぴったり重なる中、oasis側の視点からのシーンにもしびれた。
2日間で25万人を動員したoasisのライブは、前座がオーシャンカラーシーンや、ケミカルブラザーズ、プロディジー(キースが元気でこちらも泣けた)というメンツで、トリがoasisな訳だから最高のフェスやんっとしびれる。ゲストにケイト・モスやらジャーヴィス・コッカーがいて、うわ、バックステージ行きたいってなった。
前座ですら凄すぎるメンツだが、25万人集められるアーティストはoasis以外いないって言っちゃうノエルが最高。
oasisのライブ映像も始まり、名曲ばかりでやっぱり良い。
当時のネブワースの会場で「oasisの中で誰が好き?」と質問して回り「リアム」「ノエル」と答えるファンたちの表情が輝いていた。私も昔から何度もこの問い(というか厳密に言えばギャラガー兄弟どっちが好き問題)について考えてきた。
oasisのライブを見に行った帰り道は大体、リアムの声について語り合ったし、とは言えドンルクが最高!と兄貴も称えていた。
ソロになってからのリアムのライブに行けば「やっぱリアムの声は唯一無二で最高」と思うし、ノエルのライブを見れば「天才ノエルがいなけりゃ名曲は生まれてない」とも思う。
リアムの声は持って生まれた素晴らしい宝だったし(あえて過去形。「どうして天が授けた声を大事にしないのか」と怒っていた兄貴の意見には同意する)、ノエルのソングライティングの才能は、彼がどんなに悪態をついて暴言を繰り返しても霞まない。
私はビートルズが大好きだが、あんなに口の悪いギャラガー兄弟なのにビートルズに対しては一貫してリスペクトを貫いているところが、私と仲間意識を持ってしまう。oasisの曲がどれもビートルズテイストと言われようと良い。あの兄弟は結局憎めないのである。
この6〜7年(コロナ前)は、毎年どちらかが来日してライブをしているイメージで、年に一度は眉毛兄弟のどちらかのライブを必ず見てきたが、リアムの歌声は全盛期の足元にも及ばないものになってしまっているし、ノエルもソロだと華がない。兄弟喧嘩はやめて再結成をして欲しい願望もなくはないけど、今更感もあるし、自分はきっとガッカリするんだろうなぁとも思う。
今日、1996年のネブワースのoasisを見て、まさにこの頃、いや、このライブのoasisが、絶頂期であることは間違いないと思った。
リアムの声がピークで美しいし、いい加減な投げやりな歌い方をしていない。ルックスもピーク。ノエルの自信過剰が歌にまだ現れてなくて良い。ドラムも良い。ゲストにジョン・スクワイアなんて最高。なんて素晴らしいのだろうと心から震えてしまった。
当時の思い出を語るファンの声が時々入るのだが、どんなにこの時間、この空間が輝いていたのかが伝わってくる。
「oasisにしてあげたいこと」を聞かれたファンの一人が「透明人間にして、この会場の中に連れてきてあげたい。ここがどれだけ素晴らしいか、私たちがどれだけ幸せか分かるから」というようなことを言っていたシーンが心に残った。「人生最良の日」だと言うファンたち。
私の初めてのフジロックもそうだった。楽しくて幸せで熱狂してて、輝いてたと思う。
ノエルがステージから「This is history!」と叫んでいて、観客みんなが歴史の証人であり、歴史を作った当事者であるというメッセージも素晴らしかった。
ファンの1人が、「この時代のライブはスマホもSNSもなくて、誰もが、会場にいない誰かにライブ会場からメッセージを送ったり、写真を撮ったり会場から投稿したりせずに、ただ音楽に集中していた。多分これが最後の時代だ。」と言っていた。
ネブワースの一年後に行われたフジロックフェスティバルに行った時も、私は携帯を持ってなかった。友はPHSを持っていたが電波はほぼ飛んでいなかった。ただ隣にいる友と音楽を楽しんだ。
だけど、その後のライブからは、徐々に、携帯を持ったり、パソコンが我が家にやってきたおかげでインターネットでチケットを買ったり、ライブの情報を見られるようになっていった。

明らかに時代が変わっていったのである。
そして、その時代の変化に戸惑うことすらなくなり、完全にスマホ時代に順応していた頃にやってきたコロナウイルス。更に時代が完全なる方向転換をしてしまった。

ネブワースのライブ映像に異様にノスタルジックで感傷的になってしまったのは、超密な12万5000人の観衆が、oasisのどの曲もシンガロングしている姿のせいである。野外とはいえこの規模の人数が集まってみんなでロックアンセムを熱唱する日なんて、きっと2度と来ない。
みんなで大合唱できる曲を作るアーティストなんてもう出てこないだろうなあと、以前からよく思ってはいたが、もういまや、そもそも集まれないし大合唱も無理だろうな。海外のフェスではちょこちょこコロナ前に戻しつつあるけれど、私の中に生まれてしまった恐怖心が拭える日が来るとは今は思えない。
それこそ、ネブワースは、手放しで音楽だけに集中して楽しめる最後の時代だったと思う。
もしも世界中のoasisファンの願いが叶って、ギャラガー兄弟が仲直りしてoasisが再結成したとしても、リアムの声は昔ほど伸びないし、3年前に大阪で見たリアムライブも1000人くらいしか集められなかったし声も酷かった。全く別物になるし、不安なく大合唱もできない。
こんな最高のライブ映像を見てしまったら、もうどうしようもない。もうどうやったって戻れないのだから、oasisへの願いも本気で封印しようと思った。
ただ、同じ時代を生きたこと、あの熱狂時代を味わえたこと。そして今聞いてもしみる曲たちがあること。それだけで十分なのだなあと思った。

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映画館で、oasis初期のロゴのステッカーを貰えて嬉しかった。


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