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沢木耕太郎の言う「旅の密度」と、少し的外れなモロッコのミントティー

昨日5/16は「旅の日」だったので、旅の話を。
私のバックパッカー旅の師匠は、ベタ中のベタでやはり沢木耕太郎なのだが、『深夜特急』を初めて読んだ時の興奮を超える旅行記に出会ったことはまだない。
沢木耕太郎の本は旅行記以外はあまり読んでいなかったが、それ以外のジャンルもちょこちょこ手を出してみたら案外面白かった。と言ってもまあ、旅がテーマになるのだが。
『貧乏だけど贅沢』という対談集も面白かったのだが、「その通りです!沢木!!」と声をあげたくなった箇所があった。

僕はたいてい一人で旅行をするんですけど、夕食のときだけは誰かいてくれないかなと思います。
でも、やはり、一人のほうが旅としては濃くなるんじゃないですか。

それはなぜかって言うと、たぶん一人のときには、もちろん言葉には出さないけど、一人でずっと独り言を言っているんだと思うんです。身の周りでさまざま生起することに対して、自問自答してるんだと思う。

一人だとその言葉が内部に蓄積されていくんだけど、二人になると言葉をやりとりしてる分だけ溜まらないで出ていってしまう。それで、濃密さの度合いが一人のときと違っちゃうんですよ、きっと。

旅の密度をほしい人は一人で行った方がいいだろうけど、そんな密度なんて必要ないっていう人だってもちろんいるわけだからね。


確かに。
自分の中で、自問自答した言葉が内部に蓄積されるから濃くなる。

昔、仲の良い地元の友達と韓国に行って、東大門の居酒屋で5時間くらい2人で喋っていたことがあり、
「韓国にわざわざ来なくても地元の甘太郎で良かったな」と言い合ったこともあった。
飲み物はいつものレモンサワーではなく本場の生マッコリだったが、話したことはいつも通りの話で、内容は見事に流れていった。アルコールのせいもあるが。
楽しかったのは間違いないが、どこに行っても、その友人といるとただの日常になってしまい旅のパートナーには向かないという悲しい宿命だ。

風景とかもそうかも知れない。
誰かと「綺麗やなぁ」と言い合えることで共通の思い出ができるということもあるけど、溜まらずに出ていってしまう部分もある。
後から思い出しても、「ああ、綺麗やったなー!」と言い合う程度になりがち。
一緒に見た景色がそれ以後、共通言語として作られるのは、それはそれで素晴らしいことではあるが、思い出の濃度としては一人の時よりは薄まってしまう。

自分一人で綺麗な風景を見た時に、その時の自分が考えたこと、感じたことを、ああでもないこうでもないと、自分の中で言葉を探したりするうちに、溜まって濃くなる気がする。
また、その景色に出会うに至った経緯や道のりも一人の方がしっかりと心に残り、それも含めて絶景になるのだ。

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旅の濃さで思い出すのはモロッコのミントティー。
ミントの葉が山盛り、砂糖も山盛り入った、恐ろしく濃度の濃い激甘の飲み物。
ただのミントの葉が集まりまくって、お茶の底の底まで溜まってチューイングガム20本分の威力で口の中で爆発する。あの清涼感と、山ほどの砂糖の甘さの背徳感のバランスがたまらん。暑いモロッコで飲むのが余計にいい。
これを飲んじゃうと、日本のカフェで時々見かけるミントティーなんて、もどきも甚だしいし薄過ぎるし何も感じない。いやいやせめてスティックシュガーをもう20本ちょうだいよ、とすら思う。
とは言え、毎日このモロッコのミントティーを日常で飲むかと言われるとそれはそれで厳しい。
「毎日飲むこのお茶のせいで両親は糖尿病だよ」と悲しく言っていたモロッコ人もいた。
濃すぎるし甘すぎる。
一人旅の濃さってこんな感じだろうか。
うーん。
なんか違うか。
いまいち的を射ていないから却下。
ミントティーのことは一旦忘れてほしい。


で、
旅での些細な出来事も、一人で自問自答し続けることで些細なことが些細じゃなくなることもある。
例えば、ある時、丘の上から見える風景をスケッチブックに描いている旅人らしき人に会って「画家ですか?」と聞いたら、その人は
「No.On the road...」と答えたことがあった。
「旅の途中…」「彷徨っている…」どういう日々を送ってるのだろう…。俄然興味が湧いて、その人のその一言について、ずっと言葉の意味やその旅人のことを考える日があった。それからも時々あの旅人のことを思い出す。
そういう些細な、一人旅じゃなかったら忘れ去られるような出来事が確かに溜まっている、私の心に。

沢木耕太郎の本を読むと、沢木みたいに、自分の旅で起こったり、自分の心の中に起こったりする現象を、ぴったりの言葉で簡潔な文章で表現できるようになれないものかと思う。
それにはまだまだ自問自答が足りないのかも知れないなと、ふと、そう思う。

ちなみに余談だが、私は夕食の時も、韓国で一人で焼き肉を食べに行けるし、日本においても、吉野家やラーメン屋、ステーキハウスにだって、人の目とか何も気にせず入ってムシャムシャいける。昨日なんか、ラーメン屋に1人で入って7分で食べ終わって出た。
女一人でお店に入りにくいわ、という感覚が生まれつき欠如していると思われ、全然一人での夕食は大丈夫なのである。
しかし、モロッコを旅していたとき、一人旅の人たち4人とシャウエンで出会い、意気投合して集まって夕食を食べた時、チキンやビーフ、野菜などそれぞれいろんな具材のタジン鍋を注文し、イカフライとか普段注文しない単品も注文して、みんなでちょっとずついろんな種類のものを食べれて、歓喜したことがある。
店の雰囲気も含めて丸ごとアラビアンナイトみたいな夜だった。

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スペインのピンチョス文化なんかは全然一人でいいんだけど、タジン鍋やインドカレーは複数で食べた方が、色々試せるので、物理的にもいいなぁと思った。寂しいとか、沢木先輩の感情とはまた違う、ただの食いしん坊の次元の話で。




※写真は、モロッコのシャウエンにある、レストラン「シンドバット」。
むしろディズニーシーのアラジンのゾーンを思い出すという逆転現象。


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